寝室の電気を消して、真っ暗の中手探りでベッドへと潜り込む。 掛け布団を捲った事で鼻を抜けていく良く知った匂いに気付き、今日の朝までその人物が眠っていた場所を何となくそっと撫でた。 相当眠そうだったし、今頃は既に夢の中だろう、そう考えながら目を閉じる。 昨日、寝過ぎたからだろうか。 すぐには寝付けそうもなく、勝手に働きそうな思考を無理矢理止めた。 今此処で、 これからの事を考えても意味がない。 今日の事を思い出しても意味がない。 心が、潰れそうになる。 物事に於いて、傾向と対策を考えるのは大事だけど、それは今する事じゃない。 瞑っていた目に力が入っていたのに気付いて、それを弛めると開く。 おもむろに掴んだスマホの画面を付けて、LINEのアイコンをタップした。 冨岡先生とのトーク画面を一番上までスクロールしてからゆっくりとそれを読み返していく。 初めて来たLINEは、寝惚けた頭で良く考えずブロックしたんだよな、と思い出して小さく笑った。 まだ数ヶ月前だというのに、どうも遠い昔のように感じてしまうのは、そのすぐ後、怒涛の如く起こった様々な事柄のせい。 一番下までスクロールした所で、文字を打とうとする親指を止めた。 今、私がこうして、何かを送って返事が来ようが来なかろうが、それは確実に冨岡先生の負担にしかならない。 もし今、夢の中に居るとしたなら尚更だ。 私からのLINEに気付かず寝ていたと、また自分を責めてしまうのが目に見えてわかる。 全体のトーク画面へ戻ってから、彼女とのやりとりをざっと眺めた。 やはり今は深く考えるべきじゃないとまた全体へと戻った所で、消そうとした指を止める。 目に付いた見知らぬ、いや、正確には存在を見知っているけど、アイコンとしては初見なそれに、つい頬が弛まった。 good boy それをタップしてプロフィール画面へ飛べば、出てきたのは今にもワン、という鳴き声が聞こえてきそうな紺色の犬のアップ。 相変わらずムスッとしている表情に、こんなにも癒される日が来るとは思わなかった。 ついさっきまで初期アイコンのままだったのに、私がトーク画面を開いている間に突如変更されたそれに、つい右横の住人の存在を意識してしまう。 意味がないのはわかっていても、そちらへ視線を向けてから、トーク画面を開いた。 "アイコンが犬になりましたね" 送ったと同時に既読が付いたものだから、少し驚いた。 もしかしてさっきの私のようにトーク画面を眺めていたのかも知れない。 "名前に飼われているという証にこれにした" この犬の何が証になるのか正直良くわからない、と考えた所で "気が付くのが早いな。俺にLINEしようとしていたのか?" "もしかして" "眠れないのか?" "大丈夫か?" "名前?" "返事がない" "泣いてないか?" "気になる" "大丈夫か?" "やはりそちらに行こう" 息を吐く暇なく増えていくメッセージに慌てて文字を打ち込む。 "いいです大丈夫ですこないでください" とにかくそれだけを打ってから続ける言葉を考えた。 一文字すら打つ隙もなく告げる音声通話に、画面をタップする。 「…お疲れ様です」 『大丈夫か?どうした?何があった?』 「何もないですし大丈夫です。冨岡先生、レスポンスが速過ぎて全くついていけないんですよ。相変わらず光の速さで駆け抜けていきますね」 『お前の事を抱えていったつもりだったんだが、何処で俺の手をすり抜けた?』 「最初からですね。まず抱えてもいませんしスタート地点にも一緒に立ててないです」 『そうか。それは悪かった。気が逸り過ぎたらしい。何があった?』 「何もないです。ただ彼女とのLINEのやりとりを見返してたら急に見慣れた犬が現れたもので思った事を送っただけです」 『癒されたか?』 「…えぇ。それは、まぁ」 表情は見えないのに、どうも満足そうなスマホの向こうに眉を寄せる。 「もしかして冨岡先生、私がLINEするのを狙ってアイコン変えました?」 『そこは意識していないが名前の癒しになるのは狙ったと言える。お前は今日寝る前に心細さを誤魔化すためLINEを開く。それが予測出来たため、和みとなるよう犬のぬいぐるみにしておいた』 …また私のため、だ。 『まさか数分もしない内に気付かれ、LINEまで来るとは思わなかったが、こうして名前の声を聞けた事は至福でしかない』 嬉々とした口調でも若干の眠気を帯びていて、横になったままの身体を起こす。 「そうですか。寝不足の所すみません。私もそろそろ眠いので切りますね。失礼します」 返事を聞く前に終了ボタンを押した。 何も見ないように画面を真っ黒にしようとした所で告げるのはLINEのメッセージ。 あっという間に2桁を超える通知は当たり前に冨岡先生で、迷いながらそれを開く。 "何故途中で切った?" "疑問を消化しないのか?" "名前" "そのままでは" "眠れないだろう" "そうか" "添い寝を希望だな" "大丈夫だ" "お前の事は俺が一番知っている" これを文だけで見ると正直凄い気持ち悪いなと思ってしまった。 いや、冨岡先生が気持ち悪いとかではなくて文自体が。 それでも隣のムスッとした犬に依って、若干相殺されている感は否めない。 "この犬を" "お前に飼われた証としたのは" "お前をいやせるのは俺しか" "いないからだ" "他の誰も" "名前の心に空く隙間は埋められない" "セラピードッグは俺しかなれない" もしかしてこの人、あの時から少しセラピードッグについて調べたのかな、なんて思いながら続くメッセージに目を動かす。 "LINEを見るだろうと予測出来た" "のはお前が自分が自分じゃな" "い感覚に苛まれているのがわかるためだ" 不自然な文章の繋ぎで、気持ちが急いているのが容易に伝わった。 "お前が小型犬に向ける悪意は" "敵意はそれこそ作ったものだ虚像だ名前じゃない" "お前は俺に与えられた分の愛情を" "そのまま他人への優しさとして変換していく" "だからここの所自虐が激しい" "それが判明した今" "俺はそれ以上にお前に愛を与え続ける" それは物理的なものかと、つい身構えるけど "他の存在に" "邪心に" "呑み込まれるな" "大丈夫だ" "俺がいる限り" "苗字名前は苗字名前いられる" 肝心な所で脱字する冨岡先生は何ていうか、冨岡先生らしいな、と小さく笑ってしまうも、涙が一筋、頬へと伝ってそれを拭った。 冨岡先生がいる限り、 私が、私でいられる…か。 ゆっくり息を吸って、またゆっくり吐く。 "そういえばジャージなんですけど、今干してるので乾いたらお返ししますね" "本当に寝ます。おやすみなさい" それだけを送ってから、すぐに付いた既読と同時に画面を消した。 もう何も考えない。 何も考えないっていうのがそもそも無理なのはわかってるけど、とにかくもう一度横になると、とにかく目を閉じた。 * * * 聞こえてくるアラームの音に段々と覚醒していく頭を持ち上げると、鳴り響くスマホをタップする。 眠い、は眠い。 けれど目を瞑ってから割とすぐに眠りに就けたような気がした。 二度寝をしてしまう前にベッドから抜け出すと洗面所へ向かう。 歯を磨きながらアラームの元を止めようとつけた画面に、思わず眉を寄せた。 また2桁のLINE通知にそれを開けばその全てが冨岡先生で、また添い寝がどうこうの内容からの既読がつかない事で私が寝たと判断したのか最後は "おやすみ" その4文字で締められている。 相変わらず犬はムスッとしていて自然と頬が弛んだ。 おはようございます、と返した方が良いのか悩んでからそっと画面を閉じる。 ただでさえ時間がない朝っぱらから攻防するのは、精神的にも体力的にも勘弁願いたい。 それに私が仕事とは言え、桜祭りに参加するなんて冨岡先生が知ったら絶対についてくるに決まってる。 何処で察知されるかわからないため、余計な連絡はしない方が良い。 最短で準備を済ませ、万が一鉢合わせになるとも限らないと警戒しながら部屋を出たが、エントランスを出るまで冨岡先生どころか誰1人として擦れ違う事はなかった。 * * * 電車に揺られ、辿り着いたこじんまりとした駅。 改札を抜けてから昨日教えられた通り左へ真っ直ぐ歩を進める。 腕時計を確認してから早過ぎたかも知れないと、歩くペースを緩めた。 例の下着売り場に寄っていこうと時間に余裕を持って出てきたけれど、まだ開店時間になっていない事に途中で気が付き、そのまま駅に直行したため、予定より更に早く此処についてしまった。 僅かでも時間を潰そうと、改札に入る前に買ったご当地饅頭なるものが入った紙袋を右手から左手へと持ち替えた。 電話をくれたおばあさんのためにと深く考えず決めたけれど、手土産はこれで良いのか、まだ少し迷いはある。 段々と見えてきた一級河川敷。 両岸で咲き誇るソメイヨシノの下、まるで一色の絨毯が敷かれているように見えた。 桜色と菜の花色の風光明媚さに、暫くその場に足を止め、見とれてしまう。 海もそうだけど、こういう自然の美しさに触れると心が洗われるようだ。 今私が抱えているものなんて、本当に小さい。 本気でそう思える。 まぁでも、その小さいものに全力で苦しむ生き物が人間なんだけども。 模擬店や簡易的に作られたステージを眺めながら、少し歩いた所で赤と白の縞模様へ目を止めて、それが大型テントであるのを知る。 隣にはコンテナハウスが堂々と鎮座していて、自治会の旗も立っている事から、私はあの場所に行けば良いのだろうと判断し、河川へと降りた。 「おはようございます。キメツ学園から来ました苗字と申します」 そう声を掛ければ、そこに居た全員の視線を受けて、ちょっと圧倒されてしまいそうになる。 「あぁあぁ、苗字先生ねぇ。どうもどうも。よくぞお越しくださってぇ」 杖を突いたその姿が昨日のおばあさんだというのにすぐに気付いて、両手で紙袋を差し出した。 「本日はお招きいただきまして、ありがとうございます。心ばかりですが、よろしければ皆様でお召し上がりください」 「あ〜いんやぁ、お土産いらんっつったっぺよぉ。ほんにもぅわざわざねぇ」 電話しながらも思ったけれど、これは何処訛りなのだろうか? 耳が慣れていないからか、何を言ってるのかを都度考えてしまう。 「んだあとで皆で食べっぺぇ。苗字先生も一緒にねぇ」 そうして受け取った紙袋を長机の上に置くと 「でぇ?何だっけか?」 こちらの顔を見てキョトンとするものだから、私も瞬きをするしかない。 「…おばあちゃん!もう、私が説明するから良いよ!」 割って入ってきたその声も昨日聞いた記憶がある。 小学生…恐らく2、3年…?低学年なのは間違いないと思う。 声からして幼いとは感じていたけれど、しっかりした話し方にもう少し大きい子を想像していた。 「ごめんなさい。おばあちゃんちょっとボケちゃってて…昨日も良くわかんなかったですよね?」 「…いえ、着物を着て欲しいとの意向は伝わって来ました」 「そうなんです。苗字先生にお願いしたいのは、このお祭りに代々伝わる"着桜"を着る事なんです」 「…きざくら?」 どうにも要領を得ない話に若干眉を寄せた私に、その子は時々言葉に詰まりながらも説明をする。 かいつまむとこうだ。 歴史が深いこの千本桜祭りには、毎年そのためだけに仕立てられた"着桜"という名の着物を選ばれた未婚の女性が着用するという習わしがある。 昔であれば、それこそ名誉があった大役も、今はまるで晒し者みたいで恥ずかしい、と皆それをやりたがらなくなった。 そんな中で唯一、ここ数年その任を受けてくれていた人物が1人だけ居り、既婚となってからもその役を任せていたという。 しかしその人物も、去年子供を産んだのを契機にその任を降りたいと言い出した。 そこで全く余所者の私を駆り出す事を、自治会の話し合いで決められたそうだ。 要は人身御供みたいなもの。 「…全てを把握した所で敢えてお訊ねしたいのですが、断るという選択肢はありますか?」 「断っちゃうんですか…!?え…どうしよう…そしたら今年のお祭り…」 わかりやすくショックを受けている表情で、まぁ、ないんだろうな、というのを再確認する。 未婚の女性、という条件を変えてまで行使してきた風習を、今此処の余所者の一存で諦めるとも思えない。 それに、この子が懸命に説明をした後 「私も大きくなったら"着桜"役になりたいんです」 そう言って見せた純粋な笑顔に、嫌だとも言えなくなってしまった。 ただひとつ問題なのは… 「着る事自体は構いませんが、自分で着付けが出来ないので…」 「大丈夫です!着付け出来る人呼んでるから!」 その言葉と共に、 「ごめんなさい、遅くなっちゃって…!」 背後から聞こえる声に振り返る。 「…あ、蔦子さん!」 名を呼ばれた人物の前面に装着された抱っこ紐に収まる赤ちゃんを先に視界に入れてから、視線を上げた。 三つ編みで結わえられた長い髪に、後頭には大きなリボンが飾られている。 ぱっちりとした瞳と優しく穏やかな笑顔に、つい心臓が脈打ってしまった。 可愛らしくて綺麗な人 (蔦子さんは去年まで"着桜"役をしてくれてたんです) (初めまして、苗字と申します) (初めまして。今日はよろしくお願いします) [ 92/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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