good boy | ナノ
確かにそう。

宇髄先生は冨岡先生が"女生徒に呼ばれていた"
そう言っただけ。
だけど後に続いた台詞は意図的にそちらへ誘導していた。
それを私が指摘した所で、したり顔をされて終わるだけなのは火を見るよりも明らかな上、下手すれば予期せぬ形で燃え広がりそうな予感がするのでこの件に関しては宇髄先生には何も言うまい。
そう決めた。

それよりも今、立ちはだかる問題は
「名前先生…」
この生徒に扮した教師による耳元への囁きと腰をガッチリ捕らえる左手、そして胸を揉もうとしている右手だ。
「言動に矛盾が生まれてますよ。純情な教え子という設定の筈では?」
「矛盾が生じるのは仕方ない。例え生徒であろうが今この状況では触れたくなるのが自然な欲求だ」
「それはまぁ、百歩譲って理解は出来る…という事にしますが、実際に行動に移すかは」
バタンッ
重低音を立てて閉まったドアに言葉を止める。
何故突然ひとりでに動いたのかと考える前に床を滑っていったドアストッパーが壁にぶつかった事で冨岡先生がそれを蹴ったというのに気付いた。
これはますます、不利な状況と言える。
早々に抜け出さなくてはと、制止しようと掴んでいた両手に力を込めたのはほんの一瞬の事。
また頭に顔を埋めると一切の動きを止めたため、こちらも下手に抵抗が出来なくなった。
もしかしたらこれもまた、生徒としての葛藤というものなのだろうか?
それでも大人しく腰へ戻っていく右手には正直安堵はした。
「止めに来たのか?」
突然の疑問符に意味がわかるはずもなく若干眉が寄る。
「何をですか?」
「俺が生徒に告白されている。そう考えたのだろう?」
「…あぁ、そういう趣旨の質問ですね。止めに来た訳ではありません。宇髄先生の巧みな話術に惑わされて様子を見に来ただけです」
「宇髄に誘惑されたのか…!?」
「相変わらず良くわからない変換機能はご健在のようで。話術に惑わされてってはっきり言いましたよね?」
「宇髄まで名前に魅了され始めるとは…。これは悠長に教え子という立場を楽しんでる場合ではなくなった。早々に名前は俺のものだという確固たるものを得なければ…」
「何を焦ってらっしゃるのか良くわかりませんが、ひとまず脱がそうとするのはやめましょうか」
トップスををたくしあげようとする両手を辛うじて掴んだけれどそれが一時しのぎのものだというのは明らかだ。
戦意を喪失するようにそれこそ惑わせなければ。
今効きそうなものと言えばこれしか思い浮かばない。

「冨岡くん。次の授業が始まりますよ。戻りましょうね」


good boy


狙い通り力が弛んだのも束の間、また力の限り抱き締めてくる腕に小さく吐いた息が途中で止まった。
「行きたくない。名前先生の傍に居たい」
「わかりました。では職員室に行きましょう。右隣に椅子があるので冨岡くんはそこに座っていてください」
「行きたくない。名前先生と2人で居たい」
流石冨岡先生の一部だけあって"冨岡くん"もなかなかに手強い。
近付いてくる口唇の気配を感じて身体が強張った。
つられて力んだ肩に乗せられた顎の感覚に視線を動かす。
耳の後ろへ鼻を埋める後、また動かなくなった心情は、これで満足しているのか、はたまた抑えているのか。
こればかりは気配だけでは読み取れない。
それでも
「冨岡くん?」
自然とその呼び方が口から出たのは、"そちら"の雰囲気を強く感じたからかも知れない。
「名前先生が俺の事を好きだと自覚していく、そのひとつひとつの瞬間を噛み締めていた」
「何ですかそれ。私は教師で在りながら生徒が好きっていう設定なんですか?」
「設定じゃない。名前先生は公人である立場と私人である感情で葛藤している。俺の事を好きになりたくない。なってはいけないと懸命に蓋をし続けていた」
勝手に脈打つ心臓を恨めしく感じてから、言い回しに対して疑問を抱いた。

何故、最後だけ過去形なのだろう、と。

「俺が生徒として近付くといつもにも増して心音が速くなるな」
含み笑いをする口元から零れた息で、身体中に鳥肌が立った。
「…それは冨岡先生がいつもと違う行動を取るからですね。単純に慣れてない上に全く読めないので心臓も普段以上に驚きますよ」
「紳士な俺はそれほど心に刺さり名前先生を捉えて離さないか…」
「いえ、そんな事一言も言ってないです」
何処でどう歪曲したらそうなるんだろうか。
こればかりは推察もしようがない。
呆れからこみ上げる溜め息を吐きかけた時、

「…名前先生とひとつになりたい」

また突如として言いのけるとんでもない台詞に思考を止めてしまった。
「…それは、無理です」
自分でもわかりやすい感じる位、狼狽が声に出たと思う。
途端に圧し掛かってきた体重にこのままでは前のめりに倒れると一歩足を踏み込んだ。
「無理だ我慢が出来ない。教師と生徒で良い。今すぐ抱かせてくれ」
「何をっ言ってるんですか。生徒になりきり過ぎてついに境界線を見失いました?現実に帰還し」
反転した身体に気が付いた時には壁へ押し付けられていて、視線を上げた先では熱を帯びた群青の瞳が見下ろしてる。
これはまた、非常にマズイ。
それしか言えない。
「好きだ。名前先生…」
「…あくまで生徒を貫くんですね」
そちらがそう出るならこっちは教師という公人を貫き通そうと開いた口はいともあっさりと塞がれて、何が起きたかわからなかった。
「…っ」
動き出しが完全に遅れたせいで侵入してくる舌に眉を寄せるしか出来ない。
幸いすぐに離れた口唇も安堵の息を吐く暇はなく、今度は首へと這っていって、幸いとは言い難いな、と考える。
押し返そうとした右手に絡んでくる指の力強さで本気なのを悟った。
「…何ですか?どうしたんです?随分荒ぶっていらっしゃいますが何処でスイッチ入りました?」
「いつもと違う俺にときめいている名前のせいだ」
「もう生徒役は降りたんですね」
「そんなにそっちの俺が良いか?」
答える前に強引に押し付けてくる口唇と服の上を滑っていく右手。
こうなるとなりふり構わず抗う道しか選択肢がない。
「…っ、…ちょっ…とみ…」
「逃げるな」
「逃げますよっ…!この状況で逃げるなという方が無理です」
隙をついて離れた顔をまた近付けられる前に左手で制した。
意味があるかどうかは疑わしくとも、顔を横に逸らし続ける。
「いつもの俺は拒絶する程に嫌という訳か?」
「嫌とか言う前に、そもそも前提として生徒を演じ出したのご自分ですからね?何で自分で創り出した自分に嫉妬してるんですか」
「お前の態度が全く違う」
「それは慣れてないからだとさっきも言いましたし冨岡先生の私に対する接し方が違えば、私の対応もそれなりに変わってきます」
「だから紳士な俺で居ろという事だろう」
「…この際なので言わせて貰いますけど、私別に紳士な冨岡先生が良いなんて一言も口にしてませんよね?冨岡先生が勝手に先走ってるだけです」
「先ば「そこに反応しなくて良いです。今語彙の揚げ足取りで遊んでる暇ないんで」」
途端に眉を下げる表情に胸を痛めてる場合でもない。
「そうやってご自分で創り出した虚像に苦しむなら意味がないのですぐにやめた方が良いです。というかやめてください。冨岡先生前に言いましたよね?」
フッと短く吸い込んだ空気に、息継ぎをするのを忘れていたのに気付いた。
「私が慎ましくなってもそれは冨岡先生の欲しい私ではないと」

幾重にも絡まった糸を解き、そして繋ぎ合わせながら探し出した彼へ、私に会いに行くよう教示した。
その事を隠そうとしていたのも、"全てが欲しい"という言葉の意味も、漸く本当の意味でわかった気がする。

「私もそうです。好かれるために無理をする冨岡先生は私の望みと違います。そこで生まれる相違で本来の自分を傷付けるのはそれこそ自虐ですよ。今更冨岡先生に紳士な態度を取られても違和感しかありません。だからやめましょうね」
そこまで言った所で下がっていた眉がいつもの位置に戻ったのを確認した。
こちらの意図は伝わったらしい。
抑えていた左手を放しても、動こうとしない姿で落ち着いた事を知る。
「同じ"しんし"という単語でも、ひたむきで熱心という意味合いの真摯でしたら冨岡先生らしいと思いますよ」
「…名前には俺がそう見えるのか?ひたむきで熱心だと」
「見えます」
まぁ、それ故に突っ走ってしまう傾向も無きにしも非ずなんだけど。
私の返答に若干驚いてるけど、この人ってどういう風に自己分析をしてるんだろうか?
的確に把握しているように見えて、所々で自尊心の低さが目立つような
「真摯な俺が好きなのか」
「そうですね、好きです。冨岡先生、根っこの部分は真面目ですし、何だかんだ何事にも一生懸命で…何ですかその顔」
突然しまりのない表情をするものだから後ろへ引けないのに引いてしまった。
「好きだと…名前が…俺を好きだと…」
またぶつぶつ言い始めたと呆れる前に、自分が口にしていた言葉を思い出して眉を寄せる。
「違いますよ…!今のはそういう「本当に違うのか?」」
真剣になる群青の目に射抜かれて、否定が出て来なくなってしまった。
「…全く、違う訳でも…ないです」
考えてる事とは違う内容が勝手に出てくる。
こうなってくるともう、完全に暗示以外の何物でもない。
絡めたままの指に入る力強さに心臓が脈打った。
「もう一度聴かせてくれ」
「何をですか?」
「好きだ、と」
恍けてみても逸らそうとしない瞳に喉が鳴る。
「ちょっとそれは「好きだ。名前」…冨岡先生が言ってどうするんですか」
「返事として聴きたい」
「それ返したら詰みますよね完全に。逃げ道なくなりますよね」
「言質を取ろうとしてるんじゃない。ただ名前が言う、何の誤魔化しもない好きは初めてだ。完全に油断していたせいで驚きの方が勝ってしまった。もう一度その言葉が聴きたい」
真剣な表情に視線を泳がそうにも、それすら許そうとしない群青に眉間を寄せた。
「…一度だけですよ。これ以上は絶対言いませんからね」
「あぁ」
「それとこれは人としてという意味なのでそ「早く」」
掛けられる圧に負けて、一旦口を噤んでからゆっくり息を吸う。
これで聞こえないとか言われた日には腹が立つ所の騒ぎじゃないので意識して声を張り上げた。
「…好きです」
「声のトーンが不自然だ。さっきはもっと柔らかい言い方だった」
普通にダメ出しされたんだけども。
「言わされてるので不自然にもなります」
「好きだ。愛してる」
押し付けられる口唇に反射的に目を閉じてしまった。
「目を閉じるのも良いが答えてくれ」
「…そうでした、すみません」
また食らったダメ出しについ返してしまってたけれど、その後すぐに首を傾げたくなる。
「…名前、好きだ」
「…‥。すみませんやっぱりちょ「好きだ。お前は俺をどう思う?今どう思っている?」」

私はこの人をどう、思う…?
どう、思ってる?

「…好きです」

口にしてから、完全にその雰囲気に呑まれていたのを自覚する。
それでも満足そうに頬を弛ませる冨岡先生に否定する言葉を呑み込んだ。
「…俺も好きだ」
リップ音を立てて啄まれた口唇の後で動いた右手に違和感を覚えた所で、視界に入るボイスレコーダー。
まさか…
「録っ、たんですか!?」
「録った」
嬉々とした表情に、消去を要求しようにもどうせ聞く耳を持たないんだろうと項垂れるしかない。
いつの間にポケットに手を入れられてたのか。全然、全く気が付かなかった。
そしてその存在自体を忘れてた。
「怒らないのか?」
「気力が沸きません」
同時に出たのは重い溜め息。
「それ、ありがとうございました。お返ししますね」
とにかく早く戻ろうと繋がれた手から抜け出そうとするも、おもむろにレコーダーを耳に近付ける動作にまた引けない身を引いた。
「聴かせなくて良いです」
「違う」
何度かボタンを押した後で早送りされていく声。
それがプツッと切れた瞬間、その眉間に皺が寄っていく。
「何故小型犬との会話を途中で終わっている?」
「その音声だけで良くわかりましたね」
「お前が戻ってきた時刻から逆算してもこれに入ってるのは半分にも満たない時間だ。これを切った後何を話した?」
「特に何か取り立てて変わった事は…「恋人に秘密を作るのか?」」
はあ?
思わず間抜けな声が出てしまいそうになった。
「もしかしてさっきの、やっぱり言質を取ったとか言い出すつもりですか?」
「そのつもりはない。ただ心底から出た告白に、名前が好きだと真摯な俺で答えただけだ」
「ちょっと待ってください。誰が「本音だっただろう?」」
その瞳を見ると言葉が出なくなるのはとてつもなく問題だ。
この人に敵う唯一の武器を取り上げられてしまっては防戦にもならない。
「…冨岡先生の暗示という名の呪いに惑わされただけです」
「そうか。俺の事を好きになれという暗示が漸く効いてきたようだな」
「…まさか、ホントに掛けてたんですか?」
「冗談だ。真に受ける程俺に夢中になったという証か」
楽しそうに笑う表情に怪訝な顔で返しているのに、心臓が高まっていってしまう。
「人として感服しているという意味です」
「その人間としての感服がイコールお前が好意を持つものだと前に言った時は否定しなかった」
「…それはっ」
咄嗟に反論しようしたのを喉をぐっと抑えて堪える。
これ以上何か言っても、ますます泥沼にハマりそうだという自覚があるからだ。
「寡黙な名前も可愛いが、まだ肝心な事を訊いていない。小型犬と何を話した?」
言葉の代わりに怪訝な表情を返しても、全く動じていない。
「まさか、触れたのか…?」
どこで察知したのか判断がつかない。
だけど寄ってしまった眉で確信を得たようで、私より遥かに険しくなっていく表情に身の危険を感じた。


沈黙しても来る


(頭…。まさか頭は撫でていないよな?)
(どうしてそこを一番に気にするんですか…)
(頭を撫でられるのは俺だけの特権だ)


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