ほぼ無駄な攻防に半分以上の時間を費やした挙句、ラストオーダーを知らせに来た従業員に救われるような形でカフェを出る。 レジ前で起きた別の抗争は、先に現金を出した冨岡先生に完全な敗北を喫した。 「ごちそうさまでした〜。楽しかったで〜す!」 軽く頭を下げるその言葉の意味は、ミルクティーに対してのものなのか、それとも別のものなのかと無駄に深読みしてしまう。 「こちらこそありがとうございました」 とにかく頭を下げ返せば、突然のうら悲しい表情に心臓が脈打った。 「…訊くの、やめとこうと思ったんですけど〜…あの子何やらかしたんですか…?」 躊躇いがちな上目使いの中に、"姉"という側面が見える。 立場上、責任を感じているのだろう。 「…いえ、特別何かがあった訳ではありません。ただ今度、彼女が初めて教壇に立つものですから「え!?そうなんですか〜!?」」 ぱぁっと明るくなっていくその表情は、心の底から嬉しそうだ。 「すご!授業するんだ〜!へ〜!すっごい!見た〜い!」 そう言ってから、すぐに苦笑いへ変わるのは"妹に恨まれている"その自覚があるからだろう。 「…な〜んて。今度どんなだったか教えてくださ〜い!」 そうやって笑って誤魔化すのも、身に付いた処世術だ。 ふと、冨岡先生と目が合う。 その群青色を見た途端、何故か今まで頭の中で絡みついていた何かが解けていった。 私は今日1日で、全ての解決策を手に入れている。 そして、その全てを解決出来る術も。 「…お姉さ〜ん?」 自分が足元を見つめていた事を顔を上げてから知った。 「どうしたんですか?ボーッとして」 「いえ、ちょっと考え事を…」 言い掛けた所で、言葉を止める。 彼女にとって、"姉"の存在は形を象る上で必要不可欠なもの。 「すみません、火曜日の午前中だけで良いのでお時間いただけませんか?」 突然の提案にその表情が困惑していくのを感じながら 「お願いします」 畳みかけるように深く頭を下げた。 good boy 「何を企んでいる?」 握られた右手に籠る力は強いものの、それが怒りではなく憂慮だというのがわかる。 冨岡先生の事だから、また私が自虐に走りやしないか、心配しているのだろう。 家路に向かう足は止めないまま返答を探した。 「今回の件、私1人では解決に至らないと判断しました」 「…敢えて発想の転換か」 「流石、冨岡先生。その通りです」 横目でこちらを窺う瞳が何処となく嬉しそうで、小さく笑う。 私はこれまでずっと彼女の事を"何とかしよう"と思っていた。 そうして背負おうとした基因は何か。 "教務主任"であり彼女の"教育係"という責があるためだ。 けれど実際、実の姉弟姉妹でさえ推し量れないものを、他人である私が上手くいく筈もなかった。 だから此処で、冨岡先生が言う発想の転換を使う。 転換、というよりは反転に近いかも知れない。 「名付けて"あとは若い2人に任せて"作戦。要は体の良い丸投げです」 「お前にしては策が弱過ぎる。あの姉妹だけで上手くいくとは思えない」 「そうなんです。なのでこちらの切り札、PTA会長を投入します」 無言のまま立ち止まったのは思考を巡らせているからだと思う。 「幸いにも彼女が受け持つクラスに会長のご息女が在籍していますので、来校していただくには十分な理由です」 「そいつを投入する事によって勝率はどの位上がる?」 「…さぁ?」 街灯の下、向けられた群青が険しい。 「さぁ、とは何だ?まさか諦めたと言うんじゃないだろうな?」 「諦めてはいませんが「それなら十重二十重と策を張り巡らせろ。0.1%でも勝率を上げる選択肢を選べ。でないとお前が…!」」 両肩を強引に掴むその指先から僅かな震えが伝わる。 地面に落ちた鞄についてはとりあえず触れないでおく事にした。 「今回の事に策も勝率も関係ないんですよ。もう考えるだけ無駄です」 「お前らしくない」 「そう思うという事は冨岡先生の視野が狭くなっている証ですね」 ぐんと近付く距離に後ろに引こうとしたのを我慢して鋭い瞳と向かい合う。 察するにこの焦燥は、今この場の言葉に対するものよりも…。 「複雑に考え過ぎですよ。まぁその大半が私のせいなんですが…」 此処まで辿り着くまでの仮定を、余りにもこの人に喋り過ぎた。 その日、確信を得るまでに至ったものが翌日にはひっくり返ってるなんてのはザラにある事で、そこから瞬時に方向転換するため仮定に固執してはいけない。 事実を捻じ曲げる要因になるからだ。 仮定はあくまで事実へ辿り着くまでの手段で、推測と違うものは柔軟に受け止め切り捨てていかなきゃならない。 だけど今この人は、私が示したたったひとつの仮定に囚われ動けなくなってる。 「カフェでの会話は全て聞いてましたか?」 「聞いていた。一字一句漏らす事なく記憶もしている」 「でしたら自ずと答えは出る筈だと思います」 教えるのは簡単だ。正直そちらの方が手っ取り早い。 だけど冨岡先生の気付きは、それこそ常人ではどんなに努力をしても身に付かない程の代物だ。 だから此処で止まらないで欲しい。 考えて考えて、思い付く全てを考え尽くすんだ。 彼女のこれまでの半生を。 キメツ学園に来た経緯を。 そして自分が今何に怯え、何を見誤っているのかを。 どうか、その力で導き出して欲しい。 暫しの沈黙の後、目を細めてから何度か瞬きをした事で変化した色に気付いた。 それと同時に指先の震えも止まったのが伝わる。 「答えは得られましたか?」 「得られた」 「でしたら離れましょう。顔が近いです」 大人しく距離を空けた姿はいつもの穏やかなものに戻っていて、苦笑いを零した。 「名前は居なくならない。そういう事だな?」 「そういう事です」 昨日、私は不死川先生に冨岡先生の事を託そうとした。 それはあくまでキメツ学園内の話だけど、それすらこの人は拒否をし事実を歪めた。 そして今もそう。 彼女に勝てなければ私は教育委員会から潰される。 確実な情報を手にして尚、その仮定を切り捨てる事が出来なかったのは、恐怖という感情から来る完全な過誤。 彼女は、自分の母親に対しても敵意を持っている。 だから例え誰に何を言われようと、学園内で何があろうと、絶対に母親には頼らない。泣き寝入りもしない。 それは、先程手に入れた情報から知り得る、紛れもない事実だ。 「だからお前は本人達に投げたのか」 「そうです。今回は理屈を並べて完璧な勝利を手にする必要がない事に気付きました」 そう、あの時みたいに戦う理由なんて、本当は最初から、何処にもなかったんだ。 人間は、推し量れない。 そんなに単純な生き物ではない。 理解を示そうとするのは重要な事だけど、自分の型に押し込んで思い通りになるなどと思い上がってはいけない。 いつもそう、心の隅に留意してきた筈。 では何故、私と彼女は此処まで拗れたのか。 「わかりますか?これが感情を伴う事で起こる弊害です」 説明の一切を省いたにも関わらず、その群青色はすぐに反応を見せる。 「今、冨岡先生が事実を誤認したように、私も過去にその過ちを犯しました。そして今回もそうです」 「それは俺を好きだという事か?」 「論点はそこではないです。ただ飼うと決めた訳ですから、嫌いではない事だけは確かですね」 「相変わらず絶妙な言い回しをするな」 「すみません、癖なんですよ」 「それは本当に弊害だけなのか?」 突然の質問返しに、考えるより早く冨岡先生の言葉が続く。 「感情に左右され見誤る。お前が自問する余地を残したお陰でより著明に落とし込む事は出来た」 的確にこちらの意図と狙いまで読み取っているのが流石だ。 「それが弊害というのは理解出来る。しかしお前は何故今になって突然、その見解が誤ったものだと認識した?」 「突然も何も、得られた事実が「何故と訊いている」」 何故…? 一瞬言葉に詰まった私とは違いその瞳は余裕と冷静さを完全に取り戻している。 「お前に疑問文で投げ掛けても無意味だったな」 フッと口角を上げると迫ってこようとする口の前で両手の壁を作った。 さっきもこんな攻防をした気がする。 「何なんですか急に。真面目に対話をしてたんじゃないんですか?」 「していた。今もしている。余りにも真剣に見上げてくるので俺も真面目にその口唇を奪いたくなった」 「そこに真面目という単語をつけるのがまず違和感なんですけど」 「俺がふざけていない事を最大限に表すためだ。これまで一度たりともふざけてキスをしようとした事はない」 「そうですか、わかりました。帰りましょうね。だいぶ冷えてきましたし」 若干後ろに引いた顔の動きで諦めたかと思ったのも一瞬、掴まれた事で両手の壁はあっという間に崩壊して、代わりに包み込む両掌の感触に眉を寄せた。 「本当だ。冷たい」 「冨岡先生も指先冷えてきてますよ」 握られている両手に落とそうとした目は、覗き込んでくる顔で止めざるを得なくなる。 「…今日に限って凄いですね、圧が…」 逃げようにも逃げられず、せめて後ろに逸らしてみるが効果は全くと言って良い程ない。 「選択基準と順位が明瞭になったようで安堵している」 また急に真面目になり出したなこの人。 いや、最初から真面目は真面目なんだっけ。 「最初からその2つの所在は明瞭ですよ。何の変化も「起きている」」 覗き込んでくる群青色に、息が詰まってしまうのは物理的な問題じゃない。 「今までのお前なら背負ったものが何であろうと放棄する道を選ばない。自分の手に負えないものでも瞬時に抗う道を探していく。現に"着桜"の時まではそうだった」 ふと気付いたのは、私が反論出来ないようにこうしてギリギリまで詰めて来ているという事。 「しかしその後、お前はまるで憑き物が落ちたかのように武器すら構えていない」 「…武器、とは?」 「思考だ」 理解をする前に眉を寄せてしまった。 「最初はただ疲労から来る停止なのかと考えたが、その態度でわかった」 細くなる瞳の色が優しさで満ちていて、目が離せない。 「今のお前は全てにおいて俺を優先させている」 先程の怯えていた姿は何処へやら。 形勢逆転、そんな四字熟語が勝手に浮かんだ。 僅かに弛んだ力の隙を突いて脱出に成功した左手ですかさず防御壁を作って口を開いた。 「それは願望から来る勘違いですよ」 「勘違いじゃない。正確には俺を想う自分の心を優先させている。だが概ね俺という事で間違っていない」 「何言ってるんですか。最初から間違いしかないですよ。これがテストだったら0点で追試ですね。はい、冨岡くんは私について1から学び直してきてください」 「…名前先生か…。その呼ばれ方も良いな」 ヤバイ。冗談で言ったつもりだったのにまた新たな扉を開いてしまったらしい。 「冨岡先生の引き出しって凄いですね。無限ですねカオスですね。知ってまし」 その両腕に収まったのを押し付けられる胸板で知る。 またふわっと漂う香りに心臓が脈打った。 「名前先生、好きです」 頭上で響いた吐息混じりの台詞にもある意味ドキッとしてしまった。 「冨岡先生の敬語、初めて聞きました。たった一言なのにすごい破壊力ですね」 「先生じゃない。くん付けで呼べ」 「呼びませんよ。今此処で教師と生徒ごっこしてる場合じゃないんで、ホントに帰らないと…」 出そうになった欠伸を噛み殺したために途切れた言葉を続けようとする前に 「…そうか。眠いか」 頭を撫でながら呟いた察知能力に絶句する。 「わかった。帰ろう」 納得したように離れると、また繋ぐ左手と歩き出す足に、黙って続く事にした。 「名前先生を堪能するのは今度で良い。俺も生徒役とは言え敬語を使うのは若干抵抗がある。一度持ち帰って設定を練り直そう」 「練り直そうとしなくて良いですよ。ホントにただの冗談なんでその気にならないでください」 「名前が俺の担任か。とてつもなくエロい」 「どうしてそう全てそっちに持っていくんですかね?」 「お前がエロいのが悪い」 「何で私なんですか。勝手に想像して夢にまで出演させてるそちらが原因だと思うんですけど」 「根本が違う。まず名前がエロいという前提があり、俺はそこに脚色を加えているだけだ」 「脚色しかない気がします」 フィルター越しのこの人と攻防を続けても仕方ないとまだブツブツ言ってる横顔は放置して前を向く。 無意識に先程掛けられた言葉を思い出して、あぁ、そうかも、と納得した。 蒸し返して良いものかを迷いながら歩く。 話を切り出そうと動かした口に 「自分の心を優先させるようになったのは喜ばしい事だが、俺の事まで最重要視しなくて良い」 被された台詞に、もしかしてこの人狙ってきた?そう思ってしまったのは言おうとしていたからだ。 "確かに私は冨岡先生を優先しているかも知れない"と。 だから今、すぐに言葉が返せない位には驚きで溢れている。 それでも、矛盾していないかと訊ねそうになったのは小さく吐いた息でかき消して言葉を出した。 「…しますよ。飼い主ですし。犬を飼うというのはその存在を最優先するって事です」 横目で表情を窺ってみても、それはいつもと変わらない。 「どうして今、私が自分の心を優先させ始めたと思いますか?」 そういえば、この人には疑問文が効くよな、と今更ながら考える。 「俺に飼われたという安心感からだろう」 「違います。…あぁ、いや…全然違う訳でもないです。そのしょんぼりするのやめてください」 もう一度吐いた息はやや重めなもの。 「これも発想の転換ですよ。私が私を大事にしないと、その分冨岡先生が犠牲になろうとするからです」 いつもそう。ずっとそうだった。 多分、これからもそう。 「こればかりは何しても効かないので諦めました」 もう、この点においては腹を括るしかない。 「そうですね。新年度から冨岡くんにはご自分をいたわる、ねぎらうを覚えていただきましょう」 そう言って視線を向けた先、見開いた目は驚きと喜びに満ちていて頬を弛めた。 今までの借りを返そう (私の意図は伝わりました?) (名前先生にいたわりねぎらわれるのか…。エロいな) (半分伝わって半分伝わってないですね) [ 108/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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