good boy | ナノ

コポコポと音を立てるケトルが沸騰を告げた所で、それを持ち上げるとカップへ注いでいく。
漂う香ばしい匂いに、深く鼻で息を吸った。
左手にカップ、右手に添え物一式を持ちリビングへ入れば、丸まった背中がすぐ視界に入って頬が弛む。
「どうぞ」
天板に顎を付け、久々の炬燵を堪能している顔の前へそれを置いた。
僅かに薄目を開けたものの、また閉じられる瞳は完全に寛いでいて、この分では放置していても大丈夫だと判断し立ち上がろうとする。
「…入らないのか?」
まったりした口調に引き留められて、寄せそうになった眉の力を抜いた。
「ちょっと片付けがあるので。冨岡先生はゆっくりなさっていてください」
「…わかった」
更に背中を丸め目を閉じる姿に吐き掛けた息を我慢して、ダイニングへと出た。
危ない。
心の中で呟いてから、ふぅと息を吐く。
一瞬馬鹿正直に言ってしまいそうになった。
"着替えてくる"と。
いくら炬燵の魔力で戦意を喪失しているとは言え、余計な餌は目の前にチラつかせない方が良い。
漸くあそこまで大人しくなった今、また無駄な攻防をしたくない。

地味に痛む後頭部を押さえてから椅子に置きっぱなしだった鞄の中を漁りつつ先程の光景を思い出す。

玄関先で争いが起こるであろう事は、もうお互い予期していて、どう戦略を練り相手を打ち負かすかに懸かっていた。
先制はやはり冨岡先生で、どうにか家に上がり込んでこようとするのを防御に徹しなくてはならないが、それもいつもの事。
ねぎらってくれ、だのいたわって欲しい、だの散々先程の言質に対して攻め込んでくるのを見越し冷静にこう言った。
「新年度からと言いませんでしたか?」
まぁ、その牽制にも一瞬動きを止めただけで、押し問答を続ける内に力技で玄関に押し付けられたのもいつもの事。
しかしその際、留めていた櫛が思い切り頭に刺さったせいで頭を抱えた私に冨岡先生が心底申し訳なさそうな顔をした。
その上タイミング良く鳴った通知により冨岡姉弟と私という、謎のグループLINEが結成され、攻防する雰囲気は完璧に殺がれる。
そして最後の一押し
「…炬燵で温まりたい」
切実な眼差しに、またも敗北を許してしまった。


good boy


洗面所の扉を閉め、帯に挟んでいたスマホをまず取り出す。
棚に置いた事で鳴った音に、つい肩が震えてしまった。
自分が出した物音だというのに、一瞬扉の向こうで聞こえたのではないか。そう考えた。
自意識過剰な自覚があるけれど、この状況ではならざるを得ない。

本当ならすぐにシャワーを浴びてしまいたいけど冨岡先生の手前そうする訳にもいかないので、というかそんな事したら確実に死ぬので、ひとまずこの窮屈な着物だけでもさっさと脱いでしまおうと帯に手を掛けた。
「…あれ?」
思わず呟いたのは、触れた瞬間に気付いた違和感。
疑問を解決するため鏡の前に立つと上半身を捻って背中を確かめた。
一部分だけ見えたその形は、最初に蔦子さんが結んだシンプルなものではなく、まるでリボンのように華やかな形になっている。
帯を直してくれた時に変えてくれたのだろう。
正直、全く気が付かなかった。
後ろ手で確かめても複雑な造りに何処から解けば良いのかがわからず、スマホを手に取る。
先程知ったばかりの蔦子さんのLINEへ送るか迷ってから、検索バナーに"帯 外し方"と入れるとスクロールした。
正直私にはこの結び方の名称は正確にわからないため、それっぽい画像を探すしかない。
ふと見止めたページへ飛ぶと、1人で帯を外す方法が記載されていて文章を読む。
まず背中側の帯を前に持ってくる、とあるためずらそうと試みるが、ガッチリ固定されているそれは全く動く気配がない。
帯の中にガーゼと紐の結び目があると書かれてもいるけれど、それを見つけるのが素人では容易じゃないのでは?という疑問が浮かぶ。
蔦子さんに連絡してみた方が良いのか。
そう考えてみても時刻はとっくに21時を過ぎているし、恐らく電話でも文章でも私が的確にその指示を理解出来るとは思えない。
良くわからない説明文が続く画面を放って帯との格闘を選ぶ事にした。
ひとまずこのリボンみたいな形を崩してしまえばいけるのではないか。
それを引っ張ってみた所で
ガチャッ
音を立てて開いた扉に、何が起きたか理解するのが完全に遅れた。
思いっ切りその群青色と目が合って、何度か瞬きをしている。

「トイレを借りたいのだが」
「それでしたら此処から出ていただいて、玄関側に向かった先の扉です」
「そうか」

パタン、と閉まった音と共にけたたましく音を立てる心臓を押さえた。

危ない。
危ないけど良かった。
あの様子からしてまだ炬燵の魔力で自我は取り戻してない。お陰で冷静に誤魔化せた。
今の内に帯を解いてしまおうと力を入れた手を弛める。
いや、今此処解く方が危険極まりないのでは?
ひとまず何もなかったようにするしかない。
脱ごうとしていた事を気付かれるのは駄目だ。
無理に引っ張ろうとしていた手を放して鏡を確認する。
明らかに崩れて張りがなくなってはいるが、多分あの状態じゃそこまで気が回らない筈。多分。そうであって欲しい。

そのままダイニングへ戻ると鞄の中身を片付ける方に専念する事にした。
通勤用の鞄に戻す物を纏めている所でトイレから戻ってきた冨岡先生から崩れた帯を隠すよう、自然に体勢を変える。
「炬燵は堪能出来ましたか?」
下手すれば命取りになるのはわかってはいるけれど、此処で黙っているのも察知されそうで平静を装った。
「あぁ」
「コーヒーは呑みました?」
「呑んだ」
そのままリビングへ入っていくまったりした表情に、いや、じゃあ帰ってくださいって続けようと思ったんだけど…と思いながら先程使ったビニールシートが入った袋を取り出す。
これを今片付けようか迷った所で戻ってきた冨岡先生に一瞬ドキッとした。
「お帰りですか?」
「違う」
詰めてくる距離に後ずさりしそうになるも半分開いた瞳は眠そうなもので、此処で過剰に反応するのは得策じゃないと眉を寄せるだけにする。
「何です?」
正確には寄せるだけにしたかった。
30cm近くまで縮まったにも関わらず更に踏み込んでくる動きに合わせ後退せざるを得ない。
「忘れていた」
「何を」
結ばれた帯越しで感じるのは食器棚の感触。
逃げ場がなくなったのに気付き言葉を止めた。
スッと伸びてきた両手を避けようもないのはわかっているのに、咄嗟に身を引いた後ろでカチャッと食器が揺れた音がする。
引き寄せようとする腕の動きに、せめてもの抵抗を見せるため両手を構えた。
てっきり抱き締められると思っていたそれは、何の躊躇もなく飾り帯の内側へ侵入してくる。
「…っ!?」
まさかストレートに脱がしにくるとは…。
いや、でも直前まで冨岡先生が攻めてくる気配はなかった。
だからこそ油断もしていたし、過剰反応をしないようにしていたのだけれど、あの呆けた顔も、もしかして私を欺くための演技だった?
考えている間にもゴソゴソと動く指先の刺激で身体が勝手に跳ねた。
これは本気なのかが正直窺えないものの、抵抗しないという道はない。
その手を掴もうとした所で
「この結び方は解くのが難しい。少し待ってろ」
頭上で響くのはいつも通り冷静で抑揚がない声。
その言葉の通りに力を弛めると大人しくその場に留まった。
確かに解こうとはしている。けれどそれは下心が一切ない真剣なもの。
その証拠にこれだけ近い距離だと言うのに、今冨岡先生が触れているのはその両手だけで、それも触れるというより、恐らくは結び目を探しているだけで全く他意を感じない。
「…良くご存知ですね」
この状態で沈黙が続くのは居心地が悪過ぎると口を開いた事で、一度指が止まった。
「昔からこの形を好んでいた」
相変わらず主語がないため模索する。しかしこれはちょっと難しい。
冨岡先生か蔦子さんか。どちらかなのはわかっているんだけども、言葉のニュアンスから考えると、正直どちらとも取れるのが悩ましい。
次の言葉にヒントを得ようとしても
「だからお前にもこの形で結び直したのだろう」
また微妙な台詞に深く考えそうになるのを止めた。
「どなたが好んでいらっしゃるんですか?」
「姉と俺だ」
成程、どちらもだったのか。
それならどちらのニュアンスも当てはまる筈だ。
「結び方を変えたの、正直全然気が付きませんでした」
「俺はすぐに気付いた」
「…まぁ、そうでしょうね」
「姉の意図もだ」
「蔦子さんの?」
「俺の好む、かつ解き方が複雑な締め方で簡単に名前に手を出せないようにした」
あぁ、そうか。あの時は蔦子さんも本気で心配してくれてたから…。
ってそしたらこの状況はやはりよろしくないのでは?
そう思った時には何かが引っ張られた感覚で僅かに締め付けが弛んでいた。
更に動く手の気配に警戒を強める。
「ありがとうございました。あとは自分で出来ますから」
そう言いながら牽制の意味を込めて胸元を押し返した。
「まだ完全に解けてない」
着物と帯の隙間に入り込んでくる手にビクッとしてしまって
「…すみません」
小さく謝ったが、正直気まずい所じゃない。
「くすぐったいか?」
「…大丈夫です」
っていうか何で今この状況下で普通なの?
いや、これは冨岡先生の普通じゃない。いつもなら此処ぞとばかりに攻めてくるし1人で勝手に盛り上がってる筈なのに、こんな冷静で落ち着いていられると、こちらもどう対応したらわからなくなる。
徐々に帯を回転させていく動きに、先程スマホで検索した通り、結び目を前に持ってこようとしているのだろうと考える。
どうにかその心理を読み取ろうと、気付かれぬように出来る限り目線だけを斜め上に向けた。
炬燵の魔力はとっくに解けてる筈だ。だとしたらこれは油断を誘う作戦?それとも…

「…どうした?」

こちらを見ている群青色で我に返る。
「え?何ですか?」
「さっきからずっとボーッとしている。眠いのか?」
回されていた帯がいつの間にか前に移動していて僅かながら時間が経過している事を知った。
「いえ、考え事をしてました」
そうだ。声を掛けられる直前まで何か考えてた。
あれ?私今何考えてたっけ?確か…そうこの人の真意を読もうとしていたんだ。
それで…
「カッコイイと思ったか?」
そう。妙な気を起こしてないその表情はカッ…
「思ってません」
「誤魔化さなくて良い。さっきからずっと惚けた瞳で見ていた。そして訴えている。俺に抱かれたいと」
「急に喋りだしたかと思ったらまた勘違いのオンパレードを繰り広げてくれますね。やっぱり罠だったんですか」
「何がだ?」
「先程までの殊勝な態度です」
「別に罠を仕掛けた訳じゃない。着物に慣れていないお前が1人で解くのは難儀だろうと…」
不自然に止まった言葉と僅かに見開かれる瞳に、また何か良からぬ事を思いついたのではないかと警戒を強めた。
「そうか。そういう俺が好きなのか」
「はい?」
「思えばあの時も今と同じ表情をしていた。あれも俺に見蕩れていたんだな」
「あの時っていつですか?」
「姉のベルトを止めた時だ」
思い出した瞬間、眉が動いてしまう。
「図星か」
笑みを浮かべるその余裕綽々な態度が腹立つ。
「違います。あの時は蔦子さんに対する自然な気遣いに感動しただけで、今は狂人でも常人のような振る舞いが出来るんだと感心していただけです。それ以外の感情はありません」
「饒舌になってる」
更に口元を綻ばすのに比例してこちらの眉間は険しくなっていく。
右手が動いたと認識した時には、既に親指がそこへ触れていた。
「余り寄せていると戻らなくなるらしい」
「あぁ、良く言いますよね。私の場合、もう手遅れな気もしますが」
「手遅れじゃない」
解すように円を描く指の腹の力加減が思いもよらず心地好いもので、意思とは関係なく弛んで
いく。
「俺の元へ来た当初より刻まれていた皺が随分減った」
「冨岡先生の元じゃなくキメツ学園です。何してるんですかそれ」
「マッサージだ。此処のツボを押すと良いらしい」
「そうなんですね。お気遣いありがとうございます。でももう大丈夫ですので」
抵抗しなくても離れた指が解きかけの帯へと戻るのを視線で追いつつ身を引こうとしたが
「内側がゴムで止まってはいるがそれを取れば後は簡単に解ける」
これまた冷静な台詞で止まる。
もはや眉間と同じく、これまでの積み重ねから回避する癖がついていると自覚した。
反応してしまった事でその口元が弛んでいくのが何とも憎らしい。
元はと言えば冨岡先生がいつ何時、それが何処であろうとおかまいなしに暴走してきたからこうなったのであって、私が過剰に反応してる訳でも意識してる訳でもない。
「わかりました。ありがとうございます。では冨岡先生は帰りましょうね」
「わかった」
後退する右足にホッと息を吐こうとしたのは時期尚早だったらしい。
瞬きをする間もなく掴まれた肩と落ちてくる顔。
しかしそれも重なる直前で突如として停止した。
「………」
抵抗をしようか考える前に距離を取った冨岡先生は、おもむろに私の頭をあやすように撫でる。
「…おやすみ」
柔らかい声色でそれだけ言うと足早に玄関を出て行った。

静まり返ったダイニングの中、安堵なのか何なのか良くわからない溜め息が響く。
ひとまず玄関の鍵を閉めなくてはいけない。そしたらこれを脱いでさっさとシャワーを浴びて、あと片付けもして、明日は食糧を買いに行きたい。その為に早く就寝しなくては…
今度は息苦しさからふっ、と短い息が出た。
無意識の内に胸元へ当てていた手に心臓の音が伝わる。
何故こんなに心拍数が上がっているのか。
多分、キスされそうになったから。もしくは脱がされそうになった焦り。そう、そうだそれ。
必死に言い聞かせてから、心の中で嘲笑する。

そうじゃない事なんて、きっと…

思わず口元を押さえたと同時、ガチャッと音を立てて開けられた玄関と、戻ってきた青ジャージ。
「…どうしたんですか?」
平静を装って訊ねながら、その群青色を見つめてしまわないよう、出来るだけ自然に片付けを再開させた。


お願いだから気付かない


(スマホを忘れた)
(炬燵ですか?取ってきます)
(頼む)


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