老婆が小屋を後にしたのは、陽が沈むより前のこと。 まるでこの刻には帰ると決められていたようにテキパキと動く小さな身体は、最後まで息ひとつ切らすことはなかった。 「そいでは失礼いたします。鬼狩り様」 夕飯の支度まで済ませたその足を止めることなく出て行こうとするのを、義勇と名前が止めたのは当然の行動。 せめて礼を、または麓まで送りたいといった提案の一切を老婆は笑顔で断り、 「これが私の仕事なんでねぇ」 そう言った瞳に強い意思を見た二人には、これ以上引き留めることはできなかった。 せめてもの謝意を表すための見送りも、すぐに見えなくなる小さな姿に余り意味を成さなったことを知る。 「…おばあさん、歩くの、早いね」 「そうだな」 一度も振り向くこともなかった背中がどうか無事に帰宅することを願いつつ、義勇はゆっくり扉を閉めた。 「ふふっ」 途端に響く笑声で、その顔へと視線が動く。目が合えば更に笑顔が深まった。 「ここにきて、よかったね」 一瞬速めた瞬きも、意味を理解してゆっくり細める。 「そうだな」 返事と同時に、老婆の台詞を思い出した。 「では息子には連絡しときますからねぇ」 確実性があるわけではないが、ひとまず"希望"は見つけた気はしている。 例えその雇用話が上手く運ばず白紙に戻ったとしても、心の余裕を取り戻せた。 それだけでここに来た成果はあったのだと名前は伝えていて、義勇もそう感じている。 だから心の底からの同調を返すことができた。 「ご飯、食べる?」 決して広くはない小屋の中に漂う、炊き立ての白米の香りに誘発された食欲も互いに同じ。 「そうだな。冷めないうちに食べよう」 「うんっ。じゃあ、準備しよう」 柔らかい笑みで左手を引く名前の手は伝えていた。 共に歩くと決めた伴侶は決して弱者などではなく、等しく在るものだということを。 少なくともこれまで負い目を感じていた義勇には、そう感じられていた。 雲路の果て 「美味しかったねぇ」 「あぁ、美味かった」 腹が満たされたことで、多少なりとも動きが鈍るのは人間の習性であり、元鬼殺隊士といえど安穏を手に入れた現在、その欲に抗えるはずもない。 しかし、申し訳程度に水溜めに浸けた食器類を一瞥した。 洗浄のため外の井戸へ運ばなくてはならない作業が残っている。しかしそれを億劫だと感じてしまうのは、そこに怠惰できる選択肢を与えられているためだ。 「本当にこのままで、いいのかな」 「明日片付けに来ると言っていたから、いいんじゃないか?」 "私の仕事ですので" その言葉が社交辞令などではないことは、淡々とこなす姿からも伝わってきている。 寧ろ仕事を与えられた方が生き生きとしているとさえ感じられた。 本来であれば借宿の礼として、ここにいた痕跡すら残さないほどの状態を保つことが理想ではあるが、それは老婆にとっては侘しいものだと言う。 「じゃあ、お願い、しちゃおう」 会って数刻も満たない間でもそれが理解できたので、敢えて手を触れない選択をする。 かといって、このまま何もしないというのは退屈なものだ。 「名前」 「ん?」 「温泉、入るか?」 おもむろに出した誘いは、その頬をすぐに赤く染めさせた。 「…えっ…と」 「嫌なら無理しなくていい」 「いやじゃないよ!?」 目を白黒させながら答えるが、今にも頭から蒸気が出てきそうなほどだ。 「あ、じゃ!じゃあ!義勇、先に行ってて?私、少し荷物片付けたら行くから」 「…わかった」 出された提案に異議を唱えることなく受け入れたのは、名前の思考を想像できるようになったからだ。 羞恥。 今まで名前の中で皆無に等しかった感情が、共に暮らすようになったことで徐々に肥大しているのは顕著だった。 要は義勇のことを、異性として意識している。 今更といえば今更だが、名前らしいといえば名前らしい。 だから情事以外で身体を見せること、或いは見ることを"恥ずかしい"。今、感情はその域に達しているためだろう。 昨日も同じように狼狽えていたのを思い出したことで、義勇は湯に浸かりながら小さく笑った。 昨夜と変わらず降り注いできそうな星を見上げたところで、 「ごめんね、お待たせっ」 緊張で硬くなった声を聴く。 大判の手拭いで身体をぐるりと巻いた身体は、意識はせずとも月灯りに照らされたことで妖艶さを醸し出すのはたとえ錯覚だとしても、そう感じるのは仕方のないこと。 湯を汲んだ木桶を肩からかける様子を音を聴くだけで留めたのは、義勇自身も持つ羞恥や遠慮の現れだった。 「今日も星が綺麗だ」 ぎこちない空気を和ませようと発した台詞は、 「あ、ほんとだ」 無防備に空を見上げる名前によって、一気に弛まっていく。 つま先からゆっくりと湯に浸かっていく生脚を艶かしいと感じながらも、一瞥程度に済ませ空を見上げた。 会話という会話はないまま、時折起きる水音が辺りに響く。 「帰ったら、楽しみだね」 そう言った意味を、義勇は間を使って探した。 「……そうだな」 咄嗟に返した一言だけでは足りないことに気付き、続ける。 「どうなってるだろうな」 「ね」 隣で浮かべる純粋な笑みに、水柱邸に招いたいつの日かを思い出す。 ひとつひとつのことに驚いては喜び、感動していたあの姿を明日見られると思うと、自然と口元は上へ動いていた。 「無事に職が見付かったら」 希望的観測を一度呑み込みかけたのはそれこそ経験によるものだが、今はその後ろ向きな意識が必要ないのを知り、義勇は続ける。 「炭治郎達に会いに行こうと思っている」 顔に張り付いた髪を拭うため動かした左手は、思いのほか水音を立てた。 「炭治郎くん?」 「あぁ」 律儀と堅気と、言えばいいのか。 炭治郎達が竈門家に帰宅した数日もしないうちに報告の文が届いていて、その内容に安堵はしながらも、こちらを気にかけ、心配させていることに申し訳なさも募った。 「安心させてやりたい」 それは炭治郎は勿論、右手を失くした義勇のことを口に出さずとも気にしていた猪頭の下を今でも思い出すためだ。 「…うん。そうだね」 深くなった笑顔は、義勇から星空へと向けられる。しかしそのすぐ後には、しっかりと閉じられた両目に、義勇の首が傾げられる。 「眠いのか?」 「……ううん。全集中・常中、しようと思って。最近、ずっとしてなかったから」 何故、今? その疑問を口にするより早く深くなる呼吸音は、森閑とした空間に心地好く響いたことで口を噤んだ。 代わりに空を見上げては、遥か遠く感じる過去を思い出す。 鱗滝に背負われ帰ってきた名前に、義勇、錆兎が驚いたのも無理はない。 最終選別を間近に控えたという時期だったのもあるが、その呼吸はか細く、今にも止まってしまいそうだったためだ。 今出来うる最善を模索する錆兎と、また目の前で誰かがいなくなる恐怖に恐れ戦く義勇に、鱗滝は落ち着いた声で諭した。 「大丈夫だ。崖から落ちた際、名前は呼吸を会得した。徐々に回復するだろう」 それが"全集中・常中"だと義勇が知ったのは後になってからのことだが、とにかく皮肉にも、あの事故があったからこそ名前は鬼殺隊となってからも幾度となく生き延びることができたのは紛うことなく事実だった。 そうして義勇の中でふと思い浮かぶのは、もしもという可能性。 もしもあの時、名前が義勇、錆兎と共に最終選別に向かっていたとしたら、何かが変わっていたのだろうか。 目端で捉えるのは、未だ目を閉じて呼吸を繰り返す名前。 それだけで答えが見えた気がした。 "何も、変わらなかっただろう"という、恐らく真理に近い答えが。 寧ろ目の前で錆兎を失っていたら、名前は今こうして隣にもいなければ、微笑んでもいなかっただろう。 それほどに、あの時感じた喪失は、絶望は大きいものと言える。 今も目が、耳が、身体が全てを覚えているからこそ、同じ目に遭わせることがなかったのは、義勇にとってせめてもの救いでもあった。 錆兎なら、今の俺達を見たらどう思うんだろうな… これもまた答えが得られないものではあるが、無意識に考えてしまう。 「……!」 まるで図ったかのように空を横切っていく星に、見開いた目を名前へ向ける。 しかし未だに閉じられた瞳は、それに気付くことはなかったようだ。 今ここで星が流れたことを伝えても、見られなかったことを悔やむだけだろうと判断して、義勇はただ黙って星を観賞することにした。 そこからは、名前の呼吸と木々の騒めきが耳に良く馴染むのを感じながら、額に張り付いた前髪を避ける。 その動作でチャポ、と小さな水音が響いた。 そろそろ上がろう。 そう伝えようと動かした顔は、僅かに険しくなる。 「名前」 「…ん?え!?きゃあっ!」 小さな悲鳴と共に義勇へ飛びつく身体を左腕で包み込んだ。 「ただの蛾だ」 目線の先にはバタバタと重い羽根音を立てて飛んでいく姿。 今しがた険しい顔をしたのも、名を呼んだのも、それが名前の目と鼻の先まで近付いていたためだった。 「……。びっくり、した…っ」 言葉の通り、ドクドクと速い心音が手拭い一枚を隔てた肌から伝わる。 「大きかったからな」 「…うん」 拳ほどはある物体が突然目の前に飛んできたら、特別虫に苦手意識がなくとも驚くだろう。 「……ふぅ」 小さく息を吐きながら身体を預ける名前の髪を撫でた。 密着すればするほど、嫌でも義勇の身体に変化をもたらしていく。 名前もそれに気が付いたようだ。 「…あ、ごめん、ねっ」 不自然に慌てて離れようとする動きを腕一本で制した。 「離れなくていい」 「…あ、でも…」 「嫌か?」 「い、嫌じゃないよ!?」 その言葉で大人しくなることは最初から想定されたもの。 ぎゅ、と抱き締める力を込めれば、どんどん速まっていく心臓の音を直に感じて、勝手に口角が上がっていく。 「全集中の呼吸が止まってる」 「あっ」 すう、と深く息をする愚直さには更に笑みが深まった。 しかし呼吸していくにつれ落ち着きを取り戻していく心音は、義勇の中の邪心を湧き立たせる。 寄せ合っていた身体の隙間から滑り込ませた指を手拭いへ掛けた。 「取らないのか?」 それだけでドクッと動く心臓をはっきりと振動で感じる。 「…え?あ、ダメ、かな?」 「駄目じゃないが、昨日は巻いてなかった」 「……っ!」 名前が言葉に詰まる意味を、既に義勇は知っていた。 知っていて敢えて存ぜぬふりで続ける。 「呼吸が止まってる」 「あっ」 また深く吸われた息が吐かれる前に、手拭い越しに乳房を掌で覆った。 「…ん、ぎゆっ!?」 「気にしなくていい。呼吸を続けろ」 「…あ、うん」 昨日、散々星に願いをかけて満足したその顔が、再度羞恥を色濃くしたのは湯から出る瞬間。 当然何も纏っていない身を一瞬でも晒さなければならないと気付いた時には、顔を真っ赤にさせていた。 だからこそ、今はこの心許ないほど薄い手拭いを頑なに手放さない。 それがわかっているから、身体を離すとその姿を凝視した。 「…あ、義勇…あの…」 途端にドクドクと脈打つ音は密着しなくともわかる。 「すごいな」 「…え?」 「心臓の音だ」 今度はかあっと音を立てそうなほど赤くなっていく顔に、義勇は耐え切れず、くつくつと暫く喉を鳴らした。 「…もうっ」 小さく呟くと尖らせる口が本気で拗ねてしまう前に笑いを治めてから訊ねる。 「どうして今、常中なんだ?」 「…え?あ、うん」 一度俯いた顔が上げられる頃には、寂しげなものとなっていた。 「炭治郎くん達のおうち行くなら、もっと体力つけなきゃって、思ったんだ。ここまで来るまで、私、すごい足手まといだったから…」 生まれた邪心を後悔したのは、その言葉を聞いたすぐ後だ。 「足手まといなんかじゃない」 咄嗟にそう答えていた。 「……。うん…、ごめん、ね」 先程とは打って変わって翳を落とす表情に、接吻をひとつすれば驚いたものとなっていく。 「今はできてたな」 「…え?」 「常中だ。いつもなら息すら止めているところだ」 「…そ、そう?」 「あぁ、顔は赤いが」 敢えて揶揄するように意識すれば、更に紅潮していく顔は口を尖らせていく。 「……もう」 また小さく呟いては顔を隠す両手に、抑え気味ながら耐え切れぬ義勇の笑声が響いた。 mischief 愛しさ故の悪戯 [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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