short | ナノ





俺はこれまで、苗字が落ち込んでいるところを一度も見たことがない。弱音すら聞いたこともない。

"ファン"として自己申告をした故だろうか。

いつも楽しそうにしている。

そんな風に錯覚していた。

好きなことを楽しんでいるのは、それだけで煌びやかに見えたからだ。

俺が関わることのなかった世界はとても眩しいから、そちら側から見える風景がどういうものかなんて、想像もしたことがなかった。


「もう帰る?」

俺が挨拶に来たのかと勘違いしたのかそう訊ねられ、すぐに首を振る。

「感想を伝えにきた」
「……2回も失敗しちゃったの見てた、よね?」
「失敗じゃない」

罰が悪そうに苦笑いをするのを見たくなくて、被せ気味で答えていた。
どうにか冷静になろうと、一呼吸置いてから続ける。

「魔物が棲まうという意味が漸くわかった。だが…、俺にとっては最高の舞台だった」

驚くであろうことは予測していたので、余計なことを考えず話を進めていく。

「どんな状況でも自分の踊りを貫く姿は、今まで観たどの苗字より綺麗だと、素直にそう感じた。正直最初こそ焦っているのは伝わってきたが、それでも堂々と踊り抜いたのは、これまでの努力の証だと俺は思っている」

これは、前日のリハーサルを観たからこそ思うことだ。
何ひとつ危なげなく、完璧に踊る姿は正直俺にとって"当たり前"の彼女で、どこか温い目で見ていた節がある。
それは観ている人間に安定感を抱かせるほどに、苗字が底知れぬ練習を重ね、行き着いたものであると知覚していても、だ。

そして、その過程を経ても尚、抗えない現実はある。

「振付なら覚えればいい。だが小道具は、タイミングをひとつ逃せば全てが狂う。それは努力では到底補えるものじゃない。だからあれは、失敗じゃない。むしろ苗字を魅せていた」

俺の拙い言葉がどこまで正確に届いているかわからない。
見開いたまま止まり続ける表情には、あの時の妖艶さはどこにもなく、笑いそうになってしまった。

「それと、またひとつ気が付いた」

ようやくした瞬きは、続きを待っている。そう感じて続けた。

「衣装すら、魅せるための一部にしているんだと」

こだわっている。そうは聞いていたが、この2日間で確信している。

「全部、振付を計算して動きが出るよう作ってるんだな」

同じ演目を何度も観る機会がこれまでなかったぶん気が付くことはなかったが、恐らく今までの衣装、どれもがそうだろう。

今回で言えば、床に寝転んで足を上げる振りの際、綺麗に裾が捲れる。そして、和服特有の袖が靡く腕の位置や角度を、完璧に仕上げていた。

それだけを注視していたわけじゃない。ただ途中で知覚した。

踊りだけじゃなく、何度繰り返しても衣服にすら大きな乱れがないことに。

故意的にそうしていると答えに行き着いたのは、自然の流れだった。
でなければ、いくら練習を重ねようがその変化は制御しようにない。


静かに動いた口唇が、言葉を紡ごうとしているように見えて、黙ったまま待ったが、それより早くポロッと音が出るほどに落ちた涙には、少し戸惑った。

「……っごめん」
「いや……。俺こそ終わったばかりなのに悪い。後で「違うの…!」」

ひとまずこの場を去った方がいいのかとした後退りを止めるように掴まれた服の裾に、心臓が大きく動いていく。

「ありがとう…冨岡くんっ」

俯いたまま絞り出す声は震えていたのに、わずか数秒で上げられた顔は笑顔を湛えていた。

「そこまで観ててくれる人って、ほんとにいなくって…だからっ嬉しくって」

泣かまいとしているのは、再度俯いた顔で伝わってくる。

言葉を、紡いだほうがいいのか。

考えているうちにも時間が過ぎて、"バラシ"を支持する館内放送が虚しく響いていく。

苗字はスタッフなのだから、恐らく参加しなくてはならないのだろう。
それでもこのまま見送りたくはないし、できることならこうして袖を掴んでいてほしい。

そう思った瞬間、その指先に力が籠もってことに若干眉を上げた。

「言わないでって、言ったでしょう…?」
「……ん」

相槌なのか問い掛けなのか、自分でも曖昧な返しだと考える。

「みんなに、ダンスしてること」
「……あぁ。誰にも言ってない」

咄嗟に返した言葉に、下を向いたままだが笑っているのがわかった。

「転校する前は、隠してなかったの。友達もイベントに誘ってたし、みんな私の前ではすごいねとか、楽しかったって言ってくれてて、だけど本当はね…」

続いた言葉に、俺は息を止めることしかできずにいた気がする。

「陰で"露出狂ビッチ"って言われてた」

一気に沸き上がったのは、純粋な怒り。
否定をしようと動いた口は、彼女から零れた乾いた笑いで止まる。

「まぁ普通、そう思うよねって。だからこっちに来たっていうのもあるんだ、実は。あのままダンス続けられるほど、強くなくて…」
「……普通は、そうは思わない。苗字は踊りが好きなだけだろう?」
「うん。…でもそう思われるのって、やっぱり私の実力が足りないんだよ」
「そんなことは!」
「だから、冨岡くんに見つけてもらえて、すごく嬉しかったんだ」

真っ直ぐ向けられた瞳は潤んでいて、今度は怒りとは違うものが溢れてくる。

「今日を最後のステージにしようって前から決めてたの」
「……最後?」
「うん。もう、卒業したら金銭的に続けていくのは難しいから。だから最後に冨岡くんにカッコイイところ観せたかったんだけど、ボロッボロで……」

あはは、と笑う表情はどこからどう見ても浮かない。

「悔いはないのか?」
「……。それは、あるけど」
「それなら続ければいい。俺は続けてほしい」
「冨岡くんって…、ほんと私の"ファン"だよね」
「もう"ファン"だけじゃない。苗字が好きだ」

言い切ったのは、ほとんどが勢いのまま。

「踊っている姿だけじゃない。全部、全てが好きだ」

ともすれば心臓の音が聴こえてしまいそうなほどの緊張感でした一世一代の告白は、きょとんとした顔だけを返されて心が折れそうになる。

「……。何とか、言ってくれないか?」
「あ、ごめん。ちょっとビックリっていうか……、冨岡くんって、そういう恋愛系とか一切興味ないのかなって思ってたから」
「興味ないわけない」

俺はどんな風にその瞳に映っているのか。ますます気になってくる。

「じゃあ、ちょっとエッチなこととか考えたりするの?」
「………………。する」
「するんだ!?」
「そこまで驚くことじゃないんだが…」

居た堪れず下に落とした視線が露わになっている太腿を捉えてしまって、尚更意識してしまった。

「……。正直に言えば」
「うん?」
「苗字の踊りを観ても、考える」

出来た沈黙の中、固まる表情を目にする。これは言うべきではなかったと思い直したところでもう遅い。

しかし、絞り出された

「……。嬉しい」

その一言には今度は俺が固まった。

「嬉しい、のか?」
「うんっ。冨岡くんにそう観られるのはすっごい嬉しい!」
「……っ」

晴れやかな笑顔にどう返答したらいいのかからず、また後退れば、掴まれていた裾が離れる。

「あ、ごめんずっと持ってた…」
「いや……」

どことなく気まずい空気に包まれて、互いに下を向いた。

「私、魅力ないのかなって思ってたんだ。冨岡くんは純粋にダンスだけが好きなんだろうって。だから…」
「魅力がないわけない。むしろ…」

どちらも尻すぼみのまま終わる会話に、またどうしていいかわからなくなる。

「……。でも、好きなら嫌じゃないの?」
「どういう、意味だ?」
「こんな格好して、踊ってるの…」

少し考える時間を要したのは、理由を言葉として探したためだ。

「確かにこれからは嫌だ」
「……。それならやっぱり「苗字が俺のものになってくれないならの話だ」」

ふっと息を吐いたのは、緊張より開き直りのようなもの。

「俺のものだと安心があれば、これからも純粋な"ファン"としていられる」

自分で言いつつどうにも矛盾を感じるのは、この際一切棄て置いておこう。

それもまた瞬きひとつしなくなったものだから、目を窄めた。

「付き合って、くれるってこと?冨岡くんが?…私なんかと?」

どうにも現実として受け止め切れてないといった様子に、抑えていたはずの感情が溢れ出る。

そうは言っても、手を握るだけが精いっぱいだ。

「なんか、じゃない。俺は付き合いたい」

初めて触れるそれは、小さくて冷たい。
それでも弱々しく握り返される力は伝わった。

「……。私、ずっと冨岡くん、好きだったんだよ?」
「……そう、なのか?」
「ほら、やっぱり気付いてなかった…」

少しだけ不満そうに曲がる口元に、言い知れぬ罪悪感が湧き出る。

「いつからだ?」
「最初に観たとき」

思考を巡らせようとする前に、

「真剣に観てくれるその青い瞳が、すごく綺麗だと思ったの。そこからもう、忘れられなくなっちゃった。でも冨岡くん、ダンスのことしか話さないから…、私になんて興味ないんだろうなって」

困ったように微笑う瞳に、俺がどんな風に映っていたのかを、少しだけ垣間見た。

「俺にとっては、苗字のほうが綺麗だ」

そんなクサイ台詞を言えたのは、受け入れられているという確信から。
しかしそれも、もっと不満そうに曲げる口に疑問が沸く。

「名前で呼んでほしいな」

上目遣いの甘い声に、ドキッと心臓が動いた。

「…名前」

途端にパッと明るくなる笑顔にも。

気が付いた時には、その身体を抱き締めていた。

「…冨岡くんっ!?」
「俺のことも名前で呼んでほしい」
「……義勇、くん」
「ん」

舞台では堂々とした立ち振る舞いだからか、こんなに小さかったことを、今初めて噛み締めている。
それでも押し返される胸元に眉を寄せた。

「嫌なのか?」
「そうじゃないっ、けど私、朝からずっと汗とか掻きっぱなしで……、メイクも崩れてるし、ちょっと、緊張しちゃう…」

上擦る声に、身体を離すと顔を覗き込むのは故意以外の何物でもない。

「俺はこうできるのが嬉しい」
「私もっ、それは!嬉しいけどっ!」

俺しか映らないように近付けた顔は、その頬を赤く染める。

「冨岡くんって、結構…グイグイくるんだね……」
「苗字こそ舞台上とは全然違う」
「…それ、は」

狼狽したあとで、曲がる口が不満を伝えた。

「名前で呼んでくれてない…」

あぁそうか、と納得したところで
「あ、私もそうだ」
なんて、悪戯っぽく小さく笑う、その全部が愛しく思う。

「でもね、ほんと……」

身を引いて逃げようとする前に腰を抱いて阻止をした。

舞台の上では映えていた綺麗で妖艶な腕も足も、こうして至近距離で直視すれば痣や傷だらけで、必死に踊り切った髪はボサボサだ。

俺が観ていたものは、彼女が観せたかったものと、同じだったのかもしれない。

唐突に、そう感じた。

何ひとつ妥協のない完璧な世界を創ろうとするその大望を、ただ綺麗だと惹かれている。

だからこそ──…

好きなことを続けるのは、容易なことじゃない。
決めたことをこだわるのは、並大抵の努力じゃできない。
輝いて観える世界は、美しいだけじゃない。

当然の事実に、ようやく気付かされた。

それなら俺は、改めて言いたい。

「綺麗だ」
「…っ、ありがとう」

これほどにないくらい、はにかんだ笑顔は改めて綺麗だと、同じことを強く思った。


FAN for FUN


先程の拍手や歓声が、まるで嘘だったかのように静まり返った場内を、重い扉を開けて進む。

「名前」

まだ口に出すのに慣れていない名前を呼べば、壇上に立つその顔がこちらを向いた。

「そろそろ施錠すると言われた」
「あ、もうそんな時間?」

ポケットにしまっていたスマホを取り出すと驚く表情が、先程より幼く見えるのは、普段着だからだろう。
それでもすぐにポケットに戻し、手招きすると悪戯っぽい笑顔を見せる。

「義勇くんも上がってみて」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫っ」

断言する力強さに、迷いながらも客席か舞台に繋がる階段を上がる。
隣に立ってから、眼前に広がる光景に目を細めた。

「客席からは遠く見えるが、案外近いんだな」
「そうなの。今は薄暗いけど照明が当たったらもっと後ろまでよく見えるよ」

笑顔を湛える横顔は、遠くを見つめている。

「ここで、踊ってたんだな」

感嘆に近い声になったのは、正直自分がその立場になったら足が竦みそうな光景しか想像できないからだ。
俺が観る風景と、名前が観る風景は、今ここでも相違しているのだろうと、何となくそんな気がする。

「私ね、メリハリをつける動きってすっごい苦手なの」

突然の暴露に、まず何を返そうか迷った。

「ついていると、思うが…」
「ありがと」

ふふっと笑ったあと、5本指を揃えた手を上げる。

「こうやってね、手首をひとつ返す動きでもダンスのジャンルによって違うんだ。ブレークとか、ブラックヒップホップとか、主に筋肉を躍動させる系統のダンスは踊れないの」

どうにも想像ができないまま黙る俺を一瞥すると手を下ろす。

「簡単に言うとロボットダンスみたいな動き」
「……。あぁ、それなら、なんとなくわかる」
「元々筋肉量の多い男の人の方が優位なのは知ってたんだけど、ダイナミックな踊りができないって弱点を知った時に、悔しかったけど、でもそのぶん、しなやかな動きは得意だって知って、今のジャンルを習い始めたんだ」
「……確かに、柔らかい身体の表現が多いもんな」
「うん。それがガールズとかR&Bとか、ジャズなの。大きな括りだけど。それは女性にしか表現できないダンスって言われたとき、なんかわかんないけど、嬉しかったんだよね」

笑顔を零しながら客席を見つめる瞳は、俺が知らない過去を思い出している。

「女の人が持つ強さとか、弱さとか、この身体全部で表現ができるって思ったからかな」

その言葉は、俺が抱えていた疑問を解決するのには十分すぎるものだった。

誇らしい。

彼女は踊りながら、常にそう伝えていた。

俺は曖昧にでもそれを受け取っていたから、目が離せなくなったのかもしれない。

「だから…、セクシーとか言われると嬉しいんだ」
「そう、なのか」
「うん」
「そう感じることは失礼だと思っていた」
「逆だよ?そう感じさせるように構成されてるんだもん」
「……。確かに、そうだな」

思い返してみれば、結構際どいものはあった上に、挑発的な踊りも多かったように思う。
そこだけを意識してはいけないと、考えないようにはしていたが。

「ふふっ…」
「どうした?突然」
「んーん。冨岡くんでもすっごい冷静な顔でそんな風に感じてくれてたんだなって思うとおかしくって」
「……。それは、蒸し返さないでくれないか…?」
「あ、ごめん」
「それと名前で呼んでくれ」
「あぁっごめん」

ちら、と舌を出して笑う姿につられて口角を上げる。

どちらからともなく場内を眺め始める瞳は、少しだけ同じものを共有できた。そんな気がする。

「もう真っ暗だ。送っていく」
「いいの?時間大丈夫?」
「いい。このまま帰らせたくない」
「……。それって」

赤らんだ顔がどういう意味なのか考えて、心臓が脈打った。

「1人で、という意味だ!下心はない…!」
「……。ないの?」
「あってほしいのか?」
「と…、義勇くんだからいいかなって思うよ?」

意識しているのかしていないのか、甘えたような上目遣いに更に心音は増していくばかりだ。

「…まだ付き合ったばかりだ。早い」
「……ふふふ」
「おかしいか?」
「んーん。嬉しいの」

一呼吸置いた口唇を、これでもかと注視したのは、

「でも、キス……は、したいな」

少し小さくなった甘い声に導かれたからだ。

想いのまま触れた口唇は柔らかくて潤っていて、そこで初めて自分の口唇が荒れていることを知った。

離れた瞬間に俯くその顔に、焦燥が募る。
何も言わずにしたことを謝るべきなのか、迷った俺の口元をなぞる指に脈打った。

「カサカサだよ?カッコイイのに勿体ない」

それだけ言うともう一度触れる口唇同士のあと、

「応急処置にグロス分けとく。あとでリップ貸してあげるね」

悪戯っぽく笑う姿に、心なしか水分で重くなった口元が勝手に上がっていって、俺はやはり、彼女の"ファン"なのだと改めて知った。

「いこっ」

グッと引かれた腕に、戸惑いながらも同じ方向を向いて歩き出す。

共鳴するものに触れて、尚のこと考えている。

どんな時も、自分と真っ直ぐに向き合うその瞳に映る全てが、輝きに満ちたものであるように、と。

そして願わくば、俺も共にその輝きを観ていたい、と。



が観ている風景

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