雲路の果て | ナノ 74

これまで無垢だった瞳が一転して白黒させる様子を、義勇は目端で捉えながらも素知らぬ顔で手拭いを持つ。

「どうした?」

声を掛けてみても、当の名前は袖を通したばかりの浴衣を心許なく胸元に手繰り寄せるばかり。

「先に行ってるぞ?」

このままでは埒があかないと動かした足はすぐについてくる気配に気付き、速度を弛めた。

進んだ先の湯治場で、迷うことなく羽織っていた浴衣を脱ぐ。
その瞬間、大袈裟なほど顔を背ける名前を背後に感じた。
予め身支度しておいたためその先は何も身に纏っていないが、ここまで意識をされると義勇の中にも羞恥というものが湧き出る。
しかし平常心を貫きながら、木桶で湯を汲んでから手拭いをそこへ浸した。

「名前」
「え!?なに!?」

呼んだそばから震わせる肩に、義勇の肩も小刻みに動きそうになるのは寸でで止める。

「悪い。絞ってくれないか?」

左手で持ち上げた手拭いを見て、驚いた瞳が何度も瞬きをした。

「…あ、うん!」

袖を捲るとそれを捩じる動きに、零れた湯が浴衣へと小さく跳ねていく。

「濡れる前に脱いだ方がいい」
「…あ、うん」

返事をしながらも戸惑い続ける手から差し出される手拭いを受け取った。

「背中、流そう」
「…あ、先に私が」
「いいから。後ろを向いてくれ」

多少強引に促せば、観念した様子で義勇と同方向へ身体を動かす。
岩に腰を下ろす直前に解けた帯のあと、露わになる背面。浮き出た肩甲骨は女性特有のしなやかさを表していた。

ここで沈黙を貫いてしまっては、折角薄らいだ名前の羞恥心がまた戻ってきてしまう。

息を呑もうとした喉は、
「洗うぞ?」
声を出すことで誤魔化せば、
「うん。お願いします」
無邪気な声が返ってきたことで、左手を背中へと添えた。


雲路の


「ふー…」

気の抜けた声が立ち込める湯気の中から響く。

「気持ちいいねぇ」

完全に安気している姿を後目に、義勇もひとつ深い息を吐いた。

「…そうだな。湯加減も丁度いい」

相槌だけではなく一言を付け加えたのは、多少なりともこの状況は心躍るものがあるといえよう。

季節は巡っているとはいえ、陽が傾けばまだ肌寒さが顕著になる時季だ。湯に浸かる身体は温かくも、首から上は外気に触れ、冷えていく。
その不調和にくわえ、場所は山の頂き。周りは木々に囲まれ、眼前に広がる薄暮の空には、一等星が輝き始めていた。

その空間は、ただ屋敷で浴槽に浸かっているのとでは訳が違う。多少なりとも平常心を欠いても不思議ではなかった。

「このまま暗くなったら」
「…うん?」

寄せられる右耳に、義勇は声を張り上げる。

「このまま、暗くなったら」
「うん」
「さぞかし、星が綺麗に見えるだろうな」

狭霧山の星空を思い出したのは、必然と言えば必然。

あの時とは似て非なるものでも重なる、正確には重ねたい記憶があった。

「…そう、だね」

涙に濡れていた横顔は今、穏やかな笑顔を宿していて、掛けられる言葉など何もなく星空を眺めるしかなかった群青色の瞳は今、隣で微笑っている。

それが、生きてきた証なのだろう。

「暗くなるまで、待とうか」
「…いいの?」
「構わない」
「ふふっ」

口元を両手で押さえながら洩れた笑声に、目の動きだけで疑問を呈する。
視線が合った瞳は一瞬にして細くなり、また笑い声が響く。

「…義勇、私の考えてること、ぜんぶわかってるみたいで、うれしかったの」
「……。大体は、わかる」
「どうして、わかるの?」
「何となくだ」

曖昧な一言で返したのは、決して誤魔化しの意図があったわけではない。
明確にできる言葉を、正直なところ、義勇自身持ち合わせていなかった。

何故と訊かれれば、そう、"何となく"。

何となく、そうではないかという勘が働く。

名前が自分の思考や願望を表に出すのが得意ではないと、師である鱗滝左近次が指摘した時からだ。

それは義勇の意識下で、培われてきた。

錆兎の死でできた空白の時間は、奇しくもその勘を更に研磨させる結果となったのだが、本人がそれを知る由はない。

だから、詳しく説明することもできないという結論となる。

それでも空を見上げるその表情が曇ってしまっていわないか窺う行動は、自覚していた。
薄暗くなっていく中でも穏やかな瞳を見てとれて、安堵はする。


「……。星、きれいだね」

響いた呟き声に、義勇は暫くの間呆けていたことに気付き、空を仰いだ。

「……。そうだな」

一面に広がる瞬きは、まるで降り注いできそうなほどに眩しい。

「…久しぶりだね。こんな風に、いっしょに見るの」
「…そうだな」

それ以上の会話はなくとも、心中は互いに同じものだろう。

生きている。

だからこそ今、輝きを放つ満点の星ひとつひとつを余すことなく眺め、綺麗だと感じられるのだということを。

「少し、昔を思い出した」
「うん?」

優しい声と眼差しを受けても、星空を見つめ続ける。

「もし死後人間が星になるなら、この世に未練があるということだ」

強い山風に亀甲柄の羽織りを靡かせながら強く言い切った横顔は、これもまた靡く宍色の髪で隠れた。

見上げられるだけの対象では、遺された者は救えない。
死して尚、星空に願われるのは虚しさしか募らない。

俗説を嫌うその真っ直ぐで強靱な意思は、きっと命が消える直前でも揺らぐことはなかったのだろう。

錆兎の持論は、尤もだと思った。今もそう思っている。

だけど、命の残りが決められた義勇だからこそ感じることもある。

「俺は死んだら、星になりたい」

最期の瞬間、何を想うかはまだわからない。
しかし、この世に未練があろうがなかろうが、この瞬くどれかひとつになれたのなら―…

「……どうして?」

無邪気に目を丸くさせる存在を、ずっと見守っていられる。
そして死後、星になり一緒にいられたなら、これ程幸せなことはないと言い切れた。

「…綺麗、だからだ」

そんな想いを口に出すわけにもいかず適当にとってつけた理由は、訝しがられるかと思いきや、その真逆で笑顔を深めていく。

「義勇が星になったら、わたし、ぜったい見つけられるよ」
「こんなにある中でか?」
「うん」
「名前にしては随分な自信だな」
「うんっ」

弾んだ声は星空へ向けられて、瞳はそれに劣らないくらいに光を宿した。

「だって、ぜったい一番輝いてるから。探さなくても、わかるよ」

つい先ほどまで狼狽していたのが嘘のように堂々としている姿に、頬が弛んでしまうのも照れ隠しの一種なのだろう。
それでも今笑ってしまえば、その瞳が曇ってしまうのを知っている。

「…そうか。それなら、安心だな」

意識して柔らかくした口調に、名前の表情はさらに嬉々としていく。

「うんっ」

微笑み合ってから見上げた空に、丁度星が一滴流れた。

「あ!」

叫ぶや否や、目を瞑り両手を合わせる動作に、義勇の表情が困惑する。

「何、してるんだ?」
「お願いごとしてるの!」

星が流れたのは刹那的な時間、すでにもう見えてはいないというのに、懸命に祈る横顔に疑問が沸いた。

「そんなに必死に願うことなのか?」
「うんっ」

頷きながら、その姿勢は崩さない。
想像をしてみるが、義勇が正確にその思考を読み取ることは無理だと悟った。
しかし、そんなに一生懸命想われるのなら星になるのも悪くない。改めて考えながら、空を見上げた。



Star
祈念が成就するように

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