good boy | ナノ

「ちょっとトイレに行ってきて良い?」

焼きそばを食べ終わった後、申し訳なさそうに言う蔦子さんを二つ返事で見送った後、未だスヤスヤと眠っている表情を眺める。
もう一度頬に触れさせて貰っても良いかな、と右手を動かそうとした所でグッと後ろに圧し掛かる重さと首元に回される両腕に息を止めた。
「…何してるんですか」
「名前を癒している」
「珍しいですね。ご自分が癒されるためじゃないんですか?」
「子供が好きなのか?」
また脈絡もない質問を飛ばしてくるな。
「好きか嫌いかで言えば好きです。特に赤ちゃんは無条件に可愛いですし癒されますよね」
そう言った途端、絞まる力強さに眉を寄せた。
「おかしい。お前を癒せるのは俺だけの筈だ」
「…何もおかしくはないかと思いますよ。だからさっき怒ってたんですか?」
「俺にも見せた事のない表情でそいつを見ていた」
「…そいつって、冨岡先生の」
言い掛けてから、この子が男の子なのか女の子なのか把握していない事に気付く。
服装と色から察しようにも緑のロンパースというのはまた微妙なラインだ。
「姪か甥にあたる子ですよ。その言い方は流石にどうかと…」
「甥だ」
「男の子なんですね」
今見る限りでも、凄く顔が整っている。
きっとこれから顔面偏差値が高い子に育つのだろう。
蔦子さんの旦那さんは当たり前に存じ上げないが、間違いないと言える。
「そういえば…、さっきの回答、良くご存知でしたね」
思い出した光景にそのまま口にすれば、言葉が足りなかった事で間が空いたものの
「調べた事がある」
短い答えに、あぁ、お姉さんのためにだろうな、という推測が出来た。
それをわざわざ口にするのは野暮だ、と噤んだ事で
「…そうか。名前も子供が欲しいんだな?」
斜め上をいく台詞に眉を寄せる。
「何処でどうなってそこの着地点に至ったのかが全く以て不明ですが、欲しいとは微塵も思っていません」
人が真面目に答えてるのに項へ這う口唇に反応してしまった肩のせいで
「…ふぇ…」
小さく聞こえる寝言にも泣き声にも聞こえるそれに更に眉間を寄せた。
正直この子の事を全く知らないため、泣かれても完璧にあやせる自信がない。
自然と泣き出すのは一向に構わないが、こちらのせいで泣かせてしまうのは申し訳がなさすぎる。
せめて蔦子さんが戻ってくるまでは…。
「冨岡先生、駄目ですよやめてください。この子が起きそうです」
声を潜めた事で離れた口唇が右耳に移動してきた。
「赤ん坊で癒されるのなら俺との子を作れば良い」
囁く声に鼓動が速くなる。
「手放しで癒されるのはあくまで第三者だからなんですよ。今の所、当事者になるつもりはありません」
「俺との時間を大事にしたいという事か。可愛いな」
「蔦子さん遅いですね。大丈夫でしょうか?だいぶ疲れていらっしゃいましたし、美人さんだから変な人に絡まれたりしてないと良いんですが…」
「……。見てくる」
そう言うや否やすぐに手を放すと蔦子さんが向かった先を追いかける冨岡先生の背中が微笑ましい、素直にそう思った。


good boy


「ごめんなさい、思ったより混んでて…大丈夫?泣いたりしてない?」
共に戻ってきた蔦子さんが心底申し訳なさそうに両手を合わせてくるものだから、隣の仏頂面と比較してしまって、面白いと感じる。
「いえ、安心して眠ってくれていたものですから、時間も忘れて見入っていました」
何か言いたそうな冨岡弟の顔は見ない、知らない。
多分この表情は、反射的に蔦子さんの元へ向かった所で私に上手く誘導された事に気付いたんだろう。
先程の言葉に、そういうつもりは全くなく、純粋に気掛かりを口にしただけなんだけども、今日この場においてはお姉さんの存在をお借りする事で回避や牽制が出来るかも知れない、とは学んだ。

「ありがとう。名前さん。とても助かったわ」

少しは力になれただろうか。
笑顔に戻った蔦子さんの両腕へその存在をお返しする。
軽くなった自分の腕に若干の侘しさが沸いた。
慣れた手つきで抱っこ紐を装着していくと後ろのバックルを止めようとする動きに、手伝おうと一歩踏み込むより早く、冨岡先生の手がそれを止めていく。
「ありがとう」
何か、凄く…
固まったままで姉弟を見つめる私に、その群青色が向けられた。
「…どうした?」
「いえ、何でもないです」
…言えない。
冨岡先生が凄くカッコよく見えてしまった、なんて。
というか、この姉弟はそれこそ芸術品のように綺麗だ。
おまけに桜と菜の花という風景と癒しの赤ん坊という存在もプラスされて、完璧に目の保養しかない。
これはとても役得と言えるかも。
そう考えながら開ける事のなかった水と焼きそばが入った袋を持とうとした所で右手が掻っ攫っていく。
反応が速い、と考えた所で目の前に差し出される左手に、迷いつつも右手を乗せた。
微笑ましそうに微笑っている蔦子さんに何となく、言いようのない申し訳なさも感じる。
このまま私達が付き合っていると勘違いさせたままは良くない。
何処かでタイミングを見て話そう。
でも、何て言ったら良いのだろうか…?
恋人ではないけど、犬として飼ってます、なんてそれこそ言えない。
馬鹿正直に話すよりかは、そういう事にしておいた方が都合が…良いのは冨岡先生にとっての話で、私には圧倒的に不利だ。
もしこれでご実家に挨拶、なんて事になったら…
「そうだ。今度うちに遊びに来ない?名前さんの話したら父と母も絶対会いたがるし」
ほら、なってしまったじゃないか…。
此処で私が断れば角が立つし、冨岡先生がこんなチャンス逃す訳
「まだ付き合ったばかりだ。名前に無理はさせたくない」
珍しく逃してくれた…。
思わず視線を上げれば、優しさで満ちた瞳で見つめてくる。
「姉さんの気持ちもわかるが、結婚は俺達がするものだ。2人でゆっくり考えていきたい。然るべき時が来たら、父さんと母さんにも紹介するつもりでいる」
凄く良い事言ってる風なんだけど、その前提が全くないのが問題だ。
「そうね、それが良いわ。じゃあ私もその時まで2人には秘密にしておこうかな」
「そこまでしなくても良い。名前の存在は伝えて貰って構わない」
「そう?でも、どうせなら突然紹介して驚いた所見たいじゃない?」
ふふ、と小さく笑う蔦子さんは何処か悪戯っ子のよう。
可愛らしいな、と思いながら視線を向けた瞬間、目が合って、その大きな瞳が何度か瞬きをした。
「…あ、名前さんにとっては人生を左右する大事な話よね。ごめんなさい、からかってる訳じゃないの。ただこの子が誰かとお付き合いするなんて、ちょっと信じられなくて…」
「…いえ。そのお気持ちはわかります」
私がもしも冨岡先生の姉だったら、同じ事を思うだろう。

大丈夫なの?と。

弟本人ではなく、その相手となる女性が。
これまでの冨岡姉弟の全てを見ている訳ではないにしても、この人の性格から察するに、肉親の前でも何かしら違う意味で暴走しているであろう事は容易に窺える。
「姉さんは心配し過ぎだ」
「義勇が心配掛け過ぎなの」
ピシャリと言い退けた蔦子さんに、グッと押し黙る横顔に、力関係が見えた気がした。
どう頑張っても、お姉さんに頭が上がらないんだろうな。
お姉さん想いだっていうのは、これまでの言葉の端々で伝わってきていたけど、こうやって改めて目の当たりにすると、それがちょっと可愛いとも感じた。

冨岡先生らしいと言えばらしいし、らしくないと言えばらしくない。

それは、実習生の彼女の姉妹関係について繋がっていく何かがある気がする。
肉親に見せる顔と、外へ向ける顔は何処か異なっていて当然だ。
彼女は、社交的になれない自分が嫌いだから、恐らく正反対の姉に憧れを抱いて、真似をしている。

でも、
それだけで簡単に片付けられる?
なりたいから演じた。
それで、心は満たされる?

答えはノーだ。

足を止めた事で向けられる視線には気が付いたけれど、その疑問に答えるより早く手を放し帯からスマホを取り出すとLINEを開く。
蝶のアイコンをタップして耳に当てた。
数回の呼び出しで
『もしもし?どうしたの?苗字先生』
聞こえた可愛らしい声に、やっぱり癒しだなと思いながら口を開く。
「お忙しい所突然すみません、お訊きしたいのですが、LINEで実習生の彼女が胡蝶先生のお宅にお邪魔するという話が上がっていましたが、その後どうなりましたか?」
内容が突然過ぎたのか、向こう側で暫し沈黙が流れた。
『…実はその日に今度のお休みにどう?って個人LINEで誘ってみたのだけど…』
言葉を切るとまた考えるような間に、黙って次の言葉を待つ。
恐らくは…
『今も未読のまま、何も返ってこないの』
勝手に寄る眉間の皺もこの際、放っておく。
胡蝶先生は、世の処世術を自然と身に付けているけれど、中途半端な社交辞令は言わない人だ。
だから彼女が断ったか、うやむやにしたか、そう予測していたのに、まさかの未読無視とは…。
『もしかして私、何かしてしまったのかしら…?』
消沈していく声色に悲しそうな表情を想像してしまって胸が痛む。
「胡蝶先生が何かをした訳ではなく、私のせいでとばっちりに遭っているのだと思います。申し訳ありません」
『そんな…苗字先生のせいじゃないわ』
「…ありがとうございます」
そう言って視線を落とした先、覗き込んでくる冨岡先生の顔に、考えていたものを全部持っていかれそうになるのを何とか堪える。
『苗字先生、大丈夫…?』
ひしひしと伝わるその優しさに、顔が見えないのはわかっているけど、口角を上げた。
「大丈夫です」
『無理はしないでね?』
昨日の事を訊かないでくれているのは、優しさなのだろう。
「はい。すみません、お休みの所失礼しました」
二、三言葉を交わして通話を切る。
未だ覗き込んでくるその顔から避けるため後ろに身を引いた。
「今度は何だ?何の自虐だ?」
「自虐じゃないです。浮かんだ仮定を確固たるものにしようとしただけですよ」
「その仮定とは何だ?」
表情から察するに、今答えないと引かないだろう。
「彼女は…、自分の姉になりたいんじゃなくて…」
いや、この話は蔦子さんとご子息の前でする話じゃない。
「あとで話します」
私の視線の動きで察したのか、また差し出してくる左手に黙って応じた。


漸く戻ってこられたコンテナハウス。
その横の大型テントには何人か居るものの、冨岡姉弟の見知った人物ではないらしく、特に何も接触もなくその中に入ると扉を閉めた。
まだ深い眠りに入っているその子を抱っこ紐から下ろすと、持参したタオルケットで簡易的に作った寝床に寝かせようとする蔦子さんを見て、冨岡先生の袖を軽く引っ張る。
「このコンテナって布団とか、その代わりになるものとかあります?」
声を忍ばせながらそう言えば、驚いた後、嬉々としたものに変わっていくものだから眉を寄せた。
「蔦子さんを休ませたいんです。床に寝るのは流石に身体に負担を掛けますし、何かないかと思ったんですが」
「わかった。待ってろ」
言い終わらない内に扉を開けると
「戻るまで鍵はしておけ」
それだけ言って閉められ、迷ったものの言う通り内鍵を掛ける。

「あら?義勇は?」
声量を抑えながらも発せられる質問に
「ちょっと用事が出来たみたいです」
こちらも声を抑えながら答えた。
何処に行ったのかはわからないけど、多分そんなに時間を掛けず戻ってくるだろう。
短く返事をして椅子に腰掛ける蔦子さんの
「名前さんも座って?」
その言葉に同じように腰を下ろした。
「ちょっと待ってて。お茶淹れるから」
「いえ、お構いなく」
「大丈夫?さっきから水分も摂ってないし…」
眉を下げる蔦子さんに、良く見ていらっしゃるなと考える。
「着崩れを気にしてるなら、私が直すから大丈夫よ」
そう言ってお茶を3人分淹れる動作を見つめながら、言葉の意味を考えた。
「いえ、お手洗いもそうなんですが…」
蔦子さんは毎年このプレッシャーに耐えてきた。
そう思うと改めて感嘆しか出て来ない。
「もし万一にもこの着物を破損させたらと思うと気が気じゃなく、抽選会が終了するまではむやみな行動は取らないようにしています」
「…もしかして"着桜"の風習を聞いたの?」
「はい」
「そっかぁ。そうなのね。だからさっきも食べないであの子を抱っこしてくれたの…」
しみじみと言う蔦子さんにまた気負わせてはいけないと
「それは私が本当にしたかったからです。他意はありません」
はっきりとそう返す。
ふふ、と微笑った意味まではわからないけれど、その表情は穏やかで安心はした。
「その風習なんだけど…」

ト、ト

短く聞こえる合図に立ち上がると扉を開ければ
、座布団を5枚抱えた冨岡先生が居る。
「持ってきた」
「ありがとうごさいます。何処にあったんですか?それ」
「隣の班だ」
「許可取って借りて来ました?」
「声は掛けてきた」
「偉いですね」
あぁ、つい蔦子さんの前で言ってしまった…。
素早く座布団を並べていく冨岡先生をその目が不思議そうに見ている。
「どうしたの?」
「名前が姉さんを休ませたいと言うので持ってきた」
「…え?でも…」
「今の内に少しでも横になってください。眠れなくても少しはマシな筈です」
私の言葉と共に、タオルケットを差し出す冨岡先生の手元に視線を落とすと
「…ありがとう。じゃあ…」
迷いながらもそれを受け取った。
横で眠る小さな存在を起こさないようにそっと横になる蔦子さんに、外に出た方が良いかと考えた所で、椅子に座る冨岡先生の視線を受け、その斜め左側へ静かに腰を下ろす。
先程淹れたお茶を一口飲むのを何の気なしに見つめた。

「…スー…スー…」

すぐに小さく聞こえる2人分の寝息に、そちらへ視線を向ければ、蔦子さんの穏やかな寝顔が見える。
寝付きの早さに相当疲弊していたのだろうというのが伝わってきて、少し胸が痛んだ。


少しでも元気になって欲しい


(…もう寝ちゃいましたね)
(そうだな。やっと2人きりになれた)
(2人きりにはなってないです)


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