最初と比べて、という前提をつけた上に、微々たるものと表現もするが、距離が縮まったのではないか。 名前はそんなことを、考えるようになっていた。 各飼育場所の点検をしながら、最後に訪れたミズクラゲの展示場。 テーブルに置かれたファイルを捲れば、今日も一言書き添えられていて、口角が上がった。 "クラゲの飼育が難しいのは、よくわかった" 点まで丁寧に書かれた文字は、どことなくその人物の真面目さを表しているような気がしている。 そうなんです、と心の中で頷いて、ひとまず椅子とテーブルを隅に寄せて、事務室に向かった。 「お疲れ様です」 決まった挨拶を交わし、早々に先程のファイルをもう一度開く。 (だいぶ溜まったなぁ) また上がりそうになる口は、誰かに見られると面倒だと力を入れて真一文字を貫いた。 クラゲの情報を記載したそれは、あの人物の興味を惹いたらしくその日のうちに "クラゲは何を食べる?" 一言が書き添えられていた。 そこからは毎日のように質問と回答を繰り返していて、昨日の質問は "クラゲは家で飼えるのか?" それについての回答は、我ながら長くなってしまったと、半分以上埋まったページに、苦笑いが零れそうになった。 文字だけでこの熱量だ。実際言葉にしたら、確実に引かれるであろう事は名前本人も自覚している。 実際、同僚には「クラゲの事になると目の色変えるっていうか、人が変わるよね」と、何度呆れられたか、数え切れない程だ。 だからこそ、この明らかにうざったいであろう文章を読み、一言でも返信をくれるこの人物は、真面目だ。 そうも考えているし、ここまでクラゲが好きなのだろうというのは、とても喜ばしい事だった。 たった2匹しかいないクラゲ水槽を、熱心に眺めてくれる1人が居れば、名前が一歩踏み出した夢は、無駄ではなかったと言い切れる。 その嬉しさを噛み締めながらファイルへと向き直し、考えた。 今日はどんなクラゲ情報を書こうか、と。 今まではミズクラゲの情報が主流だったので、他のクラゲについて触れた方が良いのか。 名前としては、王道のミズクラゲより遥かに美しく、面白い生態を持つクラゲを知って欲しいとも思うが、押し付けにならないかという懸念が過ぎる。 ミズクラゲしか好きじゃないなら、一気に興が削がれてしまう可能性があるためだ。 あの人物が、どれほどクラゲについて知りたいのか、これまでの情報からでは判断が難しい。 結局無難に、ミズクラゲが幼生からどのように成長していくのか、簡易的に纏めた過程を、写真と共に追加するだけに留めた。 海、月に揺蕩う 次の日の事。 これはすごく、とてもすごい。そんな語彙力を失わせる出来事が起きた。 その人物が、クラゲ水槽の前に座っている。それ自体はもう慣れたもので、特別ではない。 だからこそ刺激をしないように、これまでは姿を見るや否や奥に引っ込むようにしていた。 今も同じ行動をしようとしたところ、バッチリと合った双眸が名前をじっと見つめている。 これは、とても、すごく、かなりすごい。 もう一度、同じ内容の事を考える。 足りなさすぎる語彙にひとつ付け足してみても、余り変化はなかった。 近付いても良いという意思表示なのか。 それともただ単に、遠くから観察をされているだけなのか。 どちらか迷ったものの、一歩足を踏み込んでみる事にした。 もしも後者なら、それだけで席を立つだろう。そう思ったためだ。 動かした足に、僅かに目蓋が反応した気はする。 しかし、逃げるどころかじっと見つめてくる瞳が、海のように綺麗な青だと気が付けるほど縮まった距離に、内心名前は驚いていた。 「…こんにちは」 何と声を掛けて良いのか。 無難にした挨拶は、顔ごと逸らされた。 水槽を眺めるのを再開させる横顔を見つめ続けるのも失礼だろうと、同じように水槽へ視線を向けて、暫く時間が過ぎた。 それでもその人物は動こうとはしない。 眉ひとつ動かない表情から、意図すらも読めなかった。 (もしかしたら、クラゲについての解説とか待ってる…?) 咄嗟に思い付いた可能性に、言葉を探す。 勝手にベラベラと喋り出しても良いものか。それこそうるさいと席を立たれては、元も子もない。 この人物のことは全く知りはしないが、一度機嫌を損ねたら、ここにはもう来ないであろう。なんとなく、雰囲気からそんな気がしている。 「今日も元気ですよ。クラゲ」 様子を窺うために出したセリフは、意外な言葉を誘うことになる。 「…このクラゲは増えるのか?」 突然の発問に、どういう意味合いなのかを考えようとする前に 「プラヌラは生まれるのかを訊きたい」 付け足された言葉に、あぁ、と納得はした。 プラヌラとはクラゲの幼生、言うなれば子供だ。 昨日書いた成長過程を読んだのだというのも同時に知って嬉しさが込み上げる。 「生まれます。つがいで譲ってもらったので」 「そうか」 それきり何も言わなくなってしまった横顔は、何を考えているのか。 名前にはさっぱり読めないまま、不規則に漂うクラゲを眺めた。 「もう少し、広い水槽に移してあげたいんです。本当は」 思ったそのままが口を突いて出る。 それでも席を立とうとはしない姿に、どこか安堵が湧いて続けた。 「窮屈そうじゃないですか?今のあの子たち」 同意を求めてはみたものの、返答が返ってくることはない。 「プラヌラが生まれて稚クラゲまで無事に育てることができたら、クラゲ展示コーナーも少しずつ広くなるんです」 これに関しては、クラゲ好きなら興味も見せるのではないかと沸いた期待も、何ひとつ動かない表情に、徐々に焦燥が募った。 (やっぱり文字じゃないと無理なのかな) 無意識に視線を落とした先には、テーブルに置かれたファイル。 それも1から10まで意思疎通が出来ていた訳ではないが、少なくとも今よりかは、心が通じ合っていたように思う。 また逃げ出したくなるまで追い詰めてしまう前に、ここから離れるべきか。その方が良いだろう。 正直、落ちる沈黙がとても重苦しい。これ以上は耐え切れないと考えていた。 "じゃあ"、その一言を口にし掛けて 「狭い水槽が丁度良いと、思っていたらどうする?」 か細く出されたセリフに、それを止めた。 「そう、見えます?」 「知らない。俺はクラゲじゃないからわからない」 若干棘のある口調になったのは気が付いたが、それより名前が気になったのは、その反転した物事への見方だった。 「…そっか。そうかも。人間の物差しで計っちゃだめですね」 確かにこの人物の言う通りかも知れない。考えれば考えるほどに納得できる。 無意識にうんうん、と何度も頷いていた。 クラゲが、いや、クラゲに限った事ではなく、人間以外の動物は言葉を持たない。 その分、その意思を、意図を汲み取るのが飼育員としての務めなのだと、いつだか専門学校で教えられた。 それがどうにも、時間と共に独り善がりなものに変化していた事に、今の言葉で気付かされている。 生き物を扱う故、その驕りは死に直結するほどのものだ。そう、改めて言い聞かせた。 気が急いてしまったのは、それこそ目の前で漂うクラゲの幸せを願っての事なのだが、穿った見方に傾いていたのは事実だと、心の中で反省している。 「飼育的な観点で見ると、やっぱりもうちょっと広い方が水流も水質も安定して良いんですけどね」 それもまた事実には変わりないので苦笑いをしながら伝えるが、水槽を見たままの瞳は一切動くことはない。 クラゲの生態は気になっても、飼育側の都合には興味が湧かないのか。 そう考えている間に、開かれた口から零れる声を聞き逃さないよう耳を傾けた。 「水流が止まると死んでしまうと、書いてあったな」 一瞬、テーブルの上に落ちた視線が戻っていくのが青いライトに映えて綺麗だ。自然とそう思う。 「覚えてくれました?水槽越しに見るとそうでもないんですけど、実は専用の機械で隅から隅まで水の流れを作ってるんです」 「だから流れていられるのか」 納得をしたように目を細めたのは一瞬。 「それなら尚更、狭い世界でも居心地は良いかも知れないな」 独り言のように呟いた感情がどういうものか、皆目見当がつかないとすぐに考察する事を放棄する。 「この水槽、丁度良いですか?」 また落ちた沈黙は、割と早く破られた。 「2人の世界なら、これくらいが丁度良い」 「…2人?」 どういう意味だろうか。 間髪入れずに聞き返してしまったことに後悔をしたのは、その表情がハッと我に返ったのと同時だった。 そのまま席を立つと去っていってしまう後ろ姿を引き留められるはずもなく、ただ無言で見送る。 (…2人、かぁ) やはり自分が推測した通り、恋愛絡みで何かあったのではないか。 少なくともあの言い方は、クラゲではなく人間を指していた。 興味を示したのは、2匹だけの水槽に憧憬を感じたからなのか。 そうだとすれば、クラゲの生態や繁殖について知りたがったのも納得ができる。 閉じられたファイルを開いてみても、今日は一言すら書かれておらず、自然と溜め息が出ていた。 恐らく最後の言葉には、触れてはいけなかった。今ようやく、それに気が付いている。 もしかしたら、もうここには来ないかも知れない。 その人物が去っていった方向へ視線を向けてから、そっとファイルを閉じた。 * * * しかし、名前のその懸念が杞憂であると知ったのは、一晩が経ち、午前中の給餌を迎える頃だった。 念のため出しておいた椅子に、いつものように腰を掛け、ファイルへと視線を落とすその人物に、ドキッと心臓が跳ねる。 まさか居るとは思わなかった。そう考えると同時、話し掛けようか迷う。 クラゲは観たいものの、昨日の対応の悪さに関しては腹立たしさを抱えたままだったとしたら、それこそ癒しの空間を邪魔してしまう事になる。 こちらから話し掛けるという選択肢は早々に消して、代わりに今までできる限り静かに開閉していた扉で、ほんの少し音が響くようにした。 当然、こちらに気がついた群青色の瞳と目が合い、じっと見つめてきた事で、機嫌を損ねてしまったわけではないのを知る。 それどころか、ファイルを片手で上げた後、口を動かしているのを見止め、名前は慌てて近寄った。 「…何でしょう?」 「書いてない」 不服そうな訴えの意味は、すぐに理解する。 「ごめんなさい。昨日はちょっと忙しくて…」 当たり障りのない理由で誤魔化しはしたが、対応を間違ってしまった事、そして返事がないことで、何を書くべきか、完全に迷い悩み、結果何もしないことを選んだ。 だから、先程そこに熱心な視線を向けているのに、心臓が大きく音を立てたのも要因としてある。 黙り込んだことでまた下りる静寂に、このままではいけない。なんとなくそう勘が告げ、続けた。 「書きたい事はたくさんあるんですけど、興味あるかなっていう心配が、あと、あって…。知りたい事とか書いてくれたら、そこに答えるのはできるので…」 言い終わらないうちに立ち上がる姿から、返答はない。 これこそそのまま帰らせてはいけないと 「あ、あの!」 勇気を振り絞って声を出した。 「あの子たちにご飯、あげてみません?」 深く考えず出した提案で、その群青が驚きの色を宿したのを見る。 「良いのか?」 「本当はダメです。でも他に人いないし、良いかなって」 おどけるように若干肩を竦めれば、間を置いた後、僅かに頷く頭に頬が弛んだ。 「ちょっと待っててください」 名前が給餌に必要な一式を用意している間、その人物は不思議そうに辺りを見回した後、やはりというべきか。視線はクラゲへと固定される。 「裏側は、こうなってるのか」 興味深げに水流を起こす機械をまじまじと見つめる瞳は、どことなくいつもより表情があるせいか、若干幼く見せた。 (…そういえば、いくつなんだろ?) ふと湧いた疑問は口にしないまま、ケースと掌サイズの網を持つ。 夢中な姿に声を掛けるのはいささか憚れたが、水槽の前にずっと居られては作業が滞ってしまうと意を決して口を動かした。 「ごめんなさい、そこいいですか?」 振り向いた後、素早く横に引く動作は警戒されているのかどうかはわからないが、そのまま作られたスペースへ入り込む。 「ごめんね〜。ちょっと掬うよ〜」 上から一声掛けた後、目端で捉えた期待に満ちた気配に視線を向けた。 網を持つ手を注視する群青色に、点3つ分ほどの間動きを止める。 「…やってみたい、ですか?」 恐る恐る訊ねれば、わかりやすく揺れた瞳。しかしそれも、ふいとすぐに違う方向へと変えた。 「…いや」 僅かに警戒の色が強まったのを感じ、 「そうですか」 それだけを返し、慎重に、かつ素早く2匹のクラゲを掬い取る。 早々に給餌を開始するため、一度そのケースを作業台へ置くと、アルテミアを出した。 「これが餌か」 「そうです。これをこのスポイトで吸って、クラゲにあげる」 動作を交えて説明した後、そのまま目の前にスポイトを差し出す。 「どうぞ」 無言ながらも受け取る右手は、どこか迷っているように見えて続けた。 「1匹の目安はこれくらい、かな」 親指と人差し指で僅かな隙間を作る。 しっかりとその量になるよう、丁寧に吸い取っていくその瞳は真剣そのもので、微笑ましい。名前の心に、自然とそんな感情を呼び起こさせた。 作業を終えた手が止まり、じっと見つめてくる瞳には悟られないよう口角を戻すとクラゲを指差す。 「この辺りに近付けてあげると良く食べてくれます」 指示通りに押し出されたアルテミアを、触手が捉え始めた。 「今食べてるの、わかります?」 他の動物とは違い、クラゲの捕食動作はぱっと見ただけではわからないであろう。 だから敢えて訊ねてみれば、若干眉が中央に寄った。 それが答えだと判断し、話を続ける。 「この四つ葉のクローバーみたいな形してるのがクラゲの胃で」 「…色が変わってる」 「そう!良く気が付きました!このアルテミアのピンク色!それが食べてるって証なんです!可愛いですよね!」 気が付けば上がっていたテンションと声色に、はたと時間が止まった気がした。 心なしか、その表情が驚いているようにも感じる。 この人物は騒がしいのが嫌いなのであろう。 何となく感じた予感から落ち着いた雰囲気を装ってはみたが、どうにもクラゲの事となるとタガが外れるようだと、この時自覚した。 何とか咳払いで誤魔化して、もう片方のクラゲを指し示す。 「今度はこの子にもあげてみましょう」 返答はないながら、先程より幾分か慣れた手つきで給餌していく横顔から、傘を開閉させている動作へ目を動かす。 「…確かに、可愛いな」 自然と浮かんだ言葉は、その声が放たれたと同時だった。 今まで全く知らないままだったその存在と、僅かでも共感が出来た事をただただ嬉しく思い、頬を弛める。 しかし、"ですよね"という返事は、心の中だけで敢えて収めた。 揺蕩うから、 近付き [mokuji] [しおりを挟む] ← ×
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