雲路の果て | ナノ 72

静寂だけが流れていた薄明りの中、突然ゴソゴソと二つの影が動く。

暫く"指輪の音"を堪能していた名前が突然出したくしゃみで、我に返った義勇が後処理を始めたためだ。
拭き終えたあと、左手だけでは直すのが難しい浴衣の乱れを名前が丁寧に着付けていく。

「キツくない…?」
「大丈夫だ。丁度いい」

帯を締めたあと、毎回のように繰り返されるその会話も、時折光る銀色によって新鮮味が増したことで笑顔が零れる。

しかし同時に、鍛冶屋での出来事も思い出してしまう。

「幸せの助けになるような職は羨ましい」

義勇が包み隠すことなく伝えた心情に、名前はまだ答えられていなかった。
しかしあの時、その場で言えることは限られていただろう。
気持ちだけが空回りをして、思いの半分も伝えられなかったのは想像に難くない。

「あのね、義勇。私、考えてたの」

だから、今ここで改めて伝える道を選んだ。

「何だ?」
優しい瞳はそれを予期していないだろうという判別をした一瞬、言葉を詰まらせそうになったものの続ける。
「義勇の……、これから」
「俺の?」
「うん」
落ちた沈黙で、どちらからともなく腰を下ろした。
自信なさげな表情は畳を見つめていて、義勇は優しく先を促す。
「聞かせてくれないか?」
「…うん」
縦に動いた頭は恐る恐る上げられ、義勇へと向かう。

「……先生、とか、どうかな?」

おおよそ足りない言葉に、また沈黙が走った。
瞬きしかしない義勇とは反対に、名前は狼狽えると続ける。

「あ、義勇ってね!人に教えるのが、上手だと思ったの!伊之助くんに文字を教えた時とか、だからそういう、先生とか…似合うかなって」

そうしたら、人の幸せを手助けできるのではないか。正直、そう思った節はある。
しかし義勇の性格を考えれば、その提案を余り快くは思わないであろうことも察せられた。
案の定、若干の渋顔を見せる姿に急いで言葉を出す。
「文字の書き方とかだけじゃなくて、剣術とか…!今まで義勇が学んできたこと!なにか絶対、教えられることはあると思うの!」
ほぼ勢いだけで出したそれは、身体をも前のめりにさせた。
しかし視線を落とす義勇に、それはすぐに消沈していく。

「繋いで、いけるんじゃないかなって、思ったんだ…」

下りた静寂と上がらない顔は、受け入れがたいという感情を表しているのだと名前は判断し、そこからは口を噤むことを選ぶ。

しかし、一点を見つめたままの義勇は、全く違うことを考えていた。

「お前が繋ぐんだ」

そう言った錆兎の真意を。

いや、錆兎のではなく、自分自身の真意を、だ。

死んだ人間の分まで生きて戦うことが、鬼を討つことが"繋ぐ"ことなのだと思っていた。

しかし今その悲願は成就され、戦いの歴史は終止符が打たれた。

ならば何を次に"繋ぐ"のかと考えれば、名前の言うように、培ってきた知恵と経験。それしかないのだろう。

例え限られた時間でしか、教示できないとしても。

自然と掌を見つめたのは、この手の中にまだ繋げる未来が残っているという確信を得たかったからか。

「……俺に、できるだろうか?」

心のどこかで肯定を望む発問は、間を空けず向けられる笑顔で満ちていく。

「うん!できるよ!絶対!」

根拠や裏付けといった確実性はなくとも、言葉だけで救われていく気がするのは、そこに一切の嘘がないからだ。
ただ真っ直ぐに信じている。
例えそれで上手くいかなかったとしても、その無垢な瞳はまた救ってくれるのだろう。

そんな未来が容易に見えて、義勇の頬も弛んでいった。

「仕事、探してみるか」
「うん!」

微笑み合ってから、ふとあることに気付く。

「名前は、どうするんだ?」
敢えて希望を訊こうと出した発問に、細めていた目が丸くなった。
「私?」
一度俯いて考えている間に、義勇の思考も動いていく。

正直に言えば、労働などしなくとも生きていける。
産屋敷家からの支援と、水柱として稼いだ貯えがあるためだ。
残りの時間をあくせくと働くよりは、名前には好きなことをしてほしい。その願望は少なからず持っている。
働かなくていいと言えば、名前は義勇が言うならと、その通りにするだろう。
しかしそれでは、名前の望みを叶えているとは言えない。
だからこそ訊ねることで、普段余り表面化しない奥底の願望を引き出そうとした。
答えに辿り着くまでに、時間を要することもわかっているため、ただその悩み迷う表情を見つめた。

「……。私ね」

暫しの間のあと、ポツと出した声に黙って耳を傾ける。

「仕立てを、したいなって思うんだ」
「仕立て?」
「うん。少しずつ、洋服の縫製をしてみて、思ったの。楽しいなって。あ……、すごく難しいんだけど!…でも、楽しいんだ」

そう言って微笑う名前は、心の底からそう思っているのだろう。

「義勇の服が作れるようになったら、色んな洋服に挑戦してみたいなって…」
「それは俺を優先させなくても」
横へ振られる首によって、言葉を途中で止めざるを得なかった。

「義勇の服を、作りたいの」

真っ直ぐに向けられる双眸には、固い決意を宿している。

「……。そうか」
弛みかけている口元はどうにも締まりのないものになりそうで、誤魔化すように名前の髪を撫でた。
「楽しみにしてる」
ただその台詞は、紛れもなく本心から出たもの。
「うんっ、頑張るね」
期待に応えようと決意を新たにする姿は、健気という言葉が似合う、と思った時には笑顔を深めていた。


雲路の


「ただいま」

その四文字を口にする幸せを噛み締めながら、義勇は扉を開ける。
いつもならば、
「おかえり」
その言葉を真っ先に返してくる存在は、居間に座り込んだままこちらに向けられた背中は、声が届いていないと判断できた。
「みゃあ」
代わりにとでも言うように短く鳴くと足元へ擦り寄る黒猫を撫でてから、草履を揃えるとそこへ足を踏み入れる。
手が触れられる距離まで近付いてから、
「うーん……」
小さく唸る声を聞いた。
「…違うのかな?でも縫い代は……ここで、合わせて……」
決して気配を消しているわけでもなくすぐ背後に居るというのに、手元の生地だけに夢中になっている姿は真剣そのもので、黒猫の鳴き声も耳に入らないらしい。

そっとしておこうか。

丸い眼に目配せして、静かに距離を取ろうと後退った足と同時、
「…いたっ!」
小さく聞いた悲鳴に考えるより早く屈んでいた。
「どうした…!?」
「……え!?義勇!?」
突如現れた人物に、名前が面を食らうのも当然のこと。
しかし義勇にとっては指先に滲む紅の方が問題だった。
驚きで身を引こうとする動作を察知した瞬間、その手を掴む。
「怪我したのか!?」
「えっ…あ、うん。針、刺しちゃって…でもだいじょっ!?」
間髪入れず指を口に含むに息を止めたが、その顔が険しいものであると気付いた時には小さく笑っていた。
「……大丈夫だよ?少し、血が出ただけだから」
穏やかな微笑みを目端に捉え、今度は義勇が我に返る。
細い針ひとつでそこまで慌てる必要などないと今更ながら気が付いた。
「……。悪い」
格好がつかないまま離した口にも名前は表情を変えるどころか、また小さく笑う。
「ううん、ありがとう。うれしいよ?」

そう言い切ったのは、不器用ながら心配をする義勇の気持ちが、ひしひしと伝わってくるからだ。

「あ、でも、いつ帰ってきてたの?気付かなかった」

そうして改めて、驚いた表情をする。

「さっきだ。集中していたから、話しかけないでおこうと思ったんだが……」
「そうなんだ。……おかえりなさい、義勇」

にっこりと微笑う名前に、自然と目が細まっていた。

「あぁ、ただいま」

まだ少し、こそばゆさを感じながら答える。

「あ、お仕事、どうだった?」
すぐに期待に満ちた瞳を向けられ、先刻の記憶を巡った。
「すぐに希望通りのものを見つけるのは、難しそうだ」

近場の寺子屋や道場を廻ってはみたが良い返事は得られず、収穫は何もない。
隻腕ではそれだけで、敬遠されるのが正直なところだった。
しかし事実を話せば、笑顔をまた曇らせてしまうのがわかっているので口には出さずにいる。

「……そっか」
「まだ探し始めたばかりだ。そんなにすぐ職に就けるとは思っていない」
「うん…」

ややあって、あ、と声と顔を上げた名前が言葉を続けるのを待った。

「そういえば、さっき鴉から伝達があってね」

一度そこまでで切ると向けられる視線の先には台所。

「竈と湯沸かし器を搬入する日が決まったって言ってた」
「いつだ?」
「明後日」

突然目の前に迫った日時に、一瞬身動きを止めたが名前の
「どうする?」
その質問に思考を再開させる。

輝利哉からかいまんで聞いた話では、完全に取替が終えるまで二日を要するという。
その間、台所はもちろん、風呂にも立ち入れなくなるのは必然の話。
水柱邸の場合、家主が療養中で不在だった故何も問題はなかったが、今ここに住む義勇達は一度、どこかに身を置かなければならなくなる。

問題は、どこに行くかということ。

元々鎹鴉である寛三郎は問題ないとしても、黒猫を連れてとなるとますます限られてくる。

全て通算して考えても、黒猫を含めた自分達が蝶屋敷に滞在を申し出るのが無難だろう。

義勇がその考えに至ったのと同じくして、
「カナヲちゃん達に、お願いしてみようか?」
名前が同じ考えに行きついたのを知った。

「そうだな。寛三郎に言伝を頼んでみよう」
「うん」

往復する間に陽が沈まないことを時刻から計算して、その黒い羽根を空へ放つ。
ひとまず窓を閉めたあと、振り返った先ではいそいそと片付けを始めている姿があった。

「もういいのか?」
「うん。夕飯作らなくちゃ」

何の気なしに出した言葉で背後から感じる寂寥に、名前は慌てて顔を上げる。

「今日はね!洋食に挑戦してみたくて、ほんとうはもっと早く、準備するつもりだったの!」

決して負担になっているわけではない旨を伝えれば、せめてと言わんばかりに義勇の左手が裁縫道具をしまっていった。
「……ありがとう」
小さく告げた礼のあと、会話は続かない。

こうして共に暮らすようになり感じるのは、たかが腕一本を失くしたと、軽くは考えられない現実だった。

家事一般、特に炊事において戦力になることは皆無に等しい。それは、名前が望む仕立て作業をどうしても制限させた。
本来ならば仕立てに没頭している間に、義勇が家事を担う。
右手が在ればそれは容易にできた。しかし今は叶わない。

どれだけ機能回復訓練をしようが、結局何においても介助がなければ、満足に何もできない状況は変わらないのだと思い知らされた。

若干重くなった空気は、生地を畳み終えた名前の

「義勇!温泉行かない!?」

明るい声によって一変する。

「……温泉?」
突然何だ、と言いたげな表情は細めた瞳で半分ほどしか捉えられない。
「宇髄様がおっしゃってられたのを思い出したの!」
胸の前で両手を組む動作はもはや癖だとわかってはいるが、自然に目で追っていた。
「もしクロを預けられたら、宇髄様が教えてくれた温泉に行ってみない?」
「だが、そこは……」
少し遠い、と言い掛けて、いや、だからこその提案なのかと言葉を止める。

蝶屋敷で療養を続けていた義勇に、何だかんだと理由を付けて見舞いに来ていた宇髄天元。
いつだったか正確には覚えていないが、その際に湯治を教えられたことがある。いわゆる幻肢痛に効くといった主旨だった。
しかしまだその時は未来すらも見据えられていなかった故、現実として考えられず話半分で聞いていた。
それも天元は見極めた上で、敢えて場所を書き残している。
思えばこうなることを、何処かで予見していたのではないだろうか。

「そうだな。行ってみるか」

前向きに肯定したのは、名前の瞳が期待に満ちていたからだと言える。

「うん!」

小さな子供のように頷く姿に、口には出せない謝意を感じていた。


Relief
休息という救済

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