short





一番大事なものを、胸を張って大事だって言うのが難しくなったのはいつから?

あの頃の私は、義勇がいればそれで良くて、周りのことなんかどうでも良かった。

だけど時が経つにつれ取り巻く環境が変わっていくのを肌で感じようになって、それに倣うようになった。

本当は義勇との関係を偽ってまで入る会社に価値なんてないって豪語できるくらいに"隠す"のは嫌だったし、そこまでしなくちゃいけない"大人の世界"も嫌いだったんだよ。

それなのに"隠す"ことにいつからか尤もらしい理由をつけるようになったし、"大人の世界"に浸っていくのすらちょっとカッコよく思えて、いつの間にか見失ってた。

"自分"というものを。

だから、目の前にいる義勇のことさえ見えなくなってた。

本当に寂しかったのは、情けない顔で散々縋った挙句、目が合った瞬間にまた泣きじゃくる私じゃなくて、それを穏やかな笑顔で包んでくれる義勇だったんじゃないか。

そんなことを考えたら、余計に涙が溢れた。

久しぶりに感じる義勇の優しさを、温もりを、これでもかってくらい噛み締めて、脇目もふらず泣いて、ようやくそれが止まった頃だ。

「そろそろ離してくれないか?」

呆れたような、でもちょっと笑いを含んだような声が頭上から落ちてきて恥ずかしくなる。

「やだ」

ぐちゃぐちゃな顔も見られたくないし、できるならずっとこうやって体温を感じてたい。

だけどわかってる。

さっき開いた扉と「また来ますね〜」って看護士さんの声でまた閉められた扉。
あまりにも私がわんわん泣いてるからちょっと引き気味な口調だったけど、多分言葉の通りまた来ざるを得ないだろうから、それまでには落ち着いてないと。
術後の説明とか、そういう諸々があるって知ってるから、いつまでも泣き喚いてるわけにもいかない。

ぎゅうっとスーツの裾を握り締めてから離れれば、義勇が苦笑っていて、つい身体ごと顔を背けた。

虚勢を張って生きるようになったのは、一体いつからなんだろう。
もう、覚えてない。

「名前」
「…なに?」

明後日の方向を向いたまま返事をしたから顔は見えてないのに、

「無事で良かった」

温かさに満ちた声は微笑んでいるのを伝えていて、また涙が出そうになった。


未来をしよう


手術が成功したって、先生から告げられたのはその後。

だからといってすぐに日常に戻れるわけじゃないから、これからの方針とか禁忌とか色々説明された。
その際に義勇のことを訊ねられて、答えに戸惑っている私をよそに、

「家族です」

なんて、しれっと言っちゃうし、先生も先生で、

「SEXはしばらく控えてください」

とか大真面目に言い出すものだから気まずいどころの話じゃなかった。

そうして扉が閉まるや否や、

「横になれ」

そう言って布団を掛けてくる義勇の姿は、どうにも腑に落ちない。

「…何?家族って」

というか、そもそも当たり前のようにここにいるけど、問題は何にも解決してないことに気付いてしまった。

「そのままの意味だ。俺はそう思っている。いや…、そう思っていた、が、名前にはそう思われていなかったらしい」

どういうこと?どういう意味?

いつもの私なら、要領を得ないって強い口調で訊き返してしまっていただろう。

でも、

「…教えて?義勇が考えてること、考えてたこと、全部。ゆっくりで、いいから」

穏やかにそう言えたのは、恋人という関係から離れたお陰だと思う。

「……あの時、いないと言ったのは」

一瞬あの時がいつのことで、何について"いない"と言ったのかと考えてしまった。

「名前を彼女や恋人だと言いたくなかった」
「…うん」

ズキッと勝手に痛んでく心は、きっとまだ義勇のことを好きなんだって知らせてる。

「俺にとってはずっと"家族"だったからだ」

決定的な違いは何なのか。模索しようとしたけれど、酷く哀しそうな表情に止まってしまった。

「もう他人ではない。お前もそう思っていると勘違いをしていたのに気が付いた」
「……勘違い?」

吸って吐いた息は重い。

「俺に苛立ちを感じていただろう?」

向き合った群青色を、とてもじゃないけど見つめ続けられなかった。

違うとは言い切れない私がいたから。

だからといって今ここで理由を述べても、それはただの言い訳だ。

「……。ごめん」

その一言しか言えないまま、俯く。

「不死川達に名前が疲れてる顔をしていると言われて、ずっと無理をさせ続けていたのだと知った。思えばあれだけ好きだった本を読まなくなったのも、一緒に住み出してからだ」

同じように俯くのが目端で見えて、落ちた沈黙。

「俺は何年も名前に甘えすぎていたらしい。…すまなかった」

更に下げられる頭には、もうどんな顔をして、どんな言葉をかければいいかわからなくなった。

でも、違うんだ。

違うんだよ。義勇が悪いんじゃない。

それは全部、私が好きでやってたことだったんだ。

寝ても覚めてもずっと一緒にいられるようになって、嬉しくて嬉しくて、義勇が喜んでくれること、一生懸命探して実践して、その度に義勇に好かれる気がして、義勇のこと理解できた気がして、楽しかった。

だけどいつからかそれが当たり前になって、感謝されないことに不満を感じるようにすらなってしまった。

義勇は何も変わらないのに、私だけが変わっていく。

不公平だっていつからか頭の隅で考えるようになってた。

好きだから喜んでほしかった。

最初はただ、それだけだったのに。

「……。ごめん」

謝るしかできないのが、情けない。

「いや、別れを告げられて当然の立場だ。むしろ今まで良く俺に付き合ってくれていたと思う」

義勇は、言わないんだ。優しいから。

私に対しての不満なんて山ほどあるはずなのに、そうやって自分が悪いって全部飲み込んで終わりにしようとする。

目が覚めた時、その膝に縋って思い切り泣いた時、もしかしたらって期待をした。

また戻れるんじゃないかって。ただただ微笑い合っていただけで幸せだった、あの時のように。

だけどもう、元には戻らない。

そう気付かされた。

「折角だから、言ってよ」

俯いていたくなくて、下手くそだけど微笑ってみる。

「私の嫌だったところ。きっとたくさんあるでしょ?」

もう終わりが覆らないなら、ひとつでも多くの笑い話にしたい。

「……。突然不機嫌になるのは、正直理由がわからなくて困った時はある」
「…ごめんね」
「少し細かすぎるところもあった」
「それはだって義勇がさぁ」

つい言ってしまいそうになる小言に口を噤んだ。
なのに見つめ合って噴き出してしまうのは不思議。

「あとは?それだけ?」
「…そうだな」

考えるように視線を動かしたあと、また伏せられた瞳にドキッとしたけど、

「相手のために色々なものを犠牲にするのは好きじゃなかった。次は気を付けた方がいい」

ハッキリとした否定に、つい顔が綻んでしまっていた。

ほんとに、何て優しい人なんだろうって。涙が出そうになってしまうほど。

「気を付けます」

これまでたくさん嫌なこととかあったはずなのに、私は義勇といられて良かった。

今、心からそう思う。

「俺の嫌なところはないのか?」
「あるよ〜。そりゃいっぱい」
「…言ってほしい」
「いいの?」

コクッと動いた頭はどことなく緊張してるように見えて笑ってしまった。

「んー、でも忘れたっ」
「遠慮しなくていい」
「遠慮してないよ。いっつもネクタイどっか置いちゃうのとか相談しないで予定勝手に決めちゃうのとか人の話聞いてるんだか聞いてないんだか返事しないからわかんないしさぁ。忘れたけどっ」

全然忘れてないじゃないかってぽそりと呟いた台詞は無視しとく。

「でもそれって重要なことかって訊かれたら、そうでもなかったんだなって思った」

きっと小さなことが積み重なって大きくなってしまっただけ。

だから結局のところ、嫌いになりきれないでいる。

「あ、でも、キャバ嬢庇ってたのはさすがに頭きたけど」
「…あれは、すまなかった」
「ん、もういいよ」

どうして謝ってるのかはわからない。
でもこれで終わりなら真実がどうであれ、そこはあまり掘り下げたくないかも。

「言葉が強くなったのは見知らぬ他人を悪く言う名前を見たくなかったからだ」
「だからもういいって…。私そんな聖人じゃないし」
「聖人ではないが簡単に口に出したりしない。例え思っていたとしてもだ」
「そう?」

何か、ちょっと嬉しくもなる。
義勇がそういうつもりで言ったんじゃないってわかってるけど、どことなく褒められた気がして。

「だけど今になってようやくわかった。病気が悪化していたせいで感情の起伏が激しかったんだな」

タイミングを図ったみたいにツキンと痛む下腹部を摩った。

「……。そうだった、の?」

自覚すらなかったし、今思い返しても全くわからないけど。
でも、それなら―…。

「少し調べた。病症が病症だけに精神にも影響を及ぼす可能性はあるらしい」
「…調べて、くれたんだ」

また小さく動く頭に、もういつだったかまで細かくは思い出せない記憶が蘇る。

二日酔いの朝とか、人生最高の高熱を叩き出した夜とか、とにかくそうやって冷静に症状を調べて、傍にいてくれた。

生ものに当たった時にはその辛さから、冷静さを薄情に感じたし移ったら大変だからって当たり散らしてしまったのに、顔色ひとつ変えないでずっと看病してくれてた。

「…義勇」

手を伸ばせば、いつだって何の迷いもなく握ってくれてた。

今も、変わることなく。

温かい手をずっと、すぐそこにあったのに。

ちゃんと私が口に出して望んでいれば、きっとこんなことにならなかったのに。

「やり直したい、よ……」

あんなに固くなってたはずの心は、その存在で簡単に解けていく。

「別れようなんて言ってごめん…。ごめんなさい」

どれだけ傷付けただろう。

そんなごめんの一言で済まないのはわかってる。

病気のせい。

義勇はそう言って、遠回しに私のせいじゃないって優しさをくれたけど、それだけじゃないのを私自身がわかってる。

心の奥底で、蔑ろにしたんだ。

私は、義勇を。

一番大事だったはずの、大事だって思ってた存在を。

「やり直したい…」

叶うなら、もう一度。

「やり直すのは無理だ」

離された手に、痛む胸はそれこそ自分勝手だ。溢れる涙も。

「ごめっ」

背を向けようとして感じたのは体温。
抱き締められてるって気付いた瞬間、抑えていた涙が零れた。

「そうやって逃げようとする名前は嫌いだ」

額にかかる吐息を感じる。

「やり直せばまた同じことになる。俺はまた甘えて、お前はまた無理をするだろう?」

あぁ、それは確かにそうかも、なんて納得してしまうのが悲しい。

「そう、だね」

それなら、もう離れるしかないってこと―…。

「一度終わらせたことを俺はやり直さない。繰り返さない」

眼前に広がる群青色はすごく真剣で、でもその意図までは読み取れなかった。

「どう、いう…?」
「読んでないのか?」
「何を?」
「別れた続きだ」

ようやくそれで理解した時には、両腕から逃げられなくなってることにも気付く。

「やり直さない。繰り返さない。自分のしたことを悔いた男の台詞だ」
「……。読んで、ない」
「…そうか」
「それで?その後どうなったの!?」

てっきりあのまま2人は終わったのかと思ってた。
だってあまりにも綺麗な別れ方だったから。

「"じゃあ"」

ゴクッと息を呑んだ私に、その口元が少し弛んだ気がする。

「"新しく始めようか"」

新しく、始める―…。

「その言葉で締め括られていた」

意識なんてしてないのにゾクッと鳥肌が立ってる。

あの物語は終わりじゃなくて、新しい始まりだったんだ。

「読みたくなったか?」
「なった!」

だってあんな終わり方で、どうやって元に…じゃない。新しく始めようって思えたのかすごく気になる。

「始まったその先は書かれてないっていうのも色々な解釈ができるじゃん?今度は上手くいったのか、それともやっぱりダメだったのかとかって!」

敢えて短く区切った章の中に何かヒントがあるかもしれない。
もしかしたらその前、周りの友達にスポットを当てた時からその伏線は続いていたのかも。
あらゆる展開を考える私の目に自然と入ってきたのは、穏やかに笑う義勇。

ドキッとした理由は、好きだからってことしかない。

「そうやって楽しそうに笑う名前がずっと好きだった」

まるで後ろめたいと思っていたこれまでの全てを許してくれるようで、でも新鮮な気もしてる。

その本音は、今まで一度も聞いたことがなかったから。

「私は…」

どうにも捻った答えを探す思考を止めた。

「そうやって、見守ってくれる義勇がずっと好きだった」

私も私で、初めて言葉にしたと思う。

ずっと思っていて、でもそれを言ってしまえばこれから先、どこかで義勇の負担になるんじゃないかって躊躇してた。

いつの間にか"許されている"ことを、まるで"流されている"と勘違いをしたから、きっと辛くなってしまったんだろう。

だから今は、嘘偽りなく伝えたい。

「好き、だよ。義勇。ずっと」

暫しの静寂のあと、細まっていく瞳をお互いに見た。

ゆっくりとした瞬きが契機になって近付く顔で完全に閉じた目蓋。
口唇に触れる感触はどこか懐かしいようで、新しいものに感じた。

額がくっついてしまいそうな距離で見つ合って、恥ずかしいんだけど思わず顔が綻んでる。

「…ふふっ」

訝しんで動く眉の動きも良く見えた。

「こんな30代の始まりも、悪くないなって思って」

事実は小説より奇なり、なんて言葉を実感してる。

「…30?」

呟いたあとでハッと見開く瞳に、今度はこちらが訝しんでしまったけれど。

「…義勇、私の誕生日忘れてたでしょ?」
「……。悪い」

素直に認めて謝る姿は何ていうか腹立たしいけど可愛くて、うまく説明できないまま吹き出してしまっていた。



掴みたくて 離したこと
守るはずで 傷つけたこと
間違ってて 間違いじゃない
愛してやろう その全てで

「未来が、始まる」



SUPER BEAVER
"始まる、未来"より抄出


[ 35/48 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]