good boy | ナノ
ここ数日の間で、冨岡先生が引っ越すだの良い物件が見つかっただの、そんな話は聞いていた。
7階建てのマンションの5階、南側の角部屋だそうだ。
キメツ学園にも近く、割と駅近で交通の便も良い割に更新料もなく初期費用も最低限で、間取りは一人暮らしにしては2DKと広めではあるが、下手に利便性だけを追求した狭い賃貸よりも良心的な賃貸設定らしい。
今度の休日に引っ越すと言うので、引っ越しの挨拶は知っているのかと訊ねた所、眉を寄せたまま固まるものだからせめて上下と横の住人には、トラブルを防止する観点からも顔を見せ挨拶をした方が良いと、またその際には手ぶらではなく相手が負担に思わない程度の手土産を持って行くのが今の世のマナーだと懇切丁寧に教授した。
具体的には何が良いのかと訊かれたので、無難に日持ちする菓子が良いのではないかと答えた。
そして今、それを差し出されている。


good boy


「…引っ越しの挨拶だ」
「それはどうもご丁寧に。では」

小さめの紙袋を受け取って早々に閉めようとした玄関をその足が遮るように挟み込まれる。
まさかこのまま入ってくる気なのか。
「それ以上踏み入れたら不法侵入で通報しますよ」
「入るつもりはない。だがきちんと話をしていない」
「引っ越しの挨拶はあっさりしてる位が丁度良いんですよ。特に隣人とは付かず離れずの距離感が大事です」
必死にドアノブを掴んで開けられまいとするが、それはもう当たり前にあっさりと力技でねじ伏せられ開け放たれる扉。
壊れたらどうしてくれるんだと文句を言う前に
「…偶然だ。狙って来た訳じゃない。名前が此処に住んでいるのは本当に知らなかった」
弁解する声に小さく頷いた。
「…まぁ、そうでしょうね。そこまで疑ってはないです」
それが故意のストーカー行為じゃないのは開けた瞬間の驚きに満ちた表情で容易にわかった。

私は私で、突然鳴ったチャイムに何故インターフォン越しに画面を確認しなかったのかと言えば、オートロックに対する甘えと、1ヶ月程前、子供が出来たからと引っ越していった新婚ご夫婦が居た5階の右隣、角部屋へ業者が荷物を運んでいたのを買い物に出た際に把握していた事が大きい。
そして尚且つ、タイミング良く…寧ろ悪いと言ったら良いのか、玄関で校庭の砂に塗れた出勤用の靴を拭いていたからだ。
引っ越してきた人物が、まさかこの人だとまでは予想出来るはずもなかったため、お陰でお互いアホ面で暫く固まってしまった。
今考えると確かに物件に合点がいく事が多過ぎたのに、何故私は気が付かなかったのか、後悔しかない。

あらぬ疑いが晴れたと安堵した冨岡先生が
「運命なんてものは信じていなかったが、あるのかも知れない」
物凄く薄ら寒い事を言い出したので
「ここ常に人気物件なんですよ。セキュリティ完備でエレベーターもある割に家賃も相場より抑えられてて更新料もないですし、結構争奪戦なんです。お陰でなかなか空室にならないので冨岡先生が此処を選んだのも必然的かと思います」
淡々と現実を突きつけておく。
それでもピンポイントで隣に引っ越してきたのは引きが強いと言うか何というか、もはや執念というか怨念というべきなのか…。
「入っても良いか?」
「駄目に決まってます。何普通に聞いてるんですか」
咄嗟に答えたが、不意打ちの攻撃に結構衝撃を受けた。
私をじっと見つめるその両目に眉を寄せる。
「何ですか?」
「いや、学校とは若干雰囲気が違うなと思っただけだ」
「…まぁ、そうでしょうね。自分の家ですし」
一応"教師"という職についている以上、最低限の身だしなみはきちんとしているつもりだ。
他人の目を気にしなくていい自宅で気を抜いている姿とは雰囲気が異なって見えるのも当然だろう。
かと言って人様の前に出られないほどだらしない恰好もしてはいないが。
「俺はどっちの名前も良いと思う。好きだ」
「そういう冨岡先生は全然変わらないですね。学校以外でも常にジャージなんですか?」
「これが一番動きやすく理に適った恰好だと自信がある」
「折角顔は良いんだから少しは服装とか気に掛ければいいのに」
「今…顔が良いと聞こえたが」
ヤバイ心の中の声がつい口を突いて出ていた。
「言ってません幻聴じゃないですか。耳鼻科行った方が良いですよ」
「確かに聞こえた。幻聴じゃない」
ぐっと迫ってくる圧にこのまま否定するのは得策ではないと判断した。
「正確には顔は良いです。人間性はどうかしてますが顔は良いと思いますよ。見た目以外は崩壊してますけど」
「……そうか…」
「何でちょっと照れてるんですか。全然全く褒めてないですよ。寧ろ貶してるんですけど」
このまま玄関で攻防を続けているとロクな事にならなさそうだ。
早々に戦線を離脱する事にする。
「お菓子ありがとうございました。ではさようなら」
全開まで開かれた扉を閉めようとノブに手をかけ半分まで閉まった所で、またその左足がそれを制してきた。
しかもそれだけでなく視線を上げれば扉を掴む左手までもが見える。
「…何の真似ですか」
「今気付いた。最近名前に触れていない」
「出来れば一生気が付かないでいて欲しかったです。離してください。扉壊れるんで」
「お前がドアノブから手を離したら俺も退く」
「いや無理です。今とてつもない身の危険を感じてるんですよ。わかります?野良犬に目をつけられたこの言い表しようがない恐怖」
力を緩めたら一気に持っていかれるのがわかっているから一秒たりとも気が抜けない。
まさかいつも何気なく開け閉めしているこの戸が私の命綱になる時がくるとは思いもしなかった。
「俺は野良犬じゃなくて従順な飼い犬だ」
「私、責任も持てないのにむやみやたらと命を拾ったりしない人間なんです。それに此処ペット不可ですよ。ウチじゃ飼えないのでよそへおいきなさい。良い子だから」
「嫌だ。行かない」
「駄々っ子ですか」
「最初に俺を拾ったのはお前だ。最後まで責任を持て」
「誰が誰を拾ったですって?拾った覚えなんてこれっぽっちもないんですけど。どなたかとお間違えでは?」
「間違えていない。確かにお前が俺を拾った」
僅かにだが命綱が外側に動いたのがわかる。
これは明らかに私の方が不利である事を自覚せざるを得ない。
冨岡先生の馬鹿力に真っ向から向かっていったって自爆するだけだ。それこそまさしく犬死にでしかない。
何か戦況を変える手立てはないものかと思考を巡らす。
「…わかりました。これ以上はドアが先に戦死しそうなんでこうしましょう。1、2、3で一斉に離しましょうわかりました?1、2、3ですよいいですかいきますよ1、2、3!」
反論させる暇を与えず一気に捲し立てた後、パッと離れる左手左足に思いっ切りドアを閉め施錠した。
少し間を開けてドンドンと叩かれる扉。
「騙したな」
一枚隔てた向こう側から静かではあるが怒りに満ちた声が聞こえてきた。
「騙してないです。1、2、3、はいで手を離そうと思ったんですけど冨岡先生が先に離したものですからつい反射的に閉めちゃいましたすみませんお疲れ様でした」
まさか外側から扉を破壊されるなんて事はないよな、と多少の恐怖を感じたが、それもすぐ
「…わかった。今日は諦める」
聞き分けの良い言葉と共に、去っていく気配を感じて溜め息を吐いた。
今日はじゃなくてもういい加減諦めたら良いのに、そう呟いた声は多分聞こえてはいないだろう。

* * *

それから1週間程度、冨岡先生との攻防は続いたがいずれも私が連戦連勝の好成績を収めている。
というのも、最近は人並みの知恵がついてきたお陰か、最初のような予測出来ない行動を取る事が少なくなったからだ。
理性が働くようになった、と言えば良いのか、とにかく扱いやすくはなったと思う。
『従順な飼い犬』と自負するだけあるかも知れない、と思った矢先の出来事だった。


それは金曜の22時を少し超えた頃、マンションのエントランスへの来客を知らせるベルが鳴った。
こんな非常識な時間に連絡のひとつもなしに女性の一人暮らしの部屋を訪ねてくる人物に身に覚えはない。
万が一居るとするならば右隣に住む人物くらいだが、それならばエントランスからではなく直接玄関のベルを鳴らすだろう。
居留守を使うつもりでモニターを覗き込んでから、一瞬動きを止めた。
押そうか迷った応答ボタンにやむなく人差し指を置く。

「…お疲れ様です。何してるんですか不死川先生」

映っていたのは良く見知ったシルバーに近い白い髪と無数の傷跡。
「……。あ…?その声…もしかして苗字かァ?」
こちらの姿が見えないため、明らかに驚いた表情をしている。
そしてその脇に抱えられている恐らく右隣の住人。項垂れているため顔は見えないが、それだけでただ事ではないのを悟った。


不吉な予兆がする


(お前、冨岡と一緒に住んでんの?)
(住んでませんよ。冨岡先生の部屋は隣の506です)
(こいつずっとうわ言で505って言ってたぞォ?)


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