short | ナノ





泥だらけの長靴から、これもまたあんまり綺麗とは言えない履き潰したスニーカーに替えた所で
「名前〜」
後ろから名前を呼ばれて振り返る。
ヒラヒラと動く軍手に軽く手を振って答えた。
「もう帰んだ?」
「うん」
「まだ兄貴いんの?」
「うーん、そう」
「今回長いね〜。もう1週間?」
ケラケラと笑う友達に苦笑いを返した後、またねと言って校舎を出る。

果樹園からブルーベリーの仄かな香りが漂ってきたかと思えば、次に通り過ぎる牛舎からは肥料やら何やらが混ざった独特な臭いがして目を窄めた。
これでも慣れてる方だけど、今日みたいに湿気が多い日は特に臭いがキツくなる。
オマケに気温も高いから、サツマイモの植え付けという立派な労働で掻いた汗はまだ全然引かなくて、湿ったTシャツの襟元をばたつかせながら、もう1週間かぁなんて考えた。

何がって、大正時代からやって来たと言うトミオカギユウさんがウチに棲み付いてから。
ん?やって来たと本人は言ってないか。
大正時代の人間な気がするけど、それが本当かどうかわからないくらいとりあえず記憶が曖昧、というのが正しいのかな?
まぁとにかく、鬼の首を斬るまでとか物騒な事言い出したからひとまずお茶を濁して、これはもう110番だとやんわり席を離れようとした私にトミオカギユウさんは
「感覚も鈍っているせいか…?屋敷に戻ろうにも方角すら掴めない」
独り言みたいに呟くから、何て言うかまぁ、仕方なく?そう、仕方なく。
だってすっごい悲しそうだったんだもん。
犬が同情して大好きな歯磨きガム分けてあげようとするくらい。
めっちゃ食べた後だったけど、それでもタンジロにしては珍しい。

帰る場所がわからないってすごい心細いよねって、ちょっと可哀想に思ってしまったから…、だから言った。
「記憶が戻るまでなら」って。

丁度両親は仕事で海外だし、お兄ちゃんは都会で彼女と絶賛同棲中。
どっちも帰ってくるとしたら夏休みに入る辺りって言ってたから、このだだっ広い古民家の一部屋貨すくらい何て事ない。
隣の家との間は一畝以上離れてるから人1人増えても気付かれる事もないし、お兄ちゃんが浮気されて出戻りした時、めちゃくちゃ荒れたのもここら辺じゃ有名だから、お兄ちゃんが帰ってきた事にしとけば皆気を遣って近付いてこない。
でもそういう家の事情を、正直に言うのは流石にちょっとなって思って、当たり前に両親の事とか訊ねてきたのは曖昧に答えたんだけど、それが何か勘違いさせてしまったのか
「…そうか。肉親を鬼に喰われたのか…」
ってすっごいしみじみされて、いや、全然違うんだけどなって思いながら否定はしないでおいた。
私を仲間っていうか、同じ境遇だと思えるんならそれはそれで良いかな、みたいな。
何となく、そういうので得られる安心感もわかるから。

さっきより照ってきた陽に、折角止まりかけた汗がまた滲んできて額を拭う。
今日は特別、ほんとに暑い。流石にクラクラしてきた気もする。

「…うーん、大丈夫かな…トミオカさん…」

思わず空を見上げて呟いた。


わん はんどれっど えいと


「ただいま〜」

ガラガラッと音を立てて玄関を開けた先、行き倒れてる背中に大丈夫じゃなかったと肩を落とす。
何でいつも玄関前で倒れるかな。
「タンジロッ!」
「ワンッ!」
軽快に小走りでやってきたかと思えば、トミオカさんの上に座ってめっちゃ誇らしげな顔してる。
「降りなさい」
両脇を抱き上げると床へ移動させてその背中を見た。
「トミオカさーん?ちょっとー?」
「………」

返事がない。
だけど息はしてる。

ひとまず台所まで向かうと冷蔵庫から冷たい水をコップに注いで、冷凍庫からカッチカチに凍らせた500mlのペットボトルを抱えて玄関へと戻る。
「水です。あと氷も」
それでも反応がない首筋にペットボトルをくっつければものすごい勢いで起き上がるから、手遅れじゃなかったのは確認した。
渡した水も飲み干したから多分大丈夫。
「…助か、った…」
大きく息を吐いてる姿に、私も呆れの溜め息が出た。
「タンジロ!倒れないように見ててって言ったじゃん」
「…ワンッ!」
「はいはい。返事だけはいっちょ前ね」
「…ウウゥ…ッ!」
「怒られたからってトミオカさんに八つ当たりしないっ!タンジロの方がこの家の事良く知ってる先輩なんだから、助けてあげてよ」
頭を撫でれば思いっきり寄っていた眉間の皺が消えた。
先輩って響きが気に入ったみたいで、任せろみたいな顔してる。
「タンジロウは言葉の意味が良くわかっているな」
「タンジロです。ってかトミオカさんも毎日毎日暑さで死にかけるのそろそろどうにかしてくれません?」
「…善処はしている。今日は昨日より半歩近付けた」
そう言いながら家の奥、台所の方を見つめる瞳は鋭い。
「…ふぅん」
頷きと溜め息が一緒に口を突いた。

どうにもトミオカギユウさんは、めちゃくちゃ暑さに弱い。
そして電化製品に全く触れない、っていうか近付けない。
それがこの1週間ではっきりわかった事。

暑さが苦手なのは、何でも此処まで気温が高い時季を過ごした事がないから。
あと家電は怖いんだって。特にエアコンと冷蔵庫と洗濯機。
モーターが動いてる音とか、人工的に出てくる風の感じとか、そういうのが慣れないって言われた。
それを聞いてちょっと、そっか、とは納得した。
昔はこんなに暑くなかったとか、こんな便利な道具はなかったって口癖のようにばっちゃが言ってたから。
ばっちゃは大正じゃなくてギリギリ昭和生まれだけど、多分時代的にはそんなに凄い差はないと思う。
そう考えると暑さと家電に弱いだけじゃなくて、すごいどうでも良い、細かい事にも驚いて反応するのも何かわかる気がした。
この間も、3軒隣の料理上手なオバサンが"サバの洋風たたき"を作ったからって分けてくれたのにものすごく嫌がってたり、炭酸水を興味津々に見てたからちょっと分けてみたら一口飲んで「辛い」って言ってたり。
「あははっ」
トミオカさんにしたら突然笑い出したおかしな奴に見えたんだろうな。
凍ったペットボトルを首筋に当てながら不思議な顔してる。

面白い人だなって、そう思う。
あと何ていうか、すごく不思議。
空気がほんわかしてて、柔らかいって言うのかな。

だから何となく、此処に居ても別に気にならないっていうか、そんな大変でもない。

ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン。

振り子時計が鳴らす音の回数で今が何時か気付いて我に返った。
そうだ、暢気に笑ってる場合じゃない。
「タンジロっ」
「ワン!」
全力で振る尻尾を横目に玄関の扉を開けた瞬間、飛び出していく。
「…水撒きの時間か」
「まだ調子悪かったら良いですよ」
「いや、大丈夫だ」
そう言うと草履を突っ掛けると外へ出て行く背中を見送って、私は台所へと向かった。

一応、トミオカギユウさんには此処に居る間、"仕事"をしてもらってる。
タンジロのご飯とか、洗濯物の取り込みとかそういう簡単なもの。
少しずつ色んな事に触れて、色んな物に慣れた方が良いかなって、庭の水撒きも。
先祖が遺したよくわかんない樹齢何年の山桜とか紅葉とか、お父さんが趣味でやってる盆栽とか色々あるから、夏場はかかさず朝夕、水を撒いてってこの家の留守を任された時に言われた。
だからそれをトミオカギユウさんにやって貰ってる。
最初は散水ホースの使い方もわかんなくて、思いっきり自分の顔面にぶっかけたり、ジェット噴射して木の皮剥がしたりしてたけど、ここ数日は慣れたみたい。
庭から聞こえる水音を聞きながら、空になったコップをシンクへ置いた。

さて、今日の夕飯はどうしようかなって思いながら冷蔵庫を開ける。
今日はって言っても納豆かカップラーメンか、そんなしかないけど。
私1人なら卵かけご飯でも良いんだけど、トミオカさんが嫌がるしなぁ。
学校で育ててる烏骨鶏の卵だから、産みたてだし美味しいって勧めたけど、生魚と同じで一口も食べてくれなかった。
勿体ないから私が食べてたら、その間ずっとすんごい顔で凝視されて、トミオカさんの前で卵かけご飯を食べるのはやめようって誓った。
でもそれ以外は出したら黙って食べるし、さっきも思ったけど、特別大変な事は何も…あーうん、あった。大変な事。しかも結構厄介なやつ。

トミオカさんは、お風呂に入りたがらない。

最初、お風呂だけじゃなくてトイレにも行きたくないって言うから、それは流石にダメだって何度も使い方を教えてから最終手段で閉じ込めて無理矢理トイレには慣れさせたけど、お風呂はどうしても嫌だって今も入ってないし着替えてもない。
お兄ちゃんが残してった着替えとか下ろしたての下着とかは部屋に置いておいたけど多分下着も替えてないと思う。洗濯物で出てないから。
最初はまぁ、そこまで急に色々無理強いするのも悪いかなとか思ってもいたけど、流石に1週間も続くとちょっと、困る。
お風呂入ってくださいって言って素直に聞いてくれるかっていったら無理そうだよなぁ…。

はぁ、と無意識に溜め息が出た。

何で嫌なんだろう?
シャワーが怖いなら今水撒きも出来てないだろうし、あ、洗濯機があるから?
でも動いてなければ平気って言ってたしなぁ。

犬の嬉しそうな鳴き声とジャーッという水音で、頭に閃きが走った。
縁側の窓を全開に開けてサンダルを履いた瞬間、まだジメッとしてる暑さにこれはイケるとトミオカさんの所に走る。
「どうし」
たって言い終わる前にその右手を掴んで勢い良くノズルを犬へと向けた。
「タンジロ暑いでしょ〜!水浴びだよ!」
「ワンッ!」
ブンブン尻尾を振りながら向かってくるのを直前で交わす私の代わりに押し倒されるトミオカさんに小さくガッツポーズした。
水浴びするとテンション上がって飛びつく癖がこんな所で役に立つ日が来るなんて。
泥水に着地した服は着替えなきゃならないし、泥まみれの肉球に踏み潰されてる顔と髪はお風呂で流すしかなくなる。
良くやったタンジロ。

「あー、たいへんだー。ごめんなさーいトミオカさーん」
「タンジロウは水浴びが好きなのか」
「ワンッ」

起き上がったかと思えば、その場で胡坐を掻くと頭から水を浴び始める姿にギョッとした。
「気持ち良いな」
「ワンッ!」
びっしょびしょになってる1人+1匹にすっごい嫌な顔で見てしまう。
「そこ、お風呂じゃないんだけど…今お風呂の準備してきますって」
「此処で良い。丁度沐浴をしたいと思っていた」
「それで家上がられても迷惑なんですケド…」
「それについても心配はない。乾くまで外で待機する」
「え?着替えないんですか!?」
「着替えない」
まさかの!?そしたら作戦大失敗じゃん。
即答されたらもうどうしようもない。
水浴びしただけ良いって事にしとくしか…。
「そんなにその服が好きなんだ…」
「好きな訳じゃないが、鬼殺隊で作られている対鬼用の衣類だ。この一着しかないため脱ぐ訳にもいかない」
「…あ、だから」
お風呂にも入りたがらないんだって思ったけど、その貴重な一着にめっちゃ足跡つけてる犬の方が気になった。しかもその話聞いてからだから多分わざと。
でもまぁ涼しい顔で流してるから良いのかな。
「…あ、じゃあせめてパンツだけでも替えたら?」
キョトンとして止まったトミオカさんのほっぺたに肉球スタンプが押された。
タンジロの奴、完全にオモチャにしてる。
「ぱんつとは何だ?」
「は?下着ですよ下着!下に履く奴!こう!ボクサーパンツとかトランクスとか!履いてるでしょ?トミオカさんも!」
「………」
動作を加えて説明したのに固まったまま動かなくなっちゃったんだけど。
これはアレ?まさかのブリー
「履いてない」
「履いてないの!?」
うそ!ノーパン!?結構衝撃なんだけど!
「あぁ。履いてはいない」
「何その意味深な言い方」
「褌を履くとは言わないだろう」
何馬鹿な事言ってんだコイツみたいな顔されたけど、一瞬でフンドシ姿を想像してしまってそれどころじゃない。
そういえば昔はオシャレなパンツなんかなかったから、最初履く時すごい抵抗があったって死んだじっちゃが言ってた。


だから
褌を締めてかかるべし



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