short | ナノ





『苗字さん、苗字さん、2番お願いします』

響く館内放送に、昼食を食べようとした手を止めかけたが、そのまま再開させる。
1番ではなく2番なのは、窓口の言い間違いでも、名前の聞き間違いでもない。
2番の意味は"例の人物が来館した"、それだけの意味だ。少なくとも窓口の従業員は、そうとして受け取っている。

しかし名前の中では、

"だからできるだけクラゲの展示場には近づかない"

その意味が追加される。

だからといって、あからさまに避けているわけではない。
それがもしクラゲに関しての作業時間と被っていれば、そちらを優先させるし、鉢合わせた際には、挨拶も会話も欠かしはしない。
クラゲ情報も細々と更新しているので、表面上は何ら変わりはないと断言できる。

しかしその人物に対し、これ以上深く関わりを持とうという気概は、意識的に外した。
その館内放送が響けば、毎回会うことはなくとも、忙しいのだと印象づけにもなるだろう。密かにその狙いもあった。

だから今も、席から動くことなく食事をする方を選ぶ。

ちらっと見たカレンダーで、はぁ、と重い溜め息が出た。

赤い丸をされた日曜日。
"川の水質、生態調査!"
班長の字で力強く書かれた内容は、更に憂鬱さを増幅させていく。
何の因果か、それはあの人物が川釣りデートを楽しむとされている日で、最悪鉢合せる可能性がなきにしもあらずという事態に陥っていた。
急きょ決まったその予定に、やんわりと不参加で願いたいという旨を伝えるには伝えたが、弱小故に基本、このような外部への調査は、非番である職員全員の参加が暗黙の了解とされているため、強くは言えなかった。

例え日が被っていようとも、"川"の定義は広い。
上流、中流、下流で全く違ってくる上に、派生する分岐川もいくつか存在する。
よほど運が悪くなければ、出会うことはない。
そう言い聞かせてから、出そうになる溜め息を呑み込んだ。


に揺蕩う


業務と同じ作業着の上に、水中でも動けるよう、長靴と一体となった防水オーバーオールを着込む。
右手にはタモ、左手にはバケツというスタイルは、おおよそこれから遊びに行く子供のようだ。
しかし、名前を始めとした一同の表情は真剣なもの。
水質と生態の変化は、これからの飼育環境に大きく影響を及ぼすのを重々承知しているためだ。

そしてもうひとつ、

「新種とか亜種とかいるかな〜」

職員の言葉に、全体の期待値が高くなる。

生き物を育て、管理する。そのような立場に置かれると、やはり憧れるのは誰も知らないものを発見する事。
特に小さな小さな水族館が遂げた大発見は、それだけで注目され集客となる。
そうなれば掛けられる予算も大幅に上がるため、個々に憧れる生き物の飼育が可能になるといった、飼育員達には利点しかない、喉から手が出るほどの功績だ。

かといって、それが言うほど簡単な事でもないのは承知している。
最初こそ上がった期待値も、1時間もしないうちにまるでなかったように誰も口にしなくなった。
そうそう変化が起きる事がない川の生態に、諦めを抱く気持ちと共に、単純に楽しくなるためだ。

「あー!そっち行った!」
「よっしゃ任せろ!」

バッシャァ!

大きな水しぶきを上げてひっくり返るのは、大体が班長。
毎度の事ながら、全身びしょ濡れになった姿に全員がわっと笑い出す。

「まーたやってるし!」
「アユは!?」
「逃げられましたよ〜」

あまり乗り気ではない。そんな後ろ向きな事を片隅に抱えていた名前も、やはりこの生態調査は楽しく、そして貴重な体験だと、笑いで滲んだ涙を拭いながら思った。

中流から下流まで下る頃には、調査というより川遊びが主流となるのも、恒例と言えば恒例だ。
全力で楽しむ一同は、傍から見たら少し怪しげな集団だろう。

「最後にあそこの茂みの川溜まりの調査して帰るか〜」

班長の言葉に、皆が返事をし、流れが穏やかになったぶん滑りやすくなった川底を慎重に進んでいく。
構造上、一部分だけ木々が生い茂ったそこは、一時的に水流が滞り、小さな池のようになっている。
そこは生き物の休憩所にもなりやすく、ウナギの罠を仕掛けたり、産卵期の魚の様子を調べたり、職員達も長年世話になっている一画だった。

「あ、誰かいますね」

1人の呟きに、視線を上げる。
脳がそれを判断する前に、心臓が跳ねていた。

「釣り人だ…ってあれ?あれ?あれじゃない!?名前!クラゲの幽霊!」

同僚の言葉に、いつもなら「幽霊じゃないし!」とも突っ込みもするが、今はその気力は沸いてこなかった。
竿を構えるその姿は、確かにその人物で間違いないと断言できる。
そして、その少し離れた場所で座っている後ろ姿。
1本に結わえられた若干長さのある髪に、ドクドクと鼓動が速くなった。

帰りたい。逃げ出したい。見たくない。

そうは思っても、すぐにこちらへ向いた群青色から背を向けることもできず、小さく会釈だけをした。
珍しく驚いている表情も、今この場では理解できなくもないと、どこか冷静に考える。
まさかこんな所で会うとは思わないであろう。

それだけで終わればいいものの、
「こんにちはー、釣れますか?」
ニコニコと話し掛けに行く班長の人好きな性格を、この時ばかりは恨んだ。

声に反応し、振り向こうと動いた顔を見たくないような、見てみたいような、どちらとも言えない気持ちのまま眺める。

派手な髪色から想像していたものとは違う、優し気がありつつも気品がある顔立ち。

ドキッと脈打つ心臓は、更に想像と違うことに気付いてますます速くなった。

それを認識するのと同時

「あれ?錆兎くんじゃないか!」

班長が上げた声に、動揺が沸き立っていく。

(くん、ってことはやっぱり男の、人…?)

追いついていかない思考で、懸命に考えてる間にも話はどんどんと進んでいく。

「先輩、魚が逃げます」
「あぁ!ごめん!」
「錆兎、知り合いか?」

その名を呼ぶ声は、いつもより穏やかなもの。

「俺が釣りを始めた頃、色々教えてもらったんだ」
「錆兎くんは俺の釣り仲間なんだよ〜!」
「先輩、魚が」
「あ、ごめんごめん」

冷静さを欠くことなく指摘する錆兎という人物の方がそれらしいと考えたのは、名前だけではない。

「何してるんですか?今日は釣具持ってないですけど」
「ん?あー、仕事!なぁ?」

同意を求め振り返った顔が、1番先に名前を捉え、戸惑いながら頷く。
詳細を話すべきか迷った時には、その紫闇の瞳が素早く従業員の手元に向けられていて、
「あぁ、生態調査…」
皆まで言わずとも状況を的確に判断する落ち着きように、心の中で感嘆した。


「で、俺が声掛けたってわけだ」

錆兎から拝借した釣具を手にしながら説明していく班長の話を、川辺りに腰を下ろし聞く。

班長が錆兎に出会ったのは、まさにこの川。
その時は上流に近い場所だったというが、その違いはそんなに重要ではない。
人好きな班長に声を掛けられた錆兎は、すぐにその人物が水族館に勤めていることに気付いたという。

へー、という頷きは、また心の中でした。
間を空けてではあるが、隣に座る人物へ意識的に顔を向けないようにしているのは、後ろめたさが拭えないためだ。

まさか"彼女"と思っていた相手が、ただの友人だったなどという、とんだ勘違いを知られた日には顔から火が出るどころの騒ぎではない。

しかし思い返せば、確かに女であるとも男であるとも、ハッキリとは言葉にされていなかったと思い返す。
与えられた情報を、勝手に女性像として当て嵌めていただけだった。

だからこそ、今ここにいるのに気恥ずかしさを感じている。
やはり先に帰った同僚達と共に去れば良かった。そんな後悔の真っ只中だ。
しかしそれも、まだボウズだという人物に
「苗字が教えてくれるよ!」
と間髪入れずに背中を叩いた班長に逆らえるはずも、僅かばかし期待を込める群青色に見つめられて断れるはずもない。
吐きそうになった溜め息は、突如としてピンと引く糸で止まった。

「掛かってます…!」

バラしてはいけないとできるだけ抑えめで出した声に反応し、一気に引こうとする右手を掴む。
「ダメ引くの早い…!もうちょっと泳がせて、ゆっくりリール巻くの」
「……。こう、か?」
「そうそう、巻きながらたまにこうやって遊ばせて…」
竿を上下に動かしながら、糸が弛むのを見計らう。
「もう少し軽くなったら一気にリール巻いて、また引っ張られたらもっかい弛める、その繰り返し」
切羽詰まった状況下から、最低限、早口で出した指示に、その両手が言われた通りに動き始めた。
弛んだ隙に巻き取り、糸が張った時には力を逃がす。
そうする事で、徐々に徐々に近づいてくる魚影に期待度が跳ね上がった。

「…もうちょい!頑張って!このまま竿固定!」

押さえていた手を放すと、傍に置いておいたタモを手に取った。

「おお!?これでっかいんじゃないか!?」
「義勇いいぞ!」

班長と錆兎の声に呼応するように、次に弛んだ隙を見計らい、一気に巻き取っていく。

「きたきた!」

届く位置にまでやってきた魚影にタモを差し込もうとしたが、このままの勢いで釣れるであろうと予測し、敢えてそこは見守るだけに留めた。

バシャッ!

激しい水音を立て、姿を現したのはブラックバス。

「おお!」

自然と全員から声が上がる中、驚きからかよろけた足に気付き、飛んでくるブラックバスをタモで回収する。

「げっと〜!」
「すっげ!でっか!」
「やったな!」

周りが歓声を上げる中、釣った当の本人は竿を掴んだまま呆気に取られていた。
ただただタモの中でビチビチと動いている初めての得物を見つめている。

「ナイス!かなりいい竿さばきでしたよ!」

高揚したままで右掌を翳せば、その表情が訝しんだ。
「ほら!ハイタッチです!」
それを求めれば、戸惑いながら上げられた左手に、軽く手を合わせる。
「いえーい!やりましたね〜!初めてでこの大きさはなかなかですよ〜」
興奮冷めやらぬ中、合わせた後の掌をじっと見下ろし動かなくなった姿に、名前は、はたと気付く。

職員同士のようなノリで接してしまったと。

気付いた事で、一気に湧出するのは焦りと冷や汗。

馴れ馴れしくしてしまった上、思いっきりその手も掴んでしまった。
いくら必死だったとは言え、これは機嫌を損ねるどころの話ではない。
何とか話を、意識を誤魔化さなければ。そんな風に考え、タモを川べりに置いた。

「針外ししてみますか…!?」

焦る口調は隠し切れなかったが、疑問を告げる群青色に続ける。
「この口に引っ掛かってる針、取ってみないかなって」

折角自分で初めて釣った記念すべき得物だ。
誤魔化しの狙いもあったが、それ以上に、釣ったという達成感を全力で感じてほしい。
そんな風にも考える。

「やったことがない」
「じゃあやってみましょ!」

また勢いに任せてしまったと思った時には、頭がこくっと動いていて、名前は嬉しさから自然と笑顔を溢していた。

* * *

陽が傾きかけた頃だ。
3つ分のバケツを眺めながら
「いやぁ、今日はなかなか大物こなかったなぁ」
「結局、最初に義勇が釣ったブラックバスが一番デカイか」
「そうか?錆兎の方が大きい気がする」
言葉とは裏腹に満足している各々を目端に入れ、名前はタモと釣具を纏めていく。

「早く片付けないと真っ暗になっちゃいますよ〜?」

若干呆れを含んだ言い方になったのは、他でもない。
ビギナーズラックで釣ったブラックバスを見て、熱くなった班長と錆兎によって起きた釣りバトルに終始付き合わされたためだ。
こういう時、勝負をしたがるのは男性特有の血の気の多さというものと言えよう。

「この魚達はどうすればいい?」

単純な疑問に満ちた群青色だけは、勝負というものに乗らず、むしろ全面的に錆兎の味方をしていたのを思い出して、そこはその人物らしいなと人知れず笑みを浮かべた。

「ん?そうだな。逃がすか」
「え?逃がすの?もったいなくない?うちに運べば「班長。勝手に増やすとまた怒られますよ」」

念のため刺した釘で噤んだ口に溜め息が出そうになったのを
「…逃がすのか」
若干寂寥としている声色が止める。

「班長班長」
「なんだなんだ?」
手招きに近づいてきたその耳元へ小声で訊ねた。
「あの人が釣ったブラックバスくらいなら連れて帰ってもバレませんよね?」
「いやバレるよそっこーで。怒られるって言ったの苗字だぞ?」
「大丈夫です1匹くらい。班長なら、あー、班長だもんなってなりますから。言ってもらえません?水族館で展示したいって」
「何で俺から〜?お前が言えば…」
途中で言葉を止めた表情が、完全に何かを悟ったようにニヤけていく。
「ほほお?さては…」
一旦言葉を止めてから
「よしっ。任せとけ!」
歯を見せて笑う班長。
すぐに向けられた背中が
「折角初めて釣ったんだから、記念にウチに展示しないか?」
そう提案するのを有難く感じながら、ただ眺めた。


揺蕩うなら
留まり続け


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