雲路の果て | ナノ 猫と雲

黒猫は知っている。

「いい子にしててね?」

そう言って頭部を撫でる回数が多い時、いつもと違い笑顔に翳りが見える時、あるいは通常以上の食事量を皿に盛られた時、飼い主の不在時間が長いということを。

どこへ向かうは知らないが、そういった時は必ずといっていいほど様々な匂いを纏って帰宅をする。

その匂いを確認するのが、黒猫にとって楽しみのひとつでもあった。

「にゃ」

今度はどんな知らない匂いを連れてくるのか。
期待から短くした返事は伝わるはずもなく、その笑顔を深めるだけ。

「行ってくるね」

名残惜し気に何度も目が合う姿が閉まる扉で見えなくなったあと、黒猫は欠伸をひとつ。

さて、ひとまず寝ようかと言いたげに無人の居間で丸まると目を閉じた。

外から聴こえる鳥の羽音に耳を動かしながらも、それ以外は静かな空間の中、ウトウトと浅い眠りを繰り返す。
どれだけそうしていたか定かではないが、ふと地面から聴こえた規則正しい音に薄目を開けた。

この音を知っている。

段々と近付いてくるそれが、こちらを目的としていると確信した時には身体を大きく伸ばしていた。

開けられるであろう扉の前、四脚を揃え待ち構える。

トン、トン。

間を空けたあと、動いた扉と共に、
「みゃぁ」
まるで"ようこそ"と告げるような鳴き声と風柄は、その群青色の瞳を驚かせた。

「…クロ、独りか?」

ぐぅん、と喉を鳴らしながら真っ白い脚絆へ顔を擦り付ければ、大きな手が頭を撫でる。

「名前は、いないようだな。指令か?」
「にゃ」
「…そうか。悪い、邪魔したな」

一通り撫でた手が離れ、立ち上がるのを大きく丸い眼が見つめたのも虚しく、扉は狭まっていく。
完全に閉まり切る直前、黒猫は目についた小さな石ころを前脚で弾くように動かした。
それは狙い通り、桟の間へと転がっていく。

石が挟まったことで作られた僅かな間。それには気付くことなく去っていく足音を聞いた。

カリッ、カリ…。

爪を引っ掛け、少しずつ少しずつその隙間を広げていく。それは途方もない作業かと思いきや、爪が三本入ったあとは早かった。

前脚が入れば、あとは顔を通すだけで外に出られる。

まだ僅かに足りない隙間へ思い切り突っ込んだ鼻の先。毛と共に引っ張られる皮膚を感じながら進んだところで、突如として自由を得た。

既にさきほどの訪問者の姿は見当たらない。それでも鼻をクンクンと動かすと、その匂いがする方へと歩を進めた。

時間が経ち、曖昧になっている飼い主の匂いを辿るよりも、今しがた訪ねてきた人物のあとを追う方が、確実性がある。そう判断した。

迷うことをしなかったのは、黒猫にとって飼い主の次に見知った人物ということもあるが、その背中を追い掛ければ、好物である魚を与えられるのではないか。そんな期待もあった。


と雲


決して急いだわけではないが、匂いを辿るのに夢中になっていたせいか、いつの間にかその背に追いついていたことに気付き、黒猫は息を潜めた。
距離を取りながらも歩いた先では、ギィ、と軋んだ音が鳴る。
それが開かれる門によるものだと気が付いた時には、閉じた音がしていた。
一度匂いを確かめてから、この隔たりを越えられる場所を探すことにして歩き出す。

門から塀に沿って進むうちに、樹木から伸びる枝に飛躍できそうな場所を見つけた。
一度身を縮めると、勢いをつけてそこへ飛ぶ。
そうして軽々と飛び越えた塀の中、複数人の気配を感じ、ひとまず身を隠すことにした。

縁の下に潜り込んでしまえば、黒猫に分がある。

ただでさえ真っ黒なその身体は闇と同化し、気付かれにくくなるだけではない。
この空間からは全員の足元が見渡せるため、万が一危害を加えようと近付いてこられようと、捕まることなく逃げおおせることができる。

だからこそ、四脚を折り畳んでそこに伏せた。

欠伸をすると同時のこと。

「お館様のおなりです」

丁度頭上で声が響く。かと思えば、次の瞬間には砂利に片膝をつける七人を見た。

その中で嗅ぎ慣れた匂いが二つ。
ひとつはさきほど追い掛けてきた匂い。そしてもうひとつは―…

「お館様、本日はお休みになられていなくてよろしいのですか?」

鈴のなるような声と共に、ひときわ甘く花が香る。

「今日は少し、調子がいいんだ。と言っても、どうしても立つことは叶わなくてね。私も君たちと同じくこのまま膝をつかせてもらうけど、いいかな?」
「はっ!勿論でございます!」

初めて耳にした声を、黒猫はピンと立て聞き入る。
真上からする匂いは、たまに飼い主が纏ってくるものと同一だろうと判断したが、次に頭を下げた人物については全く既知しない存在だ。

今この場が張り詰めた空気であるのは、間違いないのであろう。

続いていく言葉の応酬に若干の退屈を感じながら、自然と目を閉じ暫しの間微睡みを繰り返していた。

「…そういえば今日は、とても珍しい来訪者がいるね」

穏やかな声がそう告げた瞬間、緊張が輪を掛けて広がる。
「まさか…!」
腰に差していた刀の柄を握る数人の動きに、黒猫は身構えた。

「大丈夫だよ。敵意はない子だ。そうだね?行冥」
「はい」
「お館様、それはどこに!」
「この下を覗いてごらん?」

言葉のあと暫し流れた沈黙に、黒猫はやれやれと言いたげに欠伸をすると縮めていた身体を伸ばして、光が差す方へ向かうことにする。

覗き込んでくる六人分の双眸は様々な色を宿していた。

「みゃっ」

挨拶に近い声を出したところで、ザッと音を立てて地面に突っ伏す人物からまた強く花の香りが漂ってくる。

「きゃああ!しのぶちゃん大丈夫っ!?」
「…そういえば胡蝶は毛の生えた類の動物が苦手だったな」

粘つく視線を受けた先にいる白蛇と目が合ったが、すぐに姿を隠していく動きに狩猟本能がメキメキと湧き立った。
しかし、

「おい猫、貴様。鏑丸に近付いたらただじゃおかない」

明らかに怒りを宿す黄色い瞳に、興味のないふりで歩を進める。

さきほど頭上でした声の主が気になり、縁側へ飛び乗ろうとした時には首根を掴まれ持ち上げられていた。

「テメェ、猫ォ…!何汚ェ足でお館様のお屋敷に上がろうとしてやがるゥ」

血走った四白眼は、これでもかと黒猫に睨みを利かせる。

「実弥、いいんだよ。離しておやり」
「……御意」

粗雑に放された手で一気に落下した身体を器用に捻ると、地面へ着地した。

「シャーッ!」
「テメェッ!」

威嚇音を立てたと同時にさらに険しくなる顔をぼやけた視界ながら見て、一番親しみのある匂いの後ろへと身を隠す。

「…クロ。何故ここに来た?」
「にゃぁ」

その右手へと頭を擦れば、躊躇いがちに撫でる動きにゴロゴロと大きく喉が鳴った。

「冨岡ァ、テメェの猫かよォ。柱合会議にまで連れてくるなんざいい度胸してんじゃねぇかァ」
「連れてきたわけじゃない」
「冨岡さん!その子可愛いのだけど!とーっても可愛いのだけどっ、しのぶちゃんから見えないようにしてくれないかしら!?」

蜜璃の必死の訴えに、震えながらも身体を起こすしのぶの表情は髪で見えないながら恐ろしいものがある。

「…大丈夫です。さっきは予期せぬ遭遇だったので平常心を欠いてしまっただけで今は」

ポトッ。

音を立て、地面に落ちたもの。

それが鼠だというものを皆が認識したと共に、

「みゃあ」

軽快な鳴き声が木霊する。

縁の下で暇を持て余していた時、偶然にも目の前に通りかかったその生き物を、黒猫は本能で噛み殺していた。

そして、何を思うか。今その死骸をしのぶに差し出している。

「……。これは、完全に私に対しての嫌がらせですね?そうですよね?そうとしか考えられません」
「しのぶちゃん!違うわ!違うのよ!」

どす黒い怒りを放ち始めるのを抑えようとしがみついた蜜璃に、今まで成り行きを見守っていた行冥が口を挟んだ。

「胡蝶。猫にとって捕らえた獲物は大事なものだ。それを差し出すには何らかの意思表示があるとされている。褒められたい、もしくは世話になった礼か。どちらかはわからないが少なくともその黒猫は胡蝶を好いている」

その言葉を受け、蜜璃も身振り手振りを使って説明を続ける。

「そう!そうなの!しのぶちゃんは好かれてるってことよ!?何かこの子が喜ぶことを前にしたんじゃないかしら!?じゃなきゃ初対面で鼠をあげる猫ちゃんなんてとっても珍しいわ!」

心当たりがある。
そう言いたげな表情は、困惑したものに変わっていく。

「……鰹節のお礼にしては、どうにも新鮮すぎますね」

独り言に近いものを呟くしのぶの瞳は姿こそ直視しないものの、穏やかなものとなっていた。

「どうでもいいがその猫を何とかしろ、冨岡。このままじゃ会議にもならない」

粘着質な視線を再度受け、黒猫は考える。
これまで知らない、もしくは間接的に知覚している匂いは、ほぼ結びついた。
しかしまだ、全く未知の匂いがひとりいる。

「…にゃあ?」

縁の下を覗き込んだ時から無反応を貫く姿に鳴いてはみても、

「何?」

眉ひとつ動かさず、虚無の表情を返される。
黒猫の姿を捉えているのかすら定かではない瞳はすぐに空を見上げ始め、もう一度鳴こうとした口は開いただけとなった。

「クロ、こっちに来い」

普段とは違う、若干固く低い声色に大人しくその足元へ向かう。
身体を持ち上げられた感覚のあと、

「ここはお前の遊び場じゃない。大人しく俺の傍にいろ。あとで屋敷まで送り届ける」

耳元で囁かれるのはいつもの如く、優しい口調だった。

確かに向けられる視線の大半は、歓迎しているものではないというのを肌で感じている。
返事より早く羽織りに潜り込んだ黒猫は、どこからともなく響く安堵の溜め息を聞いた。

「お館様、お身体に触ります故、簡潔で構いません。続きを」

行冥が促したことで、産屋敷耀哉は力ないながら笑みを作ると頷く。

「うん、そうだね。天元が柱を退いてから要望があった新しい柱の就任についてだけど、検討してみた結果」

一度空いた間に、義勇が一瞬息を止めたのを知るのは黒猫だけ。

「現段階で、柱へ昇級できる子はいなかった」

耀哉の言葉に、若干張っていた肩の力が抜けたのを感じたのも黒猫だけだ。

実弥、小芭内がわかりやすく落胆していくのを、群青色の瞳は一点を見つめたまま動かない。

「あれだけ甲の階級がいるというのに、柱になる条件すら満たせないのか…」
「クソみてェな隊士しかいねェなァ。ホントによォ」

吐き捨てる二人に、耀哉は優しく微笑むと口を開いた。

「条件だけなら、満たしている子はいるんだよ」
「…誰ですかそれは!」

病に侵されたその瞳には映ってはいないはずなのに、確実に義勇へと向けられている。

「ただ、その子を良く知る子達が口を揃えて言うんだ。"柱には向いていない"と」

ピリッとした空気を一番に放ったのは、実弥だった。

「……。お館様ァ。失礼を承知で進言させていただきますが、実力がある者が上に立ち、真っ先に鬼を斬る。それが鬼殺隊の在り方ではないでしょうか?」
「そうだね。実弥の言う通りだ」
「でしたらそこに向き不向きなど考慮する必要性は皆無。条件を満たしているなら問答無用で柱にするべきです。何故そうなさらないのか。特別な理由があるのならお聞かせ願いたい」

頭を垂れながらではあるが強い口調に、沈黙が下りる。
しかし耀哉は表情を崩すことはないまま答えた。

「ある子はこう言った。"柱がより強い鬼を斬ることを目的としているなら、柱の補佐、隊員及び隠の統制が取れる人材は鬼殺隊に必要不可欠"だと」

名指しをしなくとも、それが誰であるかは本人が一番良くわかっている。

「そして、ある子はこう言うんだ。"柱になれば真っ先に自分が犠牲となり、功績すらも遺らない。結果として鬼殺隊は優秀な人材を失い、痛手を負う未来は確実だろう"と」

しかし続いた内容は、義勇には全く心当たりがないものだった。

「鬼殺隊の柱は、何よりも先陣を切る存在でなければならない。そして、杏寿郎や天元のように下の子達を教え導く立場で在って欲しいと考えている。だから二人の助言を受け、その子は柱に向かないと私が判断した」

断定的な内容は、刹那のこと。穏やかなまま言葉は紡がれていく。

「実弥、小芭内」

優しく呼んだ名は、険しい表情を弛めさせた。

「私がこんな身体になってしまった今、鬼殺隊の将来を憂うが故に、大きな心労をかけているというのは伝わっ」

途中で言葉を切ったのは、故意ではない。盛大に堰き込んだことで続きを紡げられなくなった。

「お館様!」
「…げほ…ッ」

ようやく発作は落ち着いたが、ヒューと小さく鳴る喉に、この場から一刻も早く耀哉を解放したいと願うのは誰もが同じ。

「承知いたしました。お館様の判断に異論は毛頭ございません。どうか私共に構わず、養生なさってください」

深く頭を下げた実弥に倣う柱の面々に、耀哉はさきほどより力のない笑みを見せると、

「ありがとう、みんな」

酷く優しい声で言った。

* * *

「柱の条件を満たした甲の隊士って、誰だったのかしら?」

蜜璃にとって他意もなく出した疑問を後目に、義勇は羽織りに隠れたままだった黒猫を抱えると早々に立ち上がる。

「お館様との謁見が長引いたこと、お前は何も責任を感じないのか。冨岡」
「お館様はそこに責任を問うほど器の小さいお方じゃない」

ビキッ。

小芭内の表情がこれほどになく険しくなったのにも関わらず、視線を向けないまま歩き出す姿を、止める者がいないのは抱えられる黒猫の存在によってだろう。


門を出たところで、義勇は大人しく抱えられるその身へ視線を向けた。

「何故ここまで来た?」

訊ねたところで、たとえ返事が返ってこようとも到底理解出来る言語ではないのはわかってはいる。

「みゃあ」

案の定、短い鳴き声が何を示すのかは読み取れない。
ただ、義勇の腕から抜け出そうとしているのは、爪を立てる前脚から嫌でも伝わった。
このまま放して良いものかを悩んでから、抱えていた力を弛める。
一目散に草の茂みへ走る姿に逃げ出す姿さえ想像したが、その場に屈むと力み始めた。

それが何を意味するのか。

周りの草々を前脚で掻くと、今しがた行った排泄の臭いを隠そうとする動きを、義勇はただ眺める。

全てを理解したわけではないが、奇跡的に意思疎通ができた。
そんなことを感じていたせいか、

「んにゃぁ」

満足そうに戻ってきた表情が、何かしらを伝えているような気もしていた。

「……。帰るか」
「みゃ〜」

しなやかな身体を抱えたところで、

「…あら、冨岡さん」

後ろから掛けられる声。

自然と羽織りの袖に隠したのは、さきほどの取り乱しようが自然と蘇ったからと言える。
腕を組む形で振り返れば隙間から丸い眼だけがしのぶへと向けられた。
若干引き攣った表情も、その一部だけしか視界に入らないことで穏やかな笑みへと変化していく。

「…名前さんから預かっているんですか?」
「違う」
「では、どうしてここに?」
「勝手についてきた」
「まあ、好かれてるんですね」

言い終わらぬうちに歩き出した義勇に、しのぶの足が自然と続いた。

「柱に向いていない」

一呼吸置いた間、瞬きをする紫暗の瞳とは違い、群青色は目蓋すら動かさない。

「お館様に進言したのはお前だろう。胡蝶」

抑揚すらない声は、不機嫌と捉えられるほどに温度を感じない。しかし、それは本人にとって、悪気があるものではないだろう。
しのぶは眉を下げると苦笑いに似たものを見せる。

「…そこまではっきりと断言したわけではありませんが、そういった趣旨のことはお伝えしました」

一度返答を待とうと置いた間も、一向に返ってこないことで続けた。

「私が知る名前さんは、ほんの一部分に過ぎないので冨岡さんに意見を求めるのはいかがでしょう?という提案もしました」
「……。だからお館様は…」

それからまた噤む口は、しのぶの小さな溜め息を誘う。

「何故、推奨しなかった?」

しかし突然出された発問は、一瞬その足を止めさせた。

「何故…、でしょうか?」

考えてみれば、いくつも理由はある。

名前が柱になることで、単純に蝶屋敷、そしてしのぶの補助を望めなくなることが一番の要因であり、決め手にはなった。

しかし、それだけでもない。

「さきほどお館様がおっしゃった通りですよ?柱になったら名前さん、我先にと犠牲になりそうじゃないですか。命がいくつあっても足りなさそうです」

小さく笑ってしまうのは、未来が容易に想像できるためだ。

「あの人は、前線には向いてません。冨岡さんも少なからずそう思ったから、反対したのでは?」

返答がないのは、もう慣れたもの。
ただ恐らくは、その沈黙が肯定であろうという予測は立てていた。

「公私混同は、あまり許されるものではないですけどね」
「公私混同などしていない」

視線を合わせないままだが、僅かに強くなる口調にしのぶは微笑う。

羽織りの中から覗く眼と見つめ合って、それはすぐに逸らしたが笑顔は深まった。

「そうですね。あの時、公私混同したのは私かもしれません」

どうしてか。姿を視界に入れることすら拒否をしているというのに、不思議なものだと感じている。

尤もらしい理由をつけてはいたが、結局のところ―…。

「その子の飼い主を、また人間が取り上げるわけにはいきませんから」

その想いが強かったといえよう。

隠からの報告は、名前が黒猫を正式に引き取ったあとで聞いた。

人間を喰らうことなく慎ましく暮らしていた鬼。それが黒猫、そして白猫の飼い主だった。

暴走に導いたのは、紛れもなく人間である。

元々折り合いが良くなかったという隣人が、憎悪を向けたのは自分よりはるかに小さく弱い存在。
白猫に毒を仕込み、殺害したことで鬼の自我は失われた。

本来なら人間を憎しみの対象として見ていても、なんらおかしくない。

それでも名前を飼い主として選んだのは、何かしら導かれるものがあったのではないか。

そんな風に、考えてもいるからか、

「…みゃぁ」

小さく聞いた鳴き声が、まるで礼を言っているようだと都合よく解釈をしたのは、その言語がわからない。それに尽きた。

「…まぁ、不死川さん達には冨岡さんが飼い主だと思われてしまってますけどね」

口にしたことで、公私混同をしているのはやはり自分だけではないと、しのぶは思う。

あの時、名前の存在を口にしなかったのは、懸命な判断だった。

杏寿郎と天元がこの場にいない今、義勇が言葉足らずの説明をしたところで、到底柱の面々が納得することはない。
そこにしのぶが加勢したとしても、結果は火を見るより明らかだ。

黒猫を産屋敷邸に放った責任を問われるだけではない。

あの場面では、柱の条件を満たしているのが名前だと気付かれる可能性があった。
知られてしまえば、実弥と小芭内は当然、産屋敷邸に招集させるよう要求をする。
そうなってしまっては、義勇としのぶが止める手立ては皆無だ。

そこまで義勇が計算をしていたのか。何も喋らない横顔だけでは、しのぶには推し量れない。

ただ、黒猫は知っている。

ほとんど動かなかった瞳が、さきほどの言葉にほんの少し細まったのを。

「そういえば名前さんは?」
「多分、任務だ。家に寄ったがいなかった」
「なるほど。だからその子が抜け出してきたんですね。冨岡さん、ちゃんと送り届けてください。その猫がいなくなったら名前さんが泣いてしまいますから」
「……承知した」
「それでは、私はこれで」

会話はそこで途切れ、分かれ道をそれぞれに歩き始める。

「んみゃあ」

姿こそ見せずとも呼び止めたひと鳴きに紫暗の瞳が見開いたあと、微笑う。
しかしそれもすぐに羽織りを蝶のように翻し、背中を向けた。

「少し急ぐぞ。クロ」

頭上から聞こえた声と共にぐんと速まる速度に前脚に力を入れ、振り落とされぬようしがみつく。

あっという間に着いた家屋に、まだ家主は戻ってきてはいなかった。

「今度から勝手に抜け出したりするな。名前が心配する」

そう言って、頭を撫でる手は優しい。

「…みゃぁ」

返事のような鳴き声に口角を上げた顔が、静かに閉まっていく扉で見えなくなるのを今度は大人しく見守った。

さて、寝るか。

大きな欠伸をひとつして、背中を丸める。

目当てのひとつの魚にはありつけなかったが、これはこれで楽しいものがあった。そう思いながら目を閉じた。



「クロー、ただいま〜!遅くなってごめんね!」


開いた扉に、半刻前に小さな冒険を思い出す。

姿形が異なり匂いこそ違えど、自分と同じように飼い主のことを想っている者達がいることを。

たまにその感情に触れると、この笑顔を見た時と同様に温かさを感じられるということを。

黒猫は、知っている。

"ただいま"を聞けること。

それがどんなに貴いものであるかを身に沁みて感じているからこそ、力いっぱいに鳴くのだ。

「みゃあ〜!」


おかえりを言える幸せ

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