距離が近付くようになってからだと思う。 俺が知らない世界で生きる名前を、見たくない。 いつからかそう、考えるようになっていた。 知らなかったからこそ、こんなにも惹かれたというのに。 俺以外の人間に優しくしている姿も見たくないし、俺の知らない話をしないでほしい。 それはただの独占欲だと知っていて、彼女を苦しめることだともわかっていたから、呑み込み続けてきた。 だけど、そんな感情を剥き出しにしている自分がいる。 名前本人にではなく、その周りにいる人間にだ。 いつもなら邪魔にならぬよう、そして悪目立ちしないよう、開場しある程度人が捌けた後、もしくは列の途中に紛れながら行っていた入場は、今チケットを片手に一番前を陣取る。 何故かといえば決まってる。 舞台中央、最前の席を取るためだ。 さっきの男の踊りを間近で見たい。その目的もあったが、もう一度きちんと確認したいことができた。 記憶力にそこまで自信があるわけじゃないが、見間違いじゃない。その確信はある。 『さぁ〜!次のナンバーはロック入門ナンバー!!』 MCの叫びと共に照らされたひとりの男。 俺は複雑な感情を抱えたまま、それでも息をするのも忘れて、ただ見入っていた。 FUN for FAN? 時間は絶え間なく流れ、MCが滞りなく次から次へと紹介していく。 夜の部が終わる時刻を予測し、そこから更に名前が仕事を終える時間を算出する。 見ていたようで記憶には残っていない目の前の光景は、それだけ俺がいかに冷静でいられていないかを裏付けていた。 こんな気持ちで舞台を眺めたのは、初めてだ。 いつもなら見知らぬ他人でも、懸命に身体を動かす姿に感銘を受けていたというのに、今は頭が名前のことだけで占領されている。 『さぁ!次に参りましょう〜!ガールズヒップホップ初級〜ナンバ〜っ!』 我に返ったのは、名前がライトに照らされた時。 一瞬だけこちらを見たような、そんな気がしたが堂々と踊り出すその妖艶さにまた見蕩れる。 こんなに間近で観たことがなかったからか、目に焼き付けるように追い続けた。 もう少しで終盤を迎えるため、踊りながら前後の隊列が擦り抜けるよう変わっていく。 騒然としたのは、その時だ。 「キャアッ!」 それが誰の悲鳴だかはわからない。生徒か観客か。それでも名前ではないのは確実で、次に上がったどよめきは客席を包んでいた。 瞬きもせず見ていたはずなのに、その場で蹲る名前の姿に何が起きたのかさえわからない。 止まることない音楽に生徒達が、続けるべきか止めるべきかをわかりやすく戸惑っているところで、袖から出てきたスーツ姿に目を見開いた時には、 「止まるな!続けなさい!」 一喝と共に、名前を抱えていた。 そのまま袖に捌けていけば、動揺を隠し切れないながら再開させる生徒達。 誘発されたように、そこで初めて自分の身体が動いた。 何事もなかったように続く舞台は、勢い良く立ち上がった目端だけで見る。 何が、起きた? 重い扉を開けながら、思考を働かせる。 見ていたはずだ。俺は。 後方から前方へ回転しながら移動する名前と、その右横を通り抜けようとした生徒がぶつかったのは、この目でしかと捉えていた。 けれど、信じられなかった。 いつもならそんな初歩的なミスなど"有り得ないこと"だからだ。 「フォーメーションを変える時は結構、毎回気を張るんだよね」 名前本人がそう言っていたからだ。 何度か危なげな場面を目撃することはあっても、都度ひらりと交わしては優雅に舞う。 彼女にはそれができる力量が備わっている。 だから俺は、客として、そしてファンとして安心して観ていられた。 それが──…。 今のは、なんだ? 何が起きたのか。未だに受け止めきれずにいる。 「あ〜、ごめんなさい。こっから関係者だけなんで」 裏へ続く扉を開けたと同時に止められて、露骨に顔に出してしまった。 「恋人です。苗字名前の」 「……あぁ!いやでもちょっと今は〜立て込んでて…」 バタバタと慌ただしい気配が奥からする。 確かに俺が今ここで行ったところで何も変わらないどころか、余計な気を揉ませるだけかも知れない。 それでも、理屈ではなく、傍に行きたい。 「ちょっとごめん!こっち人足りないの!私幼児クラス連れてくるから次のナンバー全員揃ってるか確認してくれる!?」 「あ、はい」 小走りでやってきたかと思えば、俺を一瞥して立ち止まるのは、確か講師だ。 「あれ?キミ…」 それも、名前が習っているクラスの。 「いいよ、入って!そっちにいるから!」 指で指し示してから間髪入れず走っていく姿は、相当に忙しいのだろう。 言われた通りに進んだ先では、パイプ椅子に腰掛けた彼女がいた。 「……っ」 思わず呼ぼうとした名前は、向き合っているスーツ姿を視界に入れたことで止まる。 「ここは?痛む?」 「…いえ」 足首に触れる両手がそういうつもりではないのは理解してもズキッと心臓が音を立てた。 「ここは?」 「痛っ!いです…」 「…うーん、腫れてきてるな。とりあえず湿布張って病院行こう。車出すから」 「え!?でも先生、エンディング出るんじゃ…」 「大丈夫、オレいなくてもメンバーが何とか回してくれるっしょ」 「……すみません…」 肩を支えて立たせたことで、こちらを向いた顔にはドキッとする。 「……義勇くん」 「あれ?さっき自販機の…。何?友達?」 「彼氏です」 そう即答してくれたことに、こんな状況でも嬉しさが込み上げた。 「大丈夫か?」 できることならその手から攫って、俺が支えたいという子供じみた思考は飲み込んで近付く。 「うん、大丈「ちょっと大丈夫じゃないかな。思いっ切り足捻ったから」」 思わず黙り込んだ俺に、おもむろに外される帽子で初めて素顔を見た。 「病院行くけど、キミも来る?」 「行きます」 被せ気味に答えたのは、その双眸から訴えてくる何かを感じたから。 それが俺にとってあまり良くないものであるのも、伝わってきていた。 「処置しますのでこちらでお待ちくださいね」 看護士に促され、静まり返った待合室の椅子に腰かける。 さきほど触診とレントゲンを撮ったところ、骨に異常は見られないと言われた。 それだけは不幸中の幸いだと、隣の存在を気にしながらも安堵から張っていた肩を落とす。 名前がいない今、話すこともこれといって見つからず、ただ閉められた診察室の扉を見つめた。 そういえば完全に診療時間外だが、良く看てもらえたものだというのに気付く。 この講師の口ぶりから、馴染みのある整形外科なのか、滞りなく診察も進んでいったように思う。 気になることはいくつかあるが、今は何より──… 「良かった」 心の中で吐露したはずの言葉が、何故か外から脳に届いて、思わずそちらを見た。 「って思ってる?」 細くなった瞳はすでに俺のことを捉えていて、逸らすべきなのかを一瞬惑う。 しかしその前に相手から逸らされた。かと思えば、横顔から溜め息を零れ落ちる。 「良くないんだよな〜」 心底困ったと言わんばかりに髪を掻き上げ動作は男の俺でも、カッコイイ。そう、自然と思った。 「何がですか?」 何となく、ここで視線を剥がしたら負ける気がして、そこに張り付けたままで訊ねる。 「この先、後遺症が出るとも限らない」 顔の前で組んだ両手はどこか祈っているようにも見えた。 「そしたらダンサーとしての道は終わりだ」 ズキッと酷く痛んだ胸を押さえそうになる手は、どうにか抑える。 正直この件に関して、素人の俺が口を出せるものではない。 だから落ちたのは、重苦しい沈黙。 かと思えば、 「ま、見た限り大丈夫だと思うけどね〜。若いから治りも速いっしょ」 突然あっけらかんとした口調で言い出すものだから、どうにも調子が狂う。 「ん〜」という唸りと共に伸ばした手と背のあと、小さな欠伸をした。 「ずっと黙ってるけど、何かオレに訊きたいことがあるんじゃないの?」 こちらを向いた双眸に、今度こそ具体的な挑発を見た。 「別にないです」 反射的にそう返してから、窄まっていく目が面白くないといっているのに気付く。 「あとで、名前に訊くので」 とってつけたような口調にはなったが、それは紛れもない本音だ。 俺がこの講師に訊きたいことはない。 例えばここがスタジオとどういう関連性を持つのか、或いはどうしてこんなことになったのか、全ては彼女と話をすれば済むことだ。 「あ、何かオレのこと敵対してるっしょ〜?」 片目を閉じたまま笑っては、両人差し指を指してくる動作に、どうも難しい顔で見てしまう。 「もしかして名前との仲疑ってる?」 「疑ってはいません」 即答できたのは、その確信を今まで一緒にいることで持てているからだ。 少なくとも名前は、同時進行ができるほど器用ではないから平気な顔で人を欺くようなことはできない。 「貴男がどうかはわかりませんが」 牽制の意味で出した言葉に、わかりやすく眉が上へと動いた。 「あっはは!そうか〜そうだな〜!」 笑い出したその姿を、要領を得ないまま見つめる。 正直俺には、この男が何を考えているのか皆目検討もつかない。 まるでさっき観た踊りのように、捉えどころがない。そんなことを感じた。 徐々に治まっていく笑い声も、どこか現実ではないように聴く。 「はーあ」 すっきりしたのか、出された溜め息のあとでも口角は上がっていた。 「確かに、惚れてはいるよ?」 敢えて斜め上から浴びせられる視線に、寄りそうになる眉間はそこで固定したままにする。 「それは"ダンスに"っていうのが前につくけど」 まるで俺の反応を窺うかのような視線と、後出しの台詞には、反応しないようにした。 「オーディション受かったのは聞いた?」 「……聞きました」 「それがどれだけすごいことかは?」 試されている。咄嗟に、そんな気がした。 「とても簡単に言えばプロへの登竜門。ここをくぐれば最果てのない未来が見えるし、躓けばそこから先はない、とも言える。彼女はそれに見事合格」 その証拠に俺の答えなど待たず、話は進んでいく。 「名前が今度踊るのは、1万2千人の前だよ」 息が止まりそうになったのは、気のせいではない。 呑み込むのが精一杯な俺に、奴は更に畳み掛ける。 「そしてそれが成功したあかつきには、晴れてプロのダンサーとしてスタートを切る」 指先がかじかむような、そんな感覚を覚えた。 「代表が言ってたよ。本格的に名前を講師として雇い、クラスを持つって」 その言葉の真意が、俺にはわからない。 「どういう「意味かって?訊きたい?」」 明らかな敵意を、この時初めて感じた。 「夢の道筋ができたんだ。必死に努力をしてそれでも一部の人間にしか掴めない狭き門を名前は通り抜けた。オレはこれを応援したい」 何もない空間を掴むように握られた拳は、どうしてか。 とても俺には想像すらできないものを、確かに掴んでいた。 「名前はこれからいくらでも可能性がある。表現というものに対して絶対に妥協を許さないからね」 だけどその言葉に、唐突に理解できたものもある。 「どうしてオレがキミにこんなことを話してると思う?」 突き出された問いに、わからないふりができたら、良かった。 そこまで愚鈍でいられたら、俺は今でも舞台に立つ彼女をただ眺め、そこで見る風景に満足していたのか。 敵対したのは他でもない。 この男は、紛れもなく俺だった。 同じものを、同じ感情で観ている。 「俺がいたから、起きた事故だったんですね」 口にした途端、言葉以外のものすら吐きそうになった。 キリキリと痛み出したどこかを感じながら、未だ開くことのない扉を見つめる。 「自覚があるなら素晴らしい。とても厄介だけど」 向けられた笑顔は、きっと心からのものじゃない。 「何があったか知らないけど、いや、知っていても正直オレには理解ができないけど、どうして最前を陣取った?」 名前が倒れた時、信じられない。そんな気持ちが犇めいていたが、本当は違う。 違ったんだ。 俺を見つけた瞬間に、表情が変化したのを知っていた。 そこから、いつもは滑らかな動きが、枷をつけられたように重くなったことも。 俺は、気付いていた。 気付いていて、それでも──…。 その視界に入るのは、常に俺で在って欲しかった。 認めた瞬間に思わず抱えた頭。 情けないことに、涙が出そうだった。 「ダンサーであろうと、人間だから」 穏やかに出された声に、ようやく上げた目蓋。 「そりゃ好きな人が一番前で観てたら意識しちゃうでしょ?オレだったら多分その場で逃げ出してるね」 はは、と軽い笑い声が、今は逆に重いものとして心に落ちた。 「…すみません」 それだけしか、言葉として出てこない。 「まぁ、さ。やっちゃったものは仕方ないよ。これから気を付けて」 ポンポン、と叩かれた肩に悪意を感じられないのが、逆に俺を追い詰めていくようだ。 すぐ傍で揺れる目のような石にすら、咎められている気にすらなってくる。 「はい」 返事すらか細くなって、情けなさで消えたくなった。 「ステージに立つ側の人間とそれを観る側の人間は、最初から世界が違う。そこを同化させようとしたら駄目だ」 先程の穏やかさとは違い強めの口調で出された台詞に、尤もだと思ってしまったのは、俺は知ってしまったからだ。 そうやって徐々に徐々に、名前との距離が空いていくという焦りに打ち勝てなかった自分が彼女の足を、文字通り引っ張ってしまったことを。 君が僕と生きたい世界 [mokuji] [しおりを挟む] ← ×
|