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何時間でも飽きる事なくクラゲの水槽を眺める人物が、人間というものに興味がないのではなく、あくまで、"他"の人間に興味がない。
そう、名前が知ったのは奇しくもその警戒心が薄れてからだった。

空っぽの水槽の前、セットされた椅子に腰掛け、ファイルに記された内容を読み耽る。
その様子を見止め、無言で近付いていっても今や一瞥されるか、すぐに脈絡のない質問が飛んでくる。
完全にとまではいかないが、ひとまず"害のない人間"という位置づけはされたような気が、ここ数日で実感している事だ。

その証拠にクラゲだけではなく、ある一定の人物の話題を、頻繁に挙げるようになった。

同じ大学に通い、ここにも何回か一緒に来た事がある。最初は、そんな当たり障りのない内容は耳を傾けるにつれ、徐々に徐々に深いものとなっていく。

「俺は、やめた方がいいと言ったんだ」

空っぽの水槽を見つめる瞳は、いつか見た時の寂寥を携えていた。
ぽつぽつと喋り出すも、言葉の足らなささに、名前が全て理解出来たわけではない。
しかしどうやら話を聞くに、"友達"だったその人物に、恋人、もしくは想い人ができた事から、仲違いに発展した、というのは把握した。
そしてそれも、ようやくこちらの気持ちが通じ、より親密な関係になれたという。
今まで一切の感情を出さなかった深海のような青色は、この時は嬉々としていた。

「よかったですね」

痛む心を気付かぬふりして微笑んだ事で、名前は"害がない"。そう、分類されるようになったのだろう。


「講義が同じじゃないから」

そう、あくまで相手重視の来館理由を告げる人物に、クラゲを展示できないお詫びとして、クラゲについての講義と、ほんの少しの近況を聞く。
それがここ数日で、日課となった事。
少しずつ回復しているミズクラゲについて報告したあと、訪れた沈黙に今日はこれで仕事に戻ろうかと惑い悩んだ時だ。

「川魚については、知ってるか?」

若干遠慮がちに出された質問には、すぐに答えられた。
「知ってます。というか前は川魚達を主に担当してたんで、かなり詳しいですよ」
心持ち張った胸は、飼育員としての誇りからくるもの。
「今の旬は何だ?」
全く気にも止めない上、間髪入れずに返された問いには多少、考察の時間は要した。
「…食べるの、ですか?」
「釣りだ」
「あぁ、釣り…、するんですね」
意外だ、と思うより早く
「今度一緒に行こうと誘われた」
また嬉々としだす表情に、誰に?というのは愚問だと痛んだ心によって気付く。
「川釣りなら、今だとー、なんだっけな…」
気付いてしまったから、すぐさま思考を別の方向へ巡らせた。
「この付近ならブラックバスは確実に釣れます。あとタナゴも。んーと、フナとかコイとかも釣ろうと思えば釣れるし。夜なんかは罠仕掛けておけばウナギなんかも掛かってたりして。それで去年捕まえて水槽に」
勢いに任せて喋り出そうとする前には、言葉を止める。

危ない。正直に、そう思った。
人間に興味がない。そう言われ、去ってしまわれるところだったと、小さく息を吐いた。

「展示する川魚は捕まえてるのか?」

再度飛んできた疑問に、口走ろうとしたものがこの人物にとって興味を示す内容だったことを知り、そっと胸を撫で下ろす。
「そうなんです。捕獲するのも仕事の一部なんで」
休日を返上することが多いが、それもそれで楽しい、という個人的感想は、心の内だけで留めた。
「釣りにも詳しいのか?」
「あ、えーと、まぁ、川釣りならそれなりに…」
「教えて欲しい」

ドキッと、内側で立てる音は、気のせいでは済まされないほど、大きなもの。
しかしその真剣な表情は、こちらに向けられていても、決して名前を見つめているわけではない。
それはわかっているので、これ以上心音が乱れないように意識をした。

「良いですよー。私がわかる事であれば何でも答えます」

よそゆきに作った笑みに、僅かに返ってきた嬉々とした感情。
それも、ある特定の人物によって作られるものだというのも知っている。

水槽を見つめる今のその瞳には、楽しそうに泳ぐ2匹のクラゲが見えているのかも知れない。

そんな事を考えながら、横顔をただ眺めた。


に揺蕩う


「よしよし、いっぱい食べた」

ピンク色に染まる胃腔を確認して、水槽を撫でる。
ここまで安定していれば、明日には展示を再開できそうだ。今は心底ホッとしている。
だからといって、今回の失敗が全てなかったことになるわけではない。
最悪な事態を免れたのは運が良かっただけ。それは肝に銘じなければならない。

再度撫でた指を認識しているわけではないのも重々承知もしているが、自然と寄ってきたタイミングの良さには、目を細めてしまう。

(繁殖は、もうやめようね)

話し掛ける口調ながらも、自分にそう言い聞かせた。

狭い世界で生きているのが幸せなら、邪魔をするべきではない。
それが例え、クラゲでも、人間でも。

『苗字さん、苗字さん。1番お願いします』

響いた放送に、嬉しさと戸惑いが同時に湧き上がる。

1番というのは、クラゲ展示場へ向かうように指示する隠語だ。
この数日で作られたそれは、その人物が来館したという窓口からの報告を兼ねている。
いつ来るかもわからないその報告を、ずっと事務室で待機し続けられるほど暇でもなければ、そのままの内容を館内中に流すという事も憚れるために生まれたこの案だった。

バックヤードに置いておいた釣り道具一式を両手で抱えると、扉を開ける。
放送からまだ1分ほどしか経っていないので、その青い空間には、まだ誰の姿も見受けられない。
今のうちに準備をしてしまおうと、抱えた竿を床に置くと、針と餌を机に置く。
ケースの中でうねうねと動くミミズを初見した際、これからここに座る人物が、若干顔を顰めたのを思い出し、小さく笑った。
余り得意ではないと言いながらも、懸命に針へ引っ掛けていく姿に思ったものだ。

きっと、彼女の前では、カッコを付けたいのだろうと。

"彼女"
その名称を心だけで思えるようになったのは、名前にとって少し、気持ちの整理がついたと言える。

淡い、恋心のようなものを、抱いていたのは確かだ。
それも今なら素直に認められる。
しかしそれが、これ以上膨らませてはいけないものなのだとも、理解をしていた。
だから、彼女がいるのだと思う事で自制をしている。

実際、彼女まではいかなくとも、その相手のことを話す時の瞳は、恋をしている正にそれで、そこに入り込む余地はどこにもないのだと毎度思い知らされていた。

ここで釣りに対しての知識を与えるのは、更に自分の首を絞めるようなものだとしても、こうすることで、あの沈み切った瞳を見なくて済むのなら、それに越したことはない。

それもまた、言い聞かせているのだと自覚をしたのは

「もう、居たのか」

抑揚のない穏やかな声を耳に入れた瞬間に、跳ね上がる心音によってだった。

「こんにちはー」

それでも平常心を装いながら振り向く。
姿を目にしたと同時に、また大きく動いた心臓は単純な驚きだ。
「あれ?髪…」
口を突いて出てしまってから、それを噤む。
しかしはっきりとその耳に届いていたようで、長い髪へと指が触れた。
「…あぁ」
「珍しいですね。下ろしてるの」
心境の変化なのだろうか。いつもは一本に結われている後ろ毛が、今日はそのまま。
「今だけだ」
詳しく訊いてもいいのかという迷いは、表情として出ていたようで
「…体育講習があるが髪留めを忘れたと言っていたから、貸してきた」
広がる髪を無造作に背中へ流しながら答える。

"誰に?"

痛む胸は、その一言を音にさせてはくれない。

「仲、良いんですね」

代わりにまた自分が傷付く言葉に変えて微笑うのは、そうすることで表れる正の感情を見るのは素直に嬉しいからだ。
自分の気持ちでありながら、これまた複雑なものだと名前は自嘲してからテーブルを指差す。

「あ、どうぞ。今度の日曜までに完璧にさせましょう」

そこに返事はないが、椅子に腰掛けると懸命に餌付けの練習を始める横顔を、幾ばくか複雑な想いを抱えながらも、笑顔で見つめた。


青い空間に、カラカラとリールを巻き取る音が響いていく。
「そうそう、イメージとしてはそんな感じです」
「巻き取りを始める感覚がまだ掴めない」
糸が仕舞われたままの竿をもう一度上下に振る表情は若干硬い。
「こればっかりは本物の魚で感じてみないと…。私もちょっとうまく説明できないんで」

餌付けからリールの巻き方は、的確に教示できても、"確実に獲物が掛かった感覚"。
それは人それぞれ感じ方が異なる上に、他人に説明するとなると飛躍的に難しいものになる。

「…そうか」

これ以上、ここでの技術向上は望めないのを悟ったのか、動かしていた竿を机の上へ置いた。
「助かった。少しは様になったように思う」
「いえいえ、カッコイイとこ見せれるといいですね」
「あぁ、ビックリするだろうな」
伏し目がちに微笑う姿は、想いを馳せている。そうわかっていても、鼓動が速くなる事実に、ただ視線を逸らした。
「楽しみ、ですね」
こちらの心には1ミリも思ってもいない事を平然と言ってのけるつもりが、意識をしたせいか、途中で詰まったと同時見つめてくる瞳に慌てて言葉を続ける。

「楽しみといえば!明日にはミズクラゲの展示が再開できるんです」
「……。そうなのか?」
驚きと、そして少しの喜びを宿したそれは、すぐさま水槽へ移動した。
「はい。なのでもし良かったら明日も来てくださいね」
「わかった」
即答をする横顔に、零れそうになった笑顔は、

『苗字さん、苗字さん、海の生き物水槽までお願いします』

班長の声によって止まる。
時間を確認した瞬間、
「あ」
短く声を出していた。

「ごめんなさい水槽点検の時間で呼ばれちゃったので…あ、これ良かったらまだ練習「いや、今日はもう戻る」」

早々に席を立つ背中は、出口へと向かうのだろう。
釣り用具を抱えながら見送ろうとした目線は、突然振り返る群青色で止まった。

「明日、何時頃再開予定だ?」
「…あ、クラゲですか?一応開館からのつもりでいます。このまま容体が落ち着いてればですけど」
期待を裏切るのは心苦しいと、念のためにそう告げたが急変する可能性は限りなく低いと言える。
結局そこに返答はないまま去っていったが、ひとまず明日も来館する意思はある。そう判断し、慌ただしく後片付けを始めた。

* * *

開館を迎える5分前―。

名前はいつものようにテーブルと椅子を設置すると、フワフワと漂う2匹のクラゲに顔を綻ばせた。

(今日からまた、よろしくね)

心の中で呟いてから、椅子に腰を下ろす。
少し嵩張り始めたファイルを指の腹で摩った。

(できるだけ、あの人を癒してあげてね)

ただただ、水槽を眺める。

願いを託したのは、展示を再開したら少しずつ距離を空けようと決めていたからだ。

元々この場所を作ったのは、こんな感情を持つためではない。
どこか哀しげで寂しそうな瞳が、少しでも救われればいいと考えての事だった。

それを、どう間違えたのか。

今度はこちらが寂しいと、哀しいと、感じてしまっている。

今この場でも、変わらず傘を動かしている2匹を見つめ続けた。
決して広くはない場所なのに、ぶつからず流れていける個体が羨ましい。
心の底からそう思った事で気付く。

だから、人間に興味はないのか、と。

「狭い世界の中で、2人きり…」

それは、誰に望んだことなのだろう。
今までその想いが届かなかったから、狭い水槽へと馳せていたのか。
今は届いて、そして通じたから、哀しくはないのだろうか。

次々と湧いてくる疑問や疑念は、解決するはずはない。
答えも恐らく、与えられる事はない。

例えば目の前のクラゲのように、そこに相手しかいなかったら、何にも目移りすることもなく、ただただ真っ直ぐ見つめていられるのだろう。

今、名前がここで強く願うように、いつもここで願っていたのだと、今ならわかる。

自分を好きになってほしい。

そんな風に。

「いいなぁ。2人だけの世界」

辺りに響く湿った声は、想定していたよりその願いが強いものだと知覚し、ただ目を伏せた。


揺蕩うほど
求めてみても


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