「避けるな。こっちを向け」 顔を覗き込んでこようとする動きに合わせて悉く反対側へ逸らし凌いだのも数十秒。 触れてこようとする右手に気付いて、顔をそちらへ向けた。 「すみません、触らないでくれますか」 完全に見つめ合った事で、その瞳が驚きから嬉々とした物へと変わっていく。 「やはり名前だ…何故こんなヤクザの女房みたいな恰好をしている?」 「喩えが最悪なんですけど…。何って仕事ですよ」 「悪い意味じゃない。最高の褒め言葉だ。その佇まいは凛とした色気があるが、誰も近付けさせない女傑の気概を感じさせる。これは悪女名前に通ずるものだ」 「…ホントに悪女がお好きなようで…」 「スイマセ〜ン、写真…」 あぁ、そうだ。この方の事を忘れてた。 返事をする前に、渡されたカメラを突き返す冨岡先生に群青より薄い青色の目が驚いている。 「駄目だ。名前は撮らせない」 「…冨岡先生」 「ン〜?ナンデデスカ〜?」 「名前は俺のものだからだ。得体の知れぬ、ましてや男になど撮られてたまるか」 「Oh!」 掌を上に向けると肩を竦める動きに、外人さんだなぁ、とまた当たり前の事を考えた。 英語で怒鳴られたら迫力ありそうだと一瞬身構えるも 「コイビト!?」 今度は冨岡先生と私を交互に指差す。 「そうだ」 「違います」 間が出来て眼力だけを向けてもその涼しい顔は崩れない。 「Then I'll take a picture of them.OK?」 流暢な英語に、辛うじてピクチャーという単語が聞き取れたのと写真を撮るジェスチャーの後、寄るように両手を動かした事で意味を悟る。 「それなら受け入れよう」 急に肩を抱いてくる左手と向けられるカメラに能面になるしかない。 というか本当に触れないで欲しいんだけども。 250万が…。 何枚かカシャカシャとシャッター音が響いた後 「So beautiful!」 グッと立てられる親指。 何故か冨岡先生も返してるし。 この人意外にこういう変な所で社交的なんだよな。 「Do you have a smartphone?データ送リマ〜ス」 言う通りにポケットからそれを出すと仲良くやりとりを始める姿に、これは逃げるチャンスだと気付かれないように2歩進んだ所で呆気なく袖を掴まれて血の気が引いた。 何故ってその力強さと、後ろに転びそうになったという恐怖で。 この人と一緒に居るのは危険過ぎる。 いや、いつも割と危険は危険なんだけど、今はそっちじゃなくて、250万損失という一大事だ。 早々に逃げなくてはいけない。 good boy 「good bye!」 手を振ると満面の笑みで去っていく男性に冨岡先生は無表情ながらも小さく手を振り返している。 「離してください」 スッと左手から解放された袖をまじまじと見て、破れていないか確認した。 「良いんですか?見ず知らずの人間からデータなんて貰って…。ウイルス送られたり個人情報抜かれたりするかも知れないですよ?」 「相変わらず警戒心が強いな。心配ない」 スマホの画面から顔を上げないで答える冨岡先生を訝し気に見る。 何かを操作した後、綻ぶ口元に更に眉を寄せた。 「何ニヤニヤしてるんですか…?」 「…最高だ」 また自分の世界に入ってしまったようなので、勝手にその手元を覗き込む。 画面に表示されるのは、先程の男性が撮った私のワンショット。 これも送って貰ってたのか…。 しかも… 「ロック画面じゃないですか。誰に見られるかわかったものじゃないんでやめてください」 「やめない」 それだけ言うとロックを解除する指。 冨岡先生とのツーショットが出てきた。 「…良い」 「何ひとつとして良くないんですけど…」 「名前も同じ設定にしないか?今データを送る」 「いえ、お断りします。データも要りません」 「…そうか。ロック画面が名前1人だとそれに惚れる輩が出てくる可能性もあるな。俺との写真にした方が牽制出来るか…」 真剣に悩み始めた姿は、もう慣れてると言えば慣れてるので放置して話を切り出す。 「そういえば冨岡先生はどうして此処に居るんですか?」 「実家に行っていた」 「ご実家はこの近くなんですか?」 「あぁ、此処から目と鼻の先にある」 「そうだったんですね。それは知りませんでした」 ふと気付いた好奇の目に、此処で留まっているのは得策じゃないと足を動かした。 「ひとまず歩きながら話しましょうか」 「…その着物はどうにかならないのか?」 並んで歩き出す横顔に視線を向ける。 「どうにか、とはどういう意味合いですか?」 「脱げないのか?という意味だ。先程からお前に対する視線に耐えられない」 「すみません。それは私も感じています。物珍しいんでしょうね」 「物珍しさから来るものじゃない。明らかに名前を恋慕と情欲の目で見ている」 「それはご自分が常にそう見ているから、同じように見ているのではないかと疑心暗鬼に陥っているだけに思えます」 「違う。今この場は邪な心ばかりが蔓延っている。それは確実だ」 突然目の前に立ち塞がったかと思えば肩を掴んでくる両手と真剣な眼差しに身を引くのを忘れてしまった。 「また自虐を極めてるのか?」 「…どうしてそう思うんですか?」 「いつものお前ならこんな人前で目立つような真似は絶対にしない。何があった?」 「ですから、仕事だからですよ。ご実家がこの辺りなら"着桜"の風習も耳にしている筈だと思いますが?」 「聞いた事はある。それをお前がやらされているという事か」 「そうです。説明すると長くなりますが、色々ありまして…ひとまず抽選会が終わるまでですし…」 「だからお前は、あの時…」 「何ですか?」 放した両手は"着桜"の意味を理解してのものなのかはわからない。 「覚えてるか?」 「…全くわからないので続きをお話ください」 「俺が昨日祭りに行きたいと言った時、お前は言った。"そんな所でもやっているのか"と。その"も"がずっと気になっていたが、今漸く答えが出た」 「そんな事言ってました?」 「言っていた」 記憶がないものの、その絶妙なニュアンスを汲み取る察知能力は凄いと言える。 昨日の私は気を抜いていたのかも知れない。 言葉の端々の弛みはいつか命取りになりそうだ。 「…無駄足だと思ったが…やはり此処に来て良かった…」 そう呟くとまた横に並んで歩く姿に浮かんだ疑問を訊いても良いのか視線を向けた所で目が合う。 また突然立ち止まった冨岡先生に、つられて足を止めれば 「まるで芸術品のように綺麗だ」 真剣な眼差しに心臓が脈打った。 それがお世辞ではない事がわかるから、妙に照れ臭くなってしまう。 「…それは分厚いフィルターのお陰ですね」 「完璧に綺麗だからこそ俺の手でめちゃくちゃに乱したくなる」 「ホントにやめてください。私が借金地獄に堕ちます」 「…借金地獄…?何故だ?どちらかと言えば取り立てる方が似合っている」 「その極妻のイメージもやめていただけませんか?着桜の風習ご存知ないんですか?この着物に万が一の事があったら責任取らなきゃいけないんですよ」 「そんな話もあったな。お前がそこまで脅えるという事は…高額なのか?」 「250万円です」 「………」 流石の冨岡先生も絶句したかと思いきや 「250万か…嫁入り道具として考えれば高くもないな…何年で払い終えるか…」 良くわからない事をブツブツ言い始めてる。 「…何で買い取る方向で考えてるんですか…」 「極妻名前を好きな時、かつ独り占め出来ると思えば借金を背負うのも悪くない。250万の価値は大いにある」 「冨岡先生、そういうの何て言うか知ってます?」 「何だ?」 「自己破滅型です。そうやって一時の欲で方向性を見誤ると一気に人生詰みますよ」 冗談で言ってるならまだしも、この人の場合、本気だから恐ろしいし始末に負えない。 「だからこそ見誤らぬよう、俺の傍には名前が居る」 言い切る横顔に、何とも言えない表情をしてしまう。 「じゃあ極妻は諦めましょうね。借金背負った犬は飼えませんから」 納得したのか、何も言わなくなった事で沈黙が続く。 相変わらず向けられる好奇の視線に居たたまれず下を向いたと同時に伸びてきた手を指先を攫っていって、眉が寄った。 しかし私が口を開く前に 「歩き辛いだろう。転んだら事だ」 優しい声色で発せられる気遣いに、それを噤む。 まるでエスコートするように掌を貸してくれるその姿は紳士そのもので、鼓動が速くなってしまった。 コンテナハウスまで着いてから離れた手に、軽く頭を下げる。 「ありがとうございました。それでは」 とにかく抽選会までは此処に籠城させて貰うとしよう。 出来る限り外には出ない。 そう決めて扉を開けた所、蔦子さんも出払ったのか帰宅したのか無人の空間に若干ホッとしたのも束の間、当たり前に上がり込もうとする姿へ振り返った。 「何してるんですか」 「靴を脱ごうとしている」 しれっとした顔にもう今更突っ込む気にもならない。 「此処、自治会員の人しか入っちゃいけないんですよ」 「実家はそうだ」 「あぁ、そっか、そうですね。それならまぁ…」 危ない。納得しかけてしまった。 「ご実家へのご用は済んだんですよね?」 「済んだ。というより実家へは徒労で終わったが、此処で極妻名前と邂逅出来た事で目的が出来た」 「何ですかその目的って」 「決まってる。お前の護衛だ」 「…言うと思いました」 この人がこの状況で大人しく帰ってくれるなんて微塵も、ホントにこれっぽっちも思ってなかったけれど。 そうなると此処に籠城も出来なくなるのが問題だ。 密室が出来るこの空間で2人きりというのはとてもマズイ。 だけど外をウロウロしてその他大勢の被写体にはなりたくないし、いつ威嚇からの喧嘩に発展するかわかったもんじゃない。 …参った。 此処は妥協してテントの下に籠らせて貰おう。 完全に人目に付かない訳じゃないけど、まだマシだ。 「わかりました。じゃああっちに行きましょうね」 「此処で良い。花粉も僅かながら凌げる」 犬は入っちゃいけない、と言い掛けて、これを言うとまた名前騒動に発展するので喉で止める。 その間に靴を脱いで上がり込むジャージ姿に溜め息を吐くしかなかった。 椅子に腰掛けるとテーブルの上に置いてある饅頭を取ると食べ始める横顔に、仕方ないと私も草履を脱ぐ。 「…お茶淹れましょうか?」 「良い。自分で淹れる」 「…珍しいですね」 「着物を汚す訳にはいかないのだろう?」 「…あぁ、そうでした」 マズイ。一瞬完全に意識の外に飛んでた。 気を引き締め直さないと。 コポコポと音を立てて、電子ポッドから急須へ注いでいくのを目端に捉えながら、その反対側、先程着付けをして貰った場所に置いたままの鞄の傍らに腰を下ろした。 「名前も飲むか?」 「いえ、結構です。お気遣いありがとございます」 今、何時だろう? 蔦子さんが帯に忍ばせてくれたスマホを取り出すと確認する。 まだ12時にもなっていない事に若干の絶望を感じた。 開けられたカーテンの先、僅かに見える桜の木を見上げる。 ふと、古今和歌集の句を思い出して、昔の人もこんな風に桜を見ていたのかな、と考えた。 彼女は、大丈夫だろうか…? 落とした視線の先、ぬっと覗き込んでくる群青色の瞳にドキッとしてしまった。 「また自虐を考えているのか?」 「…違います。桜が綺麗だなって思っただけですよ。初めて来ましたけど此処の風景は圧巻ですね」 「物心ついた時から見ているがそれ程興味はない」 「毎年観てたとか、正直ちょっと羨ましいです」 この時期になったら、また此処に来ようかな、と考える位だ。 勿論その時は1人の見物客として。 「どんな風景も名前には敵わない」 「…それは、どうもありがとうございます」 見つめてくる両目が伏し目がちになった事で近付いてくる口唇に気付き、顔ごと視線を逸らした。 「…キスくらいは良いだろう?」 「駄目です。着物云々の前にして良いなんて認めてませんからね?何当たり前に」 ガチャッ!と音を立てて開いた扉に反射的に冨岡先生を突き飛ばす。 「ほったらとこいでぇ。着桜の仕事ばどしたのぉ?」 「…仕事、ですか?」 あの子には何もしなくて良いと言われたけれど、何か重要な案件があったのだろうか? 立ち上がるとそちらへ向かう。 「何処に行けば?」 「あっぢよぉ。皆まってっぺぇ」 「わかりました」 草履を履く私についてこようとしている背後に感じ、振り向こうとした所で 「あん?」 おばあさんが身を乗り出したのを目端が捉えた。 「おんやぁ!こりゃぁ!義勇くんでねが!暫くぶりだっぺぇ!まぁまぁおっぎぐなっでぇ」 "義勇くん" その言い方に面食らってしまったけれど、そうか、此処は冨岡先生の地元だから、そうなるか、と1人で納得する。 「何ねぇ、けぇってきたがぁ?」 「帰ってきた訳じゃない。呼ばれたから来ただけだ」 「あぁ?」 更に身を乗り出すと耳に手を当てる動作をしたものの、何も返さない冨岡先生に慣れているのか下ろした手を外へ指差す。 「けぇってきたんならぁ蔦子ちゃんに挨拶すっぺぇ」 「此処に来てるのか?」 「あぁ!?」 また耳に手を当てるおばあさんに目を細める冨岡先生の表情で、多分いつもこんな感じなんだろうな、というのは想像が出来た。 「とにがぐ"着桜"の仕事せにゃぁよぉ」 いきなりこちらを向くものだから驚きで肩が震えたものの、すぐに小さく頷く。 「わかりました。向かいます」 「俺も行く」 そう言われるのは百も承知なので、特に返答はしないまま歩き出した。 「…冨岡先生、蔦子さんとお知り合いなんですか?」 浮かんだ疑問を右横へ投げ掛ければ、その目が見開いてる。 「何故名前が知っている?会ったのか?」 「会いました。というかこれを着付けてくれたのがその蔦子さんです」 「………っ!?」 声も出ない位に吃驚しているのは珍しい。 「そんなに驚く事ですか?」 「驚く所じゃない。まさか俺より早く名前の裸を姉が見るとは…羨ましいを通り越して妬ましい」 …今、なんて? 結構な衝撃的事実 (え?…蔦子さん、お姉さんなんですか…?) (そうだ) (全然…気が付きませんでした…) [ 94/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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