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冷静になれていない。

そんなこと、俺自身が一番良くわかっていた。

冷静になんて、いられるはずがないだろう。

もうひとりの自分が自暴自棄に近い居直りをしたことで、俺はその感情に身を任せた。

いつだってそれが悪手となると経験でわかっていたというのに。

それでも、勝手に自滅するならまだマシだっただろう。

結局俺は、一番大事だと想っていたはずの名前を傷付け、苦しめる道を選んでしまった。

その事実を、受け止めきれないでいる。


FUN for FAN?


「どうぞ〜?」

開錠の音がしたあと、背後から掛けられた言葉に、見送っていたはずの車が見えなくなっていることに気が付いた。

「……お邪魔、します」

咄嗟に出た張りのない声に、その笑顔は更に深まる。

「どうしたの?元気ないし、今更かしこまってる」

気丈に振る舞いながらも、引き摺る右足はどうしても直視できないでいた。

「2週間は運動を控えてください」

俺達が診察室に呼ばれたのは、足首を固定するバンドを巻かれた名前によってだ。そしてそこでそう、説明を受けた。

「筋挫傷(きんざしょう)ですか?」

講師が落ち着いた声で訊き、医者が頷くのを俺はといえばただ耳を傾ける。

何でも筋肉や腱が伸びた状態らしいというのは、それで理解はできた。

組織の完治までは2ヶ月はかかるそうだが、2週間で痛みや腫れはひとまず落ち着くという。

その間に無理をしないよう念を押したのは最悪、筋肉組織が元に戻らないという可能性もあるためだ。

どうして講師が脅すような言い回しをしたのか、俺はその時初めて知った。

「喉渇かない?何か入れるね」

ひょこひょことした歩き方で台所へ向かおうとする姿を、声にするより早く右手が止める。

「……」

見つめ合ったまま流れた沈黙が、重くて痛い。

「俺がやるから、名前は座ってていい」
「…あ、うん」

ベッドに腰を下ろさせれば、小さく「ありがとう」という声が聞こえた。

初めて開けた冷蔵庫には、ひとり分の食糧が細々と入っている。
こうやって自炊をすることは、健康と体型維持に繋がると、いつだか聞いた。

天然水をコップに注いで、それを片手に名前の元へ戻る。

「あれ?義勇くんのは?」
「…俺は、いい」

この状況でそこまで図々しくもなれず、ただそこに座るだけで精一杯だ。

「わざわざごめんね?」

グラスを傾ければ、ゴクゴクと音を立てて水分が喉を流れていく。

「はーっ!緊張したっ!」

勢い良く息を吐いては肩を落とす姿に、疑問が湧いて出る。
上げられた顔が俺を捉えて、柔らかい笑みとなった。

「もー、いつ怒鳴られるかヒヤヒヤしてたのっ」

怒鳴られる、って──…

誰に?と思う前に答えは出ていた。

「あの講師にか?」
「ん。車ん中ピリッピリしてたでしょ?」
「……それは」

確かに行きも帰りもほぼ会話という会話はなかったが、それを憤りというのなら、俺に対してのものだろう。

そう口にしかけたが、

「あれね、すっごい怒ってる時ってロッククラスの子が言ってた」

まるで生きた心地がしなかったかのように肩を震わせるものだから、途中で止まっていた。

「そこまで、怒ってたか…?」
「うん。だって本番で怪我だよ?しかも凡ミスで。多分義勇くんいなかったら怒鳴られてたと思う」

正直そんな風には感じなかったが。咄嗟に言いかけたその言葉も飲み込んだ。
俺には余裕綽々のようにしか見えず、それが悔しかったから、本当は真逆だったという事実の詳細を知りたくもなる。
それと同時に、気になることがもうひとつできた。

「怒鳴られたこと、あるのか?」
「…んーん。クラスが違うから直接はないけど、怒鳴ってるのなら受付してる時良く聞く。スタジオ内で一番厳しいって有名なんだよねあの先生」
「……そうなのか」

厳しい。その一言に関してなら、何となく納得できるように思える。

妥協を許さない。

踊っている姿から、それはひしひしと伝わってきていた。

だからこそあれほどの可動域を可能にしているのだろう。

「だから折角習っても挫折しちゃう子は結構多いんだ」
「そうだろうな」
「でも、その後の伸びが半端ないっていうのも有名な話。指導が的確だから必ずプロの道に行けるって言われてるくらいすごい先生なの。それに褒める時はすごく褒めるから、認められたくて必死になるんだって」

それも少し、理解をした気がする。

「良く、知ってるな」

それでも思わずそう口にしたのは、また情けないことに嫉妬だ。

「みんな知ってるよ?時々指導内容でうちのクラスの先生とも言い争いとかしてるし」

思い出しているのか、ふぅと小さく吐いた溜め息のあとは沈黙が下りた。

自然と壁にかけられた装飾品に視線を向けるのは、当たり前の感情といえばいいのか。

そこに鎮座するさっきも見た、目玉のような石。今度はこちらを見張っているように感じる。


「で?やっぱりオレに訊きたいことはあるんじゃないの?」


そう言って引き留められたのは、病院を後にして名前の着替えのため一度会場に戻った時だった。

終幕に向け、慌ただしさを加速させていく周りの人間を気にする様子もなく、俺だけを見つめるその瞳はやはりどこか挑発的で、あまり好きではないと脳が判断する。

しかしそれでも、

「その腕にしてるものと色違いの装飾品、名前に贈りましたよね?」

何ひとつ隠さず零した言葉は、どこか落ち着いていた。

「うん、贈った」

まるで見せつけるように動かされた腕から、早々に視線を下げたのは嫉妬ではなく、記憶を巡らせたからだ。

「名前のクラスの講師も着けていました。色違いではない、全く同じものを。目立たないよう足首に、それもズボンの裾で隠れる位置にしていましたが」

僅かながら曇った表情に、俺は確信を得る。

「だーから着けるなって言ったのに…。目聡いやつはすぐ見つけるんだから」

独り言のように呟いた言葉も間違いないと告げていた。

正直、その"世界"のことは知らない。

俺とは決して交わらないものだからだ。

「付き合ってること、隠してるんですか?」

だからバカ正直に訊ねる。

「隠してるよ?知られると色々めんどくさいからね」

恐らく、名前はカモフラージュだったのだろう。いや、名前を始めとした生徒全員か。
少なくとも自分のクラスの生徒、スタジオに所属するスタッフ辺りには配っているはずだ。
そうしないと"不自然"になる。

証拠があるわけじゃないが、それは間違いない。

「キミの着眼点と考察力はすごいね」

見開いた目が本気なのかどうか見極める前に、

「誰にも言っちゃ駄目だよ?名前にも」

口唇に触れるギリギリで止まった人差し指は、鳥肌を立たせた。

不快だったわけじゃない。寧ろ──…

何故か、俺にはそれが酷く格好良く見えた。

「…隠す必要は?」

それでも食らい付いていったのは、誤魔化したかったのかも知れない。

「んー?愛してるから?」

俺には到底敵わない。その克己的な姿勢が眩しいという感覚を。

「だからキミもこの1年、息を潜めてたんでしょ?」

言い得て妙な言い回しに、視線を逸らしていた。

「もう一度言うけど、プレイヤーとオーディエンスの見る世界は違う。努々お忘れなきように」

帽子を深く被り直し、まるで踊るように頭を下げた姿はまるでどこかの紳士のようにさまになっている。

「でもだからこそ、キミはあの時まだ埋もれていた名前を見つけられたんじゃないかな」

意味深な言葉を残して向けられた背中は、正直キザっぽくもあったが、それ以上に見蕩れたのはその軽い足取りにあったのだと思う。


「…んしょ」

小さく呟く声で、我に返った。

「どこ、行くんだ?」
「ん?トイレ、行ってくるねって今言ったんだけど…」
「悪い、聞いてなかった。掴まれ」

差し出した右手は笑顔で交わされる。

「そこまで重傷じゃないって〜。お医者さんも歩くのは大丈夫って言っ」

力任せに抱き締めたのは、それこそ俺が未熟な子供だからだ。

"世界"が違う。

そんなことはわかっていた。最初から。

だからこそ俺は、こんなにも強く惹かれたのだというのも。

「…義勇、くん?」

明らかに状況が呑み込めていない名前が動けないのをいいことに、その髪に顔を埋める。

今にも折れてしまいそうな身体には、意識して力を加減した。

「……。ごめん。俺のせいで」

声が震える。こんな自分が、情けなくてたまらない。

「何で〜?義勇くんのせいじゃないよ?私がまだダンサーとして未熟だったから……」

同じくらい、いや、それ以上に震えた声に胸が痛む。

しがみついて泣き出したのを、ただただ抱き締めるしかできないが、それでも、ほんの少し、わずかでも名前の哀しみや不安が払拭されるように願った。

そうして抱き締めあったまま過ごした時間は、俺にとっては短いものだが、名前にとっては長く感じたらしい。

「ごめんね…。いつまでもグズグズ…。早く泣き止め、だよね…」
「そんなことは思わない」

咄嗟に返した一言に、今度は少し笑っているのが揺れる身体から伝わってきた。

「義勇くんって、優しいね」

これは、優しいというのだろうか?

考えているうちに上げられた顔にまた新しい涙を見る。

「……。義勇くんと一緒にいると不思議」
「…何がだ?」
「すごい嬉しくなったり悲しくなったり、忙しいっ」

へへっと声を出しながら笑っているのに、涙は頬を伝って、それが何故かとても美しく思えた。

「…俺も、そうだ」

同時に嬉しくもなって、涙を拭う。

「ほんと〜?」

疑うような視線を遮るように口唇を重ねていた。

「…んっ」

名前が目を閉じた瞬間、俺の頬に温かいものが伝う。

ゆっくり離した口唇は一瞬だけ真一文字に結ばれた。

「やっぱり喉、渇いてるでしょ?また口唇カサカサだよ〜?」

軽く笑っては離れていこうとする腰を掴んで、それを阻止する。

「渇いてない」

もう一度、今度は強引にしようとしたキスは、明らかに拒否するように顔を逸らされた。

「……っごめん」

その態度は、俺が今まで想定していたものを増長させていく。

「やっぱり嫌か?」
「やっぱりっ…!?嫌って、いうんじゃなくて…」
「そういう風に見られないならそうはっきり言ってくれ。その方が俺も」

スッキリする。そう言いかけた口を噤んだのは、それが本心ではないとわかっている上に、また潤ませていく瞳から新しい涙が零れたためだ。

「やっぱりとか…、そういう風に、見られないのは…義勇くんじゃないの?」

先程より震えている声に、困惑が募る。

「どうして俺が…」
「だってっどこ行っても何でもいいとかどうでもいいとか、つまらなさそうだし…」
「どうでもいいなんて言ったことは一度もない」
「それは…っ」

顔を両手で隠されて、その隙間から聞こえてくる嗚咽に、どういうことなのか意味がわからなかった。

何か認識がずれているのは、辛うじて理解はできる。

だけど、どうしてこんなに彼女が泣いているのかが、俺にはわからない。

「一緒にいてつまらないと感じたことなんて一度もない」

狼狽から口調が速くなったが、それは紛れもなく本心だ。

「どうして、そう思った?」

できるだけ優しく訊ねたのは、もはや俺の想像を超える範疇だと判断したためだと言える。

グスッと音を立てて動いた鼻のあと、懸命に涙を拭う姿がいつもより小さく見えた。

「ダンスの話しか、しないから……」

哀しそうに伏せられた目は、俺を一切、見ようとしない。

「それはっ」

咄嗟に反論しかけたが、今ここで何を言っても言い訳になってしまうと感じて、ひとまず黙った。

「私から…っ会いたいって言わなきゃ会えないし…」

そこで、ようやく気が付く。

負担にならないよう、俺が名前に配慮していたことは、逆に傷付け、不安にさせていたのだと。

「私がダンサーだから好きなんじゃないのかなって、ずっと…思ってた…!」

ようやく俺を見たその顔は、今まで見たことのないくらい悲痛なもの。

「……。そんなことはない」

情けないことに、それしか言葉が出なかった。

俺は、俺の中にあるこの感情を、正確に伝える術を知らない。

今出てくる言葉は全部、ちっぽけだ。

何を言っても名前に植え付けた寂しさを拭えない。

そう考えたのは、それこそ言い訳かも知れない。

「…っ義勇く…!」

ただ、全てが弾けたようだった。

力任せにその身体をベッドに押し倒して、珍しく乱れた髪に触れる。

こんなに泣かせるくらいなら、早くこうしておけば良かった。

怯えた表情も、今は湧き出た欲を煽っていく。

「我慢してた。ずっと」

返される瞬きは、きっと何もわかっていないのだろう。

「名前が一緒にいるのは、俺が"ファン"だからなのだろうと、思っていたから」

燻り続け、ようやく口にできた本音は、その顔を驚きへ変えていく。

「そんなこと!」
「だから、そうじゃないことがわかって良かった」
「……。義勇くん…?」

自分でも冷淡な口調だと自覚はあった。
だけどそれほどにこの感情を持て余していたらしい。

「…んうっ」

強引にした口付けに洩れた声さえ、愛おしいと思った。

舌を絡ませれば、ぎゅっと力を入れて腕を掴む指に応えるよう深いものにしていく。

「…ふ、ぁ」

甘い声はまるで脳を溶かすようだ。

ドクドクと脈打っていく全身が名前を求めている。

「…あ、えっと…、義勇くん待って」

それなのにどこか落ち着いた声で言うものだから、自然と眉間に皺が寄った。

見下ろした顔は、罰の悪そうな顔をしている。

「……。あの、トイレ…行きたいなって……」

少しだけ赤らめた顔に、冷静さを取り戻した。

そういえば、さっきそう言っていたな。

「…悪い」
「ううん」

起き上がらせたのはいいが、どこか気まずさは否めない。

「連れていく」
「大丈夫!歩けるから!」

それが遠慮などではなく、本気で拒否しているのが伝わってくるので大人しく引き下がった。

「…あの、だから、待っててね?帰らないで?」

更に赤らめた頬の意味を唐突に知ったところで、俺まで熱が上がった気がする。


此処の生きる世界


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