「喩えすぐに抱き締められない場所に居ようが、心の中には俺が居る」 右手に収まるボイスレコーダーを見つめながら、あの時の言葉が自然と脳内に蘇った。 一度顔を上げて扉を見やるも、まだ目的の人物は現れない事で、今度は真っ白いテーブルへ視線を落とす。 正直少し、落ち着かない。 気持ちを誤魔化すため、浅く腰を掛けただけだったパイプ椅子に深く座り直してから腕時計へ目を向けた。 時間を確認する訳ではなく、ただただ進んでいく秒針を見つめる。 冨岡先生が私にこれを持たせたのは、それこそ最終的な切り札としてなのだろう。 何処のタイミングかは、本人ではないので正確に把握が出来ないが、とにかく気が付いた筈だ。 "私が居なくならない" その保障など、何処にもない事に。 彼女が母親を恨んでいるというのもひとつの仮定に過ぎず、予期出来ぬ事態が発生する可能性も否定出来ない。 だから自分が傍に居る事を所望し、居られない代わりにと、これを託した。 万が一、私が不利な状況に陥っても、護れるように。 見抜かせないように飼い主だの先生だの理由を付けては居たけど、最初からこれを持たせるのが目的だった…と思う。多分。 いや、ホントに録音している辺りそれも本気だったのかも知れない。そこら辺はちょっとわからない。 それにしても危機を嗅ぎ付けると何の迷いもなく犬に戻るのは何なんだろうと笑みが零れてしまった。 いや、犬に戻るっていうのは可笑しいか。元は人間だもんな。 2回のノックの後 「失礼しま〜す」 間延びした声と共に現れた彼女を視界に入れる。 「どうぞ」 一度立ち上がろうか迷ったものの、そのまま目の前へ腰掛けるよう促せば無言で椅子を引く。 その動きに合わせテーブルの下で録音ボタンを押してから、右手をそっとポケットに入れた。 good boy 「何ですか〜?話って」 その表情は勿論笑ってはいないが、完全な敵対心を向けている訳でもない。 「金曜の事を、謝ろうと思いまして。本当に、申し訳ございません」 深く頭を下げてから、ゆっくりと上げた。 途端にグッと噛み締める口唇を見つめる。 それも徐々に引き攣った笑みへと変わった。 「…謝ってどうすんですか?消されたものは戻ってこないんですけど〜?それでも私に許して欲しいって?」 「指導案を消した事について謝っているのではありません。そして許しを乞うつもりもありません。私は間違った事はしていない、そう言い切れるからです」 「はぁ!?何その態度〜!意味わかんないっ!間違ってないって思うなら謝んないでよ!」 バンッ!と机を叩く右手も、すぐに迷ったように上げられると執拗に髪を撫でる。 多分この癖が出る時の彼女の一番無防備な瞬間なのだと思う。 「謝っているのは傷付けるために嘘を吐いた事です」 「……」 無言ながら向けられる強い目は、同時に困惑も宿しているのが窺える。 「特に"可哀想"、貴女がその一言にどれだけ傷付いてきたかを把握しないまま浴びせてしまったのは、心の底から申し訳なく思っています。ごめんなさい」 もう一度頭を下げて、今度はそのまま彼女の言葉を待った。 「……。今の言葉の方が嘘じゃん」 吐き捨てた台詞に反応して顔を上げる。 「どうしてそう思うんですか?」 「私の事最初っから嫌いだったんでしょ?なのに何で急にそんな掌返ししてきてんの?もしかして母親に何か言われた?何を聞いたの?」 完全に下がった声のトーンと抑揚がない若干早い口調。 これが、本来の彼女か。 「お母さまとは残念ながら一切面識がないのでお話をする機会が作れませんでした」 「…じゃあ誰ですか?」 流石、言葉のニュアンスを読み取るのが尋常じゃなく速い。 敬語に戻したのもこの短い間で冷静さを取り戻したためだろう。 「明日の授業内容は、決まりましたか?」 全く違う話題、更に質問返しをした事で警戒を強め、一度黙り込み姿を見つめながら続けた。 「そういえば、何故古今和歌集を題材にしたのか。本当の理由をまだお訊きしていませんでしたね」 今度は驚いたように見開く瞳が徐々に気遣わしげな表情へと変化をしていく。 私が何を知り得て、何処まで見抜いているのか。不安が襲っているのだろう。 特に見抜いている訳ではなく、今のはカマを掛けただけなのだけど。 詞花集は古今和歌集だけじゃない。 それこそ万葉集、新古今和歌集、百人一首も古今和歌集と同等に有名だ。 しかし今になっても、それだけに執着しているように見えた事から、彼女の中で深い思い入れや特別な背景があるのではないか。そう考えた。 それが仮構ではないと確信を持ったのはたった今。 「伊勢物語って読んだ事あります?」 敵意とはまた違う。真剣な瞳を向けられて、小さく頷いた。 「えぇ。在原業平の生涯を描いたのではないかと言われている歌物語ですね」 "むかし男ありけり" その書き出しは余りにも有名だ。 題名を失念していても、その一文を提示するだけで即座に内容を思い出す生徒は少なくない。 「伊勢物語にも古今和歌集に集録されたものと同じ和歌があるんです私それが好きで…」 途中で俯いたため、言葉を切った彼女の表情は窺えない。 そのまま話を再開させる様子が見受けられないため、思考だけを進めた。 伊勢物語にも同じ和歌…確かいくつもあった気がする。けれど正直この場で全ては思い出せない。 「世の中に…」 か細い声に視線をそちらへ戻した。 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」 躓く事なく一息で言い切った句。 「この世の中にまったく桜がなかったなら春を過ごす人の心はどれだけのどかかと詠ったものです伊勢物語ではその和歌に対して応えるように別の人物がこう詠みます散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき、これは…」 スーッと大きく鼻を吸う音で、それが息継ぎなのだと知った。 「散っていくからこそよりいっそう桜は素晴らしいそもそもこの辛い世の中に永遠に変わらないものなどないそういう意味です」 テーブルに顔を向けたまま言い切った後も、動く気配はない。 「思い出しました。有名な一句ですね」 そうだ。昨日思い出しかけたのはその句だ。 古今和歌集ではなく伊勢物語に入っていたものだったのか。 しかし、これは…、想定外、というか…想像していたよりかよっぽど、彼女は臆病で繊細な精神の持ち主だったらしい。 下を向いたまま髪を整え続ける右手は完全に怯えていて、確かにこれでは姉を羨ましい妬ましいと感じる訳だと納得をせざるを得ない。 彼女は、頭が良いから。 自分が今まで周りにどんな評価をされてきたかを冷静に分析していて、自分の短所も的確に把握している。 だから、愛憎を集約させたような虚像を生み出せたのだろう。 それは完璧に自分のコンプレックスを補っている。 「教えてもらったんです昔この歌が好きだってでも私伊勢物語は好きじゃないから古今和歌集にしようって思いました」 主語がない。 そう思った瞬間、脳内を大型犬が駆けていった。 これもまた、読み解くのが難しい。 誰に教えて貰い、何故伊勢物語は好きではないのか。 彼女について限られた情報しか知らないため予測すら立てられない。 ただ後者においては、恐らくは貞操観念から来る嫌悪。 彼女はその類に免疫がない。だから姉のように奔放を演じようとしても、どうしても自分の概念は崩せなかった。 だからこそ私は、その矛盾から輪郭がぼやけて見えると錯覚を起こしていたのだけれど。 「それを教えてくださったのはどなたなのか、お訊ねしても、よろしいですか?」 「そうやってみんな馬鹿にする」 ボソッと呟いた低い声に、どういう意味かを瞬時に考える。 私は今、何か彼女の逆鱗に触れるような失礼な事を言った…? 「いちいちゆっくり話さなくても聞こえてるし意味も理解出来てます何で話し方が違うと態度を変えるのみんなそう」 言ったんじゃない。したんだ。 無意識の内に、下を向いて顔を隠す姿が怖がってしまわぬよう、努めて優しい声色を作ってしまっていた。 「…申し訳ありません。とても失礼な口調でした」 頭を下げた私に気が付いたのか、ほぼ同時に上げた彼女の表情は心なしか驚いている。 目が合った瞬間に逸らすとまた髪を撫でる動作に、私も一度視線を落とした。 彼女は何故、今此処で突然、本来の姿を見せたのだろう。 私に何か心を許せるものを見出した? でも今話した事なんて他愛も… 「あれは自分を可愛がってくれる飼い主を探していた」 唐突に脳内で響く冨岡先生の声に眉を寄せる。 どうして今、その言葉を思い出すのだろう。 「そうして見付けたのが名前だ」 もしかしてそれは、冨岡先生の思い込みや勘違いではなくて、真理だったのかも知れない。 彼女は、頭が良いから。 私が何を考え、どういう行動を起こすか、予見する事が出来た筈。 悪意を向けてきたのは 「自分だけを見て欲しいという考えを燻らせた」 それが、本当の自分を見付けて欲しいという願望だった、という事なら、行動の一貫性が見えてくる。 彼女が心を許したのは今じゃない。 最初からずっと、気付いて欲しい、と訴えかけてきていたんだ。 そう考えれば、個人LINEのやりとりも納得がいく。 そして先程の読み解きづらい言葉もそう。 わざと主語を隠して、私に見付けさせようと仕向けた。 という事は、私はこの脳内の何処かに確実な答えを持っているという事。 古今和歌集、伊勢物語…それを主旨とした会話は彼女以外の誰ともしていない。 直接的な記憶じゃないんだ。だけど、結び付きがある何か。それを紐解いて… 「歴史も国語も紐解けば紐解いていく程に奥深いものだ!!」 突然鳴り響いた力強いその台詞。 聞こえたのは脳内の筈なのに、つい耳を押さえていた。 けれどその朗々とした声のお陰で、彼女が何を私に考察させたかったのかを正確に知り得る。 それは初めて、補佐として彼女をつけた時だ。 煉獄先生にどの教科が好きかと訊かれ、彼女は"国語"と答えた。 その時の理由は「だって国語って他の教科と違って正解があやふやじゃないですか〜?」というものだったが、それも恐らくは半分は本音なのだろうと今は思う。 それを聞いた煉獄先生はまた彼女に言った。 「うむ!国語か!国語にも色々な歴史上の人物が出てくるな!」 そうして先程の台詞へと続き、それを聞いた彼女はこう質問をした。 「何で歴史が好きなんですか?」と。 そういえばその時の彼女の口調は今の姿に近かった気がする。 「歴史を築いてきた者達は確実にこの世を生き、そして散っていった。その人物が何を考え何を見たのか、尊くも儚い生き様に触れられるのが歴史科であり、その美しさを伝えていくのが後世に生きる人間の役割だ」 珍しく声量を抑えたその表情はいつにも増して真剣で、微笑ましくなったのを思い出す。 という事は… 「散っていくからこそ素晴らしい。確かに煉獄先生が好まれそうな和歌ですね」 今度は口調を変えないままそう言えば、弾かれたように顔を上げるとこちらを見つめた。 わかりづらいけれど、多分、若干の嬉々を宿していると思う。 「しかし私が記憶している限り、あの時点では煉獄先生から伊勢物語について言及はありませんでした。和歌の話をしたのはその後お2人が教室に向かった時ですか?」 敢えて、詳細を付けて全く見当外れの推測をした。 何も知らないであろう私に、彼女は何処まで自分というものを曝け出すのか、単純に興味が湧いたためだ。 「違います昔会った事があってその時教えて貰っただけ」 少なくとも嘘を吐くつもりはないらしい。 「煉獄先生とは昔からのお知り合いなんですね」 「違います」 再度の否定に瞬きを速くする事で疑問を表した。 「煉獄先輩は私の事覚えてないから違います」 髪を撫でる動きとそのまま落ちた沈黙に、意を決して口を開く。 「だから自分を偽ってまで思い出して貰おうとしたんですか?」 彼女の考えている事は、正直わからない。 だけど、どうして姉のように振る舞い始めたのか、考察をするとその可能性が限りなく高いと言える。 もし煉獄先生が彼女の事を覚えていたのなら、自己紹介の時点で声を上げていておかしくはない。というか煉獄先生なら絶対にそうする。 けれど何の反応も示さなかった事で、彼女は咄嗟の判断で演技をしてしまったんじゃないか。 だけどそれは用意周到に練られたものではなかったため、矛盾ばかりが生まれ続けた。 それに気が付いたのも、純粋な教え子に徹そうとしていたどこぞの犬のお陰なんだけども。 それは置いといて、図星をつかれたといった表情で息を呑む彼女に目を合わせる。 訝しげに変わっていく瞳は、敵対とも違う単純な警戒の色をしていた。 「何処まで調べたんですか私の事」 「調べた、というよりは偶然の巡り合わせと言った方が正しいですね」 「そうやって言葉巧みに誤魔化そうとする私苗字さんのそういう所嫌いです」 「誤魔化そうとしている訳ではないです。それに私は今の貴女が好きですよ」 今度は驚きで動きを止めた姿に出来るだけの笑顔を返す。 「これまでの貴女よりも遥かに話がしやすいです。こんな素敵な貴女に気が付かないなんて煉獄先生も鈍感ですね」 「嫌味にしか聞こえないし煉獄先輩の事悪く言わないでくださいもう良いんです気が付かないならそれで別にもう「本当に良いの?」」 強めの口調で被せた私から逃げるように逸らした視線を追った。 「誤魔化すのはお嫌いなのでは?」 圧の掛け方もいつの間にか学んだ気がする。 忙しなく髪を撫でる右手を攫ってから 「駄目元で私の策に乗ってみません?」 そう言うと両手でギュッと包み込めば、期待と不安に揺れる表情を垣間見た。 心の声を聴かせて (何するつもりなんですか策とか言って…) (乗ってくれるというのなら説明します) (そういう駆け引きみたいなのする所も嫌いです) [ 112/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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