good boy | ナノ
大人しく靴を履くそのジャージ姿を眺めつつ、見送るためその場に立つ。
向き合った事で目が合った瞬間に逸らされて、何とも複雑な表情をしてしまった。

冨岡先生曰く、自分が生徒だと思うと、私に迫りたくなる衝動を抑えられるらしい。
実際あれからすぐに両腕は放され、こうして家路につこうとしていた。
教師と生徒の恋愛なんてのはわかりやすいタブーで、例え合意があろうが責任を取るのは大人側。
という事は"冨岡くん"が暴走をすれば"名前先生"が教職を追われる。その思い込みを利用しているそうだ。
話を聞けば聞くほど大丈夫なのかなこの人、というのが頭を占めたし、それで我慢を出来るなら同僚としても抑制が出来るんじゃないかと思うのだが、そこら辺はまた違うらしい。
まぁ、職員室でもあれだけ暴走しているのに校長も教頭も咎める所か知らん顔だもんな。
そう考えるとキメツ学園はやはり特殊だと言える。

「キスしたい」

無意識に下を向いていた顔を上げれば、切ない表情を浮かべていて、心臓が跳ねてしまった。
これまで散々、昨日も無理矢理してきたというのに、此処に来てその哀願は卑怯だと思う。
しかも先程はその台詞の後
「先生を困らせる訳にはいかないな」
そう言って自分から離れていったものだから、余計に今強く突っぱねる気持ちが持てなくなってる。
"先生"と呼ばれる事で本当に"冨岡くん"という生徒が居るんじゃないかと脳が軽くバグを起こしかけていると自覚した。
もしかしてこれが狙いのなのかも知れない。

「駄目です」
「一瞬でも駄目か?」
「一瞬で済まないので駄目です」

更にシュンとしていくだけで、"犬"としては迫ってこないのがまた変な所で律儀というか何というか…。

しかしこう、"生徒"と考えると正直私も何も言えなくなる訳で、完全にカオスの世界に引き込まれていた。


good boy


お互い無言のまま立ち尽くす事、数分。
これは今までになかったパターンだと思考を再開させた。
帰る気配はない。だけど迫ってくる気配もない。
このまま黙っていれば諦めるだろうかと過ぎった所で、僅かに後退した踵に靴を突っ掛けるとその胸元に入り込んだ。
「…名前…?」
驚いた声色ながら抱き締めてこようとする気配に
「猫なので気まぐれを発揮してます」
一息でそう言えば動きが止まる。
無意識の内に両手がジャージを掴んでいるのに気付いてからそのままコツ、と頭だけを胸板につけた。
「キャットセラピーです」
恥ずかしさから逃げ出したくなる衝動を何とか抑える。
しかも自分から寄っていって猫とか認めてるけど、これ大丈夫なの?と考えた所で、包む込む両腕に息を止めた。
それでも
「…これ以上にない程癒される」
小さく呟かれた言葉に頬が弛む。
「やはりキスがしたい」
そう言って僅かに弛んだ両腕に気付き、ゆっくり顔を上げる。
近距離で思い切り合ってしまった視線。
伏し目になっていく瞳と共に近付いてくる口唇が重なる直前、自然と目を閉じた。



音がしないように、静かに内鍵を回す。
か…ち、と僅かな音を立てて閉まったそれに手を放すとそのまま口唇へ持っていったのを触れた後で気付いた。
たった数秒軽く触れただけのキスより、離れた後で見つめ合った時間の方が長かった気がする。
群青色の瞳を思い出して脈打っていた鼓動が更に速くなるのを感じて、小さく息を吐いてから、シンクへ向かうとスポンジと洗剤を手に取った。
とにかく片付けをしなくては。

明日からはまた1週間が始まる。
火曜日は彼女にとって運命の日になるだろう。
丸投げ、とは表現したけれど、何も本当にまるっと放置する訳じゃない。
予め、布陣は整えるし布石も打っておいて、その上で委任する。
けれどそれで上手くいくか、それこそ確率なんて読めない。

人間は、矛盾ばかりの生き物だから。

手を拭いたタオルを替えるため洗面所へ向かうと湿ったそれを洗濯機に放り込む、
目に入るジャージをひとまずクローゼットへ移しておこうとハンガーのフックを上げた。
ふ、と鼻を抜けた香りで勝手に心臓が動く。
さっきまですぐ傍に在った温かさが蘇ってきて、その襟元に顔を近付けてみた。
ひんやりとした感触に虚しさが込み上げてくる。
でも、そのお陰で心音は落ち着いた。

本当に、矛盾していると思う。

いや、これについて突き詰めようとするのはやめよう。
心の中でも、言葉にしてはいけない。
今はまだ、認めたくない。

今はまだって
一体、いつまで…?

自分のものなのかも良くわからない声が脳内で響いて、両手に収まるそれをただ見つめた。

* * *

「おはようございます」

職員室に入るなり事務方と目が合って、いつもと変わらない挨拶をする。
しかし返ってきたのは視線を落としたままの小さい会釈だけで、あぁ、そうか金曜日の件かと、こちらも目を伏せた。
この方達からしてみれば、私は立派な狂人だろう。
聖職者で在りながら同僚とじゃれ合い、弱い立場には自分の感情で威張り散らす。しかもどちらとも人目も憚らずにだ。
そんな人間と目を合わせたいとも言葉を交わしたいとも思える筈がない。
私が取った行動で、どういう感情を生み、どのような結果をもたらすかは予期出来ていなかった訳じゃない。
ただ、冷めた視線を向けられるのは、やはり気持ちの良いものではないな、と思いながら自分のデスクへと向かった。
右隣も、その更に右隣もまだ空っぽのままで、唯一後ろで何やら書き物をしている白髪(はくはつ)を目に入れる。
「おはようございます」
「おう、おはよーさん」
振り向きはしないものの、軽く左手を上げる不死川先生は全く変わらない。
僅かながら安堵して、椅子へ腰かけると校閲書類を手に取った。

赤ペンを動かしながら、そうだ、これが終わったら宇髄先生に会長を呼び出す件について承認を貰わなくては、と考えた所で

「名前先生、おはよう」

右横から飛んできた言葉に、書き掛けの"段落"の口を閉める一画が思いっ切り滑って、思わず恨めしい目を向けてしまう。
「…おはようございます。それ、学校でも続けるおつもりですか?」
これまた昨日も一昨日も全く変わらないジャージと表情。
「そうだが?何か問題があるか?」
心の底から疑問に満ちた瞳に、小さく溜め息を吐きながら書類へと視線を戻した。
「問題はないです。…多分。私が慣れないだけで」
ふざけた事をされないのは有難いけれど、いつもの冨岡先生と違う口調、そして雰囲気に鳥肌が立ってしまう。
これも何というか、ある意味拒絶反応。
暴走と違和感、どちらか選べと言われたら迷う事なく後者を選ぶけれども。

「おっはよ〜ございま〜すっ」

溌剌と響く彼女の声に向けてしまいそうになる視線は我慢した。
今日に限っては、諍いを起こすのを避けたい。明日のために。
多分それは彼女も同じ気持ちなのだろう。
「…おはよーございまーす」
明らかにトーンが低いながらもそう言って椅子を引く姿に、こちらも
「おはようございます」
極めていつもの挨拶を返した。
パソコンと向き合う真剣な横顔は、多分本来の彼女に近いのだと思う。
そう思考を巡らせてから、いや、本来という言い方は少し違うか、と校閲を終えた書類を纏めた。
彼女は確かに嘘は吐いている。虚像も作ってはいる。
だけど、全部が全部、嘘に満ちていた訳じゃなかった。
怒りだけは、紛れもなく本物だったと言える。
冨岡先生と私には姉の面影を、PTA会長には母親の面影を見た。
彼女が誰に対して敵意を向け、何に対して嫌悪を抱くのか。多少の理解は出来た気がしている。
では、誰に対して好意を持ち、何に対して愛好を注ぐのか。

引き出しを開ける動作を利用して様子を窺う。
時折、不安そうな顔をすると髪を整えるように撫でていく掌が鞄を漁ると一冊の本を取り出した。
古今和歌集と書かれたそれに目を細める。
彼女はまだ、私が丁寧に敷いたレールの上から抜け出せていないんだ。
恐らくは記憶を頼りに指導案を復元している。
だけど、それでは何の意味もない。
こうなったら授業開始直前に仕掛けようとしていた策を前倒ししようか。
でも今此処で動いてそれは得策だと言えるのか。いや、でもこの状態では直前に動いたとしても…

「何ですか〜?」

勢い良くこちらを向いた顔と掛けられる声は険しいもので、逸らそうと動かした視線が冨岡先生の横顔を捉える。
それに気付いた瞳がこちらへ向いた事で、群青色が鮮やかに映えた。
その瞬間、一切の霧が晴れていく感覚に眉を寄せそうになるも、未だこちらを睨み続ける瞳が勘違いしてしまわぬよう力を弛める。

そうだ、人間は推し量れないから。

「後で少し、お時間よろしいですか?」

出来るだけ穏やかに訊ねた事で、その敵意が僅かながら弱まった気がする。
「…何ですか〜?また説教〜?」
「いいえ。お話したい事があります」
明らかに不信といった表情で考えていた彼女も、私が目を逸らさず見つめているのが心地悪くなったのか
「…わかりました〜ちょっとなら良いですよ〜」
不満気な口調ながら受諾した。

* * *

「俺も行く」
「駄目です」

高等部の校舎へ向かいながら、ついてくる足音から離れようと早足で進む。
それでもピッタリと一定の距離を保たれてるのは気配だけで伝わった。
「何故だ。飼い主を護るのが犬の役目だ」
「此処に来ていきなり犬を前面に出してきましたね。生徒役に徹するんじゃなかったんですか?」
「それはあくまで通常時だ。緊急の場合この限りではない」
「今も通常ですよ。見て下さい。今日も平和に竈門くんはパンだけでなく人の世話を焼いていますし嘴平くんは裸足で駆け回っていますし我妻くんはフランスパンを銜えた禰󠄀豆子さんの写真を嬉しそうに撮っています」
「生徒が通常なのはわかっている。俺が言っているのは名前の緊急という意味だ」
「私も変わらず通常です。通常運転過ぎて冨岡くんが何を焦っているのかがわからないですね」
「今の俺は生徒じゃない」
彼女と待ち合わせた集会室へ向かおうと階段を下りていく。
辿り着くまでにこの人を撒けるかと言ったら、確実に無理だ。
仕方ない。
心の中で呟いてから踊り場で立ち止まると振り返った。
「本当に大丈夫なので冨岡先生は職員室へお戻りください」
「嫌だ」
「義勇、ハウス」
「しない」
「冨岡くん?先生のお願いが聞けませんか?」
「……。先生の願いでも今は聞けない」
「何でそこだけ悩んだんですか…」
「今の言い方は最高にツボだった。やはりレコーダーは常に持ち歩くべきだな」
「レコーダーって…」
ポケットから現すその四角い機械にまた懐かしいものを出してきたなと考えてから血の気が引いた。
「…まさか今の、録ってたんですか?」
「録った」
「一体何処から…」
「くん付けで呼び出した時からだ。聴くか?」
「良いです良いです!大丈夫です」
再生ボタンを押される前に制止した所で、ぐっと迫ってくる勢いに圧され窓際へ背中を付ける。
「俺を同席させたくない理由は何だ?何を企んでいる?」
「ホントに疑り深くなりましたね。もし自虐を心配しているなら、一昨日言った通り改善に努めていますし、同席を避けるのは彼女の神経を逆撫でしないためです」
じっと覗き込んでくる群青色に、これは多分逸らしてはいけないのだろうとただ見つめ返した。
「…わかった」
私の中の何を読んで納得に至ったのかはわからないけれど、その顔が離れた事で安堵の溜め息が出る。
「それなら代わりにこれを持って行け」
そうして差し出されたボイスレコーダー。つい受け取ろうとしてしまった手を止めた。
「というか、そもそも何でまた出してきたんですか?これ」
「飼い主名前か名前先生の台詞を録ろうと思った」
「一度で大成功じゃないですか…」
「あぁ。これで飼い主との戯れ、そして先生と禁断の恋という妄想が捗る」
「本人を前にして良くはっきり言いましたね。そちらこそ何を企んでるんですか」
「現実で我慢している分の妄想くらい許せ」
「…まぁ、それで満足していただけるならこちらも何も言いませんけど」
「満足はしていない。もっとお前に触れたくなる。特に名前を先生として抱くのは最高だろう」
頬を撫でる指背に眉を寄せるものの、すぐに離れた事でそれを弛めた。
「とにかくこれを持って行け」
そう言って無理矢理握らせる手を振り解こうにも見つめる群青色の瞳に抗えない事に気付く。
「…冨岡先生」
「何だ?」
「私に何かしました?」
その瞳が訝しげに細まったのを見て、ついこちらも表情が硬くなってしまった。

一昨日から、何かが可笑しい気がする。
心境の変化は多少…ほんの少しは、あると、もうこの際認めよう。それは仕方がない。
そりゃ強靱な狂人と一緒に居れば感化もされるし飼い主になれば情も出てくる。
問題はそこじゃない。

その目を見つめると、動けなくなる。抗えなくなる。
それなのに、迷いに満ちている時は答えを導く光のような役割を果たす。

まるでこれは…

「暗示を掛けた」

言い切ったその群青色に息を呑んだのは一瞬
「…というのは冗談だ。本気にするな」
限りなく真顔に近い笑みを浮かべるものだから眉を寄せた。
「冨岡先生の場合そういうた「しかしそれに近いとは言える」」
…またわかりづらい言い方をする。
「何かしらの変化を感じているなら、それは名前の心が生み出したものだ」
「…私が、ですか?」
「お前は俺に全てを委ねられるという大きな安心感を得ている」
真剣な表情に否定がすぐに出てきてはくれなくて脳内で反復するしかない。

「わかるか?これが感情を認めた事で具現した恩恵だ」

…あぁ、そうか。

「だから強引に私を飼い猫にしたがったんですね」

そういえば言っていた。
還る場所は此処だけだと。
それが、暗示に近いものだという事か。

「理解したのなら、尚更これを持って行け」

再度グッと握らされたレコーダーに戸惑いながらそれを受け取った。


そうやって護ろうとする


(ついでに全消去しておきますね)
(喘ぎ声を録らせるというなら構わない)
(というのは冗談ですよ。本気にしないでください)


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