good boy | ナノ
「本当に今日は駄目なのか?」

グッと押し付けられる玄関の硬い感触と群青色から掛けられる圧。
「駄目です。玄関先までって職員室でも言ったじゃないですか」
距離を縮めてこようとする身体を両掌で制した。
下手したら一触即発になりそうな雰囲気に、目を逸らし続けるしかない。
昨日はともかく今日はどうしても冨岡先生の要求を呑む訳にはいかない。
連日そんな事をしていたら絶対にそれが癖になる上に寝不足の身で、また一晩中見張っていたらこの人の身が持たない。
そして多分、私も無事ではいられない。
それに何より、明日の仕事に付いてこられたら…。
どこをどう取っても問題だらけだ。

「わかった。ならば名を呼んで欲しい。そうしたら飼い犬として大人しく帰宅しよう」
「ポチ、ハウス」
「やはり気が変わった。このまま上がり込んで人間としてお前を抱く」
「冗談です。ホントにすみません。怒らないでください。どうどう」
ポチはどうも相当お気に召さないらしい。
でもこれで1回でも名前でなんて呼んだ日にはずっとそれが定着してしまうのは明白なので、それもどうにか回避しないといけない。

何かこう、妥協案はないものかと考えている間にも息が掛かりそうな位近付く距離に、筋が痛くなりそうな程、顔を逸らし続けた。


good boy


「…そういえば、冨岡先生。昨日の洗濯物、うちに置きっぱなしじゃないですか?」
ふと思い出した紙袋の存在を、特に何も考えず口にする。
「…忘れていた」
「スーツ、皺になっちゃいますよ。今持って来ますね」
「いや、良い。俺が取りに行く」
「そうされるとまた帰らないだの始まりそうなので困るんですけど…」
容易に先が読める展開に小さく溜め息を吐いたと同じタイミングで
「俺の下着が気になるのか?」
耳元で囁くものだから噎せ込みそうになってしまった。
「全くそういうつもりではないです」
そうは言ったものの、今朝方、その存在を一瞬目で捉えていたのを記憶している。
今私が取りに行ったら、必然的にそれをまた目にする事になる上に、見たという事実をこの人に与えてしまう。
それはそれでまた余計な攻防が始まるだけだと、覚悟を決めた。
「わかりました。取りに入るだけなら良いですよ」
こんなような台詞、毎回のように言ってる気がしなくもない。
私の言葉に、弛まった圧から離れると玄関の鍵を開けた。
「どうぞ」
五本指で誘導すれば、慣れた様子でダイニングの電気を点けると靴を脱いでいく。
洗面所の扉を開けて数秒、紙袋を片手に戻って来た姿が、大人しく靴を履き始めたものだから、今日はやけに引き際が良いな、と思ったのに
「見るか?」
広げようとする袋口に視線を逸らした。
「何で見せようとするんですか。全く微塵も見たくもないです。セクハラかつパワハラに近いですよそれ」
いや、もう既にセクハラの域は常に越えてるんだけども。
「ただの下着には興味が沸かないか。俺と同じだ。どんなにエロい下着であっても名前が着けなければ興奮しない」
「わかりました。もうお帰りください。それではまた月曜に同僚としてお会いしましょう。さようなら。お休みなさい。ちゃんと休んでくださいね」
そのまま部屋に入ろうと思ったけれど、今背中を向けるのは得策じゃないと先に冨岡先生が部屋に入るのを見送るためその場に留まった。
意図を理解したのか紙袋を片手に収めるとまた一歩距離を詰めてくる。
「寝る前の挨拶はしないのか?」
「…挨拶って…」
一瞬何の事だろうと首を傾げかけて、すぐに気が付く。
おやすみのキスだろうという意味を。
期待に満ち溢れている瞳につい眉間が寄ってしまう。
「もしかして私からするんですか?」
「昨日は俺からした。今日はお前からのキスが欲しい」
「朝しませんでした?」
「今日最後のキスも名前からのもので締めたい」
これは、冨岡先生なりの妥協案なのだろうか?
額にキスくらいなら、まぁ良いか…とか思ってしまってる分、だいぶ感覚が鈍くなってきてるな、とまた自覚する。
「…わかりました。屈んでください」
大人しく腰を落とすその前髪を掻き上げるとそっと口唇で触れるとすぐに離れた。
「言うのを忘れていた。額以外が良い」
「…忘れてたんじゃなくてわざとですよね?」
もはや確信犯だな、と思うけれど、再度期待の色を見せる群青色に見つめられ、険しい顔になりながらもその右頬にキスを落とす。
「これでおしまいです」
また要求がエスカレートする前に言葉を紡いだ。
自分の頬に触れると黙り込んでいるものの、その沈黙は不満から来るものではないらしい。
徐々に嬉々としていく表情に、いつももっと過激な事してるのに…というのは心の中だけ思う事にする。
「…頬にキスか。可愛いな」
「満足していただけました?」
「あぁ。今日はこれで良い」
「今日はって何ですか。日課にしようとか思わないでくださいね。昨日今日は特別ですよ」
「わかってる。この2日間の全ては褒美として受け取った」
動いた右手を警戒する前に、頬を撫でる指先がまつ毛に触れた。
「泣きたくなった時は遠慮せず俺の元へ来い。何時でも構わない」
「…だから泣きたくなる時なんて…」
見つめてくる瞳は柔らかく穏やかなもので、また口を噤んでしまう。
「…おやすみ、名前」
酷く優しい声でそんな事をいうものだから、506号室へ向かう背中を見つめながら一瞬固まってしまった。
「…お休み、なさい」
パタン、と音を立てて閉まった扉。
おやすみ、なんて冨岡先生が声として出したの、初めてな気がする。
そう考えながら、私も部屋に入ると扉を閉めた。


* * *


しん、と静まり返った部屋の中、シャワーを浴びて残っていたカレーを軽く食べる。
洗い物を終えたと同時に、回しておいた洗濯機が終了音を立てて、洗面所へ向かうと一枚のジャージを取り出した。
念のため匂いを嗅いでみると、少量の洗剤では影響しなかったのか、冨岡先生の匂いは変わらずに在る。
丁寧にハンガーへ掛けるとそれを干してから明日の準備をするためリビングに向かった所で、ここ最近余り電源を入れなくなった炬燵へ視線を落とした。
そろそろこれを片付ける頃合いだろう、と考えた所で冨岡先生の顔が浮かんで、つい勝手に頬が弛まる。
もう一度位なら炬燵でミカンという貸し出しも悪くないな、と思ってみたけれど、もうミカンの時期も終わった頃だ。
また今年の冬か。
そうしたら今度は今年最後の称号とか言い出したりするかも知れない。
いや、確実に言うと思う。
「そうだ、準備…」
出勤用とは違う鞄をクローゼットから取り出すと必要な物を詰めていく。
ポケットに入っていたスマホが軽快な電子音を告げて、誰だろう?と思いながらそれを取り出した。
煉獄先生の文字に、ドキッとしたものの軽く息を吐き通話ボタンを押す。
「お疲れ様です」
どうしました?と続ける前に
『苗字先生!!先程はすまなかった!!』
音量を最大にしている訳ではないのにそれより遥かに大きい受話音が響いて、反射的に耳を放した。
『あの子から話を聞いた!!どうやら苗字先生が羨ましかったらしい!!』
最小に下げてから耳に当て直す。
「…それは、どういう意味でしょうか?」
『うむ!!苗字先生のように冷静かつ落ち着いた女性に憧れている!しかし自分にはなるのが難しい!!そのような気持ちから苗字先生に当たってしまった!!そう言ってとても反省していた!!』
「…そうですか」
これは、どっちの彼女の言葉なのだろう?
『俺はその軋轢を知らなかった故、苗字先生、君の事を頭ごなしに責めてしまった!!とんだ早とちりであった!!すまない!!』
「…いえ、煉獄先生の行動は何一つ間違っていないので謝らないでください。あの時、彼女を護っていただいてありがとうございました」
『…やはり冨岡先生の言う通り、何か施策があっての事なのだろうか?俺に協力出来る事は何でも協力しよう。忌憚なく言って欲しい』
下がった声量に視線を落とした。
「…お訊きしたいのですが、私が羨ましいと彼女が言った時、煉獄先生は何と返答しました?」
暫しの沈黙の後
『他人への羨望を抱くのはわからぬでもない!だがそれは詮無き事だ!!君は君のままで十分素晴らしい!!そのような事を返したと記憶している!!』
最小にも関わらず音割れを起こしているスマホと、煉獄先生らしい言葉に思わず小さく笑ってしまう。
「…それでは彼女が不安に陥った時や悲しくなってしまった時、その言葉を掛け続けていただいてもよろしいですか?」
『構わないが…、それは何の意味を持つのだろうか?』
「彼女がより彼女らしくなれます」
『……。良くわからぬが承知した!!全力で声掛けをしよう!!』
「よろしくお願いします。では失礼します」
返事を聞く前に終了ボタンを押してから、溜め息を吐いた。

私は、最低だ。
そう言わざるを得ない。

煉獄先生の真っ直ぐなひたむきさを利用しようとしている。
彼女を追い詰めるために。
自分の事が嫌いだから、社交的な殻を被っている彼女へ
"そのままの君で良い"
純粋で真っ直ぐな瞳と共に、その言葉を浴びせさせる。
敢えて眩しいもので彼女を照らす。
そうして文字通り炙り出すんだ。
何重にも包まれた彼女の本当を。

そのためには何も知らず、ただあるがままを受け入れようとする煉獄先生をも利用する。

彼女は恐らく、というより確実に煉獄先生を意識しているからだ。
それが何処までかの感情かはわからない。
思慕なのか尊敬なのか、けれど確実に言えるのは、恋愛感情に近いものを、彼女は煉獄先生へ向けている。

今まで、私、PTA会長、冨岡先生への"暴言"と部類するものを発した時、必ず煉獄先生が授業で席を立っていた時、もしくは体育館を出て卒業生との別れを惜しんでいた時。
それは、偶然だと思っていた。
そうでなければ煉獄先生の性格を考えて、避けているのかと推測していた。

彼女は、頭が良いから。

だけど、煉獄先生に特別な感情を抱いているのなら、その行動も理解が出来る。

私が彼女の敵意に対して、わかりやすく敵意で返した時、泣いていたのは
"庇って貰えた嬉しさ"と"自分の失態を知られてしまう哀しさ"
大きく分けてこの2点だった。

もしもあの時、煉獄先生が居なければ、彼女はあそこまで感情が揺り動かされる事はなかったし、涙を流す事もなかっただろう。

だから私は、そこを狙った。

本当に、最低としか言えない。

鞄へしまおうとした"千本桜祭り"のしおりを見止めて、また冨岡先生の顔を思い出す。
お祭り、行きたいって言ってたっけ。
仕事と言えど、一緒に行くかどうか位は、訊いてみれば良かったかも知れない。
訊いた所で一択しか返ってこないのもわかってはいるけども。

…こうやって考える私も、最低だ。

また音を立てたスマホが今度は知らない番号を表示していて、何処かで見た事があるような数字の羅列に迷いながら応答する。
「…はい」
『もしもし?キメツ学園の苗字先生ですかぁ?』
若干訛りと早めな口調に肯定をする前に
『千本桜祭り主催しておりますぅ……ですぅ。明日はお世話になりますねぇ。到着のお時間は9時だと聞いとりますがお間違えない?』
続く声からするに、どうやらお年を召した方らしい。
肝心の名前が聞き取れず、訊き返そうにも進んでいく話に訊き返すタイミングを逃してしまった。
「えぇ、その予定でおります。確認のお電話をいただきましてありがとうございます。あのもう一度お名『明日は電車でくっぺっか?』…はい、そうです」
はっきりと明確に答えた方が良いと判断して、短く返した。
『そったら駅から左へずーっと進むと河川敷が見えてきますぅ。そごに自治会のテントがあっぺぇ』
「わかりました。ありがとうございます」
あぁ、そうだ思い出した。
何処かで見た事があると思ったら、桜祭りのしおりに書かれてる番号だ。

『ほんでお願いしたいんだけどもぉ』
「何でしょうか?」
『苗字先生、着物着てぐれねっがぁ?』
唐突過ぎて推測が全く出来ない。
周りに誰か、その説明が出来る方は居ないのか。
そう考えたと同じく
『おばあちゃん!それじゃ良くわかんないじゃん!』
少し遠くからまだ幼さが残る声が聞こえた。
『いっつも着物着てくれてた人が今年は着られないからって説明しなくちゃ!』
あぁ、そだそだ、と答えたのが耳元で響く。
「着るのは構いません。ですが、自分では持っていませんし、着付けも出来ません」
『良いってよぉ!』
声を張り上げるのはあちらへ向かってのものだとわかってはいるけど、いまいち話は通じてる気がしない。
『んだばそゆ事で明日よろしくお願いしますぅ』
結局良くわからないまま決定したらしい。
「…はい、よろしくお願いいたします」
何か言っても今は時間の無駄だろう。
詳しい事は現場に着いてから聞く事にして、それだけを返す事にした。


明日に不安しかない


(それでもう一度お名前を…)
(んん?お土産は要らんよぉ。気つかわんでよがねぇ)
(…そうですか。わかりました)


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