short | ナノ





トイレに向かうため少し早足で出て行く背中を見送って、暫くしてから息を吐いた。
正直、浮かれてもいられない。


俺は、間違っていたのだろうか。


自然と考えるのは、これまでの身の振り方だ。

名前を大事に想うからこそ、名前が一番に大切だと想うものを優先させた。

だけどそれは結局、何一つ伝わっていなかった。

全てが裏目にしか出ていない。

ふと顔を上げて目玉石を見つめたのは、それが憧憬を沸き上がらせるからだ。

もしもあの講師のように、余裕で溢れた大人であったのなら。

そんなタラレバを考えてしまう。

そうしたら全く違う"世界"では、なくなっていたのか。

「…………」

おもむろに立ち上がって、それに触れる。

飾っているということは名前にとって──…

なんて馬鹿げたことを考えるのも、それこそ、好きだからだ。

だからこそ、どこかで切り離して考えられない限り、一緒にはいられないというのもわかってる。


「…どうしたの?」

背後から聞こえた声で、考えに耽っていたことに気付く。

振り返れば、その瞳は俺の手元を見つめていた。

「これは?」

答えを知っていても、訊ねずにいられない。

「ん?それ?さっきの先生がトルコのお土産だってスタッフにくれたの」

そんなことは露ほども知らない彼女は無邪気に答えてくれて、それが揺るがない真実だと知る。

「あの男も、してたな」

安堵から出した言葉を誤魔化すようにそれを手から離した。

「ふふっ」

しかし突然笑い出す名前の意図が掴めず、また眉が寄っていく。

「それね、実はヤキモチの証なんだよ?」
「…どういうことだ?」
「義勇くんにだから言うけど、あの先生、同じスタジオの先生と付き合ってるの」

2人きりだというのに忍び声になっては、近付けてくる顔にドキッと心臓が脈打った。
それと同時に、名前がその秘め事を知っていたことにも驚いている。

「2人とも隠してるみたいだから、私も知らないフリしてるんだけどね。他の人達はほんとに知らないみたいでこの間ロッククラスの生徒が告白したの。それもうちのガールズクラスの先生に」

ふふっとまた小さな笑声を上げるその先の詳細は、何となく掴めた。


「愛してるから?」


余裕綽々に見えたあの顔は、実はそうでもなかったらしい。

「同じか。俺と」
「…ん?」

首を傾げたその角度を利用して、口唇を重ねる。

驚きからか、よろけた足を支えるように抱き上げると舌を絡めながらベッドまで運んだ。

「…んっ」

腰を下ろさせたことで小さく声が洩れる。

「名前……」

痛む右足には触れないよう体重をかければ、また潤んでいく瞳を見た。

「…義勇くん」
「ん?」
「私のこと、好き?」

不安げに見上げる表情は、繋ぎ止めている理性を吹き飛ばしそうなほどだ。

「好きだ」

その一言で、この想いのすべてが伝わればいいのに。本気でそう、思った。

「…ほんとに?」

一体どれだけの間、俺は不安を与えてきたのだろう。

「本当だ」

陳腐な言葉しか返せない自分が憎い。

「…ふふ、嬉しい」

それでも泣きながら微笑う表情に、なけなしの理性が完全に飛びそうになった瞬間だった。

どこからともなく電子音が鳴り響いたのは。

「……あ、ごめん。多分、電話」

俺の腕から抜け出そうとするのを制止したい気持ちを抑えて、脇を抜けられるように体重を片方にずらす。

鞄からスマホを取り出したあと、見る表情が強張っていた。

「もしもしっ、お疲れ様です!」

若干高くなった声が緊張しているのを伝えている。

「…え?あ、はい、います!」

向けられた視線は、かなり困惑しているようだった。

「…はい。あ、じゃあ、代わります…」

その言葉のあとで差し出されたスマホに、今度は俺が困惑している。

「義勇くんに、代わってって…?」

名前も要領を得ていないらしい。

ひとまずそれを受け取って耳に充てた。

「…はい」
『お疲れ様〜。伝え忘れたんだけど』

さっきのスーツ姿を思い出して、また眉が寄る。

何となく嫌な予感がして、立ち上がると玄関の方へと向かった。

「何ですか?」

口調から察しようと働かせた頭は、

『ちゃんとゴムは着けてSEXするんだよ?』

あっけらかんと言ってのける向こう側に完全に止まっていた。


FUN for FAN?


『……あれ?もしかしてゴムなしでヤッた?』

こちらの沈黙を穿った方に解釈したのか、続く言葉にますます眉間が寄った。

「してません」
『あ、じゃあセーフ?』
「セーフも何も…」
『ありゃ、これはイイトコで邪魔しちゃったかな?』

ケラケラと笑うのは、確信犯だと感じる。

「どこまで把握してるんですか?俺達のこと」

回答までに要した沈黙すら怖い。

『んー、ほぼ?全部?』

響く笑声に、今日一番の眉間の皺が刻まれた。

『恋人同士に秘密はないんだよ?アイツが聴いたことは当然オレにも伝わる』

しかしその言葉には、理にかなっている。そうも納得した。

恐らく名前はこの1年の間で、俺のことを講師に相談していたのだろう。

だからあの時、

「だからキミもこの1年、息を潜めてたんでしょ?」

その言葉が出た。

キミも、ということは、この男の中で俺に対して共感に通ずるものがあるからだ。


『だから、盛り上がるのはいいけどゴムは忘れずに』


耳元で聴こえた台詞には反射的に眉は寄せたが、それが名前の将来を考えてのことだと悟って、弛めた。

ただその助言に返事をするのは悔しいので無言で通話を切る。

恐らく今も、ほくそ笑んでいるはずだろう。

かけ直してくると警戒もしたが、暫く待っても画面は変わらないので名前の元へ戻ることにした。

「先生、何て言ってた?」

俺を見るなりひょこひょこと足を引き摺って近付いてくる腕を支える。

「特に何も」

さっきのようにベッドへ沈む気にもなれず、そのまま腰を下ろさせ、俺も隣に座った。

「もしかして怒られた?私のせいで…」
「怒られてもいない。むしろ機嫌は良かった」

切る直前、今まで静寂だった空間から誰かの声が聴こえたがあれは十中八九、"恋人"だろう。

「打ち上げ楽しかったのかなぁ?」

推測する材料を持たない名前が首を傾けているのが、何だか可笑しく感じた。

「名前は行かなくて良かったのか?」
「何に?」
「打ち上げだ」
「…あー、うん」

僅かに曇った表情の意味を考えて、それは即座に出た。

「怪我、したからか?」

弾かれたように上げられた顔は、次に焦りを見せる。

「違うよ!?…いつも打ち上げ会場って決まってて、うちから遠いから誰かしらに送ってもらわなきゃいけないし、そうすると最後まで残ってなきゃいけなかったりして…。お酒もそれほど好きじゃなし…。それに……」

そこまでで噤んでしまっては、視線を泳がす。

「それに、何だ?」

続きを促したのはその態度から、少しの期待をしたからなのだと思う。

「……。そういうところ行って、あんまり、義勇くんに心配かけたくないなって、思ったから」

視線を逸らしたままの吐露は、これまでになく俺の感情を揺り動かしていく。

それでもひとつの仮定に行き着いて、口を開いた。

「だから最近、俺を舞台から遠ざけていたのか?」

何故なのか、ずっと引っかかっていたこと。

今日の発表会も、恐らく俺から言わなければ名前は誘いもしなかっただろう。

俺が──…

「…うーん、それはちょっと違う、かな」

ようやく向けられた目は、微笑んだことで少し細くなった。

「発表会でも前みたいに関係者パス渡せないでしょ?そしたら義勇くん、本当のお客さんになっちゃうじゃない?他の現場ならますますそうだし…」
「料金のことなら気にしなくていい。俺が好きで観に行ってるだけだ」
「…うん、でも…」

ギュッと握った手が、寂しそうに見えたのは気のせいじゃない。

「そうやって、距離が空いちゃうんじゃないのかなって…思ってた」

意味を理解できずに固まる俺は、そこで見ているものが違うのだと知ったのは、

「…よく、あるんだ!そういうの!ダンサーと付き合って、やっぱり"世界"が違うってすれ違いになっちゃったりすること!」

焦ったように付け加えられたその文言によってだった。

「だから、義勇くんにはダンサーの私じゃなくて、ちゃんと、普通の私を…見てほしくて、あ、見てほしいなとか…勝手に思っ「見てる」」

小さなその手に、自分の手を重ねたのはほぼ衝動的なもの。

「見てる。ちゃんと」

伝わるよう近付けた顔は、目を逸らされた。

「えへへ…。嬉しい」

睫毛の一本一本まで観察し続けたところで、おもむろにそれが揺れる。

何の言葉も交わさないまま、互いに見つめ合っては、自然と口唇を重ねた。

「…んっ」

縺れ合うように沈んだことでしなったベッドの音で、僅かながら理性を取り戻す。

「……」

咄嗟に起き上がった俺の行動は、その瞳を揺らしていった。

喉を鳴らした理由は、よくわからない。

「…このまま」

ただここで沈黙をいるのが良くないということだけは、はっきりしている。

「このまま……、したい」

どういう言い回しをすればいいのかを、短い間で随分と悩んだ。

「……。うん」

覚悟を決めたように赤らむ頬をこの時だけは直視できず、ただ視点をそこに留める。

「…したい、が、感情に身を任せて名前を傷付けたくないし、俺のせいで将来を奪いたくない」
「……どういう、意味?」

不安げに揺れる瞳が、また泣いてしまわぬよう願った。

「避妊具を…、持っていない。このままするのはリスクが高いと思う」

正直、上手くできる自信もない。その言葉は、思うだけに留めた。

ハッとした顔をしたあとで、俺の言いたいことを理解したのか、小さく頷いたのが見える。

「だから、今日はやめておこう」
「……うん」

このまま離れることはそれこそ未練は残るが、だからといってこのまま触れていれば抑えられそうにない。

起き上がるために手を支えただけでも、その欲がちらつくのだから相当だ。

「もう、帰っちゃう?」

上目遣いで訊くその表情にも、心は乱される。

「いや、もう少しいたい。名前がいいのなら」
「えへへっ、嬉しい」

心底嬉しそうに微笑うから、拙くとも本音を出して良かった。そう思った。



「これがね、今度オーディションで受かった現場なの」

テーブルを囲んでは互いにスマホの画面を覗き込む。

「……随分と大規模なイベントだな」

ずらりと並んだ出演者は、、音楽にそこまで聡い俺でなくても聞いたことがある名前が軒を連ねている。

「今年から開催される大型フェスなんだって。そこで結構の新規ダンサーを募集してて、代表が声かけてくれたんだ」
「それで、実力が認められたんだな」

どこか誇らしい気持ちになったのは、やはり俺と彼女の"世界"が違うからか。

「ようやくスタートに立てたって感じかなぁ?もしかしたら立ち消えってこともあるし」
「そうなのか?」
「うん、"一定のレベルにまで満たないと判断した場合、白紙に戻す"って契約書にも書いてあった」
「厳しいんだな…」
「一応プロの世界だからね」

足首の負担にならないよう、投げ出された右足に自然と向かう視線は、すぐに気が付かれたらしい。

「まだ期間はあるから、大丈夫だよ?」

そう言って微笑う名前には、何も誤魔化せない、いや、誤魔化したくないと思った。

「本当は、少し思っていたのかも知れない」

口火を切った俺に、真剣な表情で耳を傾けてくれる。

「名前が遠くに行くような感覚は、していた」

この1年、幾度となく、話を聞けば聞くほどに。姿を観れば観るほどに。

「俺は、そこには行けないから」

吐き出した本音が、女々しいものだともわかっている。

だけどずっと、感じていたことだ。

「そうかなぁ?」

両肘をついて、手に顎を乗せる動作は、可愛いと思う。

「ロッククラスの先生いるでしょ?今日会った」
「…あぁ」
「あの先生が言ってた。義勇くんスタイルいいしダンス習ったら化けるんじゃないかなって」

眉が寄ったのは、当然のこと。

「俺には向いてないし、自分が立つことに興味はない」

そう言い切れたのは、自分で自分のことがわかっているからだ。

例え技量は練習で補えたとしても、その舞台に立つ度量がない。

それがわかっているから、客席という安全地帯から眺めている。

「それは私も思う」

しかし想定外の答えが小さな笑い声と共に返ってきたのには、少し驚いた。

「っていうか、そう思っててほしいしその世界に興味持たないでほしいな」
「それは、どういう」

途端に尖らせた口唇が、言葉を紡ぐ。

「だって義勇くんのファンが増えちゃうじゃん」

面を食らったまま、暫く固まるしかなかった。

「俺の、ファン?」

何を言っているのかと反芻した言葉は、ますますその口を尖らせていく。

「義勇くんのファンは私だけでいいの」

俺はと言えばますます目が点になった。

「ファン、なのか?名前が、俺の?」
「そうだよ?」
「いつから?」
「逢った時からずっと」
「それは…」

勘違いではないのか。

言いかけた言葉は、

「だってずっと、義勇くんを見るとドキドキしっぱなしだもん」

両手で隠した赤らみによって止まった。

その代わり動いた身体に理屈などない。

抱き寄せた全身から伝わる心音に、思わず笑いが零れていた。

「本当だ」
「あ、笑ってる…!」

上げられた顔に引き寄せられるように交わしたキスは、触れるだけのもの。

それでも満たされていくのは、とどのつまり俺と彼女は同じ"世界"に生きているのだと、思えたからなのかも知れない。


此処の生きる世界


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