「わかりました。クロさんと寛三郎さんのことは私が責任を持ってお預かりします」 鱗滝左近次特製の移動箱を両手に抱えた神崎アオイは、ハキハキとした口調でそう言うと、しっかり頭を下げた。 それによって、肩に乗っていた寛三郎が若干体幹を崩したが、しっかりとその場に掴まり直す。 「よろしくお願いします」 アオイと同じくらい深く腰を曲げる名前と、先に顔を上げた義勇はおもむろに竹籠の部分を撫でる。 「クロ、行ってくる」 くんくんと動いた鼻のあとのひと鳴きは、まるで返事をしているようで目を細めた。 「良い子にしててね?」 「んみゃ」 竹籠越しに擦り寄る顔を、指先で撫でてから手を下ろす。 「寛三郎、留守を頼む」 「行ってきます」 それぞれの双眸に見つめられ、ゆっくりと目を細めた。 「道中、クレグレモ気ヲ付ケテナ…」 アオイ達に見送られ進む道のり、案の定何度も振り返っては手を振る名前に、 「前を向いてください!転びますよ!」 そう言った瞬間によろける身体を、左手が軽々と受け止めた。 アオイの口角が上がったのは、相変わらずどこか抜けた名前への詮方ないという諦めか、いつ何時も支える義勇への安堵か。 あるいは、 「みゃぁ」 まるで呆れるように響いた黒猫の鳴き声かも知れない。 二人の背中が見えなくなったあと、アオイは気を引き締めるように眉毛を吊り上げると踵を動かす。 「さぁ、行きましょう。クロさん、寛三郎さん」 「にゃにゃ」 「ウム…」 まる同時に返事をする同じ漆黒の身体に、また勝手に頬が弛んでいくのを感じていた。 雲ひとつない春空へたなびく桃色は、踊るように円を描くと地面へと落ちていく。 「もうだいぶ、散ってきちゃったね」 名前が見上げた先には、満開をとうに過ぎ音もなく次々と花を落としていく木々達。 「そうだな」 僅かに芽吹き始めた緑は、淀みなく流れていく次の季節を告げている。 移ろいゆく景色を、こんなにも穏やかな気持ちで見つめたのはいつぶりだろうか。 少なくとも鬼殺隊という組織に身を置いてからは皆無だった。 むしろ、絶望に近いものが込み上げていたといっていい。 季節が変わっても尚、鬼は相変わらず脅威であり、人は喰われ続ける。その事実に、何度打ちのめされそうになったことか。 「お花見、したかったなぁ」 「来年、しよう」 「…うん、そうだね」 互いに目を細めるのも、吹きつけた風に手を取り合うのも、鬼を滅した今だからこそできることだ。 「久しぶり、だね。義勇とこうやって、どこかに、向かうの」 「そうか?」 「うん。任務では、よくあったけど」 繋いだ手の力を強めたのも、無意識ではある。 こうしてゆっくり景観を楽しみながら歩くことなど、今まで一度もなかった。 遥か上空で舞う鳶の優雅さに目を留めることすらも。 「最近、思うことがある」 「うん?」 右耳を近付けようと小さく首を傾げる動作にも沸き上がるのは、同様の感情だ。 「世界は、眩しいくらいに綺麗だと」 これまでは取るに足らなかった小さなことすら愛おしく感じるのは、定められた死期によるものなのか。 全てこの目に焼き付けるのは無理だとわかってはいても、少しでも多くの記憶を持って逝きたい。 そんな義勇の想いが届いているか定かではないが、 「……。うん、そうだね」 柔らかい笑顔で見つめるのは、紛れもなく同じ空だった。 雲路の果て 湯治場までは、比較的緩やかではない山道を超えていく。宇髄天元は、そう二人に伝えていた。 険しいと明確な表現を避けたのは仮にも鬼殺隊の柱、そして甲である隊士とあれば、それくらい、ものともせず進んでいくだろうと予測があってのこと。 実際当時の二人なら、息を切らせることなくその場に辿り着けていただろう。 しかし今は―…。 歩を弛めた背後、明らかに苦しそうな息遣いを確認して、義勇は振り返る。 「大丈夫か?」 「…う、ん。だい、じょうぶ」 そうは言いながら、胸元に手を当てる名前は見るからに疲弊していた。 「少し休もう」 適当に見繕った大きめな岩へその身を誘導すると、腰を下ろさせる。 「…ごめん、ね」 「謝ることじゃない。…俺も少し、疲れた」 それは、名前に対する気遣いから出した嘘ではない。 体力の衰えは、随分前から顕著に感じていた。 明確な喉の渇きを自覚したのは隣へ腰掛けてからだが、若干張り付いた感覚に小さく咳払いをしたことで、目の前に差し出された竹水筒。 「飲む?」 幾分か呼吸は落ち着いたのか。穏やかな笑みをその後に見た。 「あぁ。助かる…」 蓋を開けて、一口それを含む間に、名前は全集中の呼吸を繰り返すと空を見上げる。 「やっぱり、もうちょっと、鍛えなきゃだめかも…」 「あれだけの怪我をした挙句、完治して間もない。それにその恰好だ。思うように動けないのは仕方がないだろう」 「…うん」 それでも体力の低下がここまで著しいものだとは、名前自身思ってもみなかった。 視線を落としたと同時に目に入る竹水筒が差し出されてると知って、顔を上げる。 「名前も飲んだ方がいい」 「…あ、うん。ありがとう」 そこまで減っていない。そう気が付いたのは受け取ったあとだ。 「義勇。全然、飲んでないよね?もっと飲んでいいんだよ?」 「いや、今ので充分だ」 「…でも」 言い掛けた言葉は、流し込んだ水と共に飲み込まざるを得なくなった。 ふぅ、と息を吐いた瞬間、知った事実に赤くなっていく顔ではなく口唇へ触れた。 「……どうした?」 「ううん、なんでも、ない」 不思議そうに向けられる瞳、正確にはその口を直視できず、顔ごと逸らす。 頬を撫でる風が、熱を少しでも引かせてくれることを願った。 「もしかして」 その風に乗って流れていく義勇の声にはどきりと心臓が音を立てる。 「照れてる、のか?」 顔を背けている名前の耳にも入るようゆっくりとした発音は、さらにその頬を紅潮させた。 固まったまま聞こえてくることのない返答に、義勇は考える。 返ってこないのではなく、返せないのだと判断した瞬間、一気に表情筋が弛んだ。 「今更じゃ、ないか?」 漏れそうになる笑いはどうにか噛み殺して、覗き込んだ顔。 反射的に逃げようとする身体は、左手を肩に置いたことで止まった。 「…義、勇」 誘うように僅かに突き出された口唇へ近付いていく顔は、突然我に返る。 「い、いこう!?日が暮れちゃう…!」 「休憩は、もういいのか?」 「うんっ!大丈夫!」 いそいそと左手から抜け出すと立ち上がる名前に、義勇が続いた。 「まだ半分も進んでないし…」 「気にしなくていい。いざとなれば俺が背負っていく」 それは冗談ではないのだろう。 「名前ひとり運ぶくらい、今の俺でも造作ないことだ」 真っ直ぐ見据える真剣な瞳が伝えていた。 「…うん。そう、だよね」 今の二人にとって決して容易とは言えない進路は、景色こそ違えど初めて足を踏み入れた狭霧山を彷彿させる。 「そういえば、義勇。私が山に初めて登るとき、罠の場所、こっそり教えてくれたね」 「そうだったか…?」 「うん」 修行に参加したいと意思をはっきり告げた名前に、鱗滝は言った。 「今からお前を試す」と。 それは炭治郎と同様の試練。山の頂から夜明けまでに帰ってくること。 ただひとつ違うのは、そこに錆兎、義勇がいたことだ。 鱗滝の隙をつき、遠回しながらも試練の本質を説く錆兎と、憶えている限り麓までの経路を享受する義勇に助けられたと言っても過言ではない。 「私、二人がいなかったら、鬼殺隊に入ることも、できなかったんだなって、思うんだ」 そんなことはない。 意図は違えど、絶望に満ちた姿にいつか鱗滝が強く否定した。それは今も、義勇の心の中に強く残るものだ。 しかしそれは、今思いついても掛けられるような言葉ではない。 恐らく名前本人が言う通りだというのを義勇もわかっているからだ。 だから、返答の代わりに手を差し出す。 コツ。 金属が触れ合う僅かな音は、互いに伝わる振動で聞いた。 その瞬間、笑顔を零す名前に、義勇は穏やかに目を伏せ歩き出す。 「そういえばあの時」 その台詞で始まる道中思い出す昔話をポツポツと繋ぐが、それは悼みではなく、偲びであるものだと互いに感じていた。 * * * 休み休み進み続け、辿り着いたひとつの小屋。 「ここが、そう?」 丸くなった目を向けてくる名前に、義勇は短く息を吐くと答えた。 「恐らく、そうだ」 外側から掛けられた南京錠を確認して、天元より聞いていた鍵の在処を探す。 屋根の雨どいを探って、指先に触れた冷たいものを取り出す義勇に、目が丸くなっていく。 「誰も、いないの?」 「たまに管理者が見にくるくらいで、基本は無人だと聞いた」 「へぇー」 建付けが良いとは言えない扉を開けた先、手狭ながら掃除が行き届いた一室を、興味ありげに見回していく。 「食糧も寝床も揃っていると言っていたが」 「あ、ほんとだ…。お米とかたくさんある。いいの?使っちゃって…」 「あぁ。元々鬼殺隊のために作られた休憩所のようなものらしい」 「へぇー」 キョロキョロと視線を動かしたあと、 「…あ、温泉は?」 義勇に向けられるのは期待に満ちた眼差しだ。 「裏だ。行ってみるか?」 「うんっ」 小屋を出て迂回した先では、モクモクと湯気が立ち込めている。 どこからともなく吹いた風で現れた湯治場に、名前の表情が明るくなっていった。 「わぁ…」 源泉を掘り下げた空洞に石を敷き詰めたそこには、溢れんばかりの湯で満ちている。 隣で鼻をくんくんと動かす動作は、どこか黒猫を彷彿とさせた。 「これ、何のにおい?」 「硫黄だ」 「いおう?」 「温泉に含まれている成分」 「そうなんだ!義勇、物知りだねぇ」 物知りというほどでもない。 無邪気な笑顔の手前、口に出す前に飲み込みはした。 それでも博識だと思われるのも、それによって尊敬の念を持たれるのも、義勇にとっては悪いものでない。 しかし今、思いつくのはまた別のこと。 「温泉、初めてなのか?」 そのままを発問としてぶつければ、何度かの瞬きのあと、コクッと顎が動いた。 「そうか…」 返答にも思えるその言葉には、"それも"という文言が先につく。 鬼を討伐する。 それだけを目的として生きたこの数年は、雁字搦めにも近い日々だった。 誰かに強制をされたわけではない。とどのつまり、全て自由意思ではある。 それでも強迫観念はどこかであった。 "鬼殺隊たるもの" そんな利他的に近い感情が。 名前の場合、特にそれが強いであろう。 カナエ亡きあと、蝶屋敷の全てを担うしのぶの傍にいて常に指示を仰いでいた。 それは何故か。当時は遠巻きでしか見ていなかった義勇にも、肺腑にしみるものはある。 胡蝶姉妹に救われた。 その事実は絶対的なものであり、名前がその存在を差し置いて、自分を優先させる選択をするはずもなかった。 しかしこれからは、自己的でもいいのではないか。 そんな風に思えたことで、義勇もまた自分についての変化を感じている。 「疲れただろう?入るか?」 労いを込め問い掛ければ、またその頭が小さく動いたのを見る。 今この時にも湧き出る湯をじっと見つめる期待と不安に満ちた瞳に、人知れず微笑みが零れた。 Inexperienced これからは共に [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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