good boy | ナノ
「一緒に帰らないか!?俺が家まで送っていこう!!」
「え!?良いんですか〜?やった〜!」

嬉々として煉獄先生の背中に付いていく表情からは、もう泣いていた形跡は見受けられない。
けれど傷付いた心が戻った訳ではないのもわかっている。

私が彼女にわかりやすく敵意を向ける事で、煉獄先生が壁として立ちはだかるであろうというのは、予測出来ていた。
というより、正直わざと敵になって貰うように仕向けたというのもある。
彼女の"完璧な味方"で居て貰うために。
胡蝶先生を始めとした教師陣は、彼女の事を心配しても、あくまで公平で中立な姿勢は崩さない。
それは、冨岡先生が言う"普通の人間の処世術"。
心の奥深くまでは、自分から関わろうとはしない。
他人と自分の距離を、的確に測算しているためだ。
だけど煉獄先生は、意識せず自然とその距離を詰められる。
この状況では、その温かさが彼女にとって唯一の救いになる。

それに彼女は、恐らくだけど…

「一緒に帰らないか?」

突然の発問で、ペンを動かしていた手を止めた。


good boy


右横を見れば、つまらなさそうに椅子の背もたれに両肘を乗せ、完全にこちらを向いた冨岡先生。
まるで飼い主に構って貰えず不服そうにしている犬の表情に、笑ってしまいそうになるのを我慢した。
「私まだ仕事あるんですよ」
「ならば待つ」
「最低でもあと30分は掛かりますけど。冨岡先生は早めに帰って寝た方が良いんじゃないですか?」
「眠くはない」
「さっきうたた寝してましたもんね」
「名前の夢を見ていた」
「…内容は言わなくて良いですからね」
「それで考えたのだが」
何ですか?と返事して良いものかをまず迷う。
またふざけた事を言いかねないからだ。
「飼い犬を先生と呼ぶのはおかしいと思わないか?」
訊いてないのに続けてきたな、この人。
「…何もおかしくないと思います」
「俺はおかしいと思う。仕事中は仕方ない。お前の立場もある故、そこは譲歩すべきだと理解をしている」
「お気遣いいただきましてありがとうございます」
「しかし犬として接する時は名前で呼ぶべきじゃないだろうか?」
うん、また何か良くわかんない提案を出してきたぞ?
「何でいきなりそんな事思い付いたんですか?」
「夢の中でお前が俺の頭を撫でながら名を呼んでいたからだ。とても心地好かった」
「……そういう事ですか」
「犬として扱う時は名で呼んでくれないか?」
「そういえば飼うと決めたのに名前を考えてなかったですね。正式にポチで良いですか?」
「ふざけるな。俺はポチじゃない」
後ろで小さい笑い声が聞こえて、冨岡先生と共にそちらへ向ける。
肩を震わせる姿に目を細めた。
「ポチじゃなかったら何が良いですかね?不死川先生」
「不死川からも名で呼ぶよう言ってくれ」
振り向いた表情が若干引き攣った笑いをしている。
「…俺仕事してんだケド…」
「私も仕事をしています」
「俺は終わった」
「終わったんなら早く帰れェ。お前らがずっと話してっと集中力持ってかれんわァ」
「それはすみません。冨岡先生、黙りますよ」
「名で呼べと言っている」
「ポチ、ビークワイエット。黙りなさい」
「ポチじゃない、義勇だ」
「ポチ、お手」
「義勇だと言っている」
「何の芸もしないんですよねこの犬」
「…お前ら…、絶対俺を笑かしにかかってきてんだろォ…?」
また震えている肩に、こちらも目を細めると
「…楽しんでいただけたようで何よりです」
デスクへ向き直ろうとした所で
「お前なりに詫びのつもりかァ?」
その一言に動きを止める。
「詫びというよりお礼のつもりです」
「…礼?」
「何も訊かない上に事を収めてくださったので」
義勇と呼んでくれないのか?と未だブツブツ言っている冨岡先生はとりあえず放置する事にして、先程の光景を追憶した。
デスクに戻った私に、不死川先生は若干の驚きは見せたけれど、事務方と胡蝶先生に慰められている彼女に
「だァからお前、言ったろォ?苗字だってキレる時はキレんだよ。調子乗り過ぎた罰だと思えェ」
そう声を掛け、私には
「お前もお前な。キレ過ぎ。教育係は俺が代わってやっからァ、苗字はもう関わんな」
そう諭した事で、場の雰囲気が一気に落ち着いた。
第三者を徹底しながらも、冷静に状況を把握してこちらに理解を向けてくれたのは素直に有難いと思う。
お陰で煉獄先生の溜飲も少しは下がっていた気がしている。

「まァ、あの状態じゃ俺がどうにかするしかねェだろォ?」
「それはそうなんですけど、良く私の意図がわかりましたね」
「冨岡が動じてねェから何となくな。キレてる割には頑なに教育係から降りたがらねェし何か狙いがあんのはすぐわかったわ。大体にしてお前キレたら喚くより喋んなくなるタイプだろ?」
「良くご存知で…」
「冨岡がいつも怒られてんの見てっからなァ」
「義勇とは呼んでくれないのか?」
「呼ばねェよ!!俺が呼んでどうすんだ!!」
「…不死川には言っていない。義勇などと呼ばれたらとてつもなく違和感だ。恐ろしい」
「俺もオメェを名前なんぞで呼ぶと想像しただけで吐き気が込み上げてくらァ」
「気持ち悪いのか?吐くならトイレに行った方が良い」
「…テメェいい加減にしねェとぶっ飛ばすぞゴルァ」
「何に怒ってるのかわからないが、そう言うのなら上等だ。受けて立とう」
立ち上がる2人を薄目に見ながら
「お2人共仲良しなんですからお互い名前で呼び合えば良いのに…」
呆れながらそう言えば
「死んでも呼ばねェよ!!」
「そこに名前も入るなら呼んでも良い」
温度差のある声色が重なった後、動きを止めた。
思わず小さく噴き出した私に、不死川先生は決まりが悪そうに眉間を寄せた後、粗雑に座り直す。
それに続き、冨岡先生も静かに椅子に座るとまた背もたれに肘を乗せた。

「で?どうするつもりだお前」
「何がですか?」
「実習生だよ。何か考えがあるにしたって流石にやり過ぎ感は否めねェぞォ?」
「…あれでギリギリですよ。今日中に持っていく事が出来て正直安心しました」
2人分の疑問に満ちた視線を受けて、周りを見回してから意識して声量を抑えた。

「まず不死川先生には最初から説明しないとわかりませんよね」

簡潔にこれまでの経緯と背景を伝えた所、時々険しい顔をしながらも大方理解と納得はしたらしく小さく唸ると腕を組む。
「…まァ言われてみれば、だなァ。掴みづらいってのはあったか…。で?こっからの作戦はよ?」
発問したのは不死川先生なのに、冨岡先生の方へ視線を向けたのは、今朝の言葉を思い出したからだ。
この人は意図的なのか偶然なのか、今回に於いても的確に発想の起点を与えてくれる。
今現在、半分以上寝ている表情には苦笑いするしかないけども。

「23日、2限目で彼女が教鞭を執る時、本来の姿を炙り出します」

多分、解決策はそれしかない。

「そうか。それを皆の前で晒すんだな?」
「…それはしませんってば」
何でそこで目を冴えさせるかな。
「だから追い詰めるために指導案も消したってワケかァ?」
「それも半分はそうですが、半分は違います。彼女には他人が緻密に作り上げた道なんて必要なかったんですよ」

だからあの時、"今の貴方には必要ない"そう言った。

私はきっと、彼女を何処か自分より劣っているものとして見ていた。
それは確かに彼女自身がそう演じていたというのもあるけれど
"そうで在って欲しい"
心底でそうも思っていた。

1から10までお膳立てして導いていく。
失敗しないように、転んでしまわぬように、目をかけ手をかけ、先々の困難を想定し先回りして世話を焼いていく。

「私は彼女に対してとても失礼な接し方をしていました。傷付かないよう、失敗しないよう、そうやって過保護になる事で、彼女の可能性を潰していたんです」

そうする事で、自分が救われた気になるから。
これも、また眠りに落ちそうになっているその姿が教えてくれた。

「彼女が私に敵意を向けた本当の理由は、それだったんだと気が付きました」

彼女を通して、自己顕示欲という輪郭を満たす私に気が付いたのだろう。
そしてそれが、冨岡先生へ向けられているという事にも。

「でもそれはよォ、苗字なりの優しさっつーモンじゃねェの?」
「優しさという名の押しつけですね。要は自己満足です。私が彼女に与えなくてはならなかったのは、取って付けた成功とか褒め言葉ではなく、今この場でしか経験出来ない、心が折れそうになる程の失敗や厳しさだったんですよ」
「だから今になって掌返したっつー事かァ。だいぶ荒療治じゃねェ?下手すりゃ終わんぞお前」
「それは承知の上です」

私のこの性格は、多分もう治らないらしい。

完全に閉じ切った両目で頭を揺らす姿へ視線を向けてから、小さく笑う。
「もし失敗したら、この人の事をよろしくお願いしますね。不死川先生」
一気に寄った眉と共にその椅子がデスクへと戻っていく。
「だから何度も無理だっつってんだろォ?俺ァ知らねェからなァ」
言われると思った。
小さく笑う私に
「飼ったんなら最後まで責任持てやァ。コイツはそれを望んでんだから」
ご尤もな意見を受けて、視線を落とす。
「その責任については持つつもりでいます。ただそれ以外、私の目の届かぬ所では不死川先生、お願いします、という意味合いですよ」
「それも無理だっつの。お前が居なくなったらコイツとんでもなく荒れっからなァ?前以上に手ェつけらんなくなっから」
大袈裟なくらい大きな溜め息を吐いたのは、それを簡単に予見したからだろうか。
「実習生如きにそこまで身ィ削る必要ねェと俺ァ思うぜェ?しかも敵視されてんのによォ」
いや、今のは心底私に呆れているから出たものだったか。
「それが出来ない性分なんですよ」
自分でも馬鹿らしいと、たまに思う。
「…まァそれが苗字か…」
小さく呟いた声は、私に向けたものじゃなく、限りなく独り言に近い。
「…好きにやってろォ」
憮然とした言い方だけど、これ程にない温かさを感じて
「ありがとうございます」
見ていないのは知っていても頭を下げた。
「わかったからその寝てる犬連れてもう帰ってくれェ。仕事の邪魔にしかならねェわ」
「…それは、大変失礼しました」
まだ私も仕事が残ってるんだけどな、と思いつつ不死川先生の背中と、本気で寝入ってる冨岡先生に僅かな笑みを零す。
「…帰りますよ。冨岡先生、起きてください」
開いた重い目蓋は暫く一点を見つめたままだったが、ゆっくり瞬きをすると口を開いた。
「名を呼ぶまで動かない」
不機嫌な表情に、つい眉が寄ってしまう。
「…ポ「俺はポチじゃない」」
むぅ、と小さく唸る冨岡先生はどうやら本気らしい。
「じゃあお先に帰りますね。不死川先生、あとはお願いします」
「ぜってーヤダ。連れてってくれやァ頼むから」
「だって言う事効かないんですよこの犬」
「犬として効かねーなら同僚として連れて帰ればいんじゃね?」
「…成程」
不死川先生の着眼点はなかなかに面白い、と良く思う。
「冨岡先生、マンションの扉の前まで一緒に帰りませんか?」
ピク、と眉が動いたかと思えば間髪入れずに立ち上がった。
その勢いに若干身を引いた私に構わず上着を羽織ると
「…行こう」
右手を差し出してくるものだから、その真剣さに少し心臓が動いてしまう。
「…人間に戻るの早いですね」
「名前から共に帰ろうと言われたのは初めてだ。これはとてつもない好機でしかない」
「好機も何も帰るだけですよ。釘を刺しておきますけど今日はホント扉の前までですからね」
「わかっている」
本当にわかってるんだかわかってないんだか…。
此処で攻防しても意味がない所か時間の無駄だと、とりあえず立ち上がると上着を羽織る。
「それでは不死川先生、お先に失礼します」
「おぅ、お疲れェ」
軽く手を上げたその背中が完全に仕事モードに入っていて、これ以上邪魔をしないように職員室を出た。
「手は繋がないのか?」
「繋ぎません」
外履きに履き替えるためロッカーを開けようとした瞬間、背中に感じる圧と回された両腕に息を止める。
「ホントに全然大人しくならないですね」
溜め息を吐きながら、あぁでも此処でまた犬扱いをすると面倒な事になるか、と考えた。
「駄目だ。何処にも行かせない」
頭上から降ってくる声は熱が籠っていて、また何を言ってるのかわからないな、と視線を僅かに上げる。
「何処にも行きませんけど?何の話ですか?」
「不穏な空気を感じる。何処に行こうとしている?」
もしかして、夢うつつながら聞いてたのかな、この人。
「別に何処かに行こうとしている訳ではないです。ただ本当の彼女を炙り出すこの作戦が裏目に出たら恐らく私は教員免許を剥奪されるので、冨岡先生と同僚でいられなくなります」
「駄目だ。許さない。お前に会えなくなるなど考えたくもない」
明らかに酷くなった締め付けに、弛めるよう催促するためその腕を軽く叩く。
相変わらず力が強い上に配分が出来てない。
「同僚としていられなくなるって言っただけで会えなくなるとは誰も言ってません」
「それも駄目だ。お前が居ない此処には何の価値もない」
「…その言葉はちょっと、撤回していただきたいですね」
「間違った事は言っていない」
「間違ってますよ。冨岡先生にとって此処は無価値なものではないです。私が全てだと思い込んでその事実を歪めるのはやめてください」
「…怒ってるのか?」
「そりゃ怒りますよ。私のためにご自分の選択基準を見誤ってるんですから」

最初は、それこそ私のためだったかも知れない。
でも沢山の事象や感情に触れてきた今はきっと

「此処も冨岡先生にとってかけがえのない存在になっている筈ですよ」

息を呑んだのが頭上で聞こえたかと思えば、
「それでもやはり名前には敵わない」
そう言うと押し付ける鼻に、呆れなんだかわからない溜め息が零れた。


変わるものと変わらないもの


(それは容認したという事で受け取って良いですか?)
(天と地ほどの差はある)
(認める事が大事なんですよ)


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