good boy | ナノ
『悪ィ。何か知んねェけど大事になっちまったわァ』

いつまで経っても電話に出ようとしない冨岡先生に業を煮やして、ポケットからスマホを攫うと通話ボタンを押しその右耳に押し付けた所、漏れ聞こえてきたその第一声。

「…どういう事だ?」

若干眉を寄せながらも、この状態では通話をする選択を取るしかないと判断したのか、答えるその両腕は若干弛まったものの、離そうとはしない。
何で私がこの人のスマホを支えなきゃいけないのか、と思いつつも離したら離したで、また攻防が始まるのがわかっているので大人しく耳に当て続ける。

『いや、苗字が調子悪いからって冨岡が様子見てるって言ったんだけどよォ、倒れただの救急車で運ばれただのいつの間にかそんな話になっちまった』
若干の申し訳なさを含んだ声に、あぁそういう事か、と納得をした。

かいつまんでしか報告はされてないけど推測するに多分、隣に住んでいる事を理由にして、出勤する際に出くわした、とかそういう事にしたのだろう。
私達が単身というのも不死川先生は知っている。
すぐに頼れる身内も居ないため、私に好意を持つ冨岡先生が放っておける訳がないという自然な流れに持っていった。
冨岡先生の話を取り入れつつ、完全に嘘ではない、絶妙な所を突いてきたな不死川先生。
それでも話が大きくなったのは、キメツ学園だから仕方ない、の一言に尽きる。
基本的に人の話を聞かない人達ばかりだからだ。


good boy


「名前が病院に運ばれたというものだから驚いた」
『はァ?だってお前ら一緒に居んだろォ?』
「一緒には居るがどちらが現実か迷った」
『…お前、何言ってんだァ…?』
心底呆れた口調に、このままでは収拾がつかないと早々にスマホを自分の左耳に当てる。
「お疲れ様です。嘘の片棒を担がせるような真似をさせてすみません。とても助かりました。そちらはお変わりありませんか?」
『お、おぉ。お前…思ったより元気そうだな。こっちは何も変わんねェよ。心配すんなァ。別に急いで来なくても問題ねェ』
「いえ、重大な問題があるので1秒でも早くそちらに向かいます」
このままこの人と2人で居るなんて、待っているのは死でしかない。
昨日は確かに私が疲れている、その理由で大人しかった冨岡先生も、こちらが調子を取り戻した事で暴走しかけている。
更に自分が飼い犬になったという現実を一晩経った事で噛み締めているのか、今こうしている間にも、スマホを当てている方とは反対の耳を甘噛みしてくるものだから始末に負えない。
『そうかァ?じゃ、ま校長達にはそう伝えておくわ』
「よろしくお願いします」
出来るならこの危険な状態で通話を終わらせたくなかったんだけども、終わってしまった会話に終了ボタンを押す前に手首を捕まれた。
その勢いでスマホが床に落ちたにも関わらず、冨岡先生は気に留める所か僅かに保っていた距離を縮めてくる。
「…名前」
吐息混じりに囁かれて、後ろに引いているのに同じだけ詰め寄ってくる動作に眉を寄せた。
「話聞いてました?私は1秒でも早くキメツ学園に向かいたいんですが」
「俺は1秒でも長くお前とこうしていたい」

何だろう。
この振り出しに戻った感。

今までの努力はまるで水の泡で、虚無すら感じてくる。
それでも思考を止めれば死しかないので遠くを見つめながらも考えた。

「…散歩に行きましょうか」

漸く出したのは、ジャージのチャックが下ろされたと同じ。
半ば自棄になって発した言葉に、首筋を這う舌を止まった。
「私は冨岡先生とキメツ学園まで散歩しに行きたいんですが、嫌なら仕方ないですね。私1人で散歩に行って来ますので、大人しくハウスして待っていてください」
「嫌じゃない。名前がそう言うのなら共に行く」
「そうですか。それなら準備をしましょうね。早くしないと置いて行きますよ」
「わかった、待ってろ」
光の速さで玄関を出て行く後ろ姿を見送ってから、落ちたままのスマホに気付く。
そういえば私のスマホも持って行かれたままだった、と思いながら拾い上げた事で、まだ通話が切れていない事を知った。
おもむろにそれを耳に当てれば小さく笑っている声が聞こえる。
「まだ切れてなかったんですね」
『…おあッ!!いきなり喋んなよ…』
「驚かせてしまってすみません。切るにしても一声掛けなければと思ったので」
『冨岡はよ?』
「散歩をするために一度部屋へ帰りました」
あの調子では数分もせずに戻ってくるだろう。
また暴走をするとも限らないのでこちらも早々に準備をしないとならない。
通話を終わらせようと口を開こうとするより早く
『お前、漸く冨岡の事本気で飼う気になったんだってな』
不死川先生の言葉に眉を寄せる。
「本人から聞きました?」
それしかないとわかっていても、敢えて質問で返した。
『聞くも何も夜中LINEに入ってたんだよ。飼われる事になったっつー報告から、お前が疲れ切ってるから朝冨岡からのLINEがなかったら遅刻するっつー内容が』
私が持っている情報とは違うもので一度整理するために間を置く。
「それ、何時に入ってました?」
『3時過ぎだったな』
そんな夜中まで起きてたのか、それとも途中で目を覚ましたのか。
「そうですか。わかりました。実習の彼女は大丈夫ですか?」
『あァ、とりあえず煉獄が全面的に見てるわ』
「…煉獄先生ですか」
じゃあ、まぁ多分大丈夫だろう。
『アイツ、煉獄には何言われても楯突いていかねェのな』
「まぁ…煉獄先生ですからね。敵意を向けたとしてもそれ以上に好意で返してくる人ですし」
そういえば煉獄先生は彼女の暴言を一度も見た事ないっけ。
彼女と煉獄先生の相性は良いのかも知れない。
外側からガチャッと玄関が開く音がして、視線を上げた。
「それでは、切りますね」
『おぉ、じゃあなァ』
画面をタップしたと同時、ぬっと出てきた青いジャージ姿が少し驚いている。
「誰と話していた?」
「不死川先生です。まだ通話が切れてなかったんですよ」
スマホを返せば大人しくポケットへしまう動作を見ながら続けた。
「用意してくるのでそこで待っていてください」
「入ってはいけないのか?」
またそうやって眉を下げる…。
「冨岡先生が一度家に入ると、外に出るまでに時間が掛かるんですよ。大人しく"待て"しておいてください。出来る限り最短で準備するので」
「…わかった」
小さく聞こえた返事を背中で聞いてリビングの扉を完全に閉めた。

出勤用の服に着替え、完璧とはいかずとも化粧と髪を整える。
今日はもうこれでいいや、と半ば諦めながら出たダイニングの先、両腕を組みながら玄関に寄り掛かっている冨岡先生が居た。
俯いているその顔を覗き込もうとした所で、僅かながら寝息が聞こえて、眉を寄せる。
「冨岡先生、起きてください。行きますよ」
軽く肩を揺らすと、すぐに覚醒した所で玄関を出た。
エレベーターへ向かいながら、ついてくる背中へ
「もしかして冨岡先生、夜中ずっと起きてたんですか?」
気になっていた質問を投げ掛ける。
すぐには返答が帰って来ない事で言葉を続けた。
「不死川先生が言ってました。3時頃にLINEが入っていたと。私が聞いた話とは違いますよね?」
エレベーターのボタンを押してから、自然と並んだ右横を見上げればやっぱり若干眠そうな顔をしてる。
「名前の寝顔を見ていた」
「というか、そもそも私が寝たら帰るって言ってましたよね?」
「怒ってるのか?」
「そうですね。少し」
「帰るつもりだったが、可愛くて帰りたくなくなった」
「…一体何時まで起きてたんですか?」
「はっきりとした時刻は覚えていないが朝陽は登り始めていたように思う」
「全然寝てないじゃないですか」
「最初から眠るつもりは一切なかった。だが、見ている内に睡魔には抗えず、寝入ってしまった。目覚ましが鳴った事で一度起きはしたが、もう少し、お前と一緒に寝ていたいと…」
開いたエレベーターに乗り込みながら
「だから怒るのは承知の上で、目覚ましを止めた」
痛切な言葉に、結構大きめな溜め息を吐いた。
「…私が怒ってるのはそこに関してじゃないんですけど」
「それなら抱こうとした事か?」
「いえ、それは今…いやそれもそうなんですけど…とりあえず今は置いておいて、私の調子が戻ったって、冨岡先生が弱ったら意味ないじゃないですかって話です」
本当にこの人は…。
もう今更なのはわかってはいるけれど、都度言い聞かせないと、その内あらぬ所で自己犠牲を優先しそうで危なっかしい。
「私が途中で起きないように見張ってたんですよね?そんな事しなくて良いんですよ。必要ないです」
「必要はある。俺が寝ている間にお前を独りで泣かせる訳にはいかない」
「だから何で泣くの前提なんですか」
エントランスから出ると、昨日とは違い、意外に外気の寒さを感じて身を竦めた。
「…冨岡先生、上着着ないで寒くないんですか?」
不意に浮かんだ疑問に
「寒くない」
そう言いつつ震わせる肩に、また溜め息が出てしまう。
「…1回部屋戻って上着取りに行きましょうね。犬と違って人間は毛で覆われてないんですから、防寒という知恵を使わないと」
引き返そうとしても、今度はついてこようとはしない姿に一度足を止めて振り返った。
「急がないといけないんじゃないか?」
何ていうか、またこの人は…。
「犬の体調管理も、飼い主の義務ですから」
それだけ言うと腕を引き、506号室へ引き返す。

「温かいの着てきてくださいね」
一度その背中を見送ってから、そういえばLINEを返していない事を思い出してから、まだ冨岡先生の手の内にあるのにも気付く。

数分もせず上着を羽織って出てきた姿が施錠を終えてから声を掛けた。
「そういえば冨岡先生、私のスマホ持ってますよね?」
「持っている」
ポケットを漁ると、素直に返してくる右手からそれを受け取った。
「ありがとうございます」
歩きながら一応軽く確認するけれど、冨岡先生からも私からも返信がないからかどんどん悪い方向へ話が流れていっていて、小さく笑ってしまった。
不死川先生が一切出て来ていないのは多分、この状況に匙を投げたからだと思う。

"大丈夫です。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。これから向かいます"

それだけを返してから通知を告げる個人LINEを開く。
"大丈夫なんですか?"
絵文字も何もないその一言。
彼女なりに、心配をしてくれたのだろうか。
"大丈夫です。ありがとうございます"
ひとまずそれだけを返して画面を消した。

* * *

通り道の桜は、昨日より開花が進んでいて、季節が進むのはあっという間だな、とふと考える。
そんな内容を詠った和歌が、確かあった気がするけど、すぐには思い出せない。

「小型犬の事はどうするつもりだ?」

右斜め上から聞こえた質問に何と返そうかを悩んでしまう。
"どうする"
そう聞かれても、はっきりこうだという対抗策を示す事は出来ない。
私の考えを読んだのか、
「昨日、お前が言い掛けた見解を聞きたい」
そう付け加えた事で、思考を違う方へ働かせた。
何処から、説明をすれば良いのかある程度纏めてから口を開く。

「私達は多分、彼女を自分の型に嵌めて見ていました」

喩えば私は、人懐っこく明るい、素直な彼女。
冨岡先生は、飼い主を探し求め彷徨う小型犬。

「そこからが間違いだったんです」

心証は確かに、間違ってはいなかった。
彼女が私達に、そう見えるよう仕向けていたからだ。
宇髄先生が言っていた"ヤベェ"の意味を、今漸く理解している。

「彼女は彼女でも在り、本当は彼女でもなかったんですよ」
「…どういう事だ?」
「嘘の塊なんです。彼女は。あの喋り方も性格も知識も、作られたもの。要は虚像です」

だから掴めなかった。
一切の輪郭が。

「冨岡先生、昨日見せたLINEは覚えてます?」
「小型犬らしくない、というアレか」
「そうです。個人LINEの彼女はすごく落ち着いた人物なんですよ」
最初こそ、グループLINEと同じ態度だったその雰囲気が、私に敵意を向けた瞬間から素っ気ないものへとガラリと変わったため、"嫌われている"という感情に隠れて、真実に気が回らなかった。
だけど、何故私はこちらの方が話しやすいと思っていたのか。

「聡明かつ堅実で寡黙。恐らくこれが彼女の本当の姿です」
「…何のためにそこまで虚像を作る必要がある?」
「…これは私の憶測でしかないですが…彼女は自分が嫌いなのではないか、というひとつの仮定が出来ます」
「…だからお前はあの小型犬は自分だと言ったのか」
「…そうですね」

そこに至った背景は、正直全くわからない。
それでも

「彼女は、あの店員さん…つまり自分の姉になりたいんですよ」

これだけは間違いない。
確信を持って言える。
だから一貫性もなく矛盾が続いていく。
時々出てくる本来の自分が居るからだ。

私の言葉に、冨岡先生は妙に納得したように一点を見つめたかと思えば

「そうか。その歪んだ本性を根こそぎ引き摺り出し、皆の前で曝した上で名前に平伏させれば良いんだな?」

名案思い付いたとでも言わんばかりの表情をするものだから、若干感じた恐怖に、ついその身ごと引いてしまう。

「そこまでするなんて言ってません。彼女に危害を加えないでくださいね。また別の問題に発展するんで…」
「抗ってくる意思すら打ち砕けば問題ない」
「それもダメです。本当にやりかねないのが怖いんですけど…」
「本当も何も本気だが」
涼しい顔で言いのける姿はやはり狂犬に近い、そう思った。

全力で敵意に噛み付く


(彼女に近付かないでくださいね)
(焼きもちか。素直で良いな。可愛い)
(…何かもう、良いです…。それで…)


[ 87/220 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×