何日経っても、気は晴れない。 理由は簡単だ。 名前に、会っていないから。 またいつ会うかも約束もしていない。 だから、揺り起こされた感情は燻り続けたまま、どこにもいけないでいる。 こんなにも頭を悩ませるなら、あの時面と向かって訊けば良かったとも思うが、実際問題、できるはずがないのもわかっている。 俺は、名前の何だ? そんなことを訊ねた日には、終わる気がする。 薄々気が付いていたことだが、彼女は俺を男として見ていない。 いや、それは適切な表現とはまた違う気もするが、友人の延長線のような、そんなことを感じていた。 "可愛い下着見つけたの〜" 絵文字つきで送られてきた一行の後に表示されるのは、タグがついたピンクの下着。 大学構内で開いてしまったことに焦ったが、同時に落胆もしている。 仮にも恋人に送る内容ではないのではないか。 だから、また頭を抱える。 どう返していいかわからないまま、"そうだな"と同意だけを送信した。 こういうのを、価値観の相違というのか。そんなことを考えれば、また溜め息が出た。 だけど、この関係性を作ったのは、まさしく俺だ。 ダンサーとして生きる彼女の世界の邪魔になりたくはない。 その一心から、どうすればいいのかと考えた結果だ。 結局のところ、見守ること。 好きなことを続けていられる名前を傍で観られるなら、蔑ろにされても良かったとさえ、思っていた。 そしてそうやって我慢し続けたのが、今。 名前にとって何なのか、なんて訊けないのは訊くのが怖いからだ。 彼女にとって、俺は"ファン兼協力人"のようなもので、それ以上を望めば崩れる。 下手なことをして傍にいられなくなるなら、今のまま、一緒にいられればそれでいい。 結局そうやっていつも自分に言い聞かせては、納得している。 だけどその時はまだ、このもどかしい関係性を楽しんでいる自分もどこかにいて、そこまで深刻な問題ではなかった、とそうも思う。 FUN for FAN? 右も左もわからない駅で電車を降りて、スマホを片手にそれが示す通りに歩く。 時々財布を確認しては、チケットがあるかを確認する俺は、少し緊張していると言わざるを得ない。 スタジオ主催の発表会。 ゲネから眺めたあの発表会とは、場所も違えば生徒も講師も違う。 分校なのだから当たり前といえば当たり前だが、全く未知な世界だと自覚してから、俺は名前を観にきた完全なる客という扱いになることにも気付く。 「ちょっと駅から遠いから、道わかんなくなったら連絡してね」 チケットを渡された際、そう笑顔で言われたが、前日、当日の忙しさはわかっているつもりなので、こうしてスマホに頼ることにした。 『目的地に到着しました』 そう告げると終了した案内画面から顔を上げる。 (ここか) そこにはすでに人だかりができていて、同じチケットを持っていることに少し安心した。 見たところ、入場の待機列だろう。 最後尾に並びつつ、一応スマホを確認してみた。 当たり前に連絡はない。 こちらからしておいた方がいいのか。 いや、それを確認する時間もないだろうと自己完結をしたところで動き出した列に続く。 見事に見知った人間がいないからか、受付でパンフレットを配るいつものスタッフと目が合って、 「あ〜、名前のっ!こんにちは!」 挨拶されたことで少し心細さは消えた。 「……。どうも」 確か同じ講師の生徒で、同じくスタッフとして働いてると、聞いたことがある。 「奥でチケット捌いてますよ〜。名前」 言われた通りに視線を向ければ、スタッフTシャツに身を包み、笑顔で挨拶しているのが眩しく感じた。 引き寄せられるように足を動かした先、 「義勇くんっ」 名を呼んではますます笑顔になっていく表情が、心の底から好きだと思う。 「迷わなかった?」 「大丈夫だ」 「良かった」 短い会話の間に、チケットを切り取っては半券が返された。 このまま流れに沿って進まなくてはいけないのだとわかっているが、少しだけその場に留まる。 「頑張れ」 月並みな言葉しか言えないが、 「うんっ、ありがとう!頑張るっ」 返ってくる笑顔に愛しさが込み上げた。 その瞳に映るだけで、それだけで、いい。 最初は、そんな風に思っていたはずなのに、俺はどうしてそれ以上を望むようになったのだろう。 重い扉を開いて足を踏み入れた客席。 まだ幕が上がらない舞台は、最初に見た会館とそれほど大きさ自体は変わらないように思えた。 前方は恐らく出演者の親族が占めているだろうと、あえて中央、機材席の後ろに腰を下ろす。 開演までの間、パンフレットに目を通して、初めてタイムテーブルを把握した。 名前が出るナンバーは2部の8番目。 随分間があるなと思ったのは始まる前だけで、幕が開いてしまえばあっという間だった。 約1年、こういう舞台を定期的に見続けたからか、感じることが随分と変化した気がする。 これまでは踊れるだけですごい、わかりやすい大技で心が揺り動く。 そんな単純で表層的だった感想も、少しは深部に触れられる、そんな余裕を持てるようになった。 その世界からすれば、まだまだ序の口だとしてもだ。 ひとまず表現というものに理解は深まった気がしている。 そんなことを考えながら舞台を眺めて、半分ほどが過ぎた頃だ。 重低音から始まった洋楽と共に照らされたグレーのスーツ姿に、一瞬にして釘付けになった。 帽子を深く被っているため顔の上半分は見えないが、男であることは体型からも明らかだ。 しかし男にも関わらず、随分と滑らかな動きをする。 最初に思ったのは、それだった。 まるで重力を無視しているような足さばきは、今まで見たことのないような動きで瞬きすらも忘れて見入る。 これは、何という踊りの種類だ? ヒップホップとはまた違う。 動き自体が繊細で、どこかジャズや名前が主軸しているガールズヒップホップを彷彿とさせる。 なのに時折ロボットのような、まるで操り人形が息を吹き返したようなそんな踊りだ。 6人いるはずのそのグループは、気が付けばその人物の独壇場とすら思えるほど圧巻だった。 息をする間もなく終わったようなそれに、次のグループをMCが呼んだ瞬間、我に返る。 今のは何という講師の出し物だ? 冊子を捲って出てきた名前と顔は、初めて知るもの。 上から半分が隠れた状態では言い切れないはずなのに、俺は自然と確信していた。 あの男は、生徒じゃなくこの講師だと。 あれほどの芸当は、プロでなければできないはずだ。 そんな漠然としながらも出した答えを、あとで名前に訊ねてみることにして、そこからは続いていく出し物をぼうっと眺めた。 『それではここから10分の休憩に入りま〜す!』 MCのマイク越しの呼び声を合図に、周りが次々に立っていく。 それに少し遅れて立ち上がったはいいが、恐らくここを出たところで名前と会うのは難しいだろう。 前は貰うことができた舞台裏のパスも、20歳を迎えてから支給自体がなくなった。 だから俺は毎回こうしてチケットを購入し、会場を訪れている。 完璧な客の立ち位置だ。 だからここでウロウロしてスタッフ兼出演者の彼女に迷惑をかけたくはない。 そう結論が出たが立ち上がった手前、もう一度座るのも気が引けて、飲み物を調達することを目標に定め重い扉を開けた。 1部に出ていた出演者がちらほらと家族と談笑を交わしているのを横目に、自販機へ向かう。 一応周りを見回してはみたが、やはり名前の姿はそこにはなかった。 今頃衣装に袖を通しているのか。 ぼんやりと考えていたせいで、無意識のうちに選んでいた飲み物を取ろうとした手が滑った。 鈍い音を立てて落ちたペットボトルがゴロゴロと転がっていくのを追ったところで、目の前に立ち塞がる革靴に足を止める。 おもむろに拾った手には、とても見覚えがある。 瞬時にそう思い、顔を上げた先には目深く被られた帽子。 さっきの―… 「はい」 認めるより早く差し出された飲み物に、ついていけない思考をどうにか働かさせる。 「…どうも」 蘇ってくるのは、今は普通の動作をしているその手が、まるで本当の機械のように動いていた記憶。 しかしそれでも何か、違和を感じて、その手をじっと見つめた。 正確には見ていたのは、その腕に着けられている数珠のようなもの。 俺はこれを、どこかで―…。 「あぁ、これ?どう?カッコイイ?」 腕を上げては裾を捲る動きは、さっき見た踊りに通ずるものがある。 「……。変わった模様ですね」 「そう。目玉みたいでしょ?トルコのお守りなんだ」 見上げたことで今まで見えなかった双眸は微笑んでいて、早々に視線を逸らした。 「そうですか。……飲み物、拾ってくれてありがとうございました」 できるだけ丁寧に答えてその場を後にする。 その人物に限らず、どこで俺が名前の関係者であると知られているとも限らないからだ。 迷惑はかけたくない。 会場へ続く重い扉を開けたところで降って沸いたこの目で見た記憶。 「……っ!」 思わず振り返ったことに意味がないのはわかっている。 当たり前にさっきのスーツ姿はなく、後ろでは閊えたことで怪訝な顔をしている見ず知らずの顔があった。 流れに逆らえないまま進んで、先程と同じ席に腰を下ろす。 俺は、名前にとって──…。 また考えても仕方ないことが沸き上がったきたのは、それこそ、不安に苛まれたためだと言える。 そんな俺とは真逆に、舞台を縦横無尽に移動しながら踊る名前は、いつものように安定していた。 高めのヒールで軽やかなステップを刻んでは真っ赤なバスローブを靡かせる。 綺麗だ、と見蕩れる一方で、あの時選んだ装飾品とストッキングを見に着けている姿に、形容しがたい優越感も得ていた。 妖艶な動きで伸ばされた手先は、フリルのついた袖を上手に揺らせて魅せる。 普段使いするようなデザインではないそれに、名前が手を加えたのか訊ねた俺に、返ってきた答えが自然と蘇った。 「先生がオーダーで作ってくれたの。セクシーに魅せるっていってもね、あんまり生々しく連想させるのは目指してるものとは違うから、あくまでこういう衣装っていうのを全面に押し出すためだって」 どこか納得をした自分も、思い出した。 だから俺は、綺麗だと思うのだろう。 講師がイメージする世界観を、一ミリのズレもなく表現しようとする彼女を。 そのためなら克己的になることを厭わない。 そうして作り出される妥協のない舞台は、観客を魅了させる。 どうしてあの時、名前に目を奪われたのか。 今なら説明がつくような気がした。 『さぁ〜!これにて昼公演!全ナンバーが演目を終えました〜!皆さん!舞台までお願いしま〜す!』 MCの声と共にそれぞれの衣装に身を包んだ生徒達が壇上へ上がっていく。 それでも、そこに名前はいない。 他のスタッフの姿もないことから、そういう決まりなのだと納得をして、最後まで動かずにはいた。 夜公演の開場時間までは、それほど時間が空いてないから、きっと忙しいのだろう。 一度捌けていく客という名の関係者に倣い、会場から出る。 そこに名前がいるよう期待をしたのは、俺はこのまま帰らなければならないためだ。 夜公演のチケットは持っていない。 正規の値段で買わなければならないことを気遣い、そこまで無理しなくていいよ、と名前本人に止められた。 実際、2公演を見るとなると1日がかりで、帰宅は日付が変わるギリギリとなる。そして次の日は通常の大学での講習があるため、物理的に厳しいのものがあった。 だから、今この場で感じたそのままの感想を伝えたい。 それが拙いものであっても。 そう強く思った。 願いが通じたのか定かではないが、名前の姿を人混みの中で見つけ、迷うことなくそちらに向かう。 誰かと話しているのも見えたが、今はそこに気遣う余裕もなかった。 「あ、義勇くんっ」 俺を見るなり笑顔になる表情に、また満足する。 「じゃあまた」 手を振る人物が遠ざかっていくのも待たず、 「最高だった」 陳腐でしかない感想が口に突いて出た。 「ほんと?ありがとう〜!人数多かったけど見つけられた?」 「すぐにわかった」 「嬉しい〜!」 しかしその笑顔もすぐに困ったものと変わる。 「ごめんね、ちょっと今時間なくって、仕事に戻らないと…」 「…そうか」 「ごめん!夜の部終わったら電話するね?」 「あぁ」 すでにスタッフTシャツに身を包み、首から下げた無線からはひっきりなしに音声が流れている。 これ以上引き留めるべきではないのはそれだけで伝わってくるのに、その細い腕を掴んでいた。 「やっぱり、夜の部も観ていっていいか?」 見る見るうちに驚いたものになっていく顔も可愛い。そう思った。 「え?いい、けど。大丈夫?」 「もう一度観たい演目が出来た。チケットを購入したい」 「あ、じゃあ、こっちこっち!」 掴まれた手を振り解くでもなく、そのまま誘導していく名前へ続く。 簡易的に設置された長机に貼られた受付の文字。 その下から小型の金庫のような箱を取り出すと数字を回していく。 「当日券だから、500円高くなっちゃうけどいい?」 「構わない」 迷わず財布を出して金額を告げられる前に現金を差し出す。 「ちょっと待ってね」 蓋を開けたあと、手に取るチケットは先程俺が持っていたものとは違う色だ。 「はい。丁度戴きます」 互いにそれを交換して、現金をしまっていく動作を手にしたチケット越しに見る。 「義勇くんの観たいナンバーって?」 それが質問であることに気が付いた時には、答えが出遅れていた。 「1部の…、スーツを着て踊っていた演目だ」 「あ、ロックの?」 「そんな部門もあるのか?」 「あるよ〜!」 知らなかった。 だから少し今まで見たものとは違うと感じたのか。 「グレーのスーツを着た男がいたが、あれは講師か?」 金庫の鍵をかけながら、首を捻るのをただ眺める。 「ん〜?先生出るって誰か言ってたかな〜?ごめん。いつも裏にいるから他のナンバーのことは詳しくなくて」 「いや、そこまで親しくないならいい」 「え?」 疑問に満ちた瞳が向けられて、つい逸らしていた。 「終わるまで待ってる」 それでもその言葉をはっきりと告げたのは、いつも飲み込んでいた全てを曝け出す。 覚悟を、決めたからかも知れない。 僕が君と生きたい世界 [mokuji] [しおりを挟む] ← ×
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