雲路の果て | ナノ 炭と水

桜が散り、ところどころで新緑が芽吹き始めた頃だ。

「炭治郎。手紙が来てた」
我妻善逸は家主にそう声を掛けると、ひとつの封筒を差し出した。
「ありがとう善逸。誰からだろう?」
差出人を確認しようとする先、
「冨岡さんだよ」
出された答えによって、一気に炭治郎の顔が綻んでいく。
生家へ帰ってから、これまで何度か文のやりとりはしていたが、こんなにも心を躍らせたのは初めてかも知れない。
逸る気持ちを抑えつつ、丁寧に封を開けた。
「何?何でそんなに嬉しそうなの?」
気になって仕方ないといった善逸は、炭治郎に倣い開かれた手紙を覗き込む。
途端にぱぁっと明るくなる笑顔と、引き攣っていく顔は正反対なものだった。

「禰󠄀豆子!伊之助!買い出しに行こう!」

各々、縫い物と柔軟運動をしていた双眸が、自然と声の主に集まっていく。

「どうしたの?お兄ちゃん。急に」
「買い出しなら昨日言ったじゃねぇか」

返ってくる台詞は違えど、疑問に満ちているのは互いに同じ。

「明日、義勇さん達がここに来るって言うから、迎える準備をしたいんだ」

その言葉に湧き立ったのも同様だ。

「義勇さん達来られるの!?」
「よっしゃー!今度こそあの半々羽織りを打ち負かしてやるぜぇ!」

言うや否や、買い出しに出ようと準備を始める一行の表情は嬉々としている。
ただひとり、善逸だけを除いては。

「…来んのかよ冨岡さん…。やだな。やだよ…名前さんだけだったらいいけどさぁ…」

ブツブツと独り言を言いながら、玄関に向かおうとする姿勢は善逸らしくおっかなびっくりだ。
「嫌なのか?どうして嫌なんだ?」
炭治郎の無邪気な質問に、ぐるんと動いた顔は怒りに満ちている。
「嫌に決まってるだろぉがぁ…!お前、冨岡さんが禰󠄀豆子ちゃんに貢ぎまくってるの知ってるだろぉ!?」
本人に聞かれないよう、恨み節を呟きながら距離を詰めてくるその目は血走っていた。
「あれは貢いでるんじゃなくて、義勇さんなりのお礼だよ。禰󠄀豆子も喜んでいるし「だ〜か〜ら問題なんだよ〜」」
一層下降していく機嫌に炭治郎は自然と後退するも、善逸はさらに顔を近づけ凄んでいく。
「俺の禰󠄀豆子ちゃんが冨岡さんに惚れたらどうしてくれんだよ〜?」
「それはないんじゃないか?」
「わかんないだろ!?あの人性格暗いけど顔はいいし、もしかしたら禰󠄀豆子ちゃんがコロッといっちゃう可能性もなきにしもあらずじゃん!?そしたらどうすんだよ〜?名前さんに禰󠄀豆子ちゃん、文字通り両手に華じゃん!!うっそ!!めちゃくちゃ羨ましいんだけど!!恨めしくて禿げそうなんですけど!!」
頭を抱えると床に転がる姿に、炭治郎は眉を顰めた。
「いい加減にしろ善逸!義勇さんがそんなことするはずないだろう!」
「わかんないじゃん!!もしかしたらっていうのがあるかもしれないだろ!?」
「ない!絶対にない!!匂いでわかる!それに義勇さんは…「何揉めてんだお前ら」」
身支度を終えた伊之助と、その背後から向けられる桃色の瞳に、善逸は素早い動きで立ち上がる。
「なんでもないよ〜!禰󠄀豆子ちゃん!さぁ!行こっか〜!寒くない?平気?寒かったら遠慮なく言ってね!俺の羽織りでも何でも貸すからさ〜!」
先程と打って変わってデレデレと鼻の下を伸ばす姿に、炭治郎の抑えきれぬ溜め息が零れた。


と水


「え!?結婚!?したの!?正式に!?水柱と名前さん!?」

驚きの余り単語の羅列になった上に、今はもう効力を持たない役職で呼んでしまったことに気付くも、善逸が気にするのはそこじゃない。
「いつ!?俺まだちゃんと祝辞送ってないんだけど…!」
形だけの祝言で祝ったとはいえ、正式に籍を入れたとなれば話は違う。
きちんとした祝辞を伝えなければならないと、善逸の中で気持ちは強く持っていた。
それが例え、禰󠄀豆子との仲を脅かす存在であったとしてもだ。
「俺達がここに帰ってきてからすぐのことだよ。手紙で知らせてくれたんだ」
「何で俺には教えてくれなかったんだよぉ!」
炭治郎の腕に縋り付く善逸に続いたのは、買ったばかりの荷を肩に担ぎ、前を歩く伊之助だった。
「俺も聞いてねぇ!」
「ごめんな。善逸、伊之助。結婚の報告は直接したいと言われていたから、二人には黙っていたんだ」

まだ桜が散り終える前、鴉が運んだ手紙には、
"近々そちらを訪ねたい"
そんな主旨が綴られていた。

しかし、夫婦として新しい生活を始めた二人には、職探しから蝶屋敷の補佐まで、こなさなくてはならない事案が何かと多く、どうにもこちらに訪れる時間が作れないまま今に至る。
炭治郎達も時々は蝶屋敷を訪れてはいたため、最初こそ、すぐに会えるとしていた算段は徐々に狂っていき、善逸と伊之助に告げる時機を逃してしまっていた。

それが季節が移り変わって漸く、この時を迎えられることと相成ったため、炭治郎の喜びは一入だろう。

義勇から禰󠄀豆子へ対する贈り物は、ほぼ飛脚を通じて届けられるか、蝶屋敷でカナヲが預かっていたものを渡されるか、どちらかでしかなかったため、善逸が警戒するのも無理はない。
その際、平仮名や漢字検定なるものを伊之助宛てに同封していたものだから、先程の反応も当然だった。

「ふざけんなよ…。名前さんという奥さんがいながら人のものに手ぇ出すとは…」
「今度こそ全部丸させてやるぜ!」

思い思いに出された心情を炭治郎は複雑な心情で見ていたが、禰󠄀豆子はその半分、特に善逸の反応は理解出来ていなかった。


そんな複雑な事情をまったく知ることない義勇と名前が竈門家の戸を叩いたのは、陽が傾きかけている夕刻だった。

「義勇さん!名前さん、お久しぶりです!」
笑顔で迎え入れる面々に、
「遅くなってすまない」
詫びを入れる義勇と、それに倣い頭を下げる名前をどこか見知らぬ人物に感じたのは、隊服に身を包んでいないからだというのはすぐに気が付いた。
同時に、自分達が鬼殺隊の一員でなくなったという事実を改めて噛み締める。

「いえ!俺達は全然大丈夫です!気にしないでください!」

炭治郎の気遣いに、一度上げた名前の頭が再度下げられた。
「ごめんなさい!私がっ」
言い終わる前に、クンクンと動いた鼻と共に笑顔が深くなる。
「蝶屋敷にいたんですね。すごく慌ただしかったのを匂いから感じます」
「…あ、うん。ごめんね!」
もう一度頭を下げようとするのを止めたのは、中から響く伊之助の声だった。
「謝ってばっかいねぇでさっさと入りやがれ!俺は腹が減って仕方ねぇんだ!」
「お前、久々に会ったのに失礼すぎるよ…」
続く善逸の声を聞きながら一声掛けた後で足を踏み入れた先には、ちゃぶ台に所狭しと置かれた料理の数々。
それを囲む面々の表情で、変わらず健勝であることが窺えた。
綻ばせそうになる顔は一切の料理に手が付けられていないことを知った瞬間、大きく変化する。
「…ごめんね。ずっと待っててくれたんだ…」
「だから謝ってんじゃねぇっつってんだろ!?ほら!座れ!さっさと食うぞ!」
ぶっきらぼうな物言いに、下げそうになった頭の代わりに
「義勇さん、名前さん、こっちこっち」
手招きする禰󠄀豆子の元へ向かう。
自然と名前をその隣へ座らせると、義勇も名前の右側へ腰を下ろした。
「渡してくれないか?」
おもむろに抱えていた風呂敷を差し出せば、理解をしたように小さく頷くと、そのまま隣へと流れていく。
「禰󠄀豆子ちゃん、これ。義勇から」
「…え!?」
上がった声と同時に、反射的に受け取ろうとした手が引っ込められた。
「そんな…!もう十分戴いたのに!」
「俺だけじゃない。名前からのも入ってる」
「なおさら戴けないですよ!だって今日は私達がお祝いしたいって義勇さん達を呼んだのに…」
期待に満ちた二人の双眸を向けられ、居た堪れず手元へと落とす。
「禰󠄀豆子。せっかくのお二人の気持ちを断るのは失礼だと兄ちゃんは思うぞ」
「貰えるモンは貰っときゃいいじゃねぇか!」
更に炭治郎と伊之助の助言も手伝って、迷いながらもそれを受け取った。
「…ありがとう、ございます。大事にします」
遠慮がちながら、頭を下げる妹と開封を促す伊之助を微笑ましく見守ったところで、隣から言いようのないドス黒さを感じて目を窄める。

「善逸。顔が怖いぞ」

昨日ほどではないが、見開かれている瞳は明らかに義勇へと向けられていた。
「これでも抑えてる方なんだよぉ…。水柱に喧嘩売って、万が一にでも禰󠄀豆子ちゃんに嫌われたくないからなぁ…!?」
心の奥底から叫び出したい衝動に駆られているのは、炭治郎にもこれまでになく伝わっている。
だからこそ、忍び声で続けた。
「それなら大丈夫だ。禰󠄀豆子は善逸のこと、少し気になり始めてる」
「…っ!?」
悲鳴に近いものを上げそうになったのを両手で押さえたのは、善逸の常識力が働いたからだろう。
「ほんと!?ほんとに禰󠄀豆子ちゃんが俺のこと…!」
周りに聞こえぬよう、これでもかと声量を小さめに問えば、
「あぁ。俺にはわかるよ。だから大丈夫だ。善逸は…」
聞き終える前に喜びが噴出していく。
「俺お二人にお茶っ!淹っれま〜す!」
軽い足取りで台所へ向かう背中を、贈った品々を見て盛り上がる面々の中、伊之助はおもむろに顔を上げると
「何だアイツ。気持ち悪ぃな」
ポツリと呟いた。


善逸が淹れた煎茶が義勇、名前の前に置かれてから、炭治郎は背を伸ばすと口を開く。
「改めて、義勇さん、名前さん、ご結婚おめでとうございます」
深く頭を下げる竈門兄妹と、その半分ほど頭を垂れる善逸。全く頭を動かす気配のない猪頭に、個性を感じ、頬が弛んだ。
黙ってお辞儀を返す義勇に続いて、名前もそれに倣う。
「オイ!早く食おうぜ!?」
囃し立てはするものの、手を出さない伊之助の心中は炭治郎達と同様だ。
「うん、そうだね。ずっと待っててくれたから…」
言葉を切ったその瞳は、茶碗の前で止まる。
客人であるこちらが先陣を切らないと始まらないと判断し、動かした両手も同じく動きを止めた。

食事をとるために必要な箸がない。

念のため、義勇の方へ視線を向けるが、やはりそこに置かれていない。しかし反対側、禰󠄀豆子の元には箸置きとともに並べられていた。
少し遅れて、不思議な顔をしている理由を気が付いた義勇が口を開こうとした時機に合わせるように、禰󠄀豆子が差し出した両手。

「俺達から、お二人にお祝いです」

炭治郎の微笑みから、また禰󠄀豆子へと戻していく視線の動きは綺麗に揃っていた。

「…いい、のか?」
「はい!というか、貰ってください!」

多少強引に名前の前に出したのは、二人が遠慮すると想定していたためだ。
だからこそ、先程断りかけた贈物を受け取ったのもある。
禰󠄀豆子が受け入れた手前、自分達も断りづらくなるだろうという確信をついていた。
案の上、その目論見通りに迷った両手がそれを掴む。
「…ありがとう」
それでもどうしたらいいのかと訴える瞳は、義勇へと流れた。
しかしその群青色の双眸は、名前の手元に向けられたまま。

「…これは、嘴平が書いたのか?」
「あん!?そうだよ悪ィか!」

乱暴な言葉とは裏腹に、どこか照れているのが猪の面からも伝わってくるのは、その字体が温かいものだったからだ。

"冨岡 義勇 名前"

そう書かれた後ろには、違う筆跡で"様"と認められている。

しかし、それを見つめたまま何の反応も見せない二人に、伊之助の焦燥が噴出した。
「何だよ!何とか言えよ!?」
まだ込み上げる感情を噛み締め切れていないが、徐々に潤んでいく名前の瞳で猪頭がぎょっとしてしまう前に、義勇は口を開く。

「…随分、上達した」

正直、語彙を選ぶのも時間がかかるほどに、驚きを隠せなかった。
「だろォ!?俺様だからな!何たっ…うぉ!?何で泣いてんだお前!!」
コクコクと何度も頷く拍子に、零れ落ちていく雫に案の定慌てふためいたところで
「嬉しいからに決まってるじゃん」
善逸の冷静な言葉がその焦りを鎮めていく。
「嬉しいと泣くとか相変わらずワケわかんねぇな」
そうは言いつつも安心はしたのか、今まで張りつめていた糸が切れたように赤飯をかき込み始めた。
「伊之助!まだいただきますしてないだろぉっ!?」
何とか制止する善逸を横目に、炭治郎は言う。
「開けてみてください。気に入ってもらえるといいんですけど」
促されたはいいが、指先が震えて上手くいかない名前の代わりにゆっくりと箱を持ちあげる。

これにもまた、驚きを隠せなくなった。

桐箱に収まる、長さと色彩が異なる二膳の箸。

ひと目見ただけで、それが夫婦を模しているものだと悟った。

「…わぁ、きれい…」
驚きで止まったものの、まだ涙を溜めた瞳が大きく見開かれていく。
「高かっただろう」
高級品に聡いわけではないが、値が張るものであると義勇の観察眼でもわかるため、何の気なしに口にした言葉は、即座に後悔した。
今この場で値段の話など、無粋以外の何物でもない。
それでも向けられる顔が非難に変わることもなかった。
「いえ!禰󠄀豆子が義勇さん達から戴いた品々には及びません!」
これに関しては、否定も肯定もできないと口を噤んだ義勇へ禰󠄀豆子が微笑みかける。
「食べてください!お兄ちゃん、義勇さんの好物だって聞いて鮭大根も作ったんですよ!」
「……。そうか」
弛む口元は、この部屋に入った瞬間から知覚していた存在の知らせに、我慢し切れず上がっていった。
しかしその機微を正解に理解できるのは、隣にいる名前だけだろう。
炭治郎達の想いに応えるべく、桐箱から取り出した箸を手に
「「いただきます」」
綺麗に揃った声で告げた。

* * *

夕餉時と違い、すっかり静まった竈門家の縁側、炭治郎は腰を下ろすと小さく息を吐いた。
眼前に広がる星空に、人知れず笑みを浮かべたが、
「まだ、起きてたのか?」
背後から飛んできた問いかけには、驚きから硬直する。

「義勇さん」

振り返る前に匂いで知覚した人物の名を呼んだ。
身を包む浴衣も、どこか慣れぬものだと思いながら、隣に腰を下ろす動作を目で追う。
空を仰ぐ群青色の双眸がこちらに向くことがないと知り、同じように空を眺めた。
なんとなく狭霧山を思い出したのは、義勇から漂う香りに懐かしさを感じたからか。それとも、同じ山中という記憶の重なりか。どちらとも言える。

「…大丈夫か?」

匂いはわかるとは言え、その発問の意味は悟れなかった。何を差しての言葉なのだろう。
「え?」
寂し気に伏せた義勇の表情で、走馬燈のように走るは、その群青色と初めて向き合った時。

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」

今は涼しいその顔を、悪意がごとく歪ませて怒鳴った意味を、幼き炭治郎には半分も理解できなかった。
だけど、今ならわかる。

それが最大限、当時の義勇が示せる標だったのだと。

鮮明に思い起こしたことで意図もまた、汲み取れた。

「大丈夫です。禰󠄀豆子も善逸も伊之助も、いるから」

そう言いつつも伏せる瞳は、蘇ってくる惨劇を、胸を握り潰される憎しみを、生涯忘れることはないだろう。

ここで鬼舞辻󠄀無惨に家族が惨殺され、禰󠄀豆子は鬼となった。

その事実がこの先、消えることはない。

「無理はしなくていい。あんな光景を見て、忘れろというのが無理な話だ」

穏やかな声と共に、優しさに満ちた匂いが炭治郎の鼻腔を通っていく。

「もしかして、義勇さん…」

次の言葉は上手く紡げないままだったが、そこまで炭治郎を気に掛け、憂慮する基となるものは理解した。
理解をした瞬間、嬉しくもなった。
だから、空を見上げる。

ふと狭霧山の日々を思い出したのは、満点の星空が似ていたからかも知れないし、今も色濃く残る、宍色を揺り起こしたからかも知れない。

「義勇さんは名前さんのこと、いつから好きだったんですか?」

全く違う話題を振ったことで薄まっていく寂寥と強くなる驚きの匂いは、炭治郎の目論見ではなかったが、同じように空を見つめる瞳の温かさに安堵はした。

「いつから…、だったんだろうな」

今まで改めたことのなかった過去を、義勇は遡ってみる。
思えば、涙に暮れながら星を眺める横顔を気付かれぬように見つめていた、あの時からか。
自分のために流してくれたその涙に、嘘などなかったことに単純な嬉しさを感じていた。

もしかしたらその瞳は、誰の眼からも映らない星の輝きさえ見付け、微笑んでくれるのではないか。

そんな期待を持ったのは確かだ。

しかしそんなことを口にできるはずがなく、ただ一言で告げる。

「ずっと昔からだ」

途端に目を点にする炭治郎へは解せないといった表情で返した。

「あ…、それは、わかってるんですけど、こういうきかっけがあったとか、そういうの訊けたらなって」
「訊いてどうする」
「そ、そこからどうやって名前さんと恋仲になったんだろうとか、どんな風に結婚に至ったのかとか、やっぱり気になるっていうか…あのっ」

おたおたとしていく炭治郎だったが、いったん言葉を切ると、観念したように短く息を吐く。

「俺…、どうにもそういうのが苦手、というか、上手く言葉にできない、というか。義勇さんもあんまりそういうの得意そうじゃないし饒舌じゃないから、あの、教えていただけませんか!?」

仮にも兄弟子に対しておおよそ失礼ではあることを、本人には自覚はない。
ただ義勇もそのことに気が付いてはいなかった。

真剣に頭を下げる姿に、沈黙の後で口を開く。

「俺もその手のことに詳しくはないが、力になれることがあれば知恵を貸そう」

その言葉に勢いよく上げられた頭は、
「ありがとうございます!」
また力強く下げられる。

まさか炭治郎にこんな相談をされるとは思わなかった。心の中で驚きつつも、思考を巡らせる。

「胡蝶の妹か?」

それだけで紅潮させる頬は、わかりやすい。その一言に尽きた。
少しばかり、名前に似ているとも思う。
しかしそれもすぐに、伏せられる目の意味は量れずにいた。

「…義勇さんは、迷ったりしませんでしたか?」

それが何に対してのものなのか、少し考える時間を要したが、すぐに心当たりを見つける。
想いを告げる時、あるいは求婚をする時、本当にこれでいいのかと、頭の隅で冷静な自分が問い掛けたのは確かだ。
だがそんなものを吹き飛ばすくらいに、名前という存在が大きかったと言える。

傍にいたい。傍にいて欲しい。

何の躊躇もなく、そう考えた。

しかし炭治郎の表情から察するに、まだそこまで強い気持ちは抱き切れていないのだろう。

鬼を滅したとはいえ、その代償は大きい。
同じく痣が発現した炭治郎が長くは生きられない、というのは既知の事柄であり、変えようのない未来だ。
特に栗花落カナヲのように視力こそ低下したものの痣が発現していない者に、限られた数年だけを共に生きようと言うのは、酷な話。

「…俺と名前は、痣が出た身だ」

静かに事実から述べる義勇の瞳に、炭治郎の吃驚が映る。
名前の発現に関しては、その場にいた柱以外、今まで知る術がなかったため、その反応が返ってくるであろうことは、予測できていた。

炭治郎とは、前提が異なっているのを示してから続ける。

「だから、婚姻の道を選んだのもある。年齢的には俺が先に死去する可能性が高いから、お前の気持ちもわからなくはない」
「…義勇さん」
「心積もりしているとはいえ遺して逝くのは、やはり気が引ける」

それが一年、あるいは数ヶ月、もしかしたらたった数日という短いものだったとしても、名前はひとり、義勇を失った悲しみと、必ず迎えるであろう死と向き合わなければならない。

それなら手を離すのが優しさなのだとも思うが、どうにもそれだけは行動に移せそうにない。

「だから、遺された者達に頼もうと思っている」

初めて口にした、死後の願い。

赫灼の瞳を、深海の瞳が見据えた。

「俺が死んだら、名前のことをたまにでもいい。気にかけてやってほしい」

できることなら、最期を見届けてほしい。
それは口にはできないが、炭治郎には伝わっているだろう。

沈黙が下りたのは、たじろいだからではない。
その覚悟を、意志を、しっかりと受け継くためだ。

「はい、勿論です!」

しっかりと頷いた表情に、迷いはなかった。

「…話が、逸れたな」
ふっ、と短く息を吐いてから、見上げた星。

本当にこの星々が亡くした魂なら、寂しくないのだろうか。そんなことを考える。

「そうやって、後に繋ぐのも選択肢のひとつではないかと、俺は思う」

言葉が足りていない。義勇がそう気が付いたのは、再度点にしている目を捉えてからだ。

「お前には禰󠄀豆子も、我妻や嘴平もいるだろう?」

これもまた、十分とは言えないものだったが、理解をしていくにつれ輝いていく瞳にこれ以上、言葉を紡ぐのを止める。
しかしそれもすぐに
「それなら義勇さんにも俺達がいます!」
若干前のめりになる勢いに、身を引いた。

「俺、考えてたんです。どうしてあの時すごくお二人から悲しい匂いがしたんだろうって。名前さんに痣が現れたって聞いて、今やっとわかりました」

祝いという名の食事が中ほどまで進んだ時、伊之助が口にした
「ケッコンのあとはヨツギなんだろ!?」
どこから知識として得たのかは知る由もないが、半分も理解していない言葉に起因して漂った匂い。

軽く受け流してはいたものの、善逸も音として知覚したのか、ヨツギとは何だと騒ぐ伊之助を懸命に宥めていた。

その光景を義勇も同様に思い出し、星より遥か遠くを見つめる。

「世継ぎを産む選択は棄てる。それが婚姻する上で決めた条件だ」

遺して逝く立場だからこそ、そう定めた。

それでも時折、考える。本当にこれでいいのかと。
鬼に生命を脅かされる必要のなくなったこの世は、余りにも眩しい。

たった数年でも、我が子を抱き育てる。そんな未来を望んでしまうようになったのは、恐らく名前も同じだろう。
しかしそれも、互いに口には出さないまま今を迎えている。

「俺達がこの世にいられる時間はそう長くはない。それな「だからこそ後に繋ぐんじゃないですか?」」

先程とは反対に、真っ直ぐ見据えてくる赫灼の瞳に逸らしてしまいたい気持ちは、

「俺達がいます!」

先程の義勇の意志を引き継ぐ心を感じて、俯いた。

「あ…、すみません!義勇さん!俺また生意気なことを…!」
「いや」

口元が弛んだ理由は義勇自身、説明が難しい。
ただ、炭治郎の中に、今は亡き錆兎の幻影を見たのは確かだ。

返答を考える間にも、
「あの、それで…、義勇さんってどうやって名前さんと恋仲になれたんですか?」
コソコソと訊いてくる姿に自信のなさが窺えて、更に笑みが浮かんだ。

* * *

「世話になった」

義勇の言葉に合わせ、頭を下げる名前を玄関先で見ながら、禰󠄀豆子と善逸も倣うように礼をする。

「また来てください!今度は私達も遊びにいきます!」
「俺も勿論行きますよ。禰󠄀豆子ちゃんひとりじゃ心配なので…」
ボソッと呟いた最後の言葉は、右耳に入っていない。
「うん!楽しみにしてるね!クロもみんなに会いたがってると思う」
晴れやかな笑顔に、善逸の曇った顔が僅かながら晴れた。

「オイ半々羽織り!今度はもっと難しい問題寄越せ!」
昨日、義勇から全問正解のお墨付きをもらった伊之助の鼻息は荒い。
「善処する」
一言で対応しながらも、その表情は柔らかいものだ。

「…あれ?お兄ちゃんは?」

辺りを見回す禰󠄀豆子に呼応するように
「遅くなりました!」
両手に花を抱えてやってきた炭治郎は、ガチガチに固まったまま名前へとそれを差し出す。

動きを止める一同に、音を勘違いした善逸の悲鳴が木霊する。
「何してるんだよ炭治郎ぉぉ!そんなことして名前さんがお前に」
途中で止めざるを得なかったのは、名前の
「あ、カナヲちゃんに?渡しておくね」
受け取る純真無垢な笑顔と
「お願いします!」
腰を直角に下げる炭治郎によってだ。

何かしらの土産を渡しておこう。
そう提案した義勇から伝え聞いただけの名前は、何の疑いもなく続ける。

「カナヲちゃん、炭治郎くん達に会いたがってたからすごく喜ぶと思う」

途端に頬を赤らめる顔はわかりやすいものなのに、何故だか名前と伊之助は気が付かない。

「またね」
「はい!」

短い挨拶を交わしてから、歩く下り道。

「義勇、さっき炭治郎くんに何て言ったの?」

両手いっぱいに花束を抱えながら向けられた疑問に、何と答えるかを悩む。
別れ際、耳打ちした言葉は当然聞こえずとも、気にはなるだろう。
真っ直ぐな瞳に嘘を吐けるはずもなく、観念して口を開いた。

「…傍にいるといい、と言った」

いつだか、自分の意気地のなさに打ちひしがれていた時に掛けられた言葉。
それをまさか炭治郎に託す日が来るとは思いもしなかった。

しかし昨夜の背景を何一つ知る由もない名前は瞬きをした後、

「……誰の?」

きょとんとした顔で、何ひとつ伝わっていないのを悟る。

恋仲ならず、よく夫婦になれたものだと、義勇はこの時しみじみと感じていた。


そして、後日の蝶屋敷には、

「炭治郎、どうしてついてくるの?ねぇ」
「あぁ、ごめん。気にしないでくれ。邪魔をしたいわけじゃないんだ」

カナヲの後をひたすらつけ回す炭治郎と、困惑しながら蝶屋敷の仕事をこなすカナヲの姿があったという。

傍にいるだけだから

[ 89/91 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]
[back]
×