short | ナノ





冨岡先輩は、空気が読めない。

これだけ言うと悪口に聞こえるかもしれないけど、実際そう。
同じ部署に配属されて半年も経たない新人の私でさえ如実に感じるほどに人間関係の構築が下手。それはもう壊滅的に。
喋らないし笑わない。代わりに怒ったりもしないけど。
いつも淡々と仕事をして、淡々と帰っていく。かと思えば急な飲み会とかがあると「俺は行かない」とか言い出したりとかするから、ちょっとやっぱり空気読めてないよね、みたいになる。周りが。

「あの飲み会は先輩達じゃなくて、私の同期の話だったんですよ?」

呆れてそう言っても、吐き出されるのは言葉じゃなくて白い煙。
またすぐに電子タバコを銜える口元と、分煙機付きのカウンター灰皿を見つめる瞳から、多分答える気はないんだと悟った。

「で、今日はなんですか?」

長くなる事を覚悟して、両肘をカウンターへと乗せる。
まるで訊かれるのを待ってたみたいに煙を吐くとこっちを見る顔立ちは、なんて言うかまぁ、カッコイイ。それはもう周知の事実で、だからこそ言われてる。
"残念なイケメン"と。
それは私もほんとにそう思う。だって本当に残念。

「ブランドものの化粧品が売っている場所を教えてくれないか」

休憩時間に人の事呼び出したと思ったらこれだもん。
それももう、毎日のようにされてれば慣れるけど。
「今度は化粧品ですか!?しかもブランドもの指定!?」
慣れと同じくらいに呆れてもしまう。
「ブランドものと限定したのは俺の一存で、告げられたのは化粧品が欲しいという旨だけだ」
「あぁ、そういう…。あの、化粧品ねだってる時点でちょっとどうかと思うんだけどな…」
つい口にした本音は綺麗にスルーされて、溜め息を吐いてから答えを考えた。

「駅のロータリー渡った先のビルわかります?」
「この間俺が服を買った所か?」
「そうです。多分。いや、知りませんけど…多分」
「苗字が教えた店だ。あのブランドは喜んでいた」
「ほんとに買ってあげたんですね…。そこの2階に確か化粧品専門店があったと思います。確かですけど」
「行ってみる」

それだけ言うと早々に電子タバコをしまう姿は嬉々としていて、あーあって思いながらも見守るしか出来ない。
本当は言いたいけど。

どこの世界に服とか装飾品とか、あげく化粧品まで要求する彼女が居るのかと。
いや、世の中にはそういう子も居るは居るけど。
でもそれって結局、都合の良い男って事なんじゃないのかな。

早々に喫煙所を出ていく背中に対する盛大な溜め息を我慢して、わざと少し遅れてからその扉を開けた。
服のニオイを嗅いで"タバコくさ!"ってつい心の中で呟く。それでも紙タバコの時よりかマシだけど。

「…はぁ」

溜め息を吐いて、少し前の事を思い出す。

冨岡先輩とこんな話をするようになったのは1ヶ月半程前。
喫煙所の前を通りかかった時、タイミング良くそこから出てきた先輩に、思わず
「タバコ吸うようになったんですか?」
って訊いてしまってからだ。
だって、正直驚きを隠せなかった。
いつだったか仕事の合間に、皆で喫煙者か非喫煙者かの話をしてた時は
「俺は吸わない。吸おうと思わない」
そうはっきり言ってたから。
まぁそうは言っても、だから絶対って訳じゃないかって思って納得しかけた頭は

「彼女が吸ってるから」

その一言に傾げたくなったのも覚えてる。
彼女が居た事にもビックリしたけど、理由がそれ?っていう。
あの時感じた何かは、違和感と言えば違和感だったのかも。
だけど無難に
「先輩、彼女居たんですねー」
って返した次の日から喫煙所に呼び出されては、さっきみたいに相談というか話を聞かされてる。

主に、何を買えば良いのかと。

だから"残念なイケメン"ってあだ名がピッタリだと思った。
そんなの本気出せば冨岡先輩の方が貢がれてもおかしくないのに、彼女のためにあくせくしてる姿はもう何かほんとそれ。
最初こそ、あー喜んでもらいたいんだな。好きなんだなって微笑ましく見てたけど最近はもう呆れしかない。
それってもう彼女じゃないんじゃないの?って口から出そうになってるのを何とか堪えてる状況。
そんな事言ったら当たり前に傷付くだろうし、こうやって呼び出される事もなくなるだろうから。

戻った先では、人の気も知らないでもう涼しい顔でデスクに向かってて、歩いてる間に我慢していた溜め息をこれでもかってくらいに吐いた。

空気が読めない。ほんとにそう。

どこの世界に、社内で彼女が居るって知ってる唯一の人間、しかも後輩だからって、喫煙者でもないのに休憩時間潰して話に付き合うお人好しが居ると思う?
良く考えてみて欲しい。何で私がそうしてるのか。なんて、それも言えないけど。

タバコ、吸ってみようかな。

好きな人が吸ってるから。

考えた瞬間、乾いた笑いが出てしまった。



Bitter Cigarette

Sweeter Kissing



好きは好き。そういう男女として。ハッキリとそうだ。
でも略奪なんかに興味はない。
冨岡先輩の場合は何というか特殊だし、早く目が覚めれば良いのになとは思うけど、だからって私からどうこうしようとは思わない。
そういうのは正直苦手。同じ部署でそんな恋愛絡みでゴタゴタして居づらくなりたくはないし、空気の読めない変な所で頑固者が、後輩の言う事を聞くとも思えない。

だから現状維持。
本人がそれで良くて幸せなら良いんじゃない?私には関係ないし。

そう思うのに、

思うようにしてるのに

「昨日の夜、タクシー代が足りないから来て欲しいと言われた」

明らかに異常な状況を嬉々として話すこのイケメンはアホなんだと思うたびに殺意が湧く。
その"彼女"という存在に。
これ先輩相手じゃなかったら確実にボロクソ言ってると思う。

何で男ってそういう自由奔放みたいな女にハマるの?バカみたいじゃない?
そうやって男が甘やかすから女がつけ上がっていくんじゃん。
同性だからか余計に腹が立つ。私はそんな生き方出来ないから、それで上手くいってるのを見ると尚更。これはもう完全な嫉妬だけど、理不尽だと思うよ。真似したくはないけど。

「じゃあ良かったですね。会いたいって言ってたし。少しはゆっくり出来ました?」

取って付けた笑顔で、棒読みに近い台詞を言ってみた。
当たり前に先輩がその変化に気付く事もないけど。

なんだかんだ言って、どうせその後は一晩過ごしたんでしょ?
そう認めてしまった心は凄く痛くて、あーあって感じ。
理不尽だし不毛だし不憫。なんて可哀想な私。とか思ってみる。

「明日も朝早いというので見送った」
「…はぁ!?」

可哀想なの私じゃなくてこの人だった。

「その場で見送ったんですか?タクシー代払って?せめて家には?」
「0時過ぎての訪問は流石に失礼だろう」
「…0時過ぎての呼び出しは失礼じゃないのかな…」

ダメじゃんほんとに。恋は盲目っていうけど、完全にもう何も見えなくなってる。
目を窄めたのは、吐き出される煙のせいじゃない。
「そういえば何でそれに変えたんですか?」
気になっていた事由を、今この場で訊いてみる。
「加熱式のタバコは一緒に居るとニオイが移るから嫌だと、これをくれた」
愛おしそうに見つめるそのちっぽけで細いもの。
そんなもので何万、何十万という金づるを繋ぎ留められるなら、何本でも買うわって思ってしまった私は心が汚れてる。

煙を目いっぱい吸い込んだその肺よりきっと真っ黒だ。

「彼女の写真とかないんですか?」
「ない。照れて一緒に撮りたがらない」

話を聞けば聞く程、黒く染まってく。

私はその場を見てないから、その情報だけで判断しちゃいけないって思う。
思うけど、でもこれは流石にないんじゃない?

人と人の付き合い方に正解なんかないけど、私には何にも関係ないけど、でもだったらせめて――…

「先輩、彼女とそんなに会えないって言ってましたけど」

好きでいてよ。愛してあげてよ。

「今まで何回くらいエッチしました?」

そうじゃないなら、気持ちがないなら、少しだけでも満たしてあげていて欲しい。

冷静に出した質問に先輩が驚かないはずもなく、少しの沈黙の後で聞こえた

「まだだ。付き合ったばかりだから、大事にしたい」

ほんとにおバカさんな回答に、心臓がぎゅっと痛くなったし、同時に乾いた笑いも出た。

「付き合ったばかりなら尚更何でそんな扱いされてるの?」

止めようとした言葉も気付いた時には声になってて、あーあって諦めみたいな気持ちになる。

「そんな扱いとはどういう事だ?」
「オカシイと思いません?自分で。贈り物とかはまぁ、度が過ぎなければアリだと思うけどそのタクシーの件って」

言わなきゃ良かった。すぐにそう、後悔してる。
だってそんな悲しそうな顔するから、まるで私が悪いみたいに思えてくるのが凄く悔しい。
間違った事言ってないのに、言ってないけど、私が思う正しさはこの人にとっては傷付くものなんだと思うと、もう何も言えなくなる。

深く吸って、大きく吐いた息。
これで煙を吸い込んでたら、少しはスッキリするのかな。

「なんて。あんまりカッコつけて手ぇ出さないとヘタレだと思われますよ。時には強引に迫られた方が女は嬉しかったりするんだから」
「そうなのか?」
「そうですよ」
「…やってみる」
「頑張れ先輩!」

我ながら、酷いと思う。何がってその提案が。
その先はどっちにしたって地獄だもん。
"彼女"が受け入れたら私にとっての地獄だし、受け入れなかったら先輩にとっての地獄だ。
後者だったらこちらにとってはオイシイかも。そう考える時点で腐ってる。真っ黒だ。

「実は今日の夜、会う予定でいる」

やめてよ。そんな嬉しそうに言わないで。
こんな感情しか持てない私こそ、地獄で苦しめば良い。

「なーんだ。ちゃんと約束してるんじゃないですか」

笑ってる筈なのに、1ミリも動いてない口元に気付いてよ。
溢れてきそうな涙に気付いてよ。

そんな無機質なもの愛おしそうに見てないでさ、今ここに居る私を見てよ。

私なら、先輩の事ずっと好きで居られるのに。

「あーあ、いいなー恋人。私も作ろうかな」

そんな気なんてこれっぽっちもないのに強がり言って、カウンターに突っ伏してみる。
潤んだ目を隠すために。そんな小細工しなくてもこっちなんか見向きもしないだろうけど。

「苗字ならすぐに出来るんじゃないか?」
ほんと空気読めない人。困っちゃうな。涙出てきそう。
「残念ながら私のお眼鏡に適う人が居ないんですよー」
やっと好きになった人もこんなんだし、やだやだ。世の中って私に優しくない。

「あまり灰皿部分に近寄ると臭いが染み付く」

心配する所もどっか見当違いだし。

「もー良いですよー。ここに居る時点でニオイ付くし。私もタバコ吸おうかなー」

しかも敢えて紙の方で。
そしたらふとした時に漂う残り香に寂しくなる事も、悲しくなる事もないから。

「やめた方が良い。美味くはない」
「喫煙者とは思えないセリフー…」

呆れて上げた顔の先には私を見つめる青い瞳があって、勝手に綻んでいく頬はもう一度突っ伏して誤魔化した。

* * *

カタカタカタカタカタ。

自分で出してるくせにタイピング音がうるさいなって思うのは集中出来てない証拠。
何度も止めては天を仰いで溜め息ばかり。全然進まない。
こんな事なら聞き分けが良いフリして残業なんか買って出なきゃ良かった。
でも家よりか、まだ会社で1人の方が気が紛れるかも知れないとは思い直す。

どこぞの誰かは今頃仲良くご飯でも食べてるのかな。強引にいくって言ってたから、そのままホテル直行だったりして。
「……はぁ」
どうしてそう自分が傷付く想像ばっかしちゃうの?バカみたい。

明日からどんな顔して、"彼女"の話聞けば良いんだろ。

プルルル…

突然鳴り出した電話に、それが外線からだというのをランプで知る。
営業時間外だし取らなくても問題ないんだけど、受話器を上げたのは何となく気持ちを切り替えられる何かが欲しかったから。

「はい」

丁寧に会社名を告げた後も、何の返答もない向こう側にちょっと眉を寄せた。
「もしもし?」
聞こえてくるのはノイズ音で、もしかして電波の関係かも知れないと続ける。
「申し訳ありません。お電話が遠いようでして」

プツッ。

切断音の後には、完全に通話が切れた単調な電子音。

「…嫌がらせかよ」

吐き捨てながら、ちょっと乱暴に置いた受話器。
その動きだけで漂ってくるタバコのニオイに悲しくなった。

さっさと終わらせて帰ろう。コンビニで酒でも買ってかっくらって寝てやる。そんで明日は寝倒す。それくらいしか楽しみがない。

腹立ち紛れにパソコンを打ち始めたおかげか、そこからは何も考えず仕事に集中出来た。

多分そこからは15分足らずで会社を出たと思う。
仕事を終えたんじゃなくて、途中から係長の確認が必要な部分が出てきたから今日はもう無理っていう諦め。
だから私は偉い今日も頑張ったって気持ちでコンビニに寄って、軽く夕飯とビールを2本買って帰路へ着く。
この場でかっくらいたい気持ちはあるけど、行き交う人々の目が気になるのでぐっと抑えて、早足で歩いていた所、向こう側からフラフラとした足取りでやってくる人影を見止めた。

スーツ着てるっぽいから会社帰りに出来上がった酔っ払いかな?
明日休みだし羽目も外したくなるよね。
だけど下手に絡まれるのはごめんだから外そうとした視線はその顔を見た途端に止まったし、足も止まってた。

「…冨岡先輩!?」

酔っ払いだと思った人物はまさにその人で、思わず目を疑ったけど間違いない。
街灯に照らされた青色の瞳は少し潤んでて、それにもドキッとした。

「何してるんですか!?デートじゃ…」

最後まで言えなくなったのは、想定していた地獄が現実のものとなってしまったのを悟ってしまったからだと思う。

「…予定が入ったから会えないと言われた」
「じゃあ1人で呑んでたんですか?今まで」

タバコよりも強く鼻につくお酒のニオイに眉を顰めた。
赤味を宿す顔は珍しいけど、こんなに呑む人だったっけ?
何回か、ほんとに数えるくらいしかこの人が呑んでる所見た事ないけど、呑み会でも隅の方で静かにしてた記憶しかない。

「帰ろうと、駅に向かったら」

途切れ途切れの声を聞き逃さないように耳を傾ける。

「男とホテルに入っていくのを見た」

一瞬、心臓が止まりそうになった。
想定してたよりもキツイ地獄だって理解した瞬間に思考は動いたけど
「ホテルって言ってもピンからキリまであり「ラブホテルだった」」
その言葉にはもう何も返せない。

あーあ。口に出しそうになったのは我慢はする。
でもほんと、あーあ、それしか言えない。もう何の言い逃れの出来ないくらいに真っ黒。

だからこんなに足元がおぼつかなくなる程呑んだの?
バカみたいだよ、先輩。

そんなに傷付くなら、私が悪者になってでも止めれば良かった。
話で聞いただけだからわからないとか、そんなのわかりきってた事なのに、嫌われたくないからって言及を避けて、結局こんな泣きそうな顔させてる。

バカみたい。ほんと。私が。

「…よーし、ヤケ酒しましょ!付き合います!」

こんな時にそうやって腕とか掴んで、心の隙間に入ろうとしてるのもほんと最低。
最低だってわかってるけど、放っておける訳がない。好きなんだもん。

「何処へ行く…?」

引っ張られる手を解こうとしないのは、酔いによる判断力の低下なのもわかってる。
わかってるから、今ここで勢いにだけ任せたい。

「私の家ですよ。すぐそこなんで」

普段の先輩なら、この時点で断ってるだろうな。
今ついてくるのは正常じゃない。それだけ。

だから「どーぞ」って玄関を開けた時も、靴を脱いだ時も、テーブルの前に腰掛けた時も、全部がドキドキした。
いつ帰るって拒否されてしまうか。それだけが怖くて気が気じゃない。
ビールのプルトップを開けて、乾杯してる今さえ怖い。

「ぐいっていっちゃって!ほら!」

だからそうやって呑むのを促してる。冷静に判断する隙を与えないように。
ゴクッと動いた喉を見ながら、私も一気にそれを流し込んだ。こんな状況でシラフでなんかいられない。

「はー、うまっ」

わざと大きめにしたリアクションは場を盛り上げるためなんだけど、缶を持ったまま俯く姿には利かないと知って、静かに呑む事にシフトした。

かなり落ち込んでる。まぁ、それはそうだよね。そこまでの光景を見てすぐに立ち直れる訳ないか。
ほんとに好きだっただろうし。

「…"そんな扱い"と言っていた意味が、わかった」

しっかり私の言った事覚えちゃってるし。
いや、でももしかしたらそうじゃないかも、なんてそんな事が浮かんだけど、絶対に口にしない。
もう私が"彼女"という存在を肯定する必要はどこにもないから。
だけどそこで、そうですよって全てを否定もしないよ。

だって、そしたら先輩は傷付くでしょ?

だから回答は沈黙。

「…薄々、勘づいてはいた。他に男が居るんじゃないかと」

私が黙ると、先輩はそうやって自分の気持ちを吐露するから。
わかってる。話を聞いて貰いたいだけ。いつもそう。
私は訊かれた事だけに答えていれば良かった。

「認めたく、なかったんだろうな」

ちょっとだけ震えた声が愛おしい。

そうやって冷静に考えようとしちゃうところ、好きだよ。
相手に対して恨み辛みを零さないところ、好きだよ。
盲目的にでも信じようとするところ、好きだよ。
不器用なりに頑張ってるところ、好きだよ。

先輩の全部が好き。

ねぇ、だからさ、

「私にしたら良いのに」

驚きで見開いた群青色は、とても綺麗。

「私ならめちゃくちゃ先輩の事、大事にしますよ!高いプレゼントも高級料理もいらないし!かなりの低コストで済みますからお買い得です!」

ぐっと立てた親指に苦笑いにも似たものだったけど、ちょっとだけ笑ってくれたのは安心してる。

それが私を受け入れるという意味じゃないのはわかってるけど、だから、せめて

「先輩をそんな風に想ってる人間も居るんです。それだけは、忘れないで」

今日その目で見た全てが、悲しいものばかりでないように願う。

願うしか出来ないから、悔しくて涙が出るのかも知れない。

「…苗字」

顔を上げれば、さっきより遥かに近い場所に先輩が居て、見下ろす青には熱を感じる。
ゆっくり目を瞑った後に少しだけ流れた静寂も、重なった口唇で吐息だけが漏れた。

* * *

「…ん」

開き切らない目蓋で、半分ほどになった視界。
目の前に広がる自分の部屋が明るくて、朝なんだなって知る。
途端に寒気もして、裸なのも気が付いた。

そっか。私、昨日あのまま冨岡先輩とシたんだった。
ほんと、なし崩し的に。

起き上がって周りを見回しても、そこに姿はない。
一瞬、都合の良い夢でも見てたのかと思ったんだけど、身体に残る違和感とかゴミ箱に入ってる大量のティッシュとか、そんなので現実を噛み締める。

脱ぎ散らかしたままの服を片付けながら、そのまま洗面所に向かった。
お風呂入ってもっかい寝よ。
暢気に考えるフリをして、頭から浴びたシャワーに隠れて泣いたのは、後悔しか湧いて来ないから。

私が寝てる間に帰ったであろう先輩は、きっともっと後悔してると思う。

酔った勢いだけで、気持ちがない。

それが、苦しませる原因。

身体だけの関係とかそういう割り切りを出来る程、先輩は器用じゃない。
そんな事が出来てたら"彼女"とかいう名の最低な女に振り回されてないし、もっと上手く立ち回れてる。
ただ一晩一緒に居たって、そこから始まる何かはない。
それがわかってて、受け入れてしまった。

正常な思考に戻った先輩が自分を責めるのをわかってても、受け入れたかった。

ほんと、バカみたい。

これでもう、会社ですら会話をする事もなくなる。

全部わかっていても、たった一時でも私を見て欲しかった。

バスタオルを身体に巻いて部屋に戻る頃には泣き止んだけど、それで心が晴れた訳じゃない。
そのままベッドに横になれば少しだけ残り香がして、あーあって思う。

先輩は、その"彼女"とこれから先どうするんだろう?
やっぱり割り切れないから、現状のままいたがったりしたりして。
そしたらもうほんとにおバカさんだけど、有り得なくもないって考えちゃう辺り、本当、先輩の憎めないところ。

「…まぁ、もう関係ないけど」

吐き出した言葉は虚しい。
涙が一粒落ちそうになった時、ガチャッと音を立てて開いた玄関に心臓が跳ねた。

「…起きてたのか」

姿を現した昨日のスーツのままの先輩に起き上がったまでは良いけど、面を食らったまま動けなくなる。

え?戻って、きた?何で?

「丁度良かった」

紙袋を片手に隣へ座る表情が、見る見るうちに険しくなった。

「…泣いて、たのか?」
「は?え?あー、いや、これは…」
「俺が勢いで抱いたせいだろう…?」
「いやそれはっ」

涙を拭う指が優しくて、もう飛び跳ねそうなくらい嬉しくなる。
でもそれって私だけなんだよね。

「…後悔、してますよね。先輩」

だから、その質問をする。
何でって、終わらせるために。
肯定されて私が気にしてないと言えば、少しはそれも消化出来るから。
そうやって、終わりにする。

ぐっと息を呑んで返答を待ったのに、少し驚いた顔をした後
「これを買ってきた」
紙袋から何かを取り出すマイペースさにほとほと呆れてしまったのは一瞬。

開けられたケースの中に収まる大きなダイヤがついた指輪には、理解が全く出来ない。
驚きすぎると、心音すら変わらないらしい。

「…なにこれ」

妙に冷静な口調で言ってしまった。

「指輪だ」
「それは、うん。指輪ですけど」
「嵌めても良いか?」
「え?」

答える前に左手を攫われて薬指を通っていく冷たい感触に、もしかして現実じゃないんじゃないかなと思う。

「結婚を前提に付き合って欲しい」
「は?え?何でですか?」
「順番を違えた男は駄目か…?」
「駄目じゃっないですけど…え?」
「これが俺なりの責任の取り方だ」

その言葉で、全部の意味はわかったけど悲しくなった。

やっぱりこの人って、空気読めない。

「先輩、そんな重く考えなくて大丈夫ですよ。たった1回シたからって彼女になれるとかそんな烏滸がましい事要求したりしないし。私にとっては好きな人とデキてラッキーみたいな感じなんで、こんな指輪まで…」

ほんと不器用だなぁって思った瞬間に、涙が零れる。

「そうやって妄信的だから、変な女に捕まって貢がされちゃうんですよ…」
「…それに関しては、反省している」
「反省してるなら今のこれもダメです。極端すぎるし」
「何故駄目なんだ?」

真剣な表情に一切嘘はなくて、完全に言葉に詰まってしまった。

「…喜んでくれると、思ったんだが…」

本当にもう、空気読めない人。

そんな悲しそうな瞳して、そうやって目元へ触れる指は優しくて、あーあって感じ。
もうこの人、私が居てあげなきゃほんとにダメだなって。
見張っててあげないと、いつかもっと酷い目に遭いそう。

「先輩?」
「…何だ?」
「とにかく物で愛情を表現しようとする癖やめた方が良いです」
「なら、どうすれば良い?」
「口があるじゃないですか」

暗に"言葉で伝えよう"そう言ったつもりだったのに、重なる口唇には驚いた。
そのままベッドに沈む身体と、首を撫でていく柔い感触に眉を顰める。

「先輩っそういう事じゃなくてっ…」
「嫌か?」
「嫌、じゃないですけど…」

むしろ嬉しいって言う前に、耳へ触れた口から発せられた

「好きだ。名前」

その言葉が耳に溶けた時には、もう何もかもどうでも良くなって大きな背中に手を回していた。

* * *

「お疲れ様です」

ひょこっと顔を出した先には、スマホをいじる先輩。
相変わらずこの喫煙室に呼ばれるのは日常だけど、違うのは関係性。

「何見てるんですか?」
「普段使いが出来る指輪を探していた」
「だから買わなくていいんだって」

呆れた私の顔から移った視線は左手に向かって、自然とそこを摩る。
贈られた指輪は身に着けてない。
店員さんに薦められるまま買ってきたのは婚約指輪だったみたいで、デザイン的に常時着けてるなんて出来ないって言ったら、今度はシンプルなものを、なんて言い出して、やっぱこの人変わらないなって思った。

「俺が買いたい」

そういう頑固な所も。

「そういえば何でサイズわかったんですか?」
「名前が寝てる間に測った」

変な所で行動力があるのもそう。

「こういうのはどうだ?」
見せてくる画面に反射的に
「あ、めっちゃ可愛い」
って返してから、敢えて目を窄めた。
「まだいいって。ほんと大丈夫」

私の本気度が伝わったのか、観念したようにしまったスマホで、別の事に気が付く。

「あれ?先輩、今日タバコ吸ってない」
「やめた」
「そんな簡単にやめられるもの?」

同じ部署の喫煙者達は何度も禁煙失敗したって嘆いてるの何度も聞いてるからか、そんなスパッと断てるのは凄いって印象がある。

「肺に入れてなかったから、すぐにやめられる」
「…へー」

良くわかんないまま頷いたけど
「あれも指輪を買いに行く途中で棄てた」
その言葉には嬉しくなった。

あれっていうのが電子タバコの事だというのは伝わってきたから。

「タバコ吸ってる先輩カッコ良かったのに」

嬉しいから、冗談混じりにそんな事言ってみる。
「あ、でもじゃあ此処に来る意味もうないんじゃ…?」
間髪入れずに続けたせいか、ちょっとその瞬きが増えた。
「此処は滅多に人が来ない。名前とこうして会うには適してる」
「…あーそういえば、こっちは遠いってみんな反対側の喫煙所行きますもんね」
「だから丁度良い」

フッて笑った口唇が優しく触れた後も弛んでるから、私まで口元が上がっていく。

「タバコの味がしない」
「駄目か?」
「ううん、すっごい嬉しい」

ちょっと驚いてる表情に不意打ちのキスをすれば、離れようとする前に後頭部を押さえられて、そのまま深く舌を絡め合った。


苦い煙草なんかより
甘い接吻を交わそう



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