橙に染まる空を、薄紅の花びらが舞い踊る。 その光景をどこか儚げなのものとして捉えるのは、出会いと別れの時季と言われているからだろうか。 年に一度巡る季節に同じものはない。それは知覚しているがそこに特別、強い思い入れがあるわけでもなければ、感傷的になるほどの経験も、今のところ持ち合わせてはいない。 この世に生まれ落ちて、十数年。 少なくともまだ、胸を掻き毟りたくような、慟哭を上げたくなるような、別離を経験したことがないためだ。 それなのに、時々感じることがある。 こうして沈んでいく陽が、絶望に似た"何か"を運んでくるのを。 まるで大事な誰かがいなくなる。そんな悪い予感がすると言えば、表現としては合っているだろう。 そしていつもその憂心は、こうして薄紅の花を視界に入れると僅かに遠ざかり、 「どうした?」 深い海のような穏やかな瞳によって、完全に消え去っていく。 「名前?」 名前を呼ばれた後で、足を止めていたことにようやく気が付いた。 「あ、ううん!なんでもないの!桜、綺麗だなって思って…」 追い付くために駆けた足は、頭上を見上げる群青色の隣で止まる。 「…そうだな。綺麗だ」 細めると遥か遠くを見つめるその瞳に映りたい。そんなことを唐突に考えた。 「義勇!あのっ」 「うん?」 「手、繋いじゃ、だめ…?」 思ったそのままを口に出したはいいが、願い通り向けられた顔は呆気に取られていて身が竦んでいく。 「あ、ごめんね。やっぱりだめだよね…!」 胸の前で組んだ両手へそっと触れた右手に、心臓が音を立てた。 「…少しなら、大丈夫だ」 指先が絡むことなく、歩き始める二人はぎこちない。 その光景は、まるで引率する兄と付いていく妹と言える。 実際、今まではずっとそのような関係だった。 義勇が物心ついた頃、近所で誕生した名前をよく目にするようになったのが存在を知覚した始まり。 幼い故にそこまで深くはなかった関わりは、名前が小学校に入学してから一変した。 登校班という制度によって、毎日のように顔を合わせるようになったのが要因でもあるが、当時その班にはもう一人、いわゆるヤンチャ坊主と言われる新入生がいた。 気が弱く涙脆い名前が標的にされるのは目に見えていて、何度か上級生である義勇が止めたことで、自然と兄に近い存在として慕われるようになっていった。 単子である名前がお兄ちゃんに憧れたのと同じく、末子の義勇もまた、妹という存在にどこか憧憬は持っていたのだろう。 まるで本当の兄妹のような関係は、義勇の高校入学まで続いていた。 姉の蔦子の存在も手伝って、思春期特有の異性と関わる気恥ずかしさというものは、皆無だったと言える。 それは、義勇と名前が単純に疎いというのもあり、放たれる独特な雰囲気から、周りが冷やかしたりしなかったのも大きかった。 だが今は、兄妹としてではなく恋人として、手を繋いでいる。 痛くないよう包み込んだ柔らかな掌は成長をしたといえど、小さく頼りない。そして、とても愛おしい。 その感情を義勇がはっきりと自覚したのは、高校に進学してからしばらくしてからだった。 これまではなんとなく沸々としていただけの感情は、大人になる筋道を辿っていく周りに感化され、義勇の中で明確になっていった。 そこで初めて、今まで感じなかった年齢という差が顕著になったと言える。 しかし実際に行動として移せたのは、その三年を終える間際だ。 今のようにまだ薄紅の花が蕾んできた頃、卒業式を終えた義勇は、同じく中学生活を終えた名前と偶然出くわし、勢いのまま告白していた。 涙の跡を残す消え入りそうな表情に心を揺り動かされたというのもあるが、春から大学に進学する義勇は、僅かながらこの地から少し離れたところに移住することが決まっていたので、このままでは誰かに取られてしまうのではないか。 そんな強迫観念に捉われたのが強かった。 しかし、ストレートに伝えたところで、名前は困惑するだけであろうと、どこか冷静な算段もしていた。 だからこそ、驚いたのだ。 「私もっ…義勇お兄ちゃんのことが好き…!」 泣きじゃくりながらも懸命に伝えようとする、幼さが残る必死な姿に。 強引に押しつけたくなる口唇は、どうにか歯を食いしばって耐えた。 ともすれば、溢れてしまいそうになる感情の起伏も。 けれど上がっていく口角だけは、どうにも誤魔化しようがない。 「お兄ちゃんは、もうやめないか?」 距離を縮めるため出したその提案に、ただコクコクと頷く姿は素直なもの。 嬉しさから顔を綻ばせるも、余りにも名前の涙が止まらないものだから、意識せず困ったような笑顔になってしまった。 二人の関係性に明確な名前が付いて、すぐに浴びた桜の雨は、二度目の今と違って、不安で溢れていたのも、同時に思い出している。 「もう名前も高二か」 言葉として出してから、年寄りくさい台詞だと自覚をした。 「うん」 背後から聞こえる返事はそんなことは気にも留めていないだろう。 「学校は楽しいか?」 「うん。楽しいよ」 「そうか。それなら、良かった」 丸一年経過した恋人の会話とは思えないものだが、それも仕方がない。 二人の間に、手を繋ぐ以上のことは何も起こってはいなかった。 まだ年齢の割に幼い名前に対する気遣いと、 「義勇も今年から学校の先生だもんね」 立場上、という理由もある。 しかしそこにはまた、名前の思い違いが存在している。 「まだ先生じゃない。実習に行くだけだ」 教員免許の取得のため、5月から教育実習として実際の教育現場に立つ。 さきほど話したばかりのことだが、説明が足りなかったのか、どうやらねじ曲がって伝わってしまっていたらしい。 「でも、そこでは先生なんでしょう?」 嬉々とした笑顔に返答を考える間に、 「いいなぁ。義勇が先生だったら絶対に楽しいよね」 素直に告げられる本音で言葉を詰まらせた。 そうして突如途切れた会話は、名前の表情を曇らせる。 「…あ、もう手。大丈「家の前まで繋ぐ」」 義勇の立場を思慮した台詞なのが容易にわかるので、敢えて確定的な言葉で遮ったあと、気持ちが伝わるよう、握る手に力を込めた。 「……。うん」 小さく頷きながら、ふふ、と笑い声を零す名前に、多少照れくさいという感情が沸き上がり、振り返らないまま歩く。 前もこんな風に二人で歩いたことがあるような、不思議とそんな感覚がして、降り止まぬ桜の雨を見つめた。 雲路の果て What-if 「あっつ〜。マジで暑い。いい加減クーラーつけろよこの学校〜」 机に突っ伏しながら恨み言を吐く女生徒の前、名前は向かい合いながら下敷きでその頭へ風を送り続ける。 「今日は暑いね」 そう言いながらも涼しい顔をしているのを見上げてから、目を細めた。 「名前それ脱がないの?」 「え?」 「ブレザーだよブレザー。見てるだけで暑苦しい〜」 パタパタと風を送り返す腕は、これ以上は上がらないくらいにワイシャツの袖が捲られている。 「あ、うん。脱ぐほどは、暑くないかなって…。それにまだ衣替え前だから」 「ホントそういうところ律儀ってゆーか堅苦しいっていうか…」 顔を見つめていたじと目は机に遮られ視界に入ることのない下半身へと向けられた。 「校則もしっかり守っちゃってさ〜。今時膝下スカートに学校指定ソックスとか誰もやってないよ?見てみな?あのギャル集団」 顎で促された先へ視線を動かせば、談笑をしている女子生徒数名が視界に入る。 禁止とされているのにも関わらず、色とりどりの染髪は個性的かつ、彼女たちのハッキリしている化粧に相まっていた。 ともすれば下着が見えそうなほどに短いスカートに合わせたルーズソックスは完全な校則違反だが、再三教師が注意喚起をしても止める気配はなく、むしろ反発心からエスカレートしていくようになった経緯があり、今では黙認されるほどまでになっている。 「あそこまでとはいかなくても名前も少しは色気出せば?せっかく可愛いんだから勿体ないよ〜?」 「私はっいいよ!先生に怒られたくないし!」 「じゃあスカート丈くらいどうにかしよ?あとブレザー脱いで。私のために。見ててほんとに暑い」 「え、でもっ」 困惑した表情は、ぬっと出てきた赤髪で更に強まった。 「今ウチらのこと噂してなかった?」 細い眉が中央に寄っていることで睥睨に似た視線を受け、冷や汗が出てくる。 「あーえっとー…、噂っていうか、この子が校則守ってるから、もうちょっと破ってもいいんじゃない?っていうのは、話して、ました」 クラスメイトとはいえ、余り関わりのないグループ故に、たどたどしい敬語で返すも、パッと笑顔が咲かせる表情に困惑が募っていく。 「え?苗字さんギャルになりたいの?」 「え!?」 ビクッと震わせる肩を軽く叩いたのは、毛先だけを青色に染めた女子生徒。 「それならアタシ達に任せなよ〜?前から苗字さん改造したいねって話してたからさ〜」 「…えっと私はその「改造!いいね!お願いします!」」 目を輝かせるとその案に乗る友人を、名前は何とも言い難い表情で見やるも、有無を言わさず腕を引かれて、狼狽するしか術がない。 「よしじゃ〜今からやっちゃう!?」 「おっけ〜!ちょっとトイレ行こうよ!」 「え?でも、これから全校朝会…!」 「だいじょぶだいじょぶ〜。アタシ達に連れてかれたって言えば何とかなるから〜」 必死に友人へと助けを求める瞳は 「わかったー!言っとく!」 笑顔で手を振る無情さに涙汲むしかなくなった。 * * * 足が異様に寒い。 実際には寒気を感じるほどの気温でもないのに、なんとなくそう感じながら、裾を引っ張る。 望む効果は得られないまま、ただ体育館へと歩を進めた。 (朝会、終わっちゃってるかな?) 不安から口元へ動かした指が触れそうになって、意識的にそれを下げる。 先程たっぷりと塗られたリップグロスが落ちるのを懸念したためだ。 弄られた目元も心なしか重い気がしたが、擦りそうになったのは何とか寸でで我慢する。 「完成!」という声と共に湧き立つ女子生徒の集団に、最後まで鏡を見せてもらうことは叶わず、今の名前は自分がどういう顔をしているかはわからない。 かろうじて、髪が緩いウェーブを作っているのは指の感触で知覚はした。 違和感しかない恰好に、不意に言いようのない心細さが立ち込めていく。 やはり戻る前に一度、確かめた方が良いのではないか。そう考えた。 今の自分がどんな顔をしているかわからないまま、全校生徒の列に途中から紛れる勇気は名前にはない。 悩んだ末、敢えて遠回りにはなるが、一番近いトイレへ向かうことに決め、歩き出した。 しかし目的の鏡に到着するなり、名前は言葉を失う。 余りにも、想像していたのと異なる顔面に凝視すらしてしまう。 「…これ、私…?」 先程の彼女達と比べれば詰めは甘いのだろうが、これほどの装飾を施したことのなかったのも手伝って、違和感しかない。 眉の形も違えば、真っ直ぐに天を向く睫毛とアイシャドーの効果か。目の大きささえ変化している。 (…どうしよう、恥ずかしい…!) 咄嗟に顔を洗おうと蛇口を捻ろうとした手は、冷静になって止めた。 このまま水で流しただけでは、中途半端に崩れて更に悲劇を招くことになるのを、名前にも流石に想像が出来る。 この装飾を施した張本人であれば化粧落としのひとつも持参しているだろうと期待を込め、ひとまず教室に戻る選択をした。 廊下を進む間に擦れ違う生徒達の姿で、朝会が終わったというのが窺えたが、今の名前にはそんなことを気にしていられない。 とにかくこの顔だけでもなんとかしたい。その一心で、俯きながら歩き続けた。 「あの先生めっちゃカッコ良かったね〜」 「ね〜。何歳なんだろ〜?彼女とかいんのかな?」 「あとで訊きにいってみる?」 「行く行く〜!」 色めき立っている女子生徒の声には、一瞬何の話だろうと疑問は湧いたが、足早に通り過ぎた。 もう少しで教室に到着するというところ、足元しか見つめていなかったせいでドンッと強めにぶつかった何かに顔を上げた。 しかし、それが人間の背中だと知覚した瞬間には咄嗟に下げていた。 「あ、ごめんなさい!」 もう一度頭を上げたのは、その人物が振り向いたのと同じタイミング。 目が合った瞬間、声が出ないほどに吃驚した。 「……っ!?」 眉ひとつ動かなくなった顔と反対に、大きく開かれた群青色の瞳。 かっちりとしたスーツに身を包み佇むのは、幻でも見間違いでもない。 紛れもなく、兄のように優しく愛おしい存在だった。 「……?え?な、なんで!?」 「朝会に居なかったが、どうした?」 同時に放った言葉に、暫く互いが止まったまま。しかし完全に気が動転している名前の疑問に答えるため、義勇は口を開く。 「教育実習だ」 パチパチと音が出そうなくらいはっきりとする瞬きを、自然と数えてしまっていた。 「ここ、だったの?え?でも…」 大袈裟なほどにたじろぐのも無理はない。 義勇がここに実習生として訪れることは、全く告げていなかった。 呆気にとられたままの名前へ生徒から向けられる視線に居た堪れず、ひとまずその腕を掴む。 「行くぞ」 「え!?」 有無を言わさず歩き出すと、人目につきにくそうな一室を適当に見繕い、扉を開けた。 閉めたと同時に、前腕が露わになっているのを解放した後に気が付く。 後退りをした足までもが無防備に晒されていて、眉を寄せた。 「どうしたんだ?」 若干低くなった質問の意図は、伝わっていない。 距離を取ったことに関して訊かれていると勘違いをした名前は 「だって義勇、教えてくれなかったから…」 寂し気に目を伏せた。 その動作だけで、後ろ向きな方へ考えてしまっているのが容易にわかるため、ひとまずそちらの話題を優先させる。 「驚かせようと思った」 それは本音の半分。 驚きもするが、その後には顔を綻ばせて喜んでくれるだろう。そんな期待があった。 しかし実際は、軽いサプライズを仕掛けたはずのこちらが完全に驚かされている。 何故かと言えば、その恰好に。 あんなに純真だった妹に近しい存在が、ギャルになってしまった。 劇的な変化は、正直すぐには名前であると気付かないほどだった。 何度も制服姿は見たことはあるが、今のように太腿は露わになっていなかった上に、ひと目でわかるほど濃い化粧も施されていなかった。 つい上から下まで動かす視線を、感じとったのだろう。 恥ずかしそうにスカートの裾を引っ張る指先は、どうにも艶っぽく見えた。 「…その恰好は」 情けないことに、一言しか発せなかった声は上擦る。 その狼狽すらも、名前は後ろ向きなものと捉えたようだった。 「…へ、変だよね!あの、クラスの子がかわいくしてあげるって、色々してくれたんだけど…でもっ」 自信なく俯く姿は見慣れたもののはずなのに、今まで潜めていた色香を醸し出している。 勝手に動き出しそうになる身体は、通常より身動きが取りづらい礼装によって我に還った。 「変じゃない。いつもとは雰囲気が違うから驚いているだけだ」 傷付けぬように出したその言葉で、不安げに揺れていた瞳が喜びに満ちていく。 「…じゃあ、似合う…?」 しかし、遠慮がちに向けられる上目使いには平常を保とうとした感情が一気に溢れ出した。 この一年で、数えるほどしか触れてこなかった髪に指先を通せば、覚えのない感触にそれは更に湧き立つ。 「校則違反じゃないのか?」 冷静さを取り戻そうと吐き捨ててしまった言葉で、名前の表情がみるみる曇っていく。 「…義勇、先生だもんね…。ごめんなさい…」 「まだ先生じゃない。だが心配はしている」 義勇へと恐る恐る向けられた顔が、不安と疑問で揺れる。 「基本的な学校生活の様子は成績に重視される。あまり逸脱していると、志望する大学の受験資格すら得られなくなるぞ」 内容は至極尤もだが、説教じみた口調に余計伏せられていく瞳には、人工的な睫毛。それが更に違和感を抱かせた。 「これも、付けられたのか?」 指背で撫でた毛先はザラッと硬い感触がする。 「…うん」 いつもよりパッチリとして見えるそれに引き寄せられるように口唇で触れた。 目蓋を閉じるだけで身じろぎすらしない名前に、言い知れぬ焦燥を感じる。 「好きなようにされ過ぎだ。もう少し警か」 「あの!大丈夫!すぐに落としてもらうから!スカートも折ってるだけだから直せるし!大丈夫!」 捲し立てる口調は、その場からすぐにでも逃げ出したいと告げていて、これ以上理屈で説き伏せるはやめようと決めた矢先だった。 ワイシャツから透ける下着の線に目を止めたのは。 色まではっきり知覚出来ると気が付いてしまった瞬間、一気に眉根も寄せていた上に名前への距離も詰めていた。 「…ぎゆっ!どう、したの…?」 そこまで強い力に任せたわけではないが、突然壁際に追いやられてはさすがの名前も身を竦める。 向けられる双眸の強さに、蛇に睨まれた蛙のごとく俯いた。 「ブレザーは?」 「え?」 「ブレザーは持ってるか?」 「あ、うん。さっきまで「まだ年間行事に記された衣替えの日付じゃない。着ておけ。ここの教師は意外とそういった決まり事を重視する」」 何度か瞬きをした後、小さく縦に動いた頭から、覚えのない香料が漂う。 「…香水も付けてるのか?」 「ううん?付けてないよ?」 「髪から匂いがする」 「あ、それ巻いた時に縒れないようにって付けてくれた泡だと思う」 「…これはすぐに落ちないか」 一束絡め取った後、指先から滑らせる。途端に強くなる香りに目を窄めた。 独り言に近い台詞と怪訝な表情を、この距離で名前が気付かないはずもない。 みるみる内に寂寥としていく口唇が僅かに震え始めた。 「…そ、そんなにダメかな…」 「ダメとは言ってない。ただ俺は」 真っ直ぐ向けられた瞳が潤んでいると知った瞬間、心臓が音を立てる。 「なんか、義勇、ほんとの先生みたいっ…」 言葉として出したのはそれだけだったが、噛み締める口唇で名前の思考を読み取った。 「…悪い。責めてる、わけじゃない」 あくまで兄の立場として言い訳を紡ごうとする口は、奥歯を噛んで制止する。 言わないでおこうと決めたはずの感情は、今にも零れてしまいそうな涙と同等に溢れていた。 「俺の、知らない名前が居たから」 言葉にして尚思う。何と小さな器なのだろうと。 それでもたった数年という差が恨めしい。 例えば名前と同じ年に生まれていたのなら、ずっと一緒に居られたのではないか。 そんなことを何かがあるたびに考えてしまう。 いつだったかも、同じことを思った。 「私、義勇お兄ちゃんと一緒の高校に行きたいんだ」 年齢差故に、共に通うことは叶わなくとも、せめてその背中を追いかけたいという想いからきた無邪気な望みは、義勇の心を掻き乱すのに十分すぎるほどだった。 だから、小さな夢が叶った時、嬉しさよりも寂しさの方が勝ったのだ。 その姿を見られないという現実の壁に。 勢いで告白をしたのも、その隔たりが焦燥感を駆り立てたと今になって冷静に分析している。 「俺と会っていない時は、そういう恰好をしているのかと、思った」 口にすればするほどに、自分の脆弱さが浮き彫りになっていく。 余裕があるように名前を諭すことで、優位性を見せようとした言動はもはや後悔しかなかった。 「…して、ないよ!今日初めて「わかってる」」 わかっている。 名前がそこまで器用なことが出来ないことは、義勇が一番良く知っている。 なのに、抱えてしまうこの不安を、どうにも自分の中で消化することもできないほどに、感情が昂ぶって鎮まることがない。 「だけど」 色味の良い潤った口唇から、視線を剥がせなくなった。 「俺以外の、誰にも見せたくない」 抱き締めたくなる衝動は、どうにか頭部に顎を乗せるだけで抑える。 固まっている名前には、この想いの半分も伝わっていないだろう。 それでも少しでもいい。不安になる必要もないほどに、愛おしくて堪らないのだと知って欲しかった。 どういう意味なのかを訊ねてくる前に離れようとした身体は、引っ張られる感触で止まる。 その両手が遠慮がちに掴まっていると気が付いた時には 「わ、私もいやだよ…?」 上擦った言葉の意味を考えていた。 「私の知らない義勇も、誰かに見られるのもやだ」 「名前…」 「さ、さっきね、女の子達が話してたの、義勇のこと。カッコイイって、彼女いるのか訊いてみようって」 名前ははっきりと口には出なかったが、概ね間違いはない。そう名前は確信していた。 「そんな風に見られるのやだ」 「心配しなくていい。相手にもしないし、彼女がいるとはっきり伝える」 迷いがない返答に若干不安が払拭され、緩んでいく指先の力に更に応えるように義勇の右手が髪を撫でる。 見上げる両の目から涙は引いたものの、まだ揺らいではいた。 「彼女って、私?」 「そうだ。名前以外誰がいる?」 これ以上傷付けないよう強く肯定はしたが、今更感は拭えない。 彼女という位置づけでなければ、この一年という共に過ごした期間をどう説明するのか。 呆れからくる小さな溜め息は、出る前に止まった。 「…だって義勇、なんにも、してこないし…」 桜色に染めた頬は俯いたことで隠されたが、忙しなく繰り返される瞬きの動きで動揺が伝わる。 しかし義勇もまた、同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に狼狽していた。 「…何か、って」 思いっ切り上擦った声を聞き、名前は半ば自棄に近い口調で続ける。 「付き合ってるのにキ、キスとかっ!そういうことっしないのって変だって…」 それは、まだ顔を塗りたくられる前、器用に巻かれていく髪の一部を視界に入れ感動していた時だ。 「苗字さんってカレシいんの?」 唐突の質問に義勇の存在を伝えたところ、根掘り葉掘り訊いてくる集団の勢いに負け、そのまますべてを話した後で、そう言われた。 他に女がいるのではないか、遊ばれてるだけだと心無いことを散々言われもしたが、義勇に限ってそれはない、と、そこだけは名前にしては強い口調で突っぱねた。 しかし今、とめどなく不安が湧き上がってくるのは、偶然が積み重なったためだ。 まず第一に、教育実習の件を知らされていなかったこと。 次に誰が見ても明らかな容姿の変化を、冷静な着眼点で諭したこと。 そして、段々と不機嫌なものになっていく義勇の表情が、ふと心に染みた黒い疑心に拍車をかけた。 その背景を、今の義勇が知る由もないが、名前にマイナスな情報が与えられた、ということだけはすぐに悟る。 「付き合い方は人それぞれだろう?周りに何と言われようが関係ない」 「…うん」 まだ納得していない頭が小さく動いて、義勇は気付かれぬよう眉を寄せた。 関係ないどころか、余計なことをしてくれたものだと。包み隠さず言えば、それが本音だ。 手を繋ぐ以上の進展がなかったのは、それこそ義勇の堅忍果決の賜物。 感情だけに任せていれば、とっくのとうに一線など超えている。 敢えて行動に移さなかったのは、名前が隣で微笑っている。それだけで満足だったからだ。 自分の意思がないわけではないが、肝心な要以外、あちらこちらに流されてしまう姿は雲のようだと、いつからだったかはわからない。しかし割と早く、それこそ幼き頃から、強く感じていた。 兄として慕われているのなら、その全てを護らなければならない。 恋人となったのなら、尚更名前が望むまでその純真さを尊重しなくてはならない。 そんな固定観念に近いようなものではあったが、別段それが辛いとも思わなかった。 今、この時を除いては。 いつもと異なる状況、そして醸し出される妖艶はこれほどまでに決意を揺るがせていくのか。 望んでいるのであれば、僅かに開かれた口唇へ誘われるのも悪くないどころか、願ったり叶ったりだ。 消し飛んでしまいそうな理性を繋ぎ止めたのは、唐突に鳴った予鈴と、 「あ…、教室、戻らないと…」 名前の言葉だった。 本人にそのつもりはなくとも、脇を擦り抜けようとする行動は義勇にとって思考を拒まれているような、そんな錯覚を起こす。 「キスしてからじゃなくていいのか?」 置かれた立場は弁えていても、どうにもこのまま離れるのは納得がいかないと、多少強引に出した提案は、名前の頬を更に赤くさせた。 「でもっ」 「したくないなら構わない」 弾かれたように向けられた顔は、もごもごと口を動かした後 「……し、たい」 微々たる声量で言葉を紡ぐ。 上がりそうな口角を意識的に下げたまま顔を近づければ、硬く目を瞑ると見るからに力が入る全身に我慢出来ず弧を描いた。 口先が触れるか触れないか。ギリギリのところで止めたつもりが、上唇が濡れる感触で触れたことを知る。 「今は、ここまでにしとこう」 細めた群青色に映るのは、これでもかと紅潮させる頬。 しかしすぐに意味を悟り、コクコクと頷く姿に耐え切れず笑みを零した。 「授業、遅れるぞ」 「…あ、うん!えっと、行って、きます!」 逃げるように走っていく背中を見送ってから、ふと指先に残る残り香に形容しがたい溜め息を吐く。 せめてスカートの丈は今この場で改めさせるべきだった。そんなことも考えていた。 キスのその先を望むのであれば、義勇が拒む理由はない。 今度の休日は、今まで理性との闘いになりそうだと招いたことのなかった自室へ名前を呼んでみようか。 きっと喜ぶだろうと、頬は弛んでいく。 しかし、自然と思い浮かべてしまうその先の展開は口唇を結ぶことで誤魔化して、職員室へと向かった。 * * * 「ごめんね〜って思ったの。マジで」 その声を聞いたのは、業間休みを狙い義勇が教室を訪ねた時だった。 あのギャルの恰好は、そのあとどうなったのか。気が気じゃないまま覗いた一室には、今まさに派手な装飾を落としてもらっている姿がある。 「アタシ達がやったクセに言うなって話なんだけどさ、苗字さんこういうの似合わないなって〜。なんていうの?塗りたくってる方がもったいないっつーか」 「可愛いは可愛いんだけどね〜?なんからしくないよね。素のままの方が絶対イイ!」 「それな!素のまま!アタシなんか化粧してないとやべーからさ〜」 「お前めっちゃ目ぇちっちゃいもんな」 「いやお前もじゃね?人のこと言えねー」 「たしかし」 ぎゃはは、と笑い出すそのタイミングは理解できなかったが、会話は尤もなものだというのは安心していた。 名前も圧倒されてはいるが、怯えているわけではないのが表情からも伝わってくる。 「さっきのカレシの話もさぁ」 突然、自分の話題が出たことで、脊髄反射で壁裏に身を隠した。 「あ、そうそう〜。あの後考えたらめっちゃよくね!?って話してたのウチら」 「…えっと?」 「だってえっちぃことしなくても一緒にいたいってことなんじゃん?めっちゃ愛されてんねって!」 「そ〜。まじうらやま!」 「ウチらロクな恋愛してないもんね〜」 「この間五股掛けられてたの誰だっけ?」 「ハーイ、アタシ」 金髪の女生徒が手を挙げた瞬間に、湧き上がる笑いはまた良くわからなかったが、頬を染めている名前が何を考えているかは悟れた。 "愛されてる"その一言が嬉しかったのだろう。にやけていく顔を隠せないほどに。 つられた口元が上がりきってしまう前にその場から去ろうと背中を向けたが、 「爛れたやつでいいなら色々教えられるよ〜!」 その言葉には、本気で止めようと振り返りそうになる。 「ううんっ!大丈夫!そ、そういうのは…!あの!」 間髪入れずに断りを入れる名前と、 「苗字さんは彼氏が教えてくれっしょ?」 「そうだよ〜余計なことすんなし〜」 笑いながらも制止する周りに安堵して、歩を進めた。 もう少しこの潔い関係のまま、純真無垢な表情が一喜一憂しているのを眺めているのも悪くない。 義勇はそう考えながらも、先程少しだけ触れた口先の感触を思い出していた。 Grow ゆっくり育てていけたなら [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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