short | ナノ





通し稽古、専門用語でいうゲネプロが始まったのは15時を少し過ぎてからのことだ。

舞台の奥、スクリーンに流れる映像は、各講師の紹介から始まり、秒読みをして場を盛り上げていく。

次に出てきたのはMCの男。そういえば、夏の野外も同一人物だったと気が付いたのも束の間、その誘導で始まった1部、そして2部が終わるまで、正直一瞬のようだった。

完璧に作られた"プロの世界"というものを目の当たりにしたからだと思う。

正直これまでは催し物といっても、どこかままごとの延長に近いものに感じていた。

唯一、野外に至っては規模の大きさに圧倒もされたが、雰囲気はここまで厳かではなく、緊張感もそれほどない、全体的に弛いものだった。

しかし今ここでは、その世界を知悉した人間が最高の作品を作り上げようとしている。

そう、肌で感じた。

雰囲気に圧倒された。表現するなら、そうかもしれない。

ただ薄闇の中、スクリーンに流れる字幕はここに携わってきた全ての人間の名を連ねていて、その努力を敬い労わっている。そう強く感じたのも確かだ。

俺が今まで観たどの催し物よりも明らかに完成度が高いそれは、たかがリハーサルと言うには申し訳が立たないほど、心揺さぶられるものだった。

会場が明るくなってから、スタジオの代表だという講師が丁寧に挨拶をしてから、今日のところはここで、と解散を告げる。
関係者が会場を出ていく中、ひとまず流れに乗って廊下には出てみたはいいが、そのまま帰るかを迷う。
せめて一言声を掛けたいと思うが、「このあと、スタッフはちょっと残ってください」と言われていたため、邪魔にならないかという懸念もある。

「あ、冨岡くん!いた!」

結局そのまま外に出ようと決めた背中から聞こえた呼び声に、嬉しさを感じるのは仕方ない。
ただ振り向いた先、まだ衣装のままの姿には、ドクッと心臓が大きく跳ねた。


FAN for FUN


「お疲れ様〜!」
「……。お疲れ」

どうにもどこを見たらいいか迷い、足元へ視線を落とす。

「……まだ裸足なのか」
「あ、うん。ちょっと靴探すのめんどくさくて」
「寒くないのか?」
「めちゃくちゃ寒いっ」

それでも笑顔を深めたのを、無意識の内に直視していた。

「…綺麗だった」
「うん?」
「踊りだ。どれもすごかったし、カッコよかった」
「えへへ。ありがとう〜!」

元々多くはない語彙が、こういう時に限って更に喪失するのはどうしてか。

「最後、はすごかったな。圧巻だった」
「そうだよね!合同クラスだとああいう表現ができるから楽しいんだ」

2部の最後。大トリを担う舞台は、まさに物語といえるくらい壮大なものだった。

「日本の四季を表現」というMCの言葉通り、春夏秋冬をそれぞれが踊りに表していく。
主役が小さな子供たちだからか、和やかな空気のまま進んでいたそれは、突如としてけたたましく響く重低音の後、舞台が真っ赤に照らされた。

緩急をつけるよう、暗転したそこにはただ静寂が流れる。

次に光が当たった時には、苗字を中心とした9人が横1列に揃い、平伏する姿勢を取っていて、ゆっくりと上げられた顔に、そこからは彼女しか目で追えなかった。

黒い着物を纏いながら舞う姿は、救いのない深淵を表現しているようで、ただ固唾を呑むしかない。
途中、踊りながら舞台の隅に捌け、それを脱ぎ棄てたのには驚きはしたが、その下には青色の着物が羽織られていて、若干安堵はした。
そうして暫く踊ったあと、薄いピンクへと変わっていく光景で、そういう演出であると気が付いた。

纏めていた髪を故意的に振り解いた瞬間、手元に収まる扇子は正直どこからどう出してきたのか全く把握できなかった。

音に合わせ扇子を振ったのち、帯に差す動きでようやくそこにあったことを知る。

「……すごかったな」

思い返しては、また語彙を失くす。

自然と腰に収まる扇子に顔を向けたことで、気が付いたようにそれを手にした。

「えへへ。ちょっとこれ気に入ってるんだ」

そう言うと、広げてパタパタと動かす表情は、やはり踊っている時とは180度違う。

「舞台ではもっと濃いピンクに見えたが」

思ったままを言えば、俺と扇子を見比べてから眉毛が大きく上がった。

「あ、うんっ。ブラックライト当てて色が映えるようにしてるの」
「…そうか。最後の扇子捌きも良かった。手先がすごく綺麗に伸びていたと思う」
「ほんと!?良かったぁ、手の動きは今回結構苦戦して頑張ったの!すごく細かいところまで見てくれてありがとう!」

心なしか身を乗り出したからか、裾の隙間から覗く太腿が更に露わになって、どうしても視線がそちらへいってしまう。

客席からではただの着物だと思っていたそれは、薄ピンクの長襦袢に近いもので、素材も絹のような光沢があり、見るからに滑らかだ。
生地が薄いせいか透けているように見えるのがどうにも落ち着かず、どこを見たらいいのかわからない。

「こんなところで喋っていていいのか?」

せめて見抜かれないようにと出した言葉が、意外にも強いものになったと自覚した時には

「あ、そろそろ戻らないと…」

思い出したように眉を下げて笑う。

自分から口に出したのを後悔したのは、やはりその姿をもう少し見ていたいとも思うからだ。

「明日、楽しみにしてる」
「うん。あ、そのパス下げてきてね?」

言われてから、首に掛かる存在を思い出した。

「本番も入っていいのか?」
「うん。ご飯食べる時とかもそうだけど、冨岡くんが来たい時に来て大丈夫」
「わかった。明日は何か買ってくる」
「…あ、おにぎり、美味しくなかった?」
「違う。美味かった」

持っていたままのトートバックをおもむろに差し出す。

「全部食べた。明日は……、踊りのことだけを考えてほしいだけだ」
「……冨岡くんって」

小さく笑いながら受け取ったことで一瞬触れた手が、冷たいのを感じた。

「早く戻った方がいい。ここは寒い」
「…うん。ありがと。じゃあ、また明日ね!冨岡くん気を付けて!」

軽く手を振って走っていくのを見送ってから、ふっと吐いた息で緊張していたことを知る。

こうして話すだけなのに必要以上に気を張るのは、やはり俺は彼女の"ファン"ということなんだというのを再確認した日だった。

ただそれは、すごく軽い感情だったように思う。

リハーサルでもあんなに心にくるものがあったんだ。明日の本番は客が入るぶん、また雰囲気も変わっていくる。

そこで楽しそうに踊る姿を観たい。それだけだった。

その時は、そう、それだけしか考えていなかった。


「ステージには、魔物が棲んでいる」

それが有名な言葉だと知らなかった俺は、いつだか訊いた。どういう意味なのかと。

要約すれば、予想外のことが起こる。

本当に魔物が棲むのなら、今まさに、そいつが顔を出した。そういうことなのだろう。

午前の部、2部の大トリも、あともう少しで終えるという時だ。

薄ピンクの長襦袢に身を包み舞台上を移動しながら、帯に差していた扇子を取り出そうと伸ばした手元が狂ったのかはわからない。

ただ、床へ落下した。それだけは、誰が見ても一目瞭然だった。

既に苗字以外は中央に集まっている隊形で、ひとまずは何もなかったようにそこに向かうのだろう。

何となく冷静に見ていた俺は、拾いに戻った姿に驚きを隠せなかった。

明らかに不自然な行動のあと、扇子を広げ最後のポーズを決める表情は恥ずかしそうに笑っていて、それにも若干の違和感を抱く。

何事もなかったように捌けていく中、拍手や歓声は上がったが、俺は流れ始めたエンドロールより遥か遠くを見つめていた。

午後の部までの繋ぎ時間、観客は一度、会場外に出なくてならないので、とにかく足を無理矢理動かして、廊下へと出る。

思うことは、ただひとつ。

"大丈夫なのか"

その憂慮。

『観てる人に、ミスったって思わせちゃいけないんだ』

いつだか機械越しに聴いた台詞を思い出す。

『そういう振付なんだって堂々と踊る。間違えたってヘラヘラ笑うなんて有り得ない。って先生に教えられて、それだけはずっと守るようにしてるの』

柔らかい声色ながら、宿している気概を聞いていたからこその憂慮だ。

それをしてしまった事実に関してではない。

不慮の出来事に瞬時に正しく判断するのは難しい。人間誰しもがそうだ。
いくら言い聞かせていても、とっさの行動は抑えようがない。

これは贔屓目が入っているというのも認めざるを得ないが、むしろ苗字はこれまで、達観しすぎていたようにすら感じる。

だから目に見える失敗も、それに伴う照れ笑いも人間味があって、俺は可愛らしいとまで思っていた。

しかし当の本人にしてみれば、完全に笑って済ませられるものではないだろう。

落ち込んでいやしないか。

3階まで繋がるエレベーターの前、ボタンを押そうとした指を迷った挙句、下ろすことに決めた。

午後の部を終えるまでは、会わないほうがいい。

そう決めて、時間を潰すために一度会館の外へ出ることにしたのは、例え消沈しているのを前にしても俺が上手く宥められる自信はなく、場数を踏んできた彼女ならきっと上手く気持ちを切り替えられるだろうという、どこか楽観的な思想があったためだ。

この時少しでも、顔を見れば、見せれば良かった。
そう後悔するのも、正しい判断ができていない証拠。

それは、2度目に迎える佳境より早く、やってきた。

髪を振り解いてから扇子を広げて踊った後、一瞬にして帯に収める動作がまったく上手くいかず、そのまま次の振りに流れていく。
しまいそびれた扇子を片手に、それでも懸命に踊り続ける苗字をただ息を止めて見守った。

客席に背中を向けた時や、一瞬の隙を突いて帯に差そうにも悉く上手くいかないまま、結局演目を終えるまで握りっぱなしの扇子を最後、綺麗に開いた彼女の表情は、いつにも増して真剣な表情で、いつの間にか握り締めていた拳を弛めた。

良く、やり切った。

心の底からその労いを込めて、ただ舞台を後にする影を見送る。


「本日は本当に、ありがとうございました!」

代表が頭を下げ、幕が下りていく。

鳴り止まない拍手の中、俺は脇目もふらず控え室に向かうため廊下を出た。
多目室を通り過ぎた先のエレベーターを目指す前に、横の通路から出てきた出演者の波に、一度足を止める。

まだ全員裏にいただけで、戻ってはなかったのか。

気が急き過ぎたと、邪魔にならぬよう寄った端でその波が収まるのを待つ。
まばらになった流れの後方に、目的の人物を見つけた。

「あ、冨岡くんっ」

同時に気付いた右手が、大きく上げられる。その表情が笑顔だったことに、何故か酷く安心していた。

「出迎えか〜。慰めてもらえ〜」

そう言って細い肩を叩いている口の上手い講師に若干強い目を向けてから、唐突に気付く。

今俺の中にあるのは"ファン"を越えた、遥か先の感情だという事実に。


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