バックヤードへと戻ってきた姿を見るや否や、 「名前名前〜!」 名前を呼びながら手招きをする同僚に、大量のバケツを抱えながらそちらへ向かった。 「なに〜?」 「クラゲの人来てるよ〜!今ちょうど入館口通ってった!」 「え!?」 ドキッと音を立てた心臓は、すぐに治まってはくれない。 おまけに手を滑らせ、バケツをぶちまけそうになった事で余計に脈打つ。 すぐに抱え直し、間一髪大惨事は免れたため、思考はすぐに別に移動していた。 「…給餌時間!」 姿を想像したことで、その時間を大幅に過ぎている事実にも気が付く。 「まだあげてないの?」 「あげてない!魚に時間使いすぎた!」 「あ〜…やっぱ1人でも抜けると回すのキツイよね〜…」 苦笑いに似た表情が、腕の中に収まるバケツを回収していく。 「片しといてあげるから給餌行ってきな」 「ありがとう〜、助かる!」 最大限の感謝を短めではあるが伝えてから、クラゲの水槽へと走った。 来館者が増えたわけではないのに、どうにも今日は忙しい。 それは同僚が言った通り、単純に固定人数が足りないというものだ。 弱小水族館ゆえに、飼育員もほぼ必要最低限しか雇っていない。 なので今日のように突然欠勤が入ると、それだけで自ずと個々の仕事量が増える。 加えて今回は班長という、任を持つ人物のため、名前達に掛かる負担は計り知れない。 だから、と言い訳にはなるが、2回目のミズクラゲへの給餌を完全に失念してしまっていた。 気の焦りからドタドタと立てていた足音は、展示場へ近付くにつれ、意識的に静かなものへなっていく。 恐らく今、椅子に座り水槽を眺めている人物は名前が突然走って現れでもすれば、驚きでまた逃げ出してしまう。その懸念があるためだ。 その人物の名が、冨岡義勇。名前がそれを知ったのは、クラゲの給餌体験から数日後だ。 業務中、窓口を担当している従業員と話す機会ができた際、ひょんなことから話題が上がり、その人物がここの年間パスポートを持っているという事実を知らされた。 その時は、毎日のように来ているので今や顔パスだと軽く笑っていただけだったが、終業後、 「あ、苗字さんが言ってたの、この人ですよね?」 従業員が思い出したようにパスポート情報を見せたことで、顔と名前が一致し、ついでに言えば生年月日も判明した。 (…学生さんなのかな?) そう考えると同時に視界に入る姿は、ただ真っ直ぐ水槽に向けられている。 「…こんにちは」 少し抑え気味の声量で声を掛けた。 僅かにこちらに向いた視線は、また青色のライトの方へ移る。 「…もう消化したのか?」 (え?) 間髪入れず聞き返そうとしたその言葉は心の中だけで留めて、名前は考えた。 (しょうか?…あぁ、消化か) ようやく理解した意味に答えを出す。 「今日はまだ給餌してないんです」 恐らくはクラゲの胃腔の色が白いままの事を問いたいのであろうと判断し、そう言うが返答はない。 その返ってこない言葉が、答えとして合っている。それを表しているのだろうと思うことにする。 「だから今からちょっと空っぽになっちゃいますけど…」 若干言いづらそうに伝えた事実には 「構わない」 一言だけを返されて、安堵はした。 そうは言っても椅子から立ち上がろうとしない姿は、このまま待つつもりなのだろうというのも察知する。 「急いであげてきますね。この子達の故郷のこと、書いといたんで暇だったら見てください」 視線だけでファイルを指せば、同じように群青色がそちらへ向く。 返事がないのはもういつもの事だと、早々にバックヤードへ戻ると給餌セットを用意した。 手短に終わらせ、そっと展示場に戻れば黙々とファイルを見ている姿に、一応声掛けはしておこうと近付く。 正直まだ、この瞬間はドキドキすると考えている。 下手にビックリさせてはいけない。そんな風に考えるのは、余りにも喋らない上に、高い警戒心が野生動物のそれに似ているのかも知れない。 会話を交わすようになったからといって、こちらに気を許したわけではないのが、ひしひしと感じられた。 「…あの、ご飯終わりました」 だから今も、恐々と声を掛けている。 ゆっくり上げられた視線は、名前ではなく水槽に戻ったクラゲへ向かった。 「東から来たのか」 何を言っているのか。また一瞬、動かそうとした思考は、ちょうど開かれたページで理解する。 「そうなんです。400kmの大移動してきたんですよ〜この子達」 思わず顔が綻んでいくのは、決して簡単とは言い難い、長時間によるクラゲの搬送を無事に成功させたという、どこか誇らしい気持ちによるものだ。 だからといって、いち従業員である名前が、特別何かをしたわけではない。 しかしそこにほんの少しでも携われたという嬉しさは、やはり大きかった。 「この子達が元いた水族館、クラゲで有名なとこなんです。ご存知ですか?」 「名前は聞いたことある」 「そこでクラゲの第一人者って言われてる方がいて、この数年で飼育と繁殖が難しいとされたクラゲ達もどんどん増やしていってるんですよ〜。私もすごく尊敬してて…」 ガタッ。 音を立てるのは珍しい。そう思った瞬間だった。 「人間の話には興味ない」 酷く冷たい声色が響く。 瞬きひとつする間に去っていく背を見送った後、あぁ、やってしまったと深い溜め息を吐いた。 上手く距離感を取るのが難しい。そんな事を思う。 会話を交わすようにはなっても、まだ警戒しているのは良く伝わってくる。 しかしそれ以外の感情が、表情にも声にも出ない分、正直全く読めないままだ。 (興味ない、かぁ) 弛まず流れていくクラゲを見つめながら、群青色の瞳を思い出し、また嘆息を吐いた。 海、月に揺蕩う さすがにもう、来ないのでないか。今度こそ、その覚悟していた。 興味ないと吐き捨て、席を立ってから3日。その椅子は空いたままで、念のためにと増やしておいたクラゲ情報も開かれることがなかったためだ。 見る人物がいなければ、返ってくる言葉も当然ない。 水槽の点検を終えた後、何となく開いたファイルの中、最後に返された一言。 "このクラゲはどこから来た?" その答えは、この間出した。 しかし、そこからは途絶えている。 これから先、増えていくことはないかも知れない。そう考えるとこの椅子やテーブルも、撤去を考えなければならなくなりそうだ。 閉館を告げる館内放送に、ファイルを閉じる。 (今日も来ない、か) 小さく息を吐くと、いつもと同じように一式を壁の隅へと寄せた。 もう少し、様子を見よう。 もしも来られない事情があっただけで、来館を再開させた際、これらが撤去されていたら、それこそもう来なくなってしまう。 そんな思いで開館から閉館まで並べ続けたそれらは、1週間もすれば壁の隅が定位置となった。 あれほど毎日のように来ていた人物が、ぱたりと姿を現さなくなったということは、やはり最後が原因なのだろう。 氷のような冷たさを思い出して、名前は自分を納得させた。 (片付けなきゃなぁ) そこを通るたびに思い浮かぶものの、邪魔だと言われるほどの来客もないので、完全にそのまま放置となっている。 正直なところ、今はそこまで気が回らないほどに頭を占めているのは、やはり2匹のクラゲだ。 大型水族館からの引っ越しを経て、だいぶこの環境に慣れた頃、やる事と言えばひとつ。繁殖だ。 設備も十分とは言えないこの水族館で、経験が乏しい名前にとってはそれだけで大仕事であり、重責と言える。 だからこそ、慎重に事を運んでいたつもりではいた。 しかし、それがまた人間の驕りなのだと気付かされた時には、ミズクラゲの片方が弱り始めていた。 明らかに傘の動きが鈍く、食欲もない。 素人目で見ても、このままでは繁殖どころか死滅してしまうのは明白だった。 延命を判断し、そのために公開展示も中止する事にしたので、クラゲを目的だったあの人物が来なくなって良かった。 どこかでそうも考えていた。 (水質、問題なし。温度も適温…) バックヤードに用意した大きめな水槽を眺めながら、一体何が原因だったのかを連日追及し、今少しそれに心付いている。 繁殖に成功した際、プラヌラが定着するためにと追加したアクリル板が、水流を留まらせたのかも知れない、と。 もちろん水流はクラゲの生命線と言えるので、点検は怠っていなかったが、絶対に大丈夫だったとも、これまた言い切れなかった。 「狭い水槽が丁度良いと、思っていたらどうする?」 唐突に響いた声で、無意識に口唇を噛み締める。 この2匹のクラゲが、どうしたいのかはわからない。 だけど、今の名前は、完全に自分が間違っていた。そう感じている。 繁殖をさせる。それだけに重きをおいて、焦っていた。 少しでも早く成功させたい。その結果が、これだ。 ほんの僅かだが、数日前より動くようになった傘を水槽越しに撫でる。 (どうか、元気になって) ただ、それだけを願い続けた。 * * * 「…お疲れ様です」 力なくそう言うと、そのままデスクへと突っ伏す。 「苗字さん、大丈夫?ちょっと根詰めすぎじゃない?」 「大丈夫です…」 辛うじて返したは良いが、閉じそうになる目蓋に無理矢理力を入れ続けた。 「昨日も泊りがけだったんだろ?今日は宿直に任せて帰れよ〜?ぶっ倒れるぞ」 「大丈夫です班長〜。水質も完璧ですよぉ。アンモニア、亜硝酸、硝酸塩も検出されてませぇん。塩分濃度も適切ですし、これから水槽掃除に取り掛かりまぁす…」 「支離滅裂だし。何で水質検査してから掃除すんのよ。全然大丈夫じゃないじゃん」 周りが苦笑いを零す中、鳴り響いた電話に1人が受話器を取り、すぐに名前へ視線を向ける。 「苗字さ〜ん、窓口から。クラゲ?が来たって言ってるけど?」 意味がわからないといった表情は、勢い良く起き上がった名前の動きに吃驚へと変わった。 「行ってきます!」 「あぁ、うん…」 すぐさま事務室を出ていく背中を見送ってから、思い出したように受話器を耳に当てる。 「あ、なんか、向かうみたい…うん」 わけがわからないまま終えた電話に 「…え?なに?」 つい口を突いた疑問は、同僚の 「クラゲ見に来てるって常連さんですよ」 その言葉によって、解決はした。 もう来る事はないであろう。 そうは思っても、また来て欲しいという期待から、窓口の従業員には、その人物がもし来た際にはすぐに教えて欲しいと伝えてはいた。 空になった水槽、そして隅に寄ったテーブル一式を見た時、形容しがたいほどのショックを受けるであろうと、想像したためだ。 良く知っているわけではないが、その状況でわざわざ従業員を探し、訊ねてくるような性格とも見受けられない。 恐らくはそのまま去り、それこそもう二度とここに足を運ばないのは想像に難くない。 だからせめて、展示を中止した理由だけでも説明しておかなければ。そう考えていた。 しかしまさか、また来てくれるとは。期待も完全に薄れていたため、向かう足におのずと力が入る。 空っぽになった水槽を眺める端正な顔立ちが、どことなく寂寥としているのは、そうで在って欲しいという、願望からくるものかも知れない。 「…こんに、ちは」 一瞬、話し掛けて良かったものかと考えた事で、変なところで区切ってしまった。 しかし、群青色の双眸はしっかりと名前を見据えていて、駄目ではなかったと知る。 「ごめんなさい。今、ミズクラゲ、展示を中止していて、あの、ちょっと1匹が弱っちゃったから…」 「大丈夫なのか?」 若干動いた瞳孔は、驚きを伝えていた。 「ちょっとずつだけど、元気になっているんで大丈夫です。あと1週間もすればちゃんとこの水槽に戻せるかなって感じで」 「…そうか」 一言だけで動いた足は、てっきり退館するのだろうと巡らせた思考を裏切る。 壁の隅へと真っ直ぐ進むと、置かれたままだったファイルを手に取った。 真剣に読み耽ったあと、上げられる顔に、一瞬ドキッと心臓が跳ねる。 「これも中止なのか?」 「…あ、それは…、でも」 来なかったから。言い掛けた一言を噤んだ名前に、今度は目蓋が動いたが、 「レポートに追われていたため、来られなかった」 それ以上に開かれるのはこちらの目蓋だ。 はっきりと告げた"自分の事" これまで身の上について、触れようとも触れさせようともしてこなかった。それも恐らく、故意的に。 だからこそ、驚きを隠せない。 「…レポート、ですか?」 「あぁ」 言うなれば、今こうして相槌を返されているのも、意表を突かれている。 「なん、の?」 その疑問を口にするのは、勇気がいったが、 「大学」 短いながら返ってきた返事には、喜びを隠せない。 (…やっぱり、学生さんだったんだ) 心の中で納得をする。 年齢を知ってからというもの、その可能性をずっと考えていたためだ。 平日休日そして時間を問わず来館を続ける姿は、どこをどう見ても社会人とは思えなかった。 解けた謎はひとつだけでも、それが無性に嬉しい。 それがどのような感情なのか、名前が知ったのはすぐ後のこと。 「…なんか、良いことありました?」 表情が柔らかく見えるのも、こちらに対しての警戒が薄れているのも、恐らく何かが基因している。 だから、今がチャンスだと、ここぞとばかりに踏み込んでみた。 ふ、と上がった口元は、それが相当なものだったと伝えている。 「…やっと、わかってもらえた」 何かを回顧するように伏せられた視線は、何を見ているのか。 「睫毛の長い可愛い子と一緒に」 突如として過ぎった言葉。 率直な感情を自覚するに、握り潰されそうな心臓は十分すぎる痛みだった。 揺蕩えば、 離れ往く [mokuji] [しおりを挟む] ← ×
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