good boy | ナノ
そうだ。確かに蔦子さんも"弟がいる"といった趣旨は話していた。
私がキメツ学園に勤めていると知った時の表情と、"教務主任"という単語が出てきた事も、冨岡先生が弟だという事実を知れば綺麗に繋がる。

あの方が、例のお姉さん…。
正直、似ても似つかない。
その一言に尽きる。

いや、でも顔面偏差値の高さは流石だ。

そうか…

「だから冨岡先生の美的感覚は可笑しいんですね」

ついまじまじとその群青色を見つめれば、徐々に訝し気になっていく。
「何の話だ?」
「産まれてからずっと綺麗なものばかり見ているせいで世間とズレてるんですよ。歪な物の方が目新しく見える分、惹かれるんです」
「…だから俺がお前を好きになったと言いたいのか?」
「その要因もあるんじゃないかと。今凄くしっくり来てます。そりゃあんな綺麗で優しいお姉さんが居て、毎年こんな壮大な自然に触れていたら、ちょっとやそっとじゃ心は動かされないですもんね」
くん、と引かれた右手の強さは優しいものなのに、両腕に込められた力は息苦しい。
「冨岡先生、250万の危機がそこまでやってきてますよ」
「お前がふざけた事を言うからだ」
「ふざけてはないですし、純然たる事実を導き出したと思うんですが」
「名前は歪んでない。何ひとつ、何処を取っても完璧だ。これ以上に美しいものはない」
「感覚の相違なのはわかってますけどそれは流石に言い過ぎです」
「言い過ぎじゃない。まだわからないのか?お前は自分で思うより値打ちがある。まだ俺しかその真価に気付いていないだけだ」
「そうですか。まぁ物に対する値打ちなんてそれこそ人それぞれですしね」
「このまま誰にも知られたくない。俺だけがわかっていればそれで良い。やはりこの着物は俺が買い取ろう。お前には今すぐ俺のものになって貰う。でなければ駄目だ。今もその価値に気付いた人間が群がって来ている」
冨岡先生の言葉に、僅かに顔を外側へ動かしたのは数秒。
居たたまれずその腕の中へ視線を戻した。
「確かに寄っては来てますがそれこそ野次馬根性ですね。お願いですので離していただけませんか?私今一応"着桜"役という責任があるんですよ」
「嫌だ。これ以上名前を性的に消費させてたまるか。お前だって本当は今すぐその任を降りたい、そう考えている筈だ」
「…それは、そうなんですけど…」
ふと、あの女の子の泣きそうな顔を思い出してしまう。
「冨岡先生。言いましたよね?私は、背負うと決めたものを放棄しない、と」
「それとこれとは話が違う」
「いいえ。違いはありません。これは私に与えられた仕事です。やらなきゃいけない事があるならそれをこなしていくだけです」
何も答えないものの、更に強くなる腕が苦しい。
「…それに今私が降りたら、蔦子さんに多大なご迷惑が掛かりますよ」
「どういう事だ?」
「去年まで"着桜"役は蔦子さんが担ってたんですよね?でも今年からお子さんが産まれたので辞退したいと申し出た。そんな中私が今辞めたらどうなると思います?」
言いたい事が伝わったのだろう。
弛んだ両手からそっと抜け出した。
「冨岡先生は元が破滅型ですけど、状況分析はお得意なんですから、深呼吸して冷静に考えましょうね」
「今日1日我慢したら褒美はあるのか?」
その言葉に今この時も散っていく桜を眺めながら考える。
「此処って夜もライトアップされてるんですよね?」
「…そうだが?」
「そしたら一緒にお花見、します?」
折り合いを付けるには少し弱いかな、と思うけども、正直それ位しか思い付かない。
却下された時のため、他に何か案はないかと巡らせる思考は
「…する」
短い受諾によって止まった。


good boy


「…では頑張りましょうね。お互いに」
「わかった」
差し出された左掌の意味を理解して、そっと指を置く。
下流から中流に向かうに従って段々と悪くなる足場と履き慣れない底が厚い草履に、時折バランスを崩しそうになるのを、その左手が支えてくれた。
漂う焼きそばの香ばしい匂いに美味しそうだな、と考える。
「この露店は夜もあるんですか?」
「あぁ、夜桜のライトが消えるまでは出ている」
「そうなんですね」
それならこれを着替えた後で何か買おう。
何が良いかな、と時折露店へ目を向けていた所で、見物客と目が合った。
好奇に満ちた瞳にすぐ視線を逸らすも
「あ、あれ"着桜"じゃね?」
「マジだ!やっべ俺初めて見た!」
「写真撮って貰おうぜ!?」
興味本位で近付こうとしてくる3人組に、冨岡先生の無言の威嚇が突き刺さる。
横に居るだけの私ですらその圧に息を呑む位なのに、向けられている彼らの心情は如何ほどか。
すぐに身を怯ませると去っていく背中に安堵の溜め息を吐いた。
「…わぁ、素敵〜」
そう言ってスマホを向けてくる人々にも怒りの眼差しを向けていくお陰で、全部ではないけれど撮られるのも最低限で済んでいる。
怒気を放ち続ける冨岡先生に、つい小さく笑ってしまった。
「有能な番犬ですね」
「当たり前だ」
「大丈夫ですか?疲れません?」
「問題ない。こうして名前に触れている故すぐに英気は養われる」
ギュッと掴まれた指先の力も一瞬で、私が歩きやすくなるよう配慮なのか、すぐに弛まる。
「こんなものでも役に立つんですか?」
「お前の何処かしらに触れていれば満たされる」
「…じゃあ手を繋いでいればそれ以上の事は必要ないんでは…?」
「それは無理だ。精神的に満たされても本能がそれだけでは我慢出来ない」
「…そうですか」
まぁ、そこら辺は冨岡先生じゃなくても、世の男性はそうなんだろうというのは、何となくわからなくもない。
また無言で歩き始める事数分、漸く遠目に見える紅白の大型テントに息を吐いた。
「…思ったんですけど…」
「何だ?」
「どうしてこんな班ごとの拠点が遠いんですか?」
「それは俺に訊かれても知らない。ただ千本桜祭りの会場は全長で5km以上ある。推測するに管轄を均等化するためじゃないか?」
「…5km…。もしかして端から端まで行かなきゃいけないんですか…?」
「いや、見た限りだが姉はそこまでやっていなかった」
「そうですか。それなら良いんですけど…」
流石にこの恰好で5km歩けと言われたら仕事だろうが断る選択肢を選ぶ。
テントの下、長机とパイプ椅子が置かれた空間に、結構なお年を召した男性陣がガヤガヤと盛り上がっているのを視界に入れた。

「蔦子ちゃ〜ん!こっちもお酌頼むよ〜」

プラスチックのコップを片手に、上機嫌な様子と瓶ビールを両手で抱えながらテーブルを行き来する蔦子さん。
笑顔を崩していないが、明らかに疲れているのが伝わってくる。
胸元には抱っこ紐に収まりながらキョトンとした小さな存在が在った。
思い切り眉間に皺を寄せたのは数秒。
冨岡先生の手を放すと恐らく瓶が入っているであろう大型のクーラーボックスの前にしゃがむ。
当たり前に私の存在に気付いた男性陣が
「お〜!待ってました!"着桜"〜!」
「今年は渋いねぇ!」
煽るように大声と口笛を吹くのも気にせず本数と人数を確認していく。
「まさかこいつらに酌をする気じゃないだろうな?」
同じように横にしゃがみ込む右手が制止しようとしてくるのを避けた。
「そのまさかです」
「駄目だ。させない」
「仕事です」
「それはお前がしなくても良い事だ。必要がない」
「…そうです。良くわかってるじゃないですか。だからこそするんですよ。冨岡先生は蔦子さんの事をお願いします」
向けられる疑心の瞳に瓶を開けながら苦笑いを返す。
「私がニコニコとお酌するような人間に見えますか?」
「どちらかと言えば食って掛かっていくように見える」
「大正解です」
ひとまず3本分を抱えると立ち上がった。
「どうぞ」
一番端に居る人物から片手で瓶を傾けていく。
「オイオイ、今年の"着桜"はなっちゃいないねぇ」
「…そうですか」
流れ作業のように注いでいく私に掛けられるのは
「お酌する時は両手だろ〜?」
「泡だらけだよ姉ちゃん」
「こうやって斜めにするんだよ?」
「笑顔のひとつもないのか〜?」
揶揄する言葉。
淡々とこなしていきながら途中
「…義勇?どうしたの?こんな所に来るなんて珍しいじゃない」
「どうしたも何も呼んだのはそっちだろう」
「…あ、そうだ、ごめんね。急いでたからLINE送るのすっかり忘れてた…」
冨岡姉弟の会話を耳に入れた。
1本目を空にした所で湧き上がる不満混じりのからかいに依って、集まった全員分の注目を浴びた事を確認し口を開く。

「皆さんに娘さんはいらっしゃいますか?」

全員に響くかどうか保障はないけれど、多分、一部分には効くであろうと続けた。

「私には父親が居ます。当たり前ですけどね。恐らく世代的には皆さんと同じです」
そう言いながら、流れ作業のお酌を再開させた。
両手で斜めから?
そんなもの一切、無視を貫いてやる。
「20歳になった時、初めてこうやってお酒を注いだんですよ。そしたら父は泡だらけのグラスを見て、嬉しいと声を震わせて泣いてました」
雰囲気が変わったのを肌で感じながら、流れ作業を続けてく。
「今此処で、娘である私がこうして心ない言葉を浴びせられていると知ったら、父は違う意味で泣くでしょうね」
2本目を空にした所でテーブルに置くと最後の1本を両手に持った。
「私の今の話を理解していただけた方は優しい心を持った方です」
まぁ、作り話なんだけど。
何人かが酌を断ってくるのを会釈で返す。
「…何だこの偉そうな小娘!」
「やっぱさぁ蔦子ちゃんじゃないと駄目だよなぁ」
「今の若いのは忍耐が足らねぇよ」
次々と口にする不満に冨岡先生が動こうとしたのを気配で感じて視線だけで制した。
「理解が出来ない方が悪いとは言っておりません。今までの人生で培われたものがあるのでしょう。女性はこうあるべきもの、長年染み付いたその価値観を変えろという方が難しいと日々感じております」
無意識の内に蔦子さんへ、いや、その身体に収まる小さな存在に目をやる。

「時に皆さんは、出産後の女性の身体がどのような状態かご存知ですか?」

これに答えられる人は居ないだろうと思い、早々に答えを出そうとするも
「交通事故で喩えるならば全治まで半年を要するという記事を見た記憶がある」
想定していなかった人物の回答と、その事実に男性陣の視線が冨岡姉弟に向けられる。
「個人差はありますが、概ねはそうです。私は実際に経験をした訳ではありませんし、あくまで知識として頭に入っているものでしかありませんが」
一度言葉を切ると、十年以上の記憶を巡らせた。
「生後4ヶ月の赤ちゃんを抱えた人間に、通常、精神的にも体力的にも他人のために動く余力はありません。それでも蔦子さんは、皆さんに喜んで欲しいとその身を削っていらっしゃいます」
また雰囲気が変化したのを感じて、注いでいた手を止める。
「此処におられる方々は、この美しい景色と共に人生を送ってこられた事と存じます。桜の花言葉と同じ、皆さんにも"精神の美しさ"が宿っていられる事でしょう」
全体を見渡しながら、ゆっくりと続けた。
「同じように、これからの未来を担う、まだ何にも染まっていない純粋な瞳にも、美しい世界を見せてあげたいと思いませんか?」
私の言葉を理解をしたのか、数名が蔦子さんに護られるように抱かれている小さな赤ちゃんへと視線を向けた事で、感化されたように全員が視線を向ける。
「価値観は時代と共に変化をしていきます。出来れば先人の皆様方には、その変化を寛容な精神でお認めいただきたい。此処におられる方々は、その時代変化さえも楽しんでいただける聡明な方々だとお見受けします」

3本目を注ぎ終わった所で静かにテーブルへ置いた。

「そ、そうだよなぁ。今時女はどうこうって流行んねぇよなぁ!娘も言ってたわ!」
比較的若年であろう方がそう言うと次第に同調していく空気を感じる。

「ごめんよ、蔦子ちゃん。いっつも甘えてばっかりだったよなぁ」
「蔦子ちゃんもこっち座って!呑もう!おじさんで良ければお酌するからさぁ」
「お前の酌なんて誰も喜ばねぇっつの!」
わはは、と豪快に笑う男性陣に、小さく息を吐くと踵を返そうとした所で
「"着桜"ちゃんも一緒に呑むか!おじさん気に入ったよ〜!その負けん気の強さ!いやぁカッコイイねぇ!」
そう声を掛けられて、会釈を返した。
「いえ、私は結構です」
向けられる圧が強い気がするので、早めに此処を離れる事にしよう。
と言ってもコンテナハウスには戻れないし、どうしようかと思いながらもひとまず蔦子さんの元へ向かった。

「大丈夫ですか?顔色が優れないように見えます」
「…ありがとう。実はちょっと…最近夜泣きが酷くて…余り寝てなかったものだから…。苗字さんが来てくれて助かったわ」
力なく笑うその表情に、少し胸が痛む。
私が最初から"着桜"役をしていれば、蔦子さんに背負わせずに済んだのに、と。
「蔦子さんは着付けのために呼ばれたんですよね?」
「えぇ」
「でしたら仕事は済んだ筈です。お帰りいただいて…赤ちゃんが居る身ではゆっくりとはいかないでしょうが、少しでも休んでください」
冨岡先生へ目配せをすれば、意味は伝わったらしいが、険しい顔をするものだから、自然と蔦子さんへ戻した。
「ありがとう。でも大丈夫よ。それに私、ずっと教務主任さんとお話してみたいなって思ってたの」
言葉の意味がわからず、瞬きが多くなって私に、蔦子さんはにっこりと綺麗な笑顔を見せる。

「ご挨拶が遅れちゃったわね。いつも弟がお世話になっています。姉の蔦子と申します」

深々と下げられる頭に倣った。
「こちらこそいつもお世話になっております。キメツ学園で教務主任をしています、苗字名前と申します」
「この子から"教務主任"さんの事は聞いていてたから、何だか初めて会ったって感じがしないわね」

ふふ、と小さく笑う蔦子さんからその弟へ目線を向ければ何故か不自然に逸らされて、一抹の不安が襲ってきた。


余計な事を吹き込んでない?


(でも女性だったのはビックリしたわぁ。しかもとっても綺麗な人)
(そうだろう?)
(…もしかして蔦子さんも美的感覚が…)


[ 95/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×