冨岡先生を制したからと言って、問題が丸く収まった訳でもなく、一部から向けられる疑心の目は変わらない。 そつなくこなして終わりにしたかったけれど、此処まで来たら仕方ないと腹を括った。 短く小さい息を吐いてマイクを口へ当てる。 「自己紹介が遅れました、苗字名前と申します」 そうして頭を下げ、上げる間に、どう話を切り出すか瞬時に考えた。 何故私が此処に来て、蔦子さんに会ったのか、全て順序立てて説明しても、不正をしていないという証拠は示せない上に、事細かに話せば話す程に嘘臭くなるだけだというのがわかっている。 「それでは、皆さんと私で賭けをしましょう」 端的に出した提案は、当然、意味がわからないという雰囲気を醸し出す。 「不正をしているか、していないか、そこは論点ではありません。それに対しての明確な証拠をどちらも導き出せないからです」 「…名前さん良いの。私が辞退すればそれで丸く「良くない」」 蔦子さんを諫める冨岡先生を横目に 「こればかりは丸く収める訳にはいかないんですよ。蔦子さんを巻き込んでしまって申し訳ありません」 一度マイクを下ろすと、深々と頭を下げた。 そうして前方に向き直す。 「さて、そこで何を賭けるのかが問題です」 極めて明るく言うと、揃えた指で襟元を押さえた。 「私はこの"着桜"を賭けましょう」 言うや否やステージの下、悲鳴を上げる少女の 「苗字先生!ダメ!いくらするか言ったよね私!!」 敬語も忘れるくらい必死な訴えに因って周囲がざわついていく。 その空気を作ってくれた事に、心の中で感謝する。 「250万円と聞いております」 どよめきが起こる会場を見回してから、マイクを持ち替えると掌を見せた。 「それを前提として、私はこれから皆さんに3つ、提示をいたします。1つは」 同時に親指を曲げる。 「蔦子さんが不正を行う必要性が皆無である事実。2つ目に」 同じように人差し指を動かす。 「一部の方々が不正だと声を上げた要因。そして3つ目」 最後に中指を曲げ 「根拠のない疑心に因って被る損害」 そう言って手を下ろした事で一身に受ける視線に、ふと、授業をしているみたいだな、と懐かしく思った。 good boy 「まず、不正をして手に入れられるのは高級温泉旅館と遊園地のチケットです。今の蔦子さんにとってそれは必要なものでしょうか?」 話しながらステージの階段を下りようとする私の後をついてこようとする冨岡先生を手で制す。 前方でビニールシートを敷いて座っていたご夫婦の元で立ち止まると屈んだ。 「お聞きしてもよろしいですか?」 見た所、20代であろうお母さんは眠る女の子を両手で支えている。 蔦子さんのご子息よりは確実に大きい。 「…え…はい…」 「良く眠っていらっしゃいますね。お嬢さんは今おいくつでいらっしゃいますか?」 「1歳1ヶ月ですけど…」 「ありがとうございます。そのお嬢さんが生まれて数ヶ月の時、高級温泉旅館や遊園地へ行かれた事はありますか?」 マイクを向ければ考えるように視線を動かした後、ご夫婦で見つめ合う。 「…ないよね?」 「うん。っつーか今もまだ行ってない」 「それは何故でしょう?出来るだけ詳細を教えていただけますか?」 「え?単純にこの子の事だけで手一杯だし、そんなトコ連れてってもあんま意味ないっていうか…。家のお風呂でさえ入れるの大変なのに温泉とかちょっと…オムツ取れるまで入っちゃいけないって所も多いし、遊園地だって赤ちゃんが乗れるものほとんどないから行っても正直無駄じゃないかな…」 「ありがとうございます。参考になります」 立ち上がったと同時に 「そんな意見、何の証拠にもならねぇだろお!?親に預けるとか、チケット金に換えるとか!色々あんじゃねぇか!」 想定内の質問を背中で聞きながらステージ上へ戻った。 「大丈夫か?"着桜"ちゃん…」 8班の班長には、私が圧倒的不利に見えるのか、心配そうな顔をしてる。 首を傾げると前へと向き直した。 「さて、此処で2つ目です。先程もこちら、8班の班長さんが自虐の笑いに変えおっしゃった通り、私は生意気にも意見を述べさせていただきました。それが今此処で声を上げた方々です」 ざわ、と淀む会場に、空気が徐々にこちら寄りになっていくのを肌で感じる。 余り長く時間を掛けても仕方ないと矢継ぎ早に続けた。 「さぁ、最後に3つ目、これが一番重要です。恥をかかされた貴方達は、どうにか私に一矢報いてやろう、その憎しみのためだけに今まで桜祭りに貢献し続けてくれていた蔦子さんをも利用し、事実を捻じ曲げました」 横へ視線を動かせば、こんな状況だと言うのに、自分の事ではなく私へ憂慮を向けている瞳に目を伏せると前を見据える。 「自分の事しか考えない、見えていない。馬鹿な貴方達にはそれがどれ程の意味を持つか、何ひとつわからないでしょうね」 「何だとテメェ!」 「調子乗ってんじゃねぇぞ!」 途端に反発の声が上がる会場に 「黙れ!」 突然響く冨岡先生の声に、私が一番驚いてしまった。 いつの間にか右手に持っているマイクに、一体何処から出してきたのだろうという疑問も、班長の親指で自分を指すジェスチャーであぁ、そういう事か、と納得する。 冨岡先生の圧で、しん、と静まった人々に 「さて、此処で最後の問題です」 極めて明るく言った。 「この場で疑いの目を向けられた人間が、申し訳ないので辞退します。そう申し出ました。次の内2つ、皆さんはどちらの心証が強いでしょう?…これは心の中で答えてください」 一度息継ぎをしてから手振りを加えながら続ける。 「1、辞退するって事は、やっぱりやってないんだなぁ。2、辞退するって事は、やっぱりやってたんだなぁ」 マイクを下ろすと徐々に不穏なものに変わっていく会場の雰囲気を隅から隅まで見回した。 「そうです。この空気です。これは簡単に人を殺せます」 意識して声を低くしながら続ける。 「此処で折れたら、ずっとその疑いを向けられるんです。謂れもない罪で疑われ続ける。もしも当事者なら皆さんは耐えられますか?」 それがわかっているから冨岡先生も、辞退する事を止めたのだろう。 私達と違って、これからも此処で生きていかなきゃいけない蔦子さんには、想像も出来ない程辛いものとなる。 このままうやむやにして終わらせてしまう訳にはいかない。 「私なら耐えられません。だから今この場で不正はなかった、そう強く言い続け、貴方達と全面的に争います。そのためならこの250万すらも賭ける。それが私の覚悟です」 今まで強気だった表情が若干揺れたのを見止めた。 「こちらの覚悟に対し、貴方達は何を提示し賭けてくださいますか?疑いを口に出した以上、それ相応の根拠と覚悟をお持ちなんですよね?」 張り付けた笑顔を向けた私から目を逸らすと押し黙る姿に心底腹が立つ。 「…もしかして何も考えず発言したんですか?その歳にもなって?小娘に言い負かせられたから標的変えるとか笑っちゃいますね。どんだけ「やめろ」」 冷静な声と同時に手ごとマイクを奪われて 「もう勝負はついている。これ以上はお前の心が削れるだけだ」 その群青色で自分が勝手に喋っていた事に気付く。 それでも… 「やめません。まだ言質を取っていないんです。他人へ悪意を向けるというのがどれだけ…」 まだ途中だというのに、塞がれた口唇で目を見開くしかなかった。 触れるだけですぐに離れると、覗き込んでくる瞳。 その強さに、ふ、と短く息を吐いた事で、自分が息をするのを忘れていたのにも気付いた。 あぁ、だから、心が削れると言ったのか。 今の私が必要以上の悪意を他人に向けていたから。 「…冷静になったか?」 「えぇ、だいぶ。冷静になった事で次の問題が浮かびました」 「何だ?」 「思いっきり見られた上に皆さん静まり返っちゃったんですけど。恥ずかし過ぎてもう前向けないんですけど」 「それなら問題ない。お前はもう喋らなくて良い」 取り上げたマイクをスッと後ろ手で上げた冨岡先生に意味を察したのか 「さ、さぁ〜!"着桜"ちゃんと兄ちゃんの熱〜いチッスが見られた所でぇ〜?」 多少動揺しながら、司会進行を再開させる班長。 「まさかもう文句のある奴はいねぇよな〜?」 大袈裟な程に辺りを何回も見回してから、腰に手を当てた。 「難しい事は良くわかんねぇけど、俺は信じるぜ!?蔦子ちゃんはそんな卑怯な事をする子じゃねぇ!そうだろ皆ぁ!!」 また会場へマイクを向ける右手で、徐々に上がっていく呼応に、班長の人徳に助けられたと思いながら、冨岡先生に手を引かれ、蔦子さんの元へと戻る。 「名前さん、ありがとう。…私のために」 「いえ、私が最初にあの方達に喧嘩を売ったのが原因です。申し訳ございません」 これ以上空気が険悪なものにならないよう、言葉巧みに盛り上げる班長を後目に、蔦子さんへ頭を下げた。 ふふ、と小さく漏れる笑い声に眉を動かしながら顔を上げる。 「少し…ううん、凄くスッキリしちゃった。ニッチョーさんを言い負かせられる人って今まで居なかったから」 「ニッチョーさん、というのは?」 「ほら、あそこの人」 小さく指を指す先へ視線を向けた。 「あぁ、最初に八百長だの何だの言い始めた人ですね。ニッチョーというのはお名前ですか?」 「ううん、2班の班長さんって意味よ。1班の班長ならイッチョー、3班ならサンチョーって昔から呼ばれてるの」 「…成程」 だから8班の班長はハッチョーと呼ばれてたのか。 「さぁさぁ!抽選会の後は〜!?嬢ちゃん坊主!待たせたな!"着桜"ちゃんから駄菓子のプレゼントだぁああ!!」 言葉と共に群がってくる子供達に圧倒されそうになるも 「蔦子さんは安全な所へ」 その背をステージの外へ誘導しようとした瞬間、雪崩てきた勢いで転んだ男の子を視界に入れた。 「冨岡先生、蔦子さんを」 「わかった」 「お姉さんお菓子ちょうだ〜い」 「俺が先だよ!」 「ちょっと待っててね」 倒れた体勢のままワッと泣き出した姿へ駆け寄ると身体を支える。 「大丈夫?」 「わぁあああんッ!アイスがぁああ!」 …アイス? 湧いた疑問はそのしがみ付いてこようとする両手で解決した。 思わず身を引く前に、白い半固形物にまみれた小さな掌でしっかりと掴まれた両袖。 黒地にべったりと付いたソフトクリームに ──…終わった。 ただ一言、心の中で呟いた。 250万。 返済までに何年…十年以上か。 利子とか付くのかな。 一瞬遠くを見つめそうになるも、号泣しているその手を振り払う事も出来ず、身体を抱えると立ち上がる。 Tシャツにもべっとりと付いているソフトクリームが乗っていたであろうコーンは無残にも床で潰れていて、群がってくる子達に 「そこ滑るから踏まないでね」 それだけ声を掛けると段ボール箱から1つ、お菓子の袋を取り出した。 「…お前それ…」 蔦子さんを安全な場所へ届けたのか戻ってきた冨岡先生が珍しく驚いた顔をしている。 袖だけじゃなく帯にまで広がった白い液体に驚くなというのが無理な話だろう。 「はい、これあげる。アイスの代わりにはならないかも知れないけど…」 そう言って差し出せば若干収まった泣き声。 受け取った両手で、お菓子もアイスまみれになっていくのを、苦笑いするしかなかった。 「ねぇちょうだい〜」 「早くしろよ〜!」 催促が強くなった事で、冨岡先生が段ボール抱えると粗雑にそれを渡していくのを視界に入れながら、男の子を下ろす。 すぐに走っていってしまう背中に、ちゃんと親御さんの元へ戻れるのだろうかと考えてから小さく息を吐いた。 もう1つの段ボールを抱えると、伸びてくる手に渡していく。 本当は1人1人にきちんと相対して渡したかったけれど、ここまで来るともう誰が誰だかわからない。 完全に餌やり状態だ。 「大丈夫なのか?」 「着物ですか?全く大丈夫じゃないですね」 「心配するな。俺は250万ごと名前を受け止める」 「随分な覚悟だ事で」 あっという間に空になった箱をその場に置くと新しい段ボールを抱える。 「お前は俺のために250万を賭けた。ならば俺もそれに応える」 「あれは私のせいで蔦子さんが謂れなき非難を受けていたからで、冨岡先生のためではないです」 「違う。俺のためだ」 「言い切るその根拠は何ですか?」 「お前は常に先回りしている。あの男達に噛み付いていったのも先程の場も、俺がキレて暴走しないよう敢えて向かっていった。姉の体調を気遣うのもそうだ」 「それは、まぁ、此処で騒ぎを起こされても面倒ですし、疲弊している方の力になれる事があればなりたいと思うのは当然です」 「お前は俺が傷付かぬよう、常に護ってくれている」 「それもまぁ、飼い主ですから」 「猫は勝手気ままだと言うが、お前はその中でも義理堅い猫の部類だな」 「…何言ってるんですか?義理堅い猫の、部類…?」 本当に意味がわからず、怪訝な顔になってしまった私を、駄菓子を放り投げながらじっと見つめてくる。 「…何です?」 この状況で何かされる事はないと知っていても、つい癖で身構えてしまった。 「白い液体まみれの極妻か…」 「ホント、ちょっとやめてくれません?子供達の前で何て事言うんですか」 「大丈夫だ。餌に夢中で聞いてない上にこいつらには理解出来ない」 「それでも口に出さないでください」 「さっきも思ったんだが」 …とても、嫌な予感がする。 「口じゃなければど「義勇!シャラップ」」 大人しくなるその姿に胸を撫で下ろしたものの、完全に復活を遂げた暴走犬と、背負ってしまった高額な借金にこれから先、どうしよう。 そう考えていた。 現実から逃避したい (一括返済とか言われたら…) (どうせこうなるなら最初から俺が汚し穢せば良かった) (黙る時間短すぎじゃないですか?) 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