good boy | ナノ

「アッハッハッハッハッ!」

先程からずっとステージ上で響く豪快な笑い声に、もはやそちらへ顔を向ける事もせず能面を貫く。
腰掛けたパイプ椅子の目の前、着物地をハンカチで叩きながらソフトクリームを除去していく蔦子さんの伏し目を見つめた。
睫毛長いなぁ。ふとそう考える。
「…だっはっはっ!…ははっ…ゴホッゴホッ!…はぁ…ぜぇ…」
笑い過ぎて噎せてるし。
「大丈夫?ハッチョーさん」
抽選会で使った小道具を抱えながら、女の子が眉を下げた。
「…げほっ…あ〜笑い死にそ〜!はははっ!」
また腹部を抱えながら笑い出す姿に、目を窄める。
「…だいぶ取れたから、多分これでクリーニングに出せば染みにはならないと思うわ」
そうして膝を伸ばす蔦子さん。不意に胸元で収まるフワフワな後頭部を撫でたくなった。
「ありがとうございます」
私も立ち上がろうと腰を上げた所で、タイミング良く差し出された左手に視線を上げる。
群青色の瞳と見つめ合う事数秒、手元へと戻した。
そっと指先を添えれば、優しく引かれその反動で立ち上がる。

未だ笑い続けている班長に、更に目を窄めた。
「流石に笑い過ぎじゃないですか?」
私の言葉に、一度止めたかと思えばまた耐え切れないように噴き出す。
「…ぎゃははっ、"着桜"ちゃん!…マジで250万…っはは!」
自分の足を叩くと大きくなる笑い声に、もう帰ろう。本気でそう思った。


good boy


「…はー…まっさかだよ。ホント!」

紅白屋根の大型テントに戻るとパイプ椅子に腰掛けるなり、瓶ビールの栓を開ける班長に少し遅れつつ、長机を挟んで座る。
左隣には冨岡先生、右隣には蔦子さんがそれぞれ腰を掛けた。
「呑む?」
「いえ、結構です」
短い会話の後、プラスチックのコップに注いだ泡立った液体を喉へ流し込んでいくのを見つめる。
「まっさかマジで250万するって信じてたとは…いやぁオジサンビックリだわぁ。しかもそれ賭けちゃうとか…くくくっ!」
また小さく笑い出す口元を能面になりながら見つめた。

そう、"着桜"が250万円の代物、というのは真っ赤な嘘。

それが判明したのは、子供達にお菓子を配り終え徐々に人が退散していく中、片付けをしようとステージに上がってきた少女が出した悲鳴に因ってだった。
ソフトクリームまみれになっている私を見つめ、今にも卒倒してしまいそうな程に青ざめた表情に、何をそんなに慌てているのかと不思議な顔をした班長は、支離滅裂な説明を耳に入れた後

「大丈夫だっ!それイチキュッパで買ったやつ!」

グッと親指を立てると笑顔でそう言った。


イチキュッパ、要は19,800円。
しかも単衣だけではなく、帯や草履、全て総込みでのお値段。
結構、いや、かなりのお値打ち品だ。

何故そんな桁違いの勘違いが生まれたのか、と言えば、それも古い習わしに関係していた。
それこそ昔は"着桜"=高級反物で、都度その専門の職人がこの桜祭りのためだけに作成するという時代を継いできたが、昨今の後継者不足はこの界隈にも影響を及ぼす。
数年前、最後の1人だった職人が急死した事で、一切の技術が継承されなくなってしまった。

"着桜"の風習をどうするか。
秘密を口外しないであろう限られた一部の人間が集まり、何度も話し合いを重ねたという。
しかし、辞めるにしても続けるにしても何かしらの変化は否めない。
今までは職人のご厚意で、反物の代金だけで済んでいた作成費も、違う職人に委託するとなれば、当然依頼料が発生する。
それならこれを契機と判断し、予算を圧迫していた高級反物という選択肢を捨て、安価の着物を購入する、という運びになった。
しかし、習わしを突然丸々と変えるというのは、反発が予想される。
特に昔気質の"ニッチョー"が絶対に許さないだろうという懸念から、今まで"着桜"に充てていた予算を抽選会の賞品へ持っていき、住民の目をそちらに向けさせ、徐々に浸透させていくという年単位の作戦が決行された。

その間、"着桜"は変わらず高級反物で作られた着物とし、それを汚損した場合、"着桜"役が責任を取るという条件を付け加えた。
これは、万が一にも安物である事が判明しないための先制。
しかしそれも、この数年は公になる心配はなかった。

「…ごめんなさい。私がもっと早く伝えておけば…」

そう言って眉を下げる蔦子さんの存在が在ったからだ。

最初に"着桜"役を打診した時は、蔦子さんにも知らされてはおらず、伝えるつもりもなかったらしい。
それでも"ある事件"の後、班長を始めとする一部の人々は、蔦子さんと秘密を共有する道を選んだ。
それは信頼出来る人物と判断したのも大きいが…

「お前さん、ほんとさんっざん暴れてくれたもんな〜」

溜め息混じりに言うと、またコップを傾ける姿から冨岡先生に視線を向ける。
涼しい横顔は、正直何を考えているか読めない。
「さっき蔦子ちゃんと並んでるの見てやーっと思い出した。兄ちゃん、あの"伝説の弟"だろ?」
コップの縁を支えながら向ける人差し指に
「その節は弟がご迷惑を…」
立ち上がり頭を下げようとする蔦子さんをその手で制す。
「謝らなくて良いんだっつの〜!もう何年前の話ってレベルだよ〜?」
そう言ってからまたビールを喉へ流し込んだ。
「しっかしいや〜随分変わったな〜。中坊ん時は小っちゃくてパッと見女みたいだったのに」
僅かに動いた眉に、へぇ、冨岡先生でもそんな可愛い時期があったのか、と内心驚いている。
そうして、これは詳細を訊ねて良いものなのかと、悩んだ。
"伝説の弟"
その事に関して、冨岡先生は私に知られるのをどことなく避けているように見受けられる。
此処で私が訊けば、答えは得られるだろうけど、果たしてそれをして良いのかどうか。

「それは俺じゃない」

冷え切った声に、あぁ、やっぱり訊かなくて良かった、と考える。
「お前だっちゅーの。俺の顔面に思いっ切り拳く「すみません、蔦子さん。着替えてきてもよろしいですか?」」
右隣へ体勢ごと変えればその瞳が若干驚いた。
話の遮り方が強引過ぎたかも知れない。
「…あ、えぇ。手伝うわ」
「いえ、大丈夫です。これはクリーニングしてお返しすればよろしいですか?」
「良いよ良いよ〜!どうせこの後、自治会館で保管するだけだしあげちゃうっ!蔦子ちゃんのために本気で250万賭けちゃうカッコイイ"着桜"ちゃんへ〜オジサンからのプレゼントだ!」
豪快に笑い出す姿に頭を下げるだけにして、コンテナハウスへ向かう。

良かった。
正直、心からそう思っている。
あの時点で覚悟は決めたけど、250万の借金を背負うのは流石にハードモード過ぎる。
避けられるならそれに越した事はない。

コンテナハウスの扉へ手を掛けた所で
「苗字先生…」
若干遠慮がちの幼い声を背中で聞いた。
振り返った先には、今にも泣きそうな顔。
「…どうしたの?」
「ちゃんと謝ってなかった…」
消え入りそうな声に、その場に屈むと目線を合わせた。
「変な事言っちゃったから…私が…何も言わなかったら…先生…大変な目にあわなくて…」
その言葉に、果たしてそうだろうか?と追憶する。
「…余り変わらない所か、最終的に250万という金額はとても強力な武器になりました。貴方のお陰です」
俯き続けるその髪を、一瞬迷ったもののそっと撫でた。
「ありがとう」
出来る限りの笑顔を向けた事で、僅かに上げた顔は、どことなく嬉しそうなもの。
「そういえば、250万という数字は何処で知ったんですか?」
「…今日の朝、そこの扉開けようとしたら、何だかみんながすごい、話してて…苗字先生には"着桜"の事、言わなくていいって。だから私…去年のお着物、250万だって言ってたから…」
また徐々に俯いていく瞳が泣いてしまう前にもう一度、頭を撫でた。

これはもう、ボタンの掛け違いと表現するしかない。

班長は、余所者である私に、この着物が高額だという虚偽を伝える必要性はないと今朝方、このコンテナハウスで話し合って決めたと言っていた。
それを一部分だけ聞いた彼女は、皆で私を騙そうとしているのではないかと考えてくれたのだろう。
昨日の時点では、何も知らなかったからこそ、私に対する罪悪感が顕著になったんだ。

「一生懸命、考えてくれたんですね」
溢れ出てしまった涙を、汚れていない部分の袖でその頬を拭う。
「先生、それ!」
「大丈夫。戴いたものなので」
真っ直ぐに未来を見るこの子の夢が叶うのはいつになるのだろうか。
「"着桜"役になる時は、必ず見に来ますね。楽しみにしています」
驚きに満ちた表情が、見る見る内に笑顔へ変わった後
「はい!」
一際響いた元気な返事に、頬を弛めた。


泣き止んだ後、片付けの途中だったと走っていく背中を見送ってから、屈んでいた姿勢を戻す。
念のためノックをして暫し待ってから、ノブを捻った。
正直、気が緩んでいたのは否定が出来ない。
後ろ手で閉めようとした扉の反対へ働く力に、振り向く間もなくコンテナ内に押し込まれた。
勢いでつんのめりそうになった身体を支える右手が誰のものか、鼻を抜ける香りで知る。
同時にガチャ、と音を立てた内鍵に眉を寄せた。

「…名前…」

熱を帯びた耳元の囁きに避けようにも、容赦なく掛けてくる体重に耐えられず、ドン!と音を立てて床に沈む。
思いっ切り右耳を打ち付けて、そのせいで響く耳鳴りも気にする暇がない。
力任せに解こうとする帯に気付いたためだ。
「…ちょっと!冨岡先生!?」
「脱ぐのだろう?問題ない筈だ」
「大ありですよ!蔦子さんはどうしたんですか!?」
一瞬、ほんの一瞬帯を引っ張る指が弛んだ気がする。

「俺が居ない方が上手くいく」

それだけ言うと項に這う口唇と僅かに緩くなった帯の締め付けを感じてたにも関わらず、抜け出そうとするのを止めてしまった。
「…昔、何が起こったのか今此処で私が訊ねるのは野暮ですか?」
「脱がしながらになるがそれでも良いか?」
「それは良くないですね。とても良くないので訊かない事にします」
「そうか。それなら脱がす事に集中しよう」
また僅かに動く帯に覆い被さる重さから逃げようと抵抗を再開させる。
「脱がす以外の行動選択はないんですか?」
「ない。それともそのままが希望か?服を着たままする方が興奮すると確か前も言っていたな」
帯を引っ張られる感覚が消えたかと思えば、裾をたくし上げていく指に眉を寄せた。
「言ってません。都合の良い夢の記憶じゃないですか?」
「250万を背負わなくて良かったな」
右ふくらはぎを撫でる手に誤魔化されそうになったけれども、ずっと心の何処かで感じていた違和感が形を成していく。

「冨岡先生がその事実を知らなかったのは何故ですか?」

出した発問に、動きが止まった隙をみて這いずると抜け出した。
まだ履いたままの草履を脱ぐか否かを決める前に、草履どころか足袋も脱がす右手に声を上げる隙もなく、甲へされる接吻。
脚を引こうにも右手でガッチリと押さえられた。
「…ちょっと、汚いですよ。やめてください」
「汚くない。名前は綺麗だ」
「いや、そういう意味じゃなくて現実的に考えっ…」
膝下まで真っ直ぐ這ってくる舌先と太腿へ伸びてくる手に身体が震えた。
このままでは非常にマズイ。
恐らく誰かが様子を見に来る前に私の死を迎える。
早々に何とかしなければ…
「義勇、待て」
「待たない」
「堂々と逆らって来ますね」
「さっき言った。褒美を貰えない犬は言う事を効かなくなる」
あぁ、そうか。
って納得してる場合じゃない。
耳に擦り寄ってくるくすぐったさに耐えながら口を開いた。
「ご褒美は何をご所望ですか?」
「名前が欲しい」
「駄目です」
「俺の飼い猫になって欲しい」
「嫌です」
「耳元で"義勇が好き"と囁いて欲しい」
「無理です」
上げた顔が明らかに不満に満ちている。
「我儘だな」
「それはこちらの台詞かと。もうちょっとこう、ハードル低めの妥協案はないんですか?」
溜め息混じりに訊けば、私を見つめたまま動きを止めると何度か瞬きをした。
「名前と花見デートがしたい」
「…それは…先程約束しませんでしたか?」
「した。それに追加してその着物姿で、という事だ」
「これ、ですか?」
「そうだ。もう少し極妻名前を堪能したい」
「今さっきまで脱がそうとしてませんでしたっけ?」
「それはお前が着替えると言っていたからだ」
それでも太腿に触れていた手が離れた事は安堵する。
蔦子さんの手早い処置のお陰で、ソフトクリームもほぼ取り除けたし、このまま着続ける分には何も問題はない。
「まぁ、良いですけど…」
キラキラとしていく瞳に、意外とこの恰好を気に入ってるんだ、というのを実感した。
いや、それは本人も包み隠さず口に出していたけれども。褒め言葉のチョイスが何というか…。
それも"らしい"と言えば"らしい"のか。
「帯が乱れた。直して貰おう。姉を呼んでくる」
口早にそう言うと出て行く背中は嬉々としている。
蔦子さんを連れ間髪入れず戻ってくるであろう事を察し、捲られた裾を直してから足袋を履いた。

予想通り、数分もせず開いた扉。
向かいがてら、冨岡先生から事情は聞いていたのか蔦子さんは私を見るなり
「締め直すわね」
そう言って手を掛けたのも僅かの間、すぐに動きを止めた。
「…義勇。一度外に出ていてくれない?」
当たり前に椅子に座ろうとする姿に少し呆れた声が背後で聞こえた。
「何故だ」
「一度帯を解くから」
「俺はか「いくら付き合ってるって言っても、節度と礼儀は必要でしょう?」」
若干強い口調に圧されたように、無言で外へ出て行く背中が素直だとちょっと感動している。
バタンと音を立てて閉まった扉の後、すぐに帯を動かす両手を動きで感じた。
「強情な子で本当にごめんなさい。名前さんに迷惑しか掛けてないわ」
そこまで言わなくても、と出し掛けた言葉は

「本当は、義勇とお付き合いしてないんでしょう?」

核心を突いてくる蔦子さんに止めるしかなかった。


頷いて良いものか


(この帯もあの子がやったのね?)
(……。いえ、これは)
(良いの。隠さないで)


[ 101/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×