short | ナノ





大は小を兼ねる。
大きいものは小さいものの役割を果たす事が出来る、という意味の諺だ。
その言葉通り、小さくて良いとされているものは、少なくとも水族館という施設に置いては皆無だと、此処に飼育員として勤める苗字名前は、日頃考える。

言い方は悪いが、狭小。その2文字がピッタリだ。

水族館といえば、イルカやアシカといった哺乳類による派手なショー、まるで海の中に居るような大迫力の大型水槽、あとは海の生き物に触れられるといったものが今の主流で、最低限の基本だ。
しかし此処には、その類のものが一切ない。
唯一の触れ合いと言えるものは、ドクターフィッシュによる角質取りくらい。
魚の種類だけで言えば、大型施設と劣る事はないが、展示方法ひとつ取っても圧倒的に地味と言える。

経営は常に不振。それ故に新しい設備投資も出来ないまま集客も伸びず、今日まで何とか営業にこぎ着けている。
唯一の利点を述べるとしたら、財布に優しい入館料と、圧倒的の来客の少なさから、いつでもゆっくり好きな魚が鑑賞が出来るといった所だろう。

そんな中でも、名前が叶えたかったクラゲの飼育という切望は、1週間前に実現した。
大型施設のような一面のクラゲというものではなく、使われていなかった嵌め込み型の水槽に、クラゲ飼育の最先端をいく巨大水族館から譲り受けたミズクラゲ2匹を投入するという、また至って話題性もないもの。
しかしそのたった2匹でも運搬や飼育環境の導入を考えると、とてもじゃないが弱小水族館がおいそれと出来るものではなかった。
一切が大型水族館の厚意な上、負担を担ってくれた事で実現に至れたこの活動に、文句などは口が裂けても言えない。

(アマクサクラゲが良かったなぁ)

全ての方面を敵に回しそうな願望は、心の中だけにした。

最初こそ若干抱いた悄然も、1週間経てば愛着は沸くもので、今は触れ合う時間が待ち遠しく感じるようになっている。

14時になったのを確認し、名前は少し軽い足取りで館内を歩く。
本日2回目のクラゲへの給餌。
裏へ入る前に水槽越しの2匹を眺めようと、無人であろうクラゲコーナーへと向かった所で、僅かに瞬きが多くなった。

(人が、居る)

瞬時に珍しいという言葉を思い浮かべてしまったのが何だか悲しいと考えながら、微動だにしないその人物から距離を保ったまま立ち止まる。
ザリガニ用だった水槽を改良したため、腰ほどの低い位置にある水槽を見つめる横顔は、関節照明に照らされ青白く見えた。
挨拶というものをした方が良いのかと一瞬迷ったが、何と声を掛けたら良いのかと考えている内に、その場を後にする背を暫く見つめていた。


に揺蕩う


「男の人?」

川魚の水槽に餌を撒く手は止めないながら、同僚は名前へ視線を向けた。

「クラゲコーナーに?え?居た?」
「うん、居た。最近良く見るんだよ。知らない?髪が長くて綺麗な人」

名前も会話は続けながらも、作業する手は滞りない。
水質をチェックし、バインダーに挟んだ表へチェックを入れていく。

「昨日も多分、少なくとも1時間はクラゲ見てたと思う」
「わかんない。え?それ名前にだけしか見えてないとかじゃないよね?」
からかい半分の笑顔は、途端に青ざめていく表情を捉えてはいない。
「あそこ暗いし何か出そうだな〜って「やめてよ!1人で行けなくなるじゃん!」」
泣きそうになっていく顔を苦い顔で見つめた。
「ごめんって〜。そんなビビんないの〜。だいじょぶだいじょぶ。足あったでしょ?」
「足ある幽霊かも知れないじゃん!」
「あ〜、それも否定出来ないかも。昔から水場には良く集まるって「や〜め〜て〜!」」
ついに耳を塞ぎ出した名前に
「今のは墓穴じゃない?」
同僚の呆れた声が辛うじて聞こえる。
「でも良くその人そんなずっとクラゲなんか見てられるよね」
「何そのクラゲなんかって」
「癒されるのはわかるけど、此処にはちっさい水槽に2匹しかいないんだよ?飽きない?」
「飽きない」
「…まぁ、名前はそうだろうけど…」

撒き終わった固形餌が入ったプラスチックの容器はバケツの中へ無造作に突っ込んで、小さく声を上げた。

「怖いんだったら椅子でも置いといてみれば?」
「…何で椅子?」
「昔っから良く言わない?幽霊は透けちゃうから物を触れないとか。あたしコレ洗ってくるね〜」
それだけ言うとケラケラと笑いながら去っていく背中に
(…椅子、かぁ。良いかも)
心中でそう返事をする。

逆に今まで、どうして気が付かなかったのだろう。そう思った。

事務室から拝借した背もたれ付きのパイプ椅子を抱えながら、相変わらず閑散とした館内を進む。
幽霊かどうかは別として、あの人物は紛れもなく、クラゲ好きである。
それならば少しでも、その癒しの空間を居心地良くしてあげるというのは、飼育員かつクラゲ好き同士の気遣いではないかと考えた。

(パイプ椅子じゃ何か、あんま雰囲気出ないけど)

明らかに年季の入ったそれに溜め息を吐くも、これでもまだ綺麗目なのを見繕ってきた方だと思い直す。
水槽が良く見える位置に設置すれば、きっと座ってくれるだろう。
目線の高さ的も想定するに丁度良いと考えた所で、青白い光に照らされる人物を視界に入れ、また同じ事を反復した。

「丁度良かった。これ」

パイプ椅子を床に置いた瞬間に背を向けると遠ざかっていく姿を受けて
(…まだ言い終わってないんだけど)
眉を寄せながら、それを持ち直すと水槽の前へ移動する。
(っていうか近付いてもないんだけど)
むっと曲げた口元は、セットしたパイプ椅子へ座った事で真逆へと角度を変えた。

なかなかに良い景色だと、目も細める。

たった2匹しかいない真四角の水槽は、表面に細かい傷が付いているし、急遽用意した青色の関節照明は、クラゲを照らしているとは言えず、これではクラゲ側から見た人間が青く照らされているようにしか見えない。
しかしこれはこれで味がある。そう考えた。
満足はしていないが、喜びは感じている。

ひとまずこれは、第一歩なのだ。

この2匹を無事に繁殖する事に成功したら、懇意にしている水族館から今度は幼生の育て方を享受してもらうという確約を取っている。
更にそれが成功すれば、此処は弱小水族館ではなく、人並みの水族館として、此処に棲む魚達も、少しは日の目を浴びる事が出来るだろう。
道は長くとも無駄ではない。
今名前に出来るのは、このクラゲ達の健康状態の管理。それが最も重要の課題で、なかなかの難題だ。

(頑張ろう)

ふわりふわりと柔らかな傘を動かし、優雅に漂っているように見える2匹を前に、改めて決意を硬くした。

* * *

それは翌日の事。
午前の給餌時間でクラゲの水槽の元へ訪れた際、いつもの人物がまた水槽の前に居るのを目にする。

(…座ってる)

そう認識した瞬間、僅かばかりの感動を覚えた。
昨日は声を掛けただけで去っていっただけに、その光景を見られたのは、何処か魚達に懐かれた時と同じ感覚に似ている。
声を掛けたくなる衝動は堪え、そっと職員用入口からバックヤードへと回った。
クラゲを給餌専用のケースへ移そうとした所で、ふと思う。やはり一言は掛けてくるべきだったと。
折角、鑑賞中だというのにその目的のものを掬い出してしまうのは、いささか申し訳なさを感じるも、これが終わらないと次の仕事も滞ってしまうため、そっとその柔らかい成体を取り出した。
アルテミアと呼ばれるエビの仲間をスポイトで吸い、2匹が食べやすいように触手付近へ流し込めば、すぐに傘を開閉する動きに小さく頷きながら笑顔を深める。

「いっぱい食べな〜?」

音として認識されないというのは百も承知だが、話し掛けずにはいられない。
暫く捕食を観察してから、水槽の水質を調べる。
水流が滞っていない事も確認してから、食事を終えたクラゲ達を、食べ残しが混ざってしまわぬように分離してから水槽へ戻した。

その一連の作業は時間にして30分乃至、40分。

向こう側で座っている人物は、流石にもう居ないであろうと考えながら開けた扉から見えたのは、先程と全く変わらず腰を下ろしている姿。
一度席を立ったのか、それとも空の水槽を見続けていたのか、それは定かではないが、とにかく戻ったクラゲを見つめる横顔は真剣だ。
動くのは目蓋だけで、それ以外は微動だにしない。
気にはなるものの、また下手に声を掛けて逃げられては僅かばかり心も痛むので、このまま後ろを通り過ぎようとした所で

「戻ってきた」

呟く声を耳にした。

(…もしかして、話し掛けられてる?)

不自然に立ち止まってしまったと気付いてから思考を巡らせたと同時

「何故いつもこの時間、クラゲは居なくなる」

今度ははっきりと訊ねられているのを知る。

「食事の、時間なんです」
余りにも抑揚もなくか細い声に合わせ、声量を抑えて答えた。
「食事か」
それだけ言うと一切何も言わなくなった後頭部を見つめる。
「水槽の中であげると水が汚れちゃうんですよ。折角見てたのにごめんなさい」
聞いているのかすら判断が難しい後ろ姿に、意を決してみた。
「…クラゲ、好きなんですか?」
言い終わる前に席を立つと反対方向へ歩いていく人物に向かってではないが、軽く溜め息は出てしまう。

男は背中で語る、などと言う、何処かで聞いた言葉を思い出す。
その人物が向けた背から、嫌というほど伝わってきた。

話し掛けるな。

その一言が。

ならば何故今、こちらに話し掛けてきたのだろうか、という思考が働いたが
(クラゲの事は気になるのかなぁ)
首を傾げながらも、そう結論付けた。

その人物が何者なのか。
考えても答えが出ない考察は、その後の業務で頭の隅に追いやられたが、唐突に思い出したのは業務を終えるため、事務室で飼育日誌を書いていた時だった。

クラゲの様子を思い出すため記憶を巡らせば、自然とその人物が蘇ってくる。
あれだけ毎日のように此処に来ていれば、誰かしらが何か情報を持っているのではないかと、同じように日誌を記入しているため下がり気味の頭の数々を見つめた。

「あの〜、皆さん」

邪魔をして良いのかと遠慮がちに掛けた声は、狭い室内で聞こえない筈もなく、ほぼ全員分の視線を受けた事で身を引く。
(…何か、ちょっと緊張する…)
そう考えるもこのまま黙っている訳にもいかないため口を開いた。
「最近クラゲを良く見ている方が居るんですけど、ご存知の方いらっしゃいます?」
回答が返ってくるまでの間が、更に名前を居た堪れなくさせる。
訊いてどうするといえば、特にどうこうという思惑がある訳ではないからだ。

「黒髪の?何かどっかボーッとしてる?」

疑問符を付けながらも答えたのは同じ飼育員ではなく、丁度掃除に入っていた清掃員。いわゆる掃除のおばちゃんと呼ばれるその人物は、この水族館で館長と同期と言える程に長く勤めている。
それ故の情報網は桁違いに広い。

「そうです多分その人!」

咄嗟に答えてから
(あれ、ボーッとしてるのかな?)
疑問が湧いては出た。
確かにクラゲを見つめ続けるという行為はそのニュアンスで合っているのだろうが、その人物の場合、酷く哀しそうという表現が似合う。
見知った訳でもないのに、そう思うのは、だからこそどのような人物なのか、興味に至った背景ではある。

「前から来てるよ?睫毛の長い可愛い子と一緒に。良く川魚の水槽眺めてたけど、最近は…そういえばひとりねぇ。喧嘩でもしたのかしら?」

放たれた言葉は、その背景を解決させるには十分な一言だった。
「あぁ、あの子か。俺今もたまに見るけど?」
班長の言葉に更に詳細を訊ねようと開いた口は
「川魚と言えば最近あそこの周辺でゴミ棄ててく奴らが居んのよ。ちょっとそっちで注意喚起してくれない?」
すぐに業務の会話に戻る熱心な横顔で止めざるを得なかった。
答え始めた班長の声を耳に入れながら、書き掛けだった日誌へ視線を戻す。
(彼女と来てたのかなぁ?)
浮かび上がるのは当然のように、その類の事。
想像するのは下世話だとわかっていても、勝手に働く考察は止まらない。

彼女ではなくとも、想い人か。
悲哀に満ちた瞳は、その存在との関係悪化によるものか。

クラゲへの給餌量を記入してから手を止める。
これは益々、あの人物のお気に入りであろうクラゲ空間を、居心地良いものにしてあげなくてはならないのではないかという使命感に駆られた。

椅子に続き、簡易的なテーブルを置いたのは翌日の事だ。
本日も此処に足を運ぶであろう人物が目を止めやすいように、その上に複製したこれまでの飼育記録と、個人的に撮影していたクラゲの写真を貼り付け、ひとつのファイルとした物と、最低限の筆記用具を置いた。

喋りたくないのならば、書けば良い。
それは取り付く島もない存在に対する拮抗の狙いもある。

しかし、14時の給餌を終えても見せない姿に、今日はもう来ないのであろうと半ば諦めに近い感情を持ちながら閉館間際、水槽の見回りをしていた時だった。

薄暗く青い光に照らされた空間、その人物は昨日と同じく椅子に座っていた。

ただひとつ異なっているのは、その手元にファイルが収まっているという一点。
静かに捲られていくページを見つめる瞳は、何処か寂々としていながらも、僅かに輝いても見えた事で、名前は人知れず口元を弛ませる。
こちらの気配に気付かれ、また逃げられてしまう前に職員用の扉を開けて、裏方へと戻っていった。



揺蕩って
何処へ往く


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