雲路の果て | ナノ 75

夜が、孤独を連れてくる。

誰が言ったか定かではないが、義勇は時々、その言葉を思い出す。

それを好む鬼によって作られた強迫観念に近い記憶なのか。それとも眠れぬまま過ごした闇が喪失感を蘇らせるのか。

辺りを包むそれは、まるでこの身体ごと呑み込んでいくようだと、幾度となく考えたことがある。

しかし泣き叫んで縋りたくなる感情は、たったひとり呑み込み続けてきた。

生かされた者が弱音を吐くことは、死んでいった者達に対しての無作法だと認識していたためだ。

それでも今、義勇は気が付いていた。

どうやってその日々を耐え忍んできたのかを、思い出せなくなっていることに。

空から差し込む薄明に照らされた無防備な寝顔を、そっと指で撫でてから胸元に収める。
そうすることで満たされる心は、その存在でなければ得られないだろう。

もう二度と、この手を離したくはない。

強く願えば願うほど、常に孤独を選んでいた自分には戻れないことも痛感していた。

与えられる優しさの心地好さを憶えてしまえば、忘れられなくなる。

だからこそ、隻腕となった姿をも受け入れた名前の重荷にだけはなりたくはない。

ここのところ急き立てる焦燥は、そこからくるものだったというのも冷静になった今、分析している。

「……っ」

規則正しかった寝息が乱れたかと思えば、小さく漏れた声が黒猫のそれと似ていて、頬が弛んだ。
鳴らすつもりのなかった喉が動いた振動だろうか。ゆっくりと開かれる目蓋に息を潜めた。

「……ぎゆう?」

とろんとした寝惚け声に呼ばれてしまえば、狸寝入りを決め込もうにも無理な話。

「起こしたか…?」
「ううん……」

ともすればまた眠りに就きそうな返事と共に下がっていく目蓋に、髪を撫でようとした左手は、

「もしかして…!痛いの!?」

勢い良く起き上がっては寄せてくる顔で止まった。

突然の言動に思考すら追い付かない義勇を見つめる目は、見る見るうちに悲痛なものとなっていく。

「ごめんね気付かなかった!今揉むから…!」

切断された上腕へ触れるより早く、左手が両の手を攫った。

「そうじゃない。大丈夫だ。痛くない」
「……ほんと、に?」
「本当だ」

言い切っても尚、揺らぎ続ける瞳をあやすように口唇を軽く重ねる。

「ここに来たお陰で、楽になった」

真っ直ぐにその瞳を覗き込んで伝えれば、一瞬にして柔らかくなった。

「よかったぁ!温泉が効いたのかな?」

隠すことない弾む声は、義勇の真意まで掴めていない。

「…あぁ」

それでも相槌だけを返すと、再度口唇を重ねた。

正直なところ楽になったのは、幻肢痛などではない。

いつの間にか溜まっていた心咎めだ。

変わらぬ優しさに甘えたい。

それは昔から、義勇の中で常々存在している感情だった。

例え間違った道を選んだとしても、目の前の存在だけは咎めることなく受け入れてくれる。

そんな甘えがあったからこそ自分勝手に突き放し、自分勝手に寄り添った。

贖罪に似たものを、無意識のうちに探していたのだろう。

結局身の回りのことはおろか、職も自由に選べぬ身となった今、自分は名前にとって荷物でしかないのではないだろうか。

痛感すればするほどに、このままではいけないと焦燥が募っていた。

それを名前が見抜いていたかは定かではない。

しかし、ここに訪れてから義勇の中で心境の変化が起きたのは確かだ。

「…っ、ん」

絡めた舌に応える懸命な姿で、確信に近いものを得ている。

「どうしてそうやって一人で我慢しようとするの…?」

あの時流した、涙の理由も理解した。

とどのつまり、寂しいのだ、と。

正確にその感情を汲み取れるわけではない。しかし泣きながら訴えたその感情は、今の義勇に通ずるものがあった。

孤独だからこそ、その存在を喉から手が出るほどに欲っしている。

声を聴く。身体に触れる。温もりに満たされる。そのどれもが、この輪郭を形成していく。

「……っ、ぎゆ…?」

切れた語尾は押し倒したことによるものか。
因果を考察する余裕もないほどに主張する陰茎を太腿に押し付ける。途端に驚きで弾く身体は、正直なものだ。

「いいか?」

右耳の傍で問い掛ければ、動揺に満ちた頷きを何度も繰り返す。

帯を弛めようと触れた左手に力を入れる前に、

トントントン

鳴り響く不自然な音で息を止めた。

その間に引き戸を開けた何者かに存在に、今度はそれを呑む。

「あらぁ、まだ寝てらっしゃったの。失礼しましたぁ」

陽気な声でペコ、と頭を下げたのは小柄な老婆だった。


雲路の


「へぇへぇ、そうですの。元鬼殺隊のお方で」

ここに来た経緯を説明している最中、相槌を打ちながら昨夜義勇たちが使った食器を片付けていく動作はガチャガチャと忙しない。

「…あのっ、私もやります」
「いいのいいのぉ。これが私の仕事ですから構わずゆっくりしてらしてぇ」

手を出そうとする名前を他所に、次々と棚にしまっていく手際の良さには、正直圧倒されるしかなかった。

「お布団はまだ敷いておきましょうねぇ。先に洗濯してしまいますわぁ」

一ヶ所に溜めておいた手拭い等の汚れ物を何の躊躇いもなく拾い上げると、外へ出て行く姿は引き留める隙すら見当たらない。

突然現れた、この小屋の管理人だというその老婆。

明らかに情事を行おうとしている義勇と名前の姿を見止めながらも、全く臆することなく"仕事"をし始めたものだから、面を食らったのは当人達の方だ。

出て行ってから暫くするまで茫然としていた名前が我に返ったように瞬きを繰り返す。

「…義勇、大丈夫?」

眉を下げ見つめたその先には、半身を布団で覆った姿。

「…大丈夫だ。もう鎮まった」

おもむろにそこから抜け出したことで視線を向けてしまうが、確かに言葉の通り、外見からもその熱は収まっていた。
老婆に見られまいと咄嗟に隠しはしたが、二人の狼狽えようでは恐らく伝わっているであろう。

「浴衣、直すね」
「頼む」

さきほどのことを意識しているのか、必要以上に近付こうとしない手が恐る恐る襟元を正す。

「そんなに怯えなくても何もしない」
「怯えっ、てはないよ?……でも」

帯に触れる手は、動揺を強くしていた。

「苦しい、んでしょ?」
「何がだ?」
「男の人って、あの……。そのまま、だと…」

しどろもどろな声は、カァッと紅潮した瞬間に止まる。
それだけで、今名前の頭を占めるのが例の春画であろうことは容易にわかった。

「……正直、辛いは辛い」

包み隠すことなく零した感情は、居た堪れなさそうに俯く姿によって如実に現れる。

情事を許されない今の状況ではない。

その類のことに特別な意識を、感情を、欠片も示さなかった名前が、羞恥というものを抱いている。その変化は皮肉にも義勇の欲を煽っていく。

これまで見たことのなかったその表情をもっと見たい。あわよくば嬲りたい。

そう考えてしまう。

この状況であろうがなかろうが、呑み込まなくていけない願望が沸き上がるのは、義勇にとって辛いものがある。

しかしそんな感情の変移を、名前が的確に見抜けるはずもなく眉を下げた。

「そんなに、つらいの?」

想像ができないながら寄り添おうとする姿勢は、いつになっても変わらないのだと、自然と義勇の頬が弛んでいく。

「……。そこまでじゃない」

だからこそあやすように頭を撫でるも浮かないままの顔に、どうしたものかと考えた。

無理をしている。

きっとその瞳には、そんな風に義勇が映っているのだろう。
このままあやふやにしては、名前の中で消化ができず暫く引き摺ることとなる。

それが今までの経験上わかっているからこそ、右耳へ向かって囁く。

「あとで、楽にさせてくれないか?」

途端にビクッと動く身体に、鳴りそうな喉はどうにか我慢した。

ふと顔を出した支配欲も、狼狽えながら何度も頷く姿に満たされていく。

しかし次に続いた

「がんばる!」

決意に満ちた瞳との温度差には、ついに笑いの発作が止まらなくなった。

* * *

陽の光が煌々と射してはいるが、四方が木々に囲まれているだけあって、吹く風は若干の冷たさが残る。
今しがた竿にかけた手拭いはその風に揺られ、気持ち良さそうに靡いていた。

「ありがとうごぜぇますぅ。助かりましたぁ」

頭を軽く下げたのも束の間、洗濯板と桶をせっせと片付け始める老婆に、最後の手拭いを干し終えた名前が続く。

「私が持ちます」
「いいのいいのぉ。毎日こうやって動かないと身体が鈍ってしょうがないからぁ」

身体こそ小さいながら、鼻歌混じりで水が張られている桶を持ち上げる力強さは驚くべきものだ。

「いつもおひとりで、お仕事されてるんですか?」

せめてもの後援にと、名前は空になったカゴを抱えその背中へとついていく。

「そうよぉ。もう何十年もねぇ。陽が出たらこの山に登って陽が沈む前に降りる。鬼が出るからぁ。鬼狩り様が泊まられてる時なんかは安心だけどこんな私みたいな老いぼれじゃぁひと呑みで食べられちゃうしねぇ。最近よぉ、暗がりでも安心して歩けるようになったのはぁ。すべて鬼狩り様のお陰だねぇ」

まるで独り言のような流暢な語り口の間も、汚水を流し、井戸水を汲むと桶を漱ぐ手が休まることは一向になく、名前はそれを後ろから眺めることしか術がない。

「あの鬼狩り様はあれかい?腕は鬼に?」

突然の質問に"あの"が誰のことを指すのか、少し考えてしまった。

「…あ、はい」
「そお。あれだけ立派な傷じゃあさぞかし痛むだろうねぇ」
「……はい」
「だからここに来たのぉ?」
「はい。湯治にいいと、同じ鬼殺隊の方から教えていただいて…。あの、でも、すこし…」

言葉を考える間にも、老婆は手慣れた様子で桶を洗い流している。

「……。気が休まると、いいなって思って……」

視界に入るのは小さな背中だが、思いを馳せるのは寂寥を宿した大きく広い背中。

職を探そうと、日がな町を練り歩くようになってからというもの、いつかも感じた押し詰まるものを見た。

勿論、義勇本人の態度が豹変することはないが、不安に駆られるのは当然の心理だ。

自分が"先生"という漠然とした選択肢を出したことが問題だったのかと考えもしたが、表情を観察していれば、そうでないことは量れた。

ならば原因は何なのか。

考えあぐねいているところで、仕立てに夢中になっている間に帰宅していた義勇が一瞬見せた悲痛な顔は、全てを語るには充分すぎるものだった。

「そうねぇ。温泉は気持ちいいからねぇ。心も解きほぐれるでしょお」

すくっと立ち上がる老婆は、いつの間にか片付けを終えていて、名前が抱えたカゴを攫っていく。

「でも悩みは口にするのもいいのよぉ?特に見知らぬ他人は後腐れがないからねぇ。後先短い老いぼれなら墓場まで持っていけるわぁ」

ケラケラと笑う老婆に同じく笑いを返すことなどできるわけがなかったが、口を割る決心をしたのは、確実に背中を押されたためと言えよう。

「……。実は、あの、どうしたらいいのか…」

気休めにはなったというのは、義勇の柔らかくなった表情で確信は得られている。
しかしそれが根本的な問題解決に繋がっているかどうかと訊かれば、全く以てそうではない。

恐らく今、義勇はひとり小屋の中で考えていることだろう。

名前に負担にならずに済むよう、少しでも確立した自活の道を。

心を圧迫する原因を理解して尚、何も言葉に出せずにいる。

「仕事を、探してるんです。でも、たぶん……、うまくいっていないみたいで」

ポツリポツリと零した言葉たちは、まるで名前自身の心を整理するように紡がれていく。

しかし半分も話し終わらないうちに、それは劇的な方向へと変化することとなった。



「義勇!」

バンッ!と音を立てた引き戸と共に叫びに近い声に、呼ばれた主は若干肩を震わせる。
何もしない時間すら惜しいと書き始めた履歴書の書の字は、そのせいで大きく歪んだ。

「……どうした?」

筆を置く僅かな時間にも、名前は勢い良く傍に滑り込んでくると床に両手をつく。

「おばあちゃんがね!働かないかって!」

嬉々とした瞳に圧倒されてしまう前に、義勇は冷静に言葉の意味を探した。

「ここでか?」

ようやく出た答えも、すぐに勢い良く首を振られる。

「ううん!おばあちゃんのお孫さんのところ!道場を経営なさってるんだって!それがね!すごく家から近いんだ!」

そこまでを耳に入れたことで、何故そこまで名前が期待に満ちているのか、義勇の中で全てが繋がった。

「経営なんていえないほどちっちゃいところだよぉ」

落ち着いた老婆の声に、二人は同時に視線を動かす。

「ただひとりでやるのはさすがにキツくなってきたから誰かいないかって手紙は来てたねぇ」

玄関を上がると、迷うことなく台所に立ったことでまた見つめるのは背中だ。

「ね?義勇、どう?」

ニコニコとした表情と反対に、問い掛けられたその表情は曇っていく。

「それは、健常者に限っての話だろう?」

そう言って、義勇が渋るのも無理はなかった。
人材募集の張り紙を見て戸を叩いても、失くなった右腕には皆が同じく訝しい顔をする。
そんな心中を知ってか知らずか、老婆は米袋を持ち上げると必要な分だけを掬い上げた。
その一連の動作すら、今の義勇には難しいものだと思い知らされたのとそれは同時。

「孫は左足が動かないけどねぇ」

暢気に言うい放った老婆に息を呑む。

「そう、なんですか?」

これには名前も初耳だったようで目を丸くした。

「高い所から落ちた後遺症だって言ってたよぉ。そんでもよぉけ働く子でねぇ、あの子ならなんかしら鬼狩り様の力になれるんじゃないかねぇ」

汲み上げ式の蛇口を上下に動したあと、音を立てる流水に暫し追い付けなかった思考を動かしたのは、

「義勇っ」

弾んだ声で名前を呼ばれてからだった。

向けられる瞳から言いたいことは存分に伝わってきて、頷きだけを返せば、パッと花のように笑顔が咲いていく。

その姿に笑みを返しながら、この時義勇は、まるで見えない何かに導かれているようだと、そんな感覚を憶えていた。


edge
繋がる結びつき

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