good boy | ナノ

何処か遠くで、何かが聞こえる。
それがスマホから流れてくるアラーム音だと気付いて、あぁ起きなきゃ、と思うのと同時、まだ起きたくないという気持ちが頭を占める。
今の私は圧倒的に睡眠を欲してるんだろうなと考えながら重い目蓋を開けた先、見慣れた天井に小さく息を吐いた。
聞こえていた筈の音も今は静寂しかなくて、一応スマホは何処か探そうとした所、左手の違和感に気付く。
すぐに横へ顔ごと視線を向ければ、小さく寝息を立てている冨岡先生に心臓が跳ねた。

…この人、私が寝たら帰るって言ってなかったっけ?

急激に覚醒した頭で考えながら、ポケットに入りっぱなしになっていたスマホの存在に気付いて上半身を起こす。
昨日の体勢からお互い全く動いてないというのは繋いだままの手からわかった。
あの後、一度冴えた目も、再度訪れた沈黙で早々に眠りへ誘われた気がする。
その時、冨岡先生が起きていたかは正直定かな記憶がない。
もしかしたら私が眠るのを待つ間に眠ってしまったのかも知れない、と無防備な寝顔を眺めながら頬を弛めた。

本当に、この状況で何もしてこないというのは、従順な飼い犬以外の何者でもない。

起こさないようにそっと手を離すと、時間を確認するため画面を見た所で、動きを止める。

ヤバイ…!完全遅刻!

そう思った時にはベッドから抜け出していた。


good boy


何故か本来のアラームより40分以上ワープしている。
いや、何故かじゃなくて私がそれ程熟睡していたという事なんだけども。
5分ごとにスヌーズを掛けていたのに、その全てを私は全く気付かず寝こけていたのかと確認するも、アラーム自体が完全に止まっていて、無意識に元から切っていたのかと血の気が引いた。
どんなに疲れていても、こんなに大幅な時間寝過ごす事は今までなかったのに…。
とにかく着替えなければとタンスを開けようとした所で
「…ん…」
小さく身動ぎする冨岡先生に動きを止めた。
私の慌ただしさが伝わったのだろうか。
寝返りを打ったその表情が険しい顔をしている。
私が遅刻確定という事は、必然的にこの人もそうなる訳で、今すぐにでも叩き起こさなくてはいけないのはわかってはいるんだけども、また穏やかになる表情を見ていると正直起こすのが忍びなくなってしまう。

出来るだけ音を立てないように着替えを取ってから、リビングへ移動し、さて、どうしようかと考える。

今此処で私が冨岡先生を起こしてどんなに最短で準備をし全速力で学校に向かったとしても、朝礼には全く、確実に間に合わないので、慌てても無駄だと割り切るしかない。
だからといって馬鹿正直に寝坊しました、なんて言えもしない。
私1人ならそれで頭を下げれば済むけれど、流石に2人仲良くそんな事になったら終わる。
冨岡先生との関係は、彼女が大声で言ってくれたものだから、もはや事務方でさえ把握しているので、問題はもうそこではなくて。
教師として、いち社会人として、という意味だ。
これはどうにか尤もらしい理由を付けて誤魔化さないとならない。

だけど今思い浮かぶのは、どうしても無理がある言い訳ばかり。
まだマシなのは、冨岡先生から事前に欠勤の連絡を受けていたが私が寝坊したため伝え漏れた、くらい。
それくらいシンプルで自然な内容が今出来る限り頭をフル回転させても思い浮かばず、頭を抱えそうになりながらも洗面所に向かう。
とにかく歯を磨こうと歯ブラシを手に取ろうとして、コップに立て掛けられた見慣れぬものに手を止めた。
冨岡先生が昨日持参したのだろう。
2本並んだ歯ブラシに何とも言えない気持ちになる。
同時に、ハンガーに掛けたままだったスーツを見止めて、そういえば昨日脱いだ服一式もカゴに入れっぱなしな事に気付いた。
まさか見られた?というのは恐らく杞憂。
外から見る限り、下着は見えていないし触られた形跡もない。
代わりに傍らに置かれた紙袋の中、冨岡先生の下着が覗いていて、見ないように顔ごと視線を洗面所へと戻した。
多分あの中にスーツも入っていて、皺にならないのか、と思うけど流石に勝手に漁る訳にもいかないので放置するしかない。

顔を洗ってからタオルで拭いて視線を上げた背後、鏡に映る姿に心臓が跳ねる。
振り向いた先には目が開いてるんだが開いてないんだか判断がつきにくい寝惚け顔が居た。
「…おは、ようございます」
思わず普通に挨拶してしまったけど何か違う。
「…良く、眠れたか?」
「お陰様で。寝過ぎて私達遅刻確定ですよ」
「…そうか」
寝惚けたまま距離を詰めてくるものだから、逃げようと横へ動こうとしてもあっさりとその両腕に捕まって眉を寄せるしかない。
「それなら今日は休めば良い。飼い犬の俺が1日中お前の疲れを癒そう」
「いえ、大丈夫です。大丈夫っていうか休めないんですよ。印刷機の回収があるので」
「…例の男が来るのか?」
「いえ、トラックで来るんで多分違う方が…「それも男だろう」」
背中に伸びてきた右手を押さえても当たり前にビクともしないので溜め息を吐いた。
「そんな事より遅刻という事実に関してもっと焦って欲しいんですけど」
「焦る必要はない。先手を打ってある」
「…先手って、なんですか?」
「スマホが鳴って暫くしても起きる気配がなかったため、不死川に俺達が遅刻する旨は伝えておいた」
「だからアラームが元から切られてたんですね。おかしいと思いました。どんな理由を作ったんですか?」
「理由?」
「まさか2人で一緒に寝てた上に寝坊したからって正直には言ってないですよね…?」
「名前が疲れているため1秒でも長く休息を取らせたいと送った」
昨日と変わらない温かい瞳につい返す言葉を考えるのをやめてしまった。
「不死川の事だから、上手い理由で凌いでいるだろう」
「それも丸投げしたんですね…」
「俺より不死川の方が現実味がある理由を考えられる。それに第三者という事で信憑性も増す」
確かに、と納得した瞬間、ホックを外されて押さえていた手を強める。
「何考えてるんですか」
「名前を抱く事だが?」
「それが何か?みたいな顔するのやめていただけません?今優先すべきなのは「1回分くらいの時間はある」ないです。あったとしてもさせません。何ですか1回分って。そんなものがあるなら洗濯1回分終わらせたいですしその間は睡眠に費やしたいですよ」
思った事を包み隠さず言えばその瞳が嬉しそうで、これが狙いだったのか、と気付く。
「やはり名前はこうでないと駄目だ」
「…冨岡先生ってやっぱり変わってますよね。否定されるのが好きなんですか?」
「単純にその軽快な言葉回しが好きだ。お前の声は聴いていて気持ちが良い。そしてこうして照れているのが可愛い」
「花粉症で耳にバグ起こしてるんじゃなかったでしたっけ?薬飲みました?」
「薬はまだ飲んでいない。バグを起こしていたのは耳自体ではなく回路の方だ。それもバグに気付いた今通常に戻ろうと細胞が稼働している。もう少しで本来の俺に戻るだろう」
「もう充分いつもの冨岡先生に戻ってる気がするんですけど、まだ本調子じゃないんですね。ビックリしました」
「本来の俺なら他の犬がお前に吠え出す前に喉を噛み切っている。手を出すなと言うお前の制止も同僚として接しろという提案も効かないし呑まない」
またグッと掛けてくる圧に、これ以上ない程後ろに引く。
「だがそのお陰で正式な飼い犬になれた。時には引くのも重要だというのを学んだ」
「そうですか。それはとても貴重な体験ですね。それを活かして、今も引いていただけるととても助かります。不死川先生が誤魔化してくれてるとはいえ、これ以上のんびりもしていられないので」
「今日はもう休まないか?こうしてお前とずっと一緒に居たい」
「休めないとさっきも言いましたよ。これ以上しつこくするなら本気で怒りますし、仕事の邪魔をするなら犬としても飼いません」
群青色の瞳を意識して睨めば、途端に眉を下げるものだからつい力が弛んでしまう。
ポケットの中で通知が何度も鳴ったのに気付いて視線を落とした。
大人しく離れた冨岡先生へ一瞥すると
「偉いですね」
それだけ言うとスマホを取り出す。
キメツ学園のグループLINE。

"苗字先生、大丈夫?"
"今はまだ病院だろうか!?心配だ!!"
"冨岡、苗字は無事か?"
"お前倒れるまで無理するなっつーの。真面目過ぎるにも程があるぞ"

胡蝶先生、煉獄先生、伊黒先生、宇髄先生のメッセージに意味がわからないまま首を傾げる。
いや、意味自体は何となくはわかるんだけども。
「どうした?」
「いえ、私が倒れて病院に運ばれたらしいです」
「何だと…?」
「何で目の前に居るのに驚くんですか…。不死川先生がそういう筋書きを作ってくれたんですよ多分」
「…そういう事か。てっきり俺はまだ夢の中に居て現実の名前がそうなったのかと思った」
「冨岡先生ってホント、全く良くわからない事言い出しますよね。大丈夫ですか?」
「たまに夢と現実の区別がつかなくなる時がないか?」
「…いえ、ないですね」
「そうか。俺はたまにある。昨日も漸く現実の名前を抱けたと思ったら夢だった。一昨日もそうだ」
「…どんだけ私の夢見てるんですか…」
「ほぼ毎日だ。この間は悪女名前が足でしてくれた」
「足で?どういう事ですか?」
「具体的に言って良いのか?」
含み笑いをする表情でその意味に気付いた瞬間、とてつもなく後悔した。
「俺の「良いです良いです!やめましょう!やめてください!聞きたくないです!」」
漸く噤んだ口に、盛大な溜め息を吐くしかない。
「夢だからって人の事好き勝手捏造しないで貰えませんか…」
「夢の中のお前は大胆でとてつもなくエロい」
「それは冨岡先生の願望が具現化してるからですよ。現実の私じゃありません」
「ならば現実の名前というものを知りたい」
また洗面台へ追いやられて、その目を睨むも先程は感じなかった熱が籠っていて、これはヤバイと瞬時に思う。
「夢のお前と現実のお前がどう違うのか」
わざと耳元で囁くものだから肩が震えてしまった。
「"この"名前はどうやって啼く?」
「ちょっと本当勘弁してください。何1人でその気になってるんですか」
「夢のお前を思い出したらあの時の絶頂感が蘇ってきた」
「蘇らせないで良いですそんなもの。葬り去ってください。もしくは夢の産物に向けてください」
「夢のお前になら何をしても良いのか?」
「現実でされるよりかはまだマシです」
「そうか」
一言納得したように呟いたかと思えばチャックを下げようとしてくる手に息を止める。
「何してるんですか。今は現実ですよ」
「これは夢だ。現実のお前は倒れて救急車で運ばれたと言っている」
「それは大変ですね。早く起きて向かってあげないと。飼い主のピンチですよ」
「それは問題ない。現実の俺がついている」
「ちょっと意味がわからないんですけど、此処にいる冨岡先生は何なんですか?」
「今の俺はお前の夢の産物だ。俺の事も好きにして良い」
「本当に好きにして良いなら記憶の一切を喪失するか人格が変わるまで頭に衝撃を与えたいですね」
そうこうしてる間にも下げられるチャックに抵抗しようと焦ったせいで手から滑り落ちたスマホ。

ゴン…

鈍い音を立てて足の甲に落ちたと共に、声にならない声を上げながら蹲る姿を細目で眺める。

「すみません。地味に痛いやつですよねそれ。わざとじゃないんですよ。ホントに…」
「ピンポイントで角で狙ってくるとは…」
「わざとじゃないですってば…」
スマホを拾い上げると立ち上がる冨岡先生に一瞬身構えたけれど、差し出してくる右手に視線を向けた。
「…ありがとうございます」
受け取ろうとした所で遥か上に上げられる手に、眉を寄せる。
「どういうつもりですか?」
「これを渡す代わりにキスが欲しい」
「…また交渉ですか」
見上げていた視線をその顔へ戻した。
少しは冷静さは取り戻しているらしい。
このままだとまた長くなりそうだとその横を擦り抜けるとダイニングへ向かう。
「良いですよ、持ってても」
どうせロックを解除も出来ないし、正直スマホがなくて困る事もない。
それより今はキメツ学園に向かう方が先決だ。
背後の動きが止まった事に気付いて振り返れば、明らかにシュンとしている姿につい笑ってしまいそうになる。
…仕方がない。
手招きをする私に気が付いた瞬間、寄ってくるのは本当に犬みたいだと思う。
「屈んでください」
今度はその手を下へ動かすと、疑問に満ち溢れた表情ながらその通りに腰を屈めた事で届いた頭を撫でた。
「……」
わかりやすくその瞳が驚いていて、そっと前髪を掻き上げるとその額に口唇で触れる。
「…これが今、私が出来る限界です」
気恥ずかしさから苦笑いすら出来なかった。
瞳孔を開いた両目が徐々にいつものものへと戻っていくに連れてその口元が弛んでいく。
「やはり名前は可愛い。好きだ。結婚しよう。入籍日はこの際いつでも良い」
「法律上飼い犬とは結婚出来ないんで無理ですね。電話鳴ってますよ」
抱き締めてきた事でジャージのポケットから伝わる振動に視線を落とそうとしても、急に顎を持ち上げられた感覚に、気付いた時には口唇が重ねられていた。
つい目を閉じそうになったものの、入ってきそうな舌に全力でその顎を押し返す。
「昨日も言いましたよ。犬とキスはしません」
「なら何処までの戯れなら許す?」
真剣に訊いてくるものだから、一瞬本気で答えを探してしまった。


スキンシップありきなの?


(電話、出ないんですか?)
(良い。どうせ不死川だ)
(いやそれ絶対出なきゃいけないやつですよ)


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