「ひとまず先程のテントまで戻りましょうか」 このまま立ち話をしていても蔦子さんの負担になるだけだと判断して、歩き出そうとする前に差し出された掌。 果たしてそれに応えて良いものなのかを迷った。 手を貸してくれているだけと言えばそれだけだけど、身内の前で何となく気恥ずかしさというか、何とも言えない感情になったりしないのだろうか、この人は。 「もう大丈夫です。私より蔦子さんの「大丈夫じゃない」」 「義勇。そうやって人の話聞かないで喋り出す癖、良くないってば。ごめんなさい苗字さん」 「…いえ」 何というか…、非常にやりにくい。私が。 「俺が護衛していないとまたカメラの餌食になる。それでも良いのか?」 「…それは、困ります」 「なら掴まれ」 「…失礼します」 何となく断りを入れたのは、本人にではなくお姉さんに向けたもの。 「カメラの餌食って?」 冨岡先生を挟んで向こう側を歩く蔦子さんの不思議そうな言葉に視線を向ける。 「名前を撮影しようとするハイエナ共がウロウロしているため、そいつらから護衛している」 お姉さんの前でも一切変わらないんだな、と思った。 「"着桜"役の短所ね。今年は私が断っちゃったから…」 「姉さんが悪い訳じゃない。それより母さんは一緒じゃないのか?実家に行っても誰も居なかった」 でも、こう、冨岡先生が弟らしい…というか人間らしい所は、新鮮かも知れない。 「そうそう。LINEしようと思ってたの。お母さん、急に仕事が入っちゃったから買い出しは大丈夫よって…。ごめんね」 「謝らなくて良い。徒労のお陰でこうして名前に会えた。十分過ぎる収穫だ」 蔦子さんの大きな瞳が私に向けられて、次に抱くであろう疑問 「2人はお付き合いしてるの?」 その言葉には 「いいえ、しておりません」 冨岡先生が虚偽を述べる前に食い気味で答えた。 good boy 先程の拠点から、下流へと戻る途に目に入れた大型テント。 12班と書かれた此処には誰も人がおらず、暫しの休憩場所としてお借りする事にした。 右隣に座る蔦子さんにピタリとくっつく小さな存在はいつの間にか寝息を立てていて、その無防備な表情に顔が綻ぶ。 付き合っていないと牽制した私に、不服そうに目を細めていたものの、此処で休憩すると決定した事で飲み物を調達しに行った冨岡先生がまだ戻ってくる気配はない。 「…あの、とみ…弟さんからは私の事は何と…?」 訊いてみたいような、訊きたくないような複雑な感情に口調がたどたどしくなってしまう。 ふふっと小さく笑い出す蔦子さんの返答を待つこの間が恐ろしい。 「最初は…去年の4月くらい。新しい教務主任が来たって聞いたの。それまであの子、私が何を訊いても何も話してくれなかったから、他の人の話をするなんて珍しいって思って」 そうか。4月…始業式の時か。 あれからもうすぐ1年経つんだな、とふと懐かしく感じた。 「そこから教務主任さんの話ばかりするようになったのよねぇ。いつも冷静で誰にでも平等に優しくて、でも自分には特別いつも目を掛けて可愛がって貰ってるって」 目を掛けて…? あちらが目を付けたの間違いではなくて? そう思ったけれど黙っておく事にする。 「勉強会に一緒に行ったとか、新居の時も相談に乗ってくれたとか、偶然隣の部屋に引っ越したとか、熱が出た時に看病して貰ったとか…あと、年末年始も一緒に過ごした、最近はパソコンの使い方を教えて貰ってるとか」 一度言葉を止めた蔦子さんは思い出したように続ける。 「そうそう、昨日も電話した時、教務主任さんのためにLINEのアイコンを変えたいからやり方を知りたいって言ってたわ。犬が好きなの?」 結構、ほぼ全てを報告されてる気がしなくもない。 「…えぇ、まぁ、はい」 しかも返答を濁すしかない。 「あの子、"教務主任"としか言わないからてっきり凄く歳上の男の人を想像してたんだけど…、でも苗字さんって話に聞いてた通りの人ね」 また小さく笑う蔦子さんに、苦笑いも返せなくて 「…すみません」 何に対してかはわからないけれども、小さく謝った。 そりゃ話だけ聞いてれば、そう思うだろう。 「こちらこそごめんなさい。いつも弟が迷惑掛けてるでしょう?」 「…いえ」 「あの子、昔から人付き合いが余り得意じゃないから…、本人は一生懸命のつもりなんだけど何処か人と壁が出来てしまう事が多くて」 眉を下げる蔦子さんの表情に、あぁ、確かに姉弟かも、と自然にその感想が沸き上がってくる。 「だから教師になってからも、ちゃんと出来ているのか…。でも本人は何にも話してくれないし、もう心配で心配で…」 ふぅ、と息を吐くものだから、苦笑いが零れた。 その心配は、わからなくもない。 でもそれは、前の冨岡先生だったらっていう前置きがつくけれど。 「そのお気持ちは良くわかります。冨岡先生」 一瞬この呼び方で良いのかと考えながら、そのまま続けた。 「の場合は、口数と主語のなさ、その反面、失言の割合の頻度が多く、勘違いをされやすい傾向があると私も認識しております」 口に出してから、実姉を前にしているのにこれ私も失言じゃないか?と不安になりつつ、ここ最近の事を思い出す。 「しかし、内面はとても繊細で傷付きやすい。だから、他人の痛みや変化に気が付ける方です。状況を的確に分析し、判断出来る冷静さもありますし、此処一番という時には巧みな話術も発揮出来る。これらは短所を補って尚、余りある長所です」 静かに寝入っているふっくらとした頬が柔らかそうだと思いながら、一度間を置いた。 「同僚としても隣人としても、弟さんにはいつも助けていただいております。ありがとうございます」 頭を下げた後、蔦子さんへ視線を戻せば驚いた表情をしていた。 「本当、義勇の言う通り」 「…何がでしょう?」 「名前さんってとても優しい人ね」 それだけ言うとニッコリと笑った表情が綺麗過ぎるのと、名前で呼ばれた事で息を呑んでしまう。 これがあの冨岡先生のお姉さんとは…。 想像以上の素敵さに心臓の高鳴りが止まない。 「…私が名前で呼ぶのは駄目?」 急に下がった眉に慌てて首を横に振った。 「…いえ、違います。是非呼んでください。嬉しいです」 そう言えば嬉しそうに微笑んでくれる。 やり辛い、そう考えていた原因がわかった。 その言動の端々が似ているから、所々で冨岡先生の顔がチラついて、どう接したら良いか頭が混乱してしまうんだ。 これが冨岡先生の言っていたバグというものか、と妙に納得してしまった。 向けられていた微笑みが私より遥か頭上で止まった事で、振り返る。 3人分の飲み物とビニール袋を下げた両手に 「すみません、私も行くべきでしたね」 そう言って立ち上がろうとするのをその目だけで制止してくるので大人しく座り直した。 「何が良いか訊くのを忘れていたためこれにしておいた」 そう言いながら私と蔦子さんに水を渡していく。 「ありがとう」 「ありがとうございます」 「それとこれを買って来た。腹が減っただろう?」 そう言うと目の前に置かれた透明なパックに入った焼きそばを見た途端、小さく鳴った虫に、つい巻かれた帯越しにお腹を押さえた。 「これ、3班の方にしか売ってないでしょう?だから遅くなったのね」 何故見ただけでわかるのだろうかという疑問は 「昔から好きだろう」 冨岡先生の言葉ですぐに解決される。 3班というのが何処かは正直わからないが、蔦子さんのために調達しに行った事だけは窺えて、冨岡先生って本当にお姉さんの事が好きなんだ、と綻んでしまいそうになる頬を抑えた。 「名前も食べたがっていたから丁度良い」 そう言って自然と私の隣のパイプ椅子を引く右手。 さっき私が屋台を見てた事わかってたんだ、と考えながら 「…え?そこに座るんですか?」 つい、いつもの拒否反応を起こしてしまう。 「駄目なのか?」 「…駄目というか3人横に並ぶのは単純に…」 言い掛けて、邪魔なのは自分だろうというのに気付いた。 「私が移動しますね」 「良い。俺が行く」 考えを瞬時に見抜いたように長机を挟んで向かい側に移動する姿に、中途半端に上げていた腰を下ろす。 そうして向き合う冨岡先生の表情は心なしか楽しそうだ。 「…よいしょ」 隣で小さな掛け声が聞こえて、顔を向ける。 焼きそばを食べようと体制を若干横向きに変える動きに、悩んでから口を開いた。 「…よろしければ、食べている間、私に抱っこさせていただけませんか?」 出した提案に、蔦子さんが驚いた顔をしていて、少し図々しかったかと思いながら続ける。 「赤ちゃんでも見ず知らずの他人に触れられるのは嫌だろうと思っていたのですが、今なら寝ていらっしゃいますし、保護者である蔦子さんが嫌でなければお願いしたいのですが…、抱っこ紐を外したら起きてしまいますか?」 「ううん、多分大丈夫だと思うけど…でも名前さんも…」 「着物を着ているためか今現在空腹を感じなくて、折角買ってきてくださったので着替えた後にゆっくり戴こうと思っております」 正直言うと、汚すのが怖いというのもあって、食すという選択肢を選べない。 それなら此処でボーっとしているよりは、少しでもその身を軽くする力になりたいと考えた。 「…ありがとう。じゃあ、お願いしても良い…?」 悩みながらもバックルを外した蔦子さんからスヤスヤと眠るその存在を両手で受ける。 両腕で収まる小ささに、頬が弛まった。 赤ちゃんってこんなに軽かったっけ?と記憶を巡らして、あの時の自分の幼さも実感する。 冨岡姉弟が焼きそばを食べ始める中、暫くその場で軽く横揺れを繰り返していたが、起きる気配がない事から、出来るだけ衝撃が伝わらないように椅子へ座った。 「良く寝ていらっしゃいますね」 「外だと結構寝てくれるの」 若干疲弊した表情に、つい大丈夫ですか?と口にしそうになったのを我慢する。 余り気を遣われても、蔦子さんが更に気負ってしまうだろうと 「…あの、この子の頬を触らせていただいても良いですか?」 全く違う言葉を出した。 「ふふっ、それ位、わざわざ許可を取らなくても全然大丈夫よ?」 「ありがとうございます」 背中と足を支えていた右腕を一度抜くと、膝で身体を支える。 起こさないようにそっと頬に触れた瞬間、赤ん坊独特の柔らかさに思わず目を細めた。 本当はもっと触りたいけれど此処で起こしてしまったらそれこそ蔦子さんに迷惑が掛かると抱っこをし直してから視線を上げた先には、焼きそばを箸で持ち上げながら動きを止めている冨岡先生。 瞳孔を開いている目に、何をそんなに驚いているのかと若干寄せた眉間は 「それにしても、こんなにゆっくりお昼食べたの久し振り…」 しみじみと言う蔦子さんに因って弛まった。 「いつも寝てる間にって思って用意すると起きちゃうから…」 ふぅ、と重い息を吐く横顔に視線を向ける。 「ありがとう、名前さん」 目が合った事で優しく微笑んでくれる蔦子さんに、余計なお節介ではなかった、と安心した。 他人の私からすればこの可愛い"だけ"の存在も親からすれば、見方は180度変わる。 そこに"責任"という重さが伴うからだ。 その責は自分以外、誰にも背負えない。 実家に住んでいると言っても、聞き及んだ限り、蔦子さんは日中、ほぼ毎日のようにこの子と2人きりなのだろう。 夜泣きで眠れないと言っていたのも、推測だが仕事をしている家族の睡眠を妨げないよう1人で乗り切っているのではないだろうか? 誰も請け負いたがらない"着桜"役を、長年担う性格から間違っていないと思う。 この蔦子さんという方も、ある意味では冨岡先生と同じなのかも知れない。 私に対してもそうなのだろう。 若干食べるペースを速めた横顔に 「可愛くてずっと抱っこしていたくなりますね。着物でなければ抱っこ紐を装着したい位です」 口角を上げてそう言えば、意味を理解したのか 「ありがとう…」 そう呟くと急いでいた箸が僅かに遅緩になった。 これ以上邪魔してはいけないと、腕の中に収まる無邪気な寝顔を眺める事にしようと視線を落とす。 しかし 「名前」 目の前から飛んでくる声ですぐ顔を上げざるを得なかった。 「食べるか?」 左手にはパック、右手には箸を持った冨岡先生に意味がわからず眉を寄せる私に答えを与えるように身体を前傾させると掬った焼きそばを突き出してくる。 これは、食べさせてやるという意味で間違いないのは察せられるけど…。 「いえ、良いです」 姉である蔦子さんの前でそんな事出来る訳がない。 いや、居なくてもしないけども。 「口を開け」 「ホントに大丈夫なので気にしないでください」 「俺が大丈夫じゃない」 もしかしてこの人、ちょっと怒ってる? 何故?って考えなくても多分、この腕の中の存在のせいだろうな、というのがまた何とも言えない気持ちになる。 「ちょっと義勇。名前さん困ってるじゃない」 「困ってはいない。素直じゃないだけだ。姉さんはまだ名前と会ったばかりだ。俺と違って全てを知らないだろう」 ちょっと待って。 まさかの実姉にマウント取り出したんですけどこの人…。 「付き合っていないというのも嘘だ。近い将来俺と名前は結婚するつもりでいる。ただ今日は仕事の一環として此処に来ているため、中途半端な状況で姉さんに挨拶するのは失礼だと控えようとした。名前はその都度、場に合わせた行動を取ろうとする。俺もその意思を酌んだため何も言わなかった」 「…そう、だったの?余計な気遣いだったのね。ごめんなさい」 いえ、違うんです、と開いた口を塞ぐようにほぼ無理矢理押し込まれる焼きそばに口を閉じるしかなくなる。 「美味いだろう?」 完璧にしてやられた。 この状況で私が否定出来ない方向へ上手く持っていったなこの人。 「じゃあ名前さんが私の妹になってくれるの?」 嬉しそうに言う蔦子さんを後目に、勝ち誇った表情をしている冨岡先生に恨めしさを込めた視線を返すしかなかった。 本気で外堀を埋めてくる (姉さんは昔から妹を欲しがってたもんな) (そうなの。一緒に買い物とか憧れてたのよねぇ) (その時は俺も共に行こう) [ 96/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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