good boy | ナノ
蔦子さんとそのご子息が目を覚ましたのは、それから30分を過ぎた辺り。
時折ふざけた事を言う冨岡先生と言葉の攻防を続けていた所、とてもか細い、ともすれば聞き逃してしまいそうな泣き声に即座に反応すると、両腕で包む姿は"お母さん"そのもので、凄いなぁと素直に思った。
すぐに抱っこをしたからか、目覚めの機嫌は良いらしくきゃっきゃ、と高い笑い声が聞こえる。
何かに気が付いたように鞄を手繰り寄せる動きに、そちらへ近付くと屈んだ。
「おはようございます。何かお力になれる事はありますか?」
「おは、よう。オムツを変えようと思って…」
「私が出します」
「…ありがとう」
失礼します、と声を掛けてから鞄を開ける。
「あ、それをお願い」
「これですね」
若干重みがあるポーチを取り出すとそれを渡したと同時に、外側からノック音が響いた後、扉が開いた。
ひょこっと顔を出した女の子と目が合って笑顔を向けられる。
「いたいた!苗字先生〜。そろそろステージの方にお願いしま〜す」
まだ30分以上ある筈では?と時計を確認しようとした所で
「皆が集まる前にステージに上がっておかないと…」
言い淀む声に、それも何かしら風習とか仕来たりとか、そういうものがあるのだろうと意味はわからないが理解はした。
それでも蔦子さんへ視線を向けた私が、何を考えているのか伝わったらしい。
「大丈夫。オムツ変えてミルク飲ませたら私も行くから」
ニッコリと微笑む表情は、仮眠程度でも少しスッキリしたように見える。
「頑張ってね。名前さん」
「…ありがとうございます」
頭を下げてから立ち上がると、扉へ向かう背後に感じる気配へ振り返った。
「冨岡先生は蔦子さ「義勇」」
同じタイミングで視線を向けた先
「名前さんの護衛、お願いね」
先に言われてしまって、口を噤むしかない。
「言われなくてもそのつもりだ」
先に靴を履き出す背中に倣い、草履を引っ掛けた。


good boy


エスコートする左手を眺めながら、ステージへ向かう。
少し前を歩いていた女の子は、私達が遅れ気味なのに気が付くと、その場で立ち止まった。
そうして私の左横に並ぶと歩幅を合わせる。
「…苗字先生、このお兄さんは…?」
不思議そうに見つめる目に、この子は冨岡先生の存在を知らないのか、と口を開く。
「蔦子さんの弟で、私の同僚の冨岡義勇さんです」
「え?蔦子さんの!?え!先生!?」
二度ビックリしている姿に、小さく笑いが零れた。
「は〜…私初めて見たぁ。伝説の弟」
「…伝説?」
思わず首を傾げそうになったのを止めたのは反対側から飛んできた
「余計な事を言わないでくれ」
若干冷えた声。
「…あ、ごめんなさい…」
表情から察するに、そこまで機嫌が悪くなった訳ではない冨岡先生も、幼いこの子には恐怖に感じたのか身体を縮込ませると黙り込んだ。

伝説の、とはどういう事?

疑問に思わない訳じゃないが、今この場で問いた所で、回答を得られるような空気ではないのが容易に感じられて、何も訊かない事にした。


簡易的ながら立派なステージに所狭しと並べられた抽選会の賞品を順番に確認していく。
「これが6等のタオルです。これが65人分、5等のバスタオルが30人分です。4等はこの洗剤ギフトか油セットどっちかが選べて、全部で15人分」
メモを見る事なく淡々と進む説明に、この子は本当にしっかりしていると感心した。
「3等は5,000円の商品券が10人、2等が10,000円の商品券が5人で」
無意識にしてしまう金額の計算に、結構大盤振る舞いなんだな、とひとつひとつ包装してある恐らく封筒を眺める。
「そして1等は…聞いてください!今年は凄いんですよ!」
嬉しそうに笑顔を向けられ、瞬きが多くなる。
「これです!高級温泉旅館1泊2日ペア旅行券っ!」
両手に持ったのは目録と書かれたのし袋。
「しかもご飯もついてて近くの遊園地のチケットもついてるの!すごくないですか!?」
「…そうですね」
うちに当たんないかな〜とウキウキしている姿は年相応の女の子で、僅かに頬が弛んだ。
これがひとつしかないという事は、全部で何人分引けば良いのかと考えて、天を仰ぐ。
65、30、15…126人分か。
単純に1人1分で終わらせられたとしても2時間以上は掛かる。
もしかしてこれ結構な重労働なのでは?と不安が過ぎった。
「これは1人1人に手渡ししていくんですか?」
「あ、ううん。違います。"着桜"役は代表の方1人にとりあえず渡して貰って、あとはあっちで番号引き換えて皆が渡していきます。私も手伝うから…いつも1時間ちょっと位で終わるかなぁ?」
「そうですか。わかりました」
「あと抽選会が終わったら、子供達に駄菓子のプレゼントがあってそこがちょっと大変かなぁって…」
「どうしてですか?」
「餌を見付けた蟻のように集ってくる」
冨岡先生の言葉で、その光景を容易に想像出来てしまって顔が引き攣る。
「…大丈夫でしょうか?」
流石に250万を揉みくちゃにされるのは避けたい。
「そのために俺が居る」
「…成程」
だから冨岡先生は最初に"護衛"なんて言い出し、蔦子さんもそれを頼んだのか。
「お姉さんが"着桜"役を担っていた時もそうやって護衛してたんですか?」
何の気なしに出した質問は、一切無視されて、距離的に聞こえていない筈はないんだけど、と思いつつ、深追いするのは止めた。

段々と集まってくる人々が、興味深げに私へスマホやらカメラやらを向けてくる。
ステージ上では逃げ場もないため、諦めの境地に達した所でジャージの背で視界が遮られた。
「冨岡先生?」
「俺の後ろに居ろ。まだマシだろう」
「…ありがとうごさいます…」
お礼を言ってから、何かもやっとしたものを感じる。
その心の閊えが何なのかは、
「"着桜"〜、顔見せてよ〜」
誰かはわからないその台詞で唐突に理解をした。
その背から離れ、真っ直ぐステージ前方を見据えると姿勢を正す。
「何故離れる」
また背で向けようとするその腕を両手で制止した。
「お気遣いは有難く頂戴いたします。ですが、これも私がやらなくてはならない仕事なので」
「まだ始まるまでは時間がある。その間だけでも隠れておけ」
「私の認識の違いでした。これを着た時点で、もう始まってたんですよ」
「認識の違いも何もない。また自虐に走るのか?」
「違います。抽選会だけを乗り切れば良い。あとはそっと隠れていよう。その考え方は、卑怯で最低なものでした」

この仕事を受けた時点で、私は私の意思でこの任に就いたのだから、その"責任"を背負わなければならなかった。
かと言って愛想良くも出来ないし、喜んで被写体になる事も無理な話。

だから、せめて

「今この場だけは"着桜"役としての役目を果たさないといけません」

私を見下ろす群青色が若干驚いていて、それを見上げると、少し口角を上げた。
「そのために、護るのではなく力を貸していただけますか?」
眉が寄った後、徐々に弛まっていく。
いつもの表情へと戻った頃
「全力で手を貸そう」
前方を見つめる瞳に意思の強さを感じた。

「…待たせたなぁ!"着桜"ちゃん!」

マイクを片手にステージに上がってきた男性を見止めて、その方がさっき宴会場に居た人物なのを思い出す。
この方が8班の班長だったのか。
「相変わらず気が強そうで良いねぇ!」
酔っているのか、それとも元々こういう人なのか、歯を見せて豪快に笑っている。
「本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
深く頭を下げた視線の先、差し出される右手に、ゆっくり顔を上げた。
「よろしく〜!ほら、握手握手っ」
まぁ、それくらいなら、と手を出そうとした所で割り込んできた右手に、一瞬動きが止まる。
何故、冨岡先生が班長と握手をしているのか、と。
「…え?お宅誰よ?」
「"着桜"役の随伴だ」
「……?あれ?兄ちゃんのその顔どっかで…」
メリメリと骨が軋む音が聞こえたのは気のせいじゃない。
「…いってぇ!」
パッと放したその右手を押さえる班長が
「兄ちゃんつえ〜なぁ…馬鹿力かよ…」
小さく呟くも、涼しい顔をしている冨岡先生の横顔に眉を寄せた。
「冨岡先生」
「全力で手を貸している」
「…そういう意味合いで言ったつもりはないんですけど…」

突然鳴り響いた軽快なリズムを奏でる音楽にドキッとして、視線を向ける。
ステージの両側から設置されたスピーカーから聞こえてきていた。
「さぁ!3時丁度を迎えたぞぉ!って事はこれから!皆がお待ちかねの〜?」
レスポンスを求めるように客席に突き出したマイク。
「「「「ちゅうせんか〜い!!」」」」
反応の良さに気を良くしたのか班長が豪快に笑ってる。
「オーケー!聞いて驚け〜?今年の1等は何とっ!高級温泉旅館1泊2日ペアチケットだぁ!!」
拍手と共に歓声やヒュ〜ッと口笛のようなものが響いた。
「…凄い盛り上がってますが…いつもこんな感じなんですか?」
そっと冨岡先生に疑問を投げかければ
「大体こんな感じだと聞いている」
今この時も、こちらへ向けられるレンズに目を窄めてる。

冨岡先生、本当に余りこの桜祭りに関しては興味がないんだろうな。
そう考えてから、また何かが引っ掛かる、とこめかみに手を当てた。

「それでは紹介するぜぇ!今年の〜〜〜"着桜"ちゃんは〜〜〜この子ぉぉお!!」

その言葉と共に、息を呑みそうな位の視線を一斉に受けて、ゆっくりとお辞儀をする。
そうだ。今は"着桜"役に徹する事を考えなくては。

「何と今年は外部からのお客さんなんだぜ〜!しかもこの"着桜"ちゃん!現役教師っつーんだから驚きだぁっ!見ての通り、負けん気が強い子だから怒らせたら恐いぞぉ?え?何で俺がそんな事知ってるかって?実はさっきオジサンも調子こいて怒られちゃいマシタ、テヘッ」
上がる笑い声に、この人凄い話術と盛り上げ方が上手いな、と思いながら能面になる。
「何か挨拶するか〜?"着桜"ちゃん」
強制なのか、自由意思に委ねているのかどっちの意味だろうと考えた瞬間
「姉はそんな事していなかった」
短い助言に視線だけを向けた。
「いえ、大丈夫です。お構いなく」
そう掌を見せる私に、また豪快に笑ってる。
「塩!塩対応っ!!んじゃまぁ!行くぜ!!?準備は良いかぁ!?」
それに呼応する群衆に、抽選箱を持とうとした所で、冨岡先生がそれを攫っていく。
「…ありがとうございます」
「まず6等からだぁ!何と賞品は〜!?」
溜めに溜めた事で、期待に満ちていく場の雰囲気を
「ただのタオルでーす」
冷静な声で空気を壊す事で生まれた笑いに、私も僅かながら頬が弛んでしまった。


賞品が豪華になればなる程、上がっていくボルテージ。
それでも慣れた司会進行に、特に何か問題が起こる事もなく、2等の商品券を渡し終えた後、最後に残った1等を前に、これでもかと盛り上げている班長の背中は楽しそうだ。

ふと視線を向けた先、蔦子さんと抱っこ紐に収まるご子息が見える。
私より遥かに早く気が付いていただろう冨岡先生の視線もそちらに向いていて、先程感じた引っ掛かり、言うなれば違和感がまた湧き上がったものの、番号を引くように指示する班長の声で思考を止めざるを得ない。
箱を探り、だいぶ少なくなったその半券を1枚掴むと取り出す。
「さぁ!今年のこの千本桜祭りぃ!!最も幸運なのは…!?」
「5056です」
読み上げると共に客席へそれを見せた。
…この数字、どっかで既視感があると思ったらマンションの号数か。
「ごせんごじゅ〜ろく〜!!ご〜、ぜろ、ご〜、ろくっ!居ないかぁ!?」
しん、と静まり返った会場の中、蔦子さんが慌てて紙切れを広げると吃驚の表情をするのを、弟である横の存在が見逃す筈もなく、ステージから早々に降りていく背中を見送る。
「さぁ!居ないか〜!?5056っ!」
煽り続けている班長へ寄ると、忍び声で呼んだ。
「班長」
「どした〜"着桜"ちゃ〜ん!」
マイク越しの返答に、目を細めるも
「恐らくですが、当選者は蔦子さんかと」
更に声量を抑えて言えば、その動きが止まる。
「…ええ!?マジ!?蔦子ちゃん!?蔦子ちゃん何処!?」
キョロキョロと動かす顔が目当ての人物を見付けたらしい。
「あぁ!居た居た!ちょっとそこ〜!道開けてやって〜!」
冨岡先生に誘導されステージに上がる蔦子さんが渡した番号にその瞳が驚いている。
「マ〜ジだぁ!蔦子ちゃんすっげぇ!めちゃくちゃ強運だなぁ!」
目録を持とうと一度向けた背に飛んできたのは
「それ八百長じゃねぇ!?」
何処から上がったかわからない野次。
「おいお〜い、悔しいのはわかるけどさぁ…」
「だってその"着桜"さっきも蔦子ちゃんと一緒に居ただろう!?不正しようと思えばいくらでも出来たじゃねーか!」
段々と不穏になっていく雰囲気は、先程の私に対する報復だろう。
皆が皆、納得していないのはわかっていたが、まさかこんな形で返ってくるとは思わなかった。
「だから気持ちはわかるって!でも蔦子ちゃんがそんな事す「あの、大丈夫です。私辞退しますから。もう一度引いてください」…蔦子ちゃん…」
「大体何でハッチョーは名乗る前から蔦子ちゃんだってわかったんだよ!まさかハッチョーもグルか!?」
「それは"着桜"ちゃんが教えてくれたからだって!」
ハッチョーという呼び方がどういう意味なのか私にはわからないけれど、伝染していく猜疑だけは感じ取れる。
険しい顔をしてステージから降りようとするジャージ姿に
「冨岡先生、待ってください」
そう声を掛けても効く筈もなく、野次を飛ばした男性に向かって真っ直ぐ歩を進めていくのにこれはマズイと考えるより早く班長が持っていたマイクを掻っ攫う。

「義勇、待て!」

大音量で響いた指示に因って、何か色んなものを失った気はしたけれど、動きを止めた後ろ姿に、安堵に似た息を吐いた。


まだ効くだけマシか


(ハウスですよ、ハウス)
(すっげ、戻って来た。何あの兄ちゃん、犬みてぇだな)
(みたいというか、もうほぼ犬です)


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