good boy | ナノ
洗面所の前に立ち、首筋を確認する。
もう目立たない事を確認してから、念の為巻こうとしていたストールを持った片手を下げた。
甘噛み、と言えばしっくりくるのか。
流石の冨岡先生でも手加減はしていたのだろう。歯形がつくことはなかったがどさくさに紛れて付けられた数々のキスマークに、ここ何日か苦悩していた。
何故ってどう頑張っても服で隠れる場所でなかったから。
冨岡先生には怒りを懇々と伝えておいたが、お陰で巻き慣れないストールで誤魔化すのを思いついたまではいいものの、いつもの服の色合いや系統を合わすため、わざわざ新しく何枚か買い足さなくてはいけなくなった。
その苦労のお陰で、胡蝶先生には「苗字先生、ストール似合うわね。とっても可愛い」と至上最高の褒め言葉をいただいたので、その点だけはよしとする。

時間を確認して眉を寄せた。
目覚ましより早く目が覚めたせいでゆっくりし過ぎたらしい。
もう家を出なければ間に合わないが、まだ髪の毛をセットしていない事に気付く。
就業時間が長さから、いちいち髪の毛の乱れを気にしなくていいよう整髪料で固めてから纏めるように結っているため、ある程度時間がかかってしまう。
今からそれを始めたら確実に遅刻確定だ。
仕方ない。学校でセットする事にしようと整髪料とブラシ、髪留めを通勤カバンに入れ、代わりに軽く髪の毛を纏めた後、そこにあったコンコルドクリップで軽く止めるだけで我慢した。


good boy


「おはようございます」
まだ教師達がまばらに集まる中、自分の椅子に腰掛ける。
『校閲お願いします』と付箋が貼られた書類を手に取ってからこんなにあるのか、と何枚か軽く捲ってから目を通していく。
出来るならば、こまめに提出して欲しいが期限を過ぎている訳でもないので心の中だけで思う事にした。

「…どうした?」

飛んできた相変わらず主語がない声に書類を捲る。あぁ、ここ誤変換してる。
「おはようございます。何がですか?」
赤ペンでチェックを入れながら訊き返せば
「いつもと髪が違う」
その言葉に顔を上げる。
…忘れてた。学校に着いたら始業前に直そうと思ってたんだった。
腕時計を確認したが書類に集中してしまっていたせいで、もう5分後には朝礼が始まってしまう。
諦めるしか選択肢がない。
「朝ちょっと時間がなかったんです」
これを逃したらお昼休みか…もしくは少し時間を縫ってトイレでささっと纏めてしまおうか。
そんな事を考えながらまた赤ペンを走らせていたものだから、一瞬気が付かなかった。
ふわっと髪が解けたのを認識してから右へ視線を向けるまでだいぶかかった気がする。
「…何してるんですか」
その右手には止めてあった筈のコンコルドクリップ。
「…面白い」
まるで新しいオモチャを与えてもらった犬のような表情だ。
「面白くないですよ。何で勝手に取るんですか」
「案外簡単に取れるものだな」
「それ最初から挟力が弱いんです」
だからいつも自宅用として使っている。髪に跡がつきにくいという利点があるからだ。
「…返してくれませんか?髪の毛がうっとうしくて仕事にならないんで」
文章を読みながら右掌を差し出したものの、髪を耳にかける左指に思わず椅子を引いて逃げた。
最近人目がある場所でもお構いなしになってきてる気がする。
有難い事に朝の教師陣は慌ただしく、わざわざ私達の行動を気にする人間は居ないが。
「人前で近付かないでください。勘違いされたら困ります」
「2人の時なら良いのか」
「揚げ足取りですね。それも駄目です。2人きりにはもうなりません」
絶対に金輪際一切だ。今度こそ噛み付かれるどころでは済まない気がする。
「早く返してください」
「断る。俺と2人きりにならないと断言するのであれば返さない」
珍しく反抗してくる態度に眉を寄せる。反論しようと口を開いた所で
「朝礼始めますよ〜」
その言葉に遮られた。

* * *

結局コンコルドクリップは未だ冨岡先生の手に渡ったまま、1限目が始まってしまった。
漸く確認し終えた書類を教員に返してから、これは早々にトイレへ駆け込むべきだと判断し鞄に詰め込んでいた一式を手に職員室を出ようとする。
「…あら。苗字先生?」
可愛らしい声に足を止める。
「今日、髪下ろしてたかしら?さっき見た時と違うような…」
「ちょっと…髪留めが誘拐…じゃない紛失してしまいまして…。今からささっと纏めてきます」
「そうなの?でも下ろした姿も新鮮で良いと思うわ」
穏やかな笑みに、もうこのままずっと下ろしておこうかな、なんて考えたがそうも言っていられない。
「ありがとうございます。胡蝶先生って褒め上手ですよね」
「苗字先生こそいつも私を褒めてくれてると思うけど」
私が胡蝶先生を褒めるのは事実だからだ。
自覚はないんだろうな。この人は本当に些細な事でさえも人の良い所しか見つけない人だ。
終業のチャイムが鳴り響いて
「…あ、ちょっと行ってきます」
軽く頭を下げてから職員用のトイレへと駆け込む。
次のチャイムが鳴ったら教頭との校内見回りに出なくてはならない。
完璧じゃなくていい。とりあえず今日を凌げるだけの纏め髪を作ってから手を洗い、トイレを後にした。


見回りや生徒への対応、その他諸々が漸く落ち着いたのは昼休みを挟み、5限目を迎えた頃、その場しのぎで纏めた髪が早くも悲鳴を上げ始めていた。
それでも何とか自分の席に腰を掛けて、いつの間にかまた増えている校閲書類に小さく息を吐く。
そういえばまだ校長に頼まれた冊子も半分も出来ていない事を思い出して、今日は残業していくしかないかと覚悟しながらそれを手に取った。
右隣には珍しく何かを読み耽っている冨岡先生。
チラリとそちらを窺えば、手にしているのは無料で配布されている賃貸雑誌で引っ越しでも考えているのかと思いながら書類に目を通した。
教務主任という立場からすると、仕事をして欲しい気もするが下手に声を掛けると面倒くさい事になるので放置する。
「…どういう魔法だ」
放置したところで向かってくるんだけども。
「魔法とは?」
「髪の毛がいつものように戻っている」
「直そうと思って必要なもの持ってきてたんですよ。魔法ではないです」
「さっきの鳥の嘴みたいなものはもう要らないのか?」
「コンコルドクリップですね。要らなくはないです。安物ですけど一応ずっと使ってるやつなんで」
「2人きりにならないと断言した事を撤回するなら返す」
一人前に交渉してくるのは成長しているからなのか。別に髪留め自体はそんなに重要なものではないのでこのまま交渉決裂で構わないのだが、気になったのは…
「何でそんな寂しそうな顔してるんですか?」
「していない。気のせいだ」
「気のせいではないです確実に。私そんなに冨岡先生を傷付けるような事言いました?自覚がなかったとは言ってしまったのなら教えてください」
賃貸雑誌に落とされていた視線が更に下へと向く。
「…俺は、どうしたら良い」
質問の意図がわからぬまま、その横顔を見つめた。
「名前が人前で近付くなと言うなら近付かない。だが、2人きりになるのも一切禁止されたら俺は何処でお前を補給すれば良い」
「人を水分みたいに言わないでくれませんか」
つい口を突いて出てきた言葉も余りに真剣な訴えに、小さく息を吐いた。
「…わかりました撤回します。すごくたまに気が向いた時とかほんと何年かに1回で良ければ許します。なので元気出してください」
「…良いのか?」
「いや寧ろ何年かに1回のレベルで良いんですか?」
それこそ自分で言っといて何だけども。
「ゼロじゃないだけマシだ」
漸くいつもの表情に戻ったのに多少安堵して
「そういえば冨岡先生。引っ越しするんですか?」
敢えて全く違う話題に変えてみた。
「…考えては、いる。来月、新たに2年分の更新料が徴収されると通知が来て、この機にもっと学校近辺に越すのもありかと思いだした」
「成程。更新料って地味に痛いですよね。私も今のマンション決める時、更新料がない所を選びましたもん。あと初期費用ゼロの所とかも魅力的ですよね」
「そうやって探してみるとなかなか良い物件はないものだな」
「キメツ学園の周辺と考えると…そうですね。結構条件は厳しくなるかと。住みやすい分家賃相場も跳ね上がりますし…」
そういえば…と気になった事を口にする。
「冨岡先生はご実家暮らしですか?それとも単身ですか?」
既婚の可能性を省いたのはこれだけ私に迫ってきてる状況で流石にそれは有り得ないと判断したからだ。
これでもしも妻帯者だったら、知らなかったでは済まされない所か、切腹するしかない。
「………」
途端に黙り込む姿に、もしかして本当にそうなのか?と焦りが過ぎる。
現実味を帯びた切腹説も
「俺の事が気になるのか?」
隠し切れていない笑みに思ったより深く眉を寄せていた。
「気になりません。毛ほどもこれっぽっちも全く気になりません。会話の流れで必要だったから訊ねただけです。何なんですかほんと。ふざけるのも大概にしてください」
「何故そんなに怒る…。教員になってからずっと独り暮らしだ。それが何だ」
「一瞬でも切腹する覚悟を味わわせたからですよ。ご実家か単身かで条件も違ってきますしそれで私が出来るアドバイスがあればと思ったんですがもう良いです。冨岡先生は1人で切腹しててください」
「その切腹とやらの話は何処から来た…」
心底困惑している表情に会話を終わらそうと書類に視線を向けた。
「…良くわからないが…悪かった」
素直に謝る姿に、寄っていた眉間が緩まる。
「…そこまで怒ってませんから大丈夫です」
切腹が現実にならなかっただけ良かったと思おう。
「そうだ、これを返すのを忘れていた」
差し出された右手には存在を忘れていたコンコルドクリップ。
「…あぁ、どうも。ありがとうございます」
お礼を言うのも何か違う気がしたが、受け取って早々と書類へ視線を落とした。
「名前は何処に住んでるんだ?」
「私ですか?私は…」
言い掛けてハッとした。余りに自然に訊くものだから危うく馬鹿正直に言ってしまう所だった。
「教えません」
「…失敗した。あわよくば同じマンションにと思ったんだが…」
「聞こえてますよ。心の声ダダ漏れてます」
「……。物件が決まるまで相談に乗って欲しい」
「まぁ、別に…構いませんけど」
最近、上手く攻撃と回避を使い分けるようになってきたなこの人。
気を付けないと思わぬ所で致命傷を食らう可能性が出てきた。


いつかをすくわれそう


(ご希望の間取りは?)
(名前の家は…)
(だから教えませんってば)


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