別に、大病じゃない。 古本屋のおじいさんみたいに治らない病でもなければ、特別難しい手術でもない。 だから大丈夫。 一生懸命そうやって自分に言い聞かせたけど、これまで軽い風邪くらいで病院にもろくにかかったことがなかった私にとって、正直それは不安ばかりだった。 だからといってわざわざ両親に相談するのも気が引けて、結局当初の予定通り、ひとりで手術を受けることを決意した。 ただ入院が3泊4日になる上に、仕事に復帰できるのは1週間後という現実があるから会社には報告せざるを得ない。 下手に隠すわけにもいかないのでそのままを報告した私に後輩は、 「苗字さん、生きて戻ってきてくださいね…。死んだら怒りますよ!」 目を潤ませながら言うから、この子の悪気のなさは笑って許してしまえるな、なんて思った。 何の因果か、病院の都合で決められた手術日は30歳の誕生日。 特に何かあるわけじゃないけど、あぁ、こういうこともあるんだなって何となく感じるものがある。 今まで当たり前だと思ってたことって、そうじゃないんだなって。 正直足手纏いだと思ってた後輩を可愛いとまで思えたり、今までずっと傍にいて、これからもそうなんだろうって思ってた恋人の手を自分から離したり、何の自覚もなく進行してた病気が今になって顕れたり、とてもじゃないけど、どれも数ヶ月前では信じられないことだ。 でも、これが紛れもない現実なんだってどこか落ち着いて考えている自分もいて、そしたら悔いがないように生きようって、思えた気もする。 だからといって、思いつくことも行く場所も、私が考えることだから変わりはしないんだけど。 「あら、いらっしゃい」 敷居を跨いだあとに聞いた明るい声に顔を上げる。 「こんにちは」 いつもは店主であるおじいさんが座っている場所には、娘さんがいて心がざわついた。 「お父さん昨日からちょっと入院してるの。ただの風邪なんだけど歳が歳だから念のためね」 眉を下げながら笑ってくれて、あぁ、顔に出てたかなって改めて引き締める。 「そうなんですか」 「明日には帰ってこれるから大丈夫よ〜」 極めて明るく言ってくれてるんだからさっきみたいに返事だけを返せばいいのに、 「明日からは、ちょっとの間来られなくて…」 まるで察して欲しいみたいな含みを持たせてしまった。 未来の話をしよう 本棚を物色しながら、溜め息をひとつ。 当たり前に「どうして?」と訊いてくれた娘さんに、かいつまんでだけど事情を話していた。 私の心境を理解したように相槌だけで聞いてくれた挙句、 「入院中暇でしょ?ここにある本好きなだけ持ってっていいわよ」 そう悪戯に笑うものだから狼狽えるしかなかったけれど、 「でもちゃんと返しに来てね?お父さん認知症なのに本のことだけは憶えてるからなくなったら大変」 それが私に対しての最大限の励ましだというのを知って、素直に頷いていた。 そうして今、ズラリと並んだ本から見繕ってる。 実質3日で読めるといったら4冊、いいとこ5冊が限界。 もしかしたら体調次第で1冊も読めないことだって有り得ない話じゃないから、ここは2冊に留めておこうと決めたところで思い出す。 そういえば、アラサー女性と別れた彼氏の方はどうなったんだろう。 記憶を辿りながら見た2段目。 1冊分ぽっかりと空いた空間に、それが存在していないことを知る。 「気になるの見つけた?」 横から掛けられた声で反射的に指差していた。 「ここにあった本は…」 「あー、ちょっと前に売れたってお父さんが言ってたなぁ」 「そうですか……」 あ、私、思ったよりショックを受けてる。 こんなに気になるならちゃんと買って読めば良かった。 沈んだ気持ちを立て直せないまま選んだ2冊は、どうにも内容からしてあまり明るいものと言えないものだった。 「これとこれね。了解。お父さんには伝えとくから」 「…ありがとうございます」 「手術、頑張ってね」 まるでお守りのように渡されたそれを大事に抱えながら、家路につく。 ただいまを言わなくなってからだいぶ経つ気がしてるけど、実際はそこまで経過してない。 まだ慣れない部屋の匂いとか、暗がりでパッとつけられない電気のスイッチとか、引くのか押すのか、一瞬考えてしまう扉とか、ありとあらゆるところで実感してる。 そういえば最後に買った小説、ベッドの引き出しにしまったままだ。 あれもどうせなら入院中読みたいな。 そう思ってスマホを手にしてみるけど、家主に連絡なんてできるわけもなくて、そのままテーブルに置いた。 今更、本1冊の忘れ物で連絡なんてしたら不審がられるし、この精神状態で何くわぬ顔することもできない。 多分、顔を見たら押し潰されそうな不安を我慢できなくなる。 義勇に、甘えたくなってしまう。 自分から別れを切り出したのに、そんなみっともないことできないししたくない。 明日のことを考えると怖くなるから、無心で入院準備をして、早々に眠りに就いたけど、結局あまり眠れなかった。 * * * あの時こうしてれば良かったな、とか、こうしなければ良かったな、とか、後悔って途切れることがない。 「力抜いてくださいね〜」 遠くで聞こえる声と、勝手に下りていく目蓋。 あぁ、これでもう目覚めなかったら―…。 意識を手放す直前にそんなことを考えてしまったから、その後悔は色濃くなった。 もしこれが最期なら、誰でもない。義勇に傍にいてほしかった、なんて。今更すぎること。 「全然呑んでないじゃーん」 自分の声が響いてハッと我に返ったけど、そこは病院じゃなくて、いつだかのサークルの呑み会の光景で、すぐにそれが夢だと悟った。 俯瞰で見る酔っ払いの自分と、全く表情が変わらない義勇を眺めながら、あぁ、懐かしいなんて感情が込み上げてく。 だけどまるで第三者から物語を見てるみたいで、ちょっと楽しくもなった。 「呑んでる。これで3杯目だ」 「え?そうなの?私と一緒〜。冨岡くんってお酒強いんだ〜?」 「強いわけじゃない」 すっかり出来上がってるし。良くこんなウザイ奴、律儀に相手してくれたなぁ義勇。 「みんなと話さないの〜?」 「話してないわけでもないし、話は聞いてる」 「ん〜?何かあんま良くわかんないねっ!はは!」 憶えてなかったけど、私結構失礼なこと言ってたんだな。いや、でもこれ夢だし。その通りな記憶ってわけではないよ。多分。…きっと。 「冨岡くんさ〜、楽しい?」 「……。どちらかと言えば、楽しい」 「あ、そうなんだ〜!じゃあ良かった〜!」 ヘラヘラしてる当時の自分では気が付かなかったけど、義勇、少し驚いた顔してる。 「つまんないのかと思って絡んじゃったけど、楽しいなら良かった〜!呑み方とかさ〜、人それぞれだもんね!」 そう言いながら乾杯を強制してる自分に呆れしか出て来ない。駄目だこの酔っ払い。 しかも中途半端なところで徐々に薄れていく光景にちょっと焦った。 なんとなくわかる。これ、私の意識がハッキリし始めてるんだって。 こんな何の意味もない夢で終わり? 義勇と過ごした時間なんて長いんだから、もうちょっと何かあったでしょ?感動のシーンみたいなさ。私の脳内どうなってるの? 恨み節に近いことを考えた時には真っ白い天井を見上げていて、でもすぐにはピントの合わない視界に、何だかどっと疲れた気がする。 「……いみ、わかんない」 酷く重く感じる口を動かして、あぁ、生きてるんだって実感した。 左横に動かした顔で見るのは、傍らに置かれた冊子。 表紙の星空は、ベッドの下にしまいっぱなしだったはずのものだと知覚した途端、心臓が跳ねた。 「目が覚めたか」 穏やかな声の主を間違えようもない。 だって、今の今まで夢の中で聞いてた。 「……。なん、れ?」 本当は勢いに任せて起き上がりたいのに力が入らないし、呂律もうまく回ってない。 「しごと、は?」 弛んでるネクタイに沸いた疑問をそのままぶつけた。 「早退した」 「…なんで…?」 「お前が手術だと聞いたから」 「……なん、で?」 「何ではこっちの台詞だ。何故言わなかった?」 真っ直ぐ見つめてくる群青色は真剣で、怒気を含んでる。 麻酔から目覚めたすぐの頭で、上手い言い訳なんて思いつくほどの余裕なんてなかった。 「いいたく、なかったから」 言ってしまえば、望む答えを欲しくなる。 今までがそうだった。 私は義勇に望みすぎてたんだって、心がわからなくなって気付かされた。 気を遣っているんだから気を遣われるのは当然だって、いつの間にか心の奥底で思うようになっていて、それが叶わないから逃げるように別れを選んだ。 「そこまで俺のことが嫌いになったか」 悲しそうな瞳と考えることは全然噛み合ってなくて、それすら寂しさを助長させるから潤んでしまいそうな目を隠すために背中を向ける。 「…ちがうよ」 呟きは小さすぎたから、届いてないんだろうね。 「わかった」 溜め息混じりの一言に、また何も言えなくなる。 「それ、ベッドの引き出しに入ってた」 「…うん」 「返しておく」 「うん」 立ち上がった気配を感じて、引き留めたくなる気持ちをグッと堪えた。 「邪魔して、悪かった」 きっと本心はそうじゃない。 義勇は義勇なりに伝えたいことがあって、ここまで来てくれた。 だけど私は臆病だから、それを聞くのは怖くて耳を塞ぐように背を向けてる。 本当の終わりは、とても怖い。 だから終わらせた。 そうやって何も語ろうとしない、不器用な背中のせいにして。 扉を引く音がして、これで本当に終わりなんだって思っても振り向けなかった。 きっと私はずっと義勇のことを傷付けていて、これからも傷付けていくんだって自覚してしまったら、やっぱり怖い。 「ひとつ訊きたいんだが」 「……。なに?」 精一杯震えないように短く返した。 「それが名前の、自分らしくいられる道なのか?」 義勇にしては随分抽象的な言い方をするなって思ったと同時、急速に回り出す頭は勝手に振り向いてて、その先、右手に収まる文庫本にはこれでもかってくらい目を見開いてる。 「……それっ!」 売れたって娘さんが…、だから、私、落ち込んでたのに。 「熱心に読んでいたと店主に聞いた」 「行ったの!?」 「行った」 「何で!?え?おじいさん記憶あったの!?」 「その日は調子がいいとは言っていた。それより質問に答えてくれ」 一瞬、何だっけ?って考えてしまった。 "自分らしくいられる道なのか"? そうだ、完全に愛想を尽かされた恋人が別れたくない一心で、最後苦し紛れに訊ねた台詞にアラサー女性は心からの笑顔で答えた。 「そうだよ」って。 でも、私は? そんなの。 そんなのって…。 「…ちが、うっ」 全然違うよ。 私らしくなんていられない。 心からも笑えない。 認めた瞬間、堰を切った涙で滲む視界の中、義勇がこちらに戻ってくるのが辛うじて見えた。 不器用に頭を撫でる手で思い出す。 熱が出た時、仕事で失敗した時、人間関係が上手くいかなかった時、とにかく私が落ちてると、遠慮がちに戸惑いながら、そうしてくれた。 「…泣かないでくれ」 私以上に辛そうな顔をして、決まってそう言うから、 「無理っ!止まんない!」 逆切れに近いものを返して、腕とか身体とか、とにかく目につくものに縋っては泣く。 義勇は嫌がるでもなく黙ってそのままでいてくれたから、何の迷いもなく甘えられた。 いつからだっけ? そうすることに、引け目を感じるようになったの。 「久しぶりだな。名前がそうするの」 安心したような呆れたような、それでもひどく優しい声に、スーツが汚れるとかみっともないとか、そんなのどうでも良くなって脇目もふらず泣いた。 そうやって気が付いたのは、いつの間にかわからなくなってたのは、義勇じゃなくて私自身のことだったって。 どんな生き方が 自分の生き方か 一度決めたら変えちゃいけない そんな決まりはどこにもない 意志も 価値観も 歳を重ねてきたんだろう? SUPER BEAVER "ふらり"より抄出 [mokuji] [しおりを挟む] ← |