雲路の果て | ナノ 07



真っ暗な中で、目を覚ました。
此処が何処か、すぐには把握できないくらい熟睡していた事はわかる。
徐々に慣れてくる視界に禰豆子の寝顔を入れ、胸を撫で下ろしてからそっと襖を開け、更に次の部屋へと続く襖を開ければ、急激に浴びる太陽に、眩暈すらする眩しさを感じた。

「おはよう。炭治郎くん」

その音に気付いたのか、台所に立ちながら振り返る名前に、
「すみません!俺!寝坊しました!」
慌てて駆け寄る。
しかしそれもフフッと小さく笑われた。
「朝ごはんもまだ出来てないから、もっと寝ていて良かったのに」
また口元を隠して笑う名前に安心しながら
「じゃあ俺も手伝います!」
腕を捲った。



雲路の



「いただきます」

二人で向かい合って、御膳を前に頭を下げる。
禰豆子はまだ寝ていると聞いたのは、先ほどの事だ。
例え起きていても、陽がすっかり昇ってしまった今、それが当たる居間には姿を現す事は出来ないだろうが。

「炭治郎くんが炊いてくれたご飯、凄く美味しい!」
「ありがとうございます!名前さんの筑前煮もとっても美味しいです!」
そんな会話を交わしながら穏やかな時間が流れていた。
それを引き裂いたのは
トットッと独特な戸を叩く音。

それまで何の曇りもなかった匂いが変わった。

「…ごめんね。気にしないで食べてて」

その笑顔は変わらない。
けれど、匂いが違う。
引き戸を開け、外に出る名前は何処かとても、今までと違う悲しい匂いを発している。

わずかに開いた戸の隙間。
話し声は聞こえるが、それが名前と恐らく男のものであるという事しか判別がつかない。
耳が良い善逸なら此処からでも、一字一句漏らす事なく聞き取れるんだろうなと、ふと思ったが、折角名前が用意してくれた朝餉を冷ましては勿体ない、と味噌汁をすすった瞬間、
「…何だよその草履。男でもいるんじゃ!」
怒鳴り声が聞こえると同時に玄関の戸が乱暴に開かれる。
「………」
味噌汁をすすったまま止まる炭治郎と、目が合ったのは青年。
見覚えはないが、隊服を着ている事から同じ鬼殺隊員だというのはわかった。
「…あっつっ!」
面を食らったせいで火傷した口元を押さえれば
「この子は仕立てのお客様です!」
名前が間に入るように男を止める。
「…じゃあ何でこの話を受けてくれないんだ!」
「ですからそれは…!…とにかく今日は勘弁していただけませんか?」
見たからに何か訳ありの雰囲気に、オロオロしながら立ち上がった。
男からは苛立ちの匂いがするし、名前からは困惑と焦りと、恐怖の匂いがする。

「はじめまして!俺は階級癸(みずのと)竈門炭治郎と申します!先輩のお名前は何とおっしゃるんですか!?」

きっちりと頭を下げ、一息でそう言えば、男は一瞬眉を寄せ、わかりやすく溜め息を吐いた。
「…癸なんて一番下っ端じゃねぇか」
吐き捨ててから続ける。
「また来る。その時はちゃんと受けてもらうからな!」
踵を返すと乱暴に戸を閉め去っていった。
「………」
こちらに背を向けたままの名前と沈黙に耐えられず
「…あの」
口を開いたものの、いきなり振り向いたと思えば台所へ向かう怒気に満ちた全身に言葉が詰まる。
塩が入った小振りな壺を手に取ると玄関へ戻り戸を開けた。そこにはもう男の姿はない。
「…あ、あの…名前さん…?」
壺の中身を手に取ると、何度も地面に投げつける。
(…殺気…!殺気がすごい!怖い!すごく怖い!)
圧倒される炭治郎。
そうして壺をダンッと音を立てて台所へ置くと名前は深く深呼吸をし、振り返った。
「…見苦しいもの見せちゃってごめんね」
いつの間にか、穏やかな笑みに戻っている。
「…あの、今のは…?」
「甲の隊士。私の先輩なの」
しかし御膳の前に腰掛ける表情は、やはり少し悲しそうだった。
「昔は良く、色々教えて下さった方なんだけど…。嫌な思いさせちゃってごめんね…」
「いえ!俺は別に!それより何であの人はあんなに怒っていたんですか?」
「………」
途端に目を伏せ、黙り込む名前に慌てて両手を振る。
「話したくなければ!あの!全然!すみません!黙って食べます!」
白ご飯を掻き込めば、その表情がまた柔らかくなった気がした。

「…結婚を、申し込まれてるの」

ポツリと零した言葉。
どうしてそんなに悲しそうな顔で言うのか、炭治郎はすぐ後にその意味を知る事となる。

それは、鬼殺隊という集団故に起こった昨今の悪しき風習。

長く鬼殺隊に居れば居るほどに、人々は徐々に気付いていった。
これは『不毛な戦い』なのではないかと。
千年以上、鬼は滅びる事はなく、隊員は死に続けている。
柱ほどの実力がある者は良い。十二鬼月を倒し、ともすれば鬼を滅する事も出来るかも知れない。

しかし、自分達は?

血を吐くほどの努力で最上位の甲に登りつめても、それは鬼に殺されたら終わり。
だったら安全牌を選ぶ方が良いのではないかと。
ある者は危険を避けるように上手く立ち回ろうと金のためだけに甲の階級にしがみつき、またある者は自分の限界を他に託す事を考えた。

そうして行き着いたのは、出来るだけ優秀な子孫を繁栄させる事。

千年もあれば、強い剣士の血を色濃く継いだ子孫も産まれる。
隊員同士の恋愛や結婚は基本的に禁止されていないため、昔からその風習はあるにはあったがそれはただ、純粋に鬼を滅する希望を繋ぎたいという想いからだった。
だが、今は
甲であれば誰でも構わない。
丈夫で優秀な子を産んでくれる女でさえあれば、別に、誰でも。
そんな事を考える人間が増えた。
隊士や元隊士が子を産み、その子がまた優秀な隊士になり剣士である限り、上から報酬が出続けるからだ。


「…でも私、自分の子に鬼狩りにはなって欲しくないの」

酷く悲しそうに絞り出した言葉。

それは、矛盾しているのかも知れない。
自分が今こうして隊士をしているのに、まだこれからの未来、産まれるかどうかもわからない子供にさせたくないなど、誰にも言えなかったが、それでも今の今まで、その想いが変わる事もなかった。

名前が甲になってから、確かにそれ目当ての人間は何人か言い寄ってきた事があるが、断り続けてきた。
大半が女なら誰でも良いという人間だったので、断ればすぐに引いていった。
でも…

「…あの人は何度断っても、どうにも聞いてくれなくて…きっと焦ってるんだろうとは思うんだけど…」

一通りの経緯を黙って聞いていた炭治郎は、別の事に気付く。

「あの、名前さん」
「…ん?」
「この話、冨岡さんは知ってるんですか?」
「……知らないけど、どうして?」
困惑しながらも微笑む姿に
「…あ、えっと…!冨岡さんなら助けになってくれるんじゃないかって思って!俺も沢山助けてもらったし!それに!柱ですし!」
出来るだけ希望を込めて並べた言葉もクスッと笑うだけだった。
「…ありがとう。でも自分の事は自分で解決するから大丈夫。それにね…」
一瞬だけ、本当に一瞬だけ悲しそうな匂い。
「狭霧山を下りてから話した事ないから、もう、あんまり良く知らないんだ。炭治郎くんにとって、頼りになる柱なんだね」
笑顔に、嘘も曇りもなかった。
すっかり冷えてしまった白米を口に運ぶ名前につられ、箸を動かす。
動かしながら考えた。
この温度差を。

そうして巡らせたのは、蝶屋敷での出来事。

まだ全集中・常中が身について間もない頃、塀の上を走り回っていた時、義勇を目に止めた。
「冨岡さん!」
塀から降りてきた炭治郎にギョッとした様子で身を引いたが、それもすぐにいつもの表情に戻り
「…なんだ」
短く答える。
「冨岡さんの他にも水の呼吸を使う剣士って鬼殺隊にいるんですか?」
気になったのは、炭治郎自身がヒノカミ神楽の呼吸を使ったあの日から。
これが水の呼吸から派生したものなら、もしかしたら同じ様に体験した者がいるかも知れないという淡い期待があったが
「…水の呼吸は比較的会得しやすい呼吸だ。隊員の中には他にもいるが、全ては把握してない」
期待した答えは得られなかった。
それでも
「水の呼吸から違う型に変わった人とかは!」
食い下がれば、小さく溜め息を吐いた後、話し出す。
「今は…階級甲に雲の呼吸を使う者がいる。水の呼吸から派生したものだ」
「…雲の呼吸…。その人も鱗滝さんの所で修行したんですか?」
「そうだ。水の呼吸に勝るとも劣らない呼吸を身につけている。…名前ほどの使い手はなかなかいない」

柔らかい、匂いがした。

「名前さんって言うんですか?」
「…あぁ。あいつは優しいから、もし会った時にはお前と妹の力になってくれるだろう」

とても柔らかくて、温かい、匂いがしたんだ。


伝えなくては、いけない。
今、伝えなくてはいけない。
そう思った。

「…冨岡さんは名前さんの事、凄いって!そう言ってました!」
伝えるのは得意じゃないが、どうか届いて欲しいと、思い出したそのままを伝える。
「俺は鼻が利くからわかるんです!冨岡さんから凄く温かい匂いがしました!それに俺も!冨岡さんの言う通りだと思います!」

何の曇りもない両目を見つめ返せず、零れ出そうな嗚咽を抑えた。
けれどボロボロと零れる涙は堪える事が出来ず、歪む視界。
「…っ!」
両手で顔を隠し小さく肩を震わす姿に、炭治郎は泣き止むまで、その苦労を積み重ねた手で背中をさすっていた。

* * *

「わぁ!凄い!凄いです名前さん!」

先程とは打って変わって、仕立てたばかりの着物を羽織りはしゃいでいる姿に頬を緩ませる。
背負われた木箱の中には禰豆子がいた。

「ありがとうございました!」

玄関を出て、綺麗に頭を下げる姿を思わず抱き締める。
「…ッ名前さん!?」
炭治郎の顔が真っ赤になったが、気付く事ないまま優しく髪を撫でた。
自分より歳下なのに高い身長と鍛えられた身体に、どれだけ、どれだけ血を吐くような努力をしたのだろうと。

「…炭治郎くん、ありがとう」

そう感謝を込めて、両手を離した。

「禰豆子ちゃん、ありがとう。また遊びに来てね?」
抱き締められない代わりに、そう声を掛ければ、答えるように木箱からカリカリと音がする。

「行ってらっしゃい」

名前の言葉に、炭治郎は嬉しそうに
「行ってきます!」
と大きく手を振った。



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