迷っていた。 ずっと迷っていた。 多分、もうここ何年も、同じ様に同じ所をグルグル回って。 進もうか、止まろうか。 そうしてずっと、堂々巡り。 考えても考えても 何も、答えは出なかった。 雲路の果て 「お休みを、ですか?それはまぁ…。随分と珍しいですね。いつから?」 任務後、事後処理を済ませ診察室に寄った名前の言葉に、胡蝶しのぶは若干目を丸くさせながらそう言った。 「はい。お館様にも許可をいただきまして…。今晩から、明後日(みょうごにち)の暁闇の頃には戻ります。しのぶさんにはご迷惑をおかけして申し訳ございません」 深く頭を下げる姿に苦笑いをひとつ。 「いえ、管轄内で統制を取れる名前さんが不在になるのは確かに影響がありますが…、それより、その日数では休暇とも呼べないのでは?折角お休みをいただくのなら、もっと長く申請しても通ったでしょう?」 しのぶが心配するのも無理はない。 全てを知っている訳ではないが、名前が鬼殺隊に入ってから、この様な休暇は一切取っていないと記憶している。 怪我を負った時以外、彼女は常に任務に勤しんだ。 その勤勉さから、甲(きのえ)の隊士として産屋敷から柱、そして隠にも信頼される土台を作ってきたのだ。 そんな名前が今、例え数日、休暇を取っても困る事はあれど、反対する者はいないだろう。 「…いえ。行きたい所は決まっているのでそれだけあれば十分すぎるほどです。我儘を認めていただいて、ありがとうございます」 晴れやかな笑顔に、しのぶは顎に手をやると考える。 「興味本位で尋ねてもいいですか?」 「はい」 「行きたい所というのは?」 「狭霧山の鱗滝左近次という、私の師を訪ねようと思っています」 「あぁ、元柱の方ですね」 納得したように何度も頷く。 ここ数日、名前が持つ雰囲気が少し変わったのは、気のせいではない。 突然休暇をとったのも、何かしらの心境の変化があったのだろう。 それが何か、しのぶには考察できる程の情報を持ち合わせていないが。 「わかりました。ゆっくり…とまではいかないでしょうが、羽根を伸ばしてきてくださいね」 にっこりと微笑むしのぶに、名前は 「ありがとうございます!」 また深々と頭を下げた。 * * * 懐かしい景色。懐かしい匂い。 名前が狭霧山の麓に着いたのはそれから明日(みょうにち)のまだ夜が明ける前だった。 自分が計算していたより早い到着に、また少し身体機能が向上している事に気付く。 しかし (…早過ぎたかな…) 数年ぶりと言えど、暗闇でも迷う事がないくらいに歩き慣れた道を歩きながら考える。 既に鱗滝には鎹鴉を通じて文を送ってはいる。 送ってはいたが、早過ぎる到着にまだ眠っている可能性も否めない。 しかしその憂慮も、小屋を視界に入れた途端、吹っ飛んだ。 「鱗滝さん!!」 視界に入るのは天狗の面。 走り寄ろうとする名前を静かに右手で制止した。 その動き通りにピタリと止まる身体。 嬉しさの余り認識していなかったが、鱗滝は自家栽培している畑の中に居た。 そしてよく見れば、片手に持った籠の中には採ったばかりであろう野菜が入っている。 その瞬間、思い出すのは、幼き頃。 「畑に足跡があった。誰が入った?」 錆兎、義勇、名前を座らせ、鱗滝は静かに訊ねた。 常日頃から、鱗滝が許可した以外には畑に入るなとは言われていたのは、三人が良く知っている。 その日は、狭霧山の頂上から町まで走り、帰ってくるという修行だったが、基礎体力のついた三人は、それを夕刻に満たない内に終わらせてしまう。 そこからはいわゆる『自主練習』 そのため、お互いの姿は見ていないし、誰が畑に入ったのかは本人以外知らない。 と、言っても思い返せば鼻の利く鱗滝は、三人の内の誰かをとっくのとうにわかっていたのだろう。 今でも、覚えている。 「…私です」 と、名乗った時の怖さ。 名前はその時、紙風船を使って予測できない動きを捉える鍛錬をしていた。 予測できないからこそ、畑に飛んでしまった時には、「どうしよう」と頭を抱えたし何とか誤魔化す方法も考えた。 そして少しだけなら、入っても大丈夫だろうと思ってしまった。 魔が差したと言えばそうかも知れない。 叱られる、と思ったのは浅知恵。 鱗滝は「ごめんなさい」と頭を下げる名前に「良く、認めた」と肯定してから、何故畑に入る事を禁止していたのかを丁寧に説明した。 栄養価が高い野菜を育てる土台となる土を作る事が、いかに手間と時間がかかるか。 どんなに努力をして土台を作りあげても、人間は時にそれを脅かす。 今日の名前達のように町に降りた際、種子を草履の裏に付けてくれば、土台はいとも簡単に崩れる、と。 説明した上で、もう一度名前をとても褒めた。 この重い空気の中、良く自分だと認めた、と。 「どんな時でも自分を守るためだけの嘘は吐くな。それはいつまでもお前自身を苦しめ、築いた土台さえも一瞬にして崩す」 そう、教えてくれた。 「…ご無沙汰しております。鱗滝さん。ただいま帰りました」 ゆっくり頭を下げると 「…あぁ」 小さく相槌を打つだけだったが、家の中に入れば 「布団は敷いてある。朝食まで少し休め」 まるでこの刻には名前が此処に来る事を予測していたかのような言葉に、 「…はい」 素直に甘えた。 * * * 一刻に過ぎなかったが、名前はとても深く、柔らかい眠りに就いた。 布団から抜け出した時はまだ朝焼け前だったが戸を引けば、昔と変わらない鱗滝が台所に立っている。 「おはようございます」 「もう起きたのか」 「はい。これ、皮を剥いていいですか?」 「あぁ」 久々にその隣に立つのはやはり嬉しくて、思わず顔を綻ばせた。 名前が狭霧山に帰省したのに、特にこれと言った理由はない。 久々に、鱗滝の顔を見たくなった。 錆兎や義勇と過ごした昔を、懐かしく思った。 それだけと言えばそれだけ。 幼かった頃のように自分の後ろをついて回ったり手伝いをしたり、のびのびとした姿に、鱗滝も何か尋ねたりはしなかった。 他愛もない会話をするだけで、あっという間に夜は更けた。 「…それでは、戻ります」 身支度を整え、深々と頭を下げる名前。 「…これを持っていけ」 渡されたのは風呂敷。 包みを開ければ 「…あ、これ鱗滝さんが育ててる!」 そこには立派な人参、大根、胡瓜が入っていた。 「しっかりとした土台で育った栄養価の高い野菜は、より良い身体を作る」 「………」 鱗滝の言葉に、名前は何故此処に来たのか唐突に理解する。 「ありがとう、鱗滝さん。いってきます!」 「…あぁ」 風呂敷を背中から斜めにかけるともう一度頭を下げ、走り出した。 私は、迷っていた。 もうずっと、長い間。 甲(きのえ)になって、自分の限界を知った。 どれだけ努力をしても、柱にはなれないし、周りには「片耳が聞こえないから」と言われる。 お館様は 「名前は凄いね。片耳が聞こえない事を隠そうとしない。人間は、消極的な面を無意識の内に誤魔化そうとするんだ。それでも名前はいつでも正直で、真っ直ぐに生きてる。とても強い子だ」 とおっしゃってくれた。 でも、私はそんな出来た人間じゃない。 自分の事を言われれば、傷付いて悲しくて悔しくて何度も泣いた。 同じ様に、自分の限界を感じた先輩や同期は、自分なりに着地点を見つけて、剣士を引退したり伴侶を見つけ、世継ぎを産んだりしている。 それを見てると、私は空っぽみたいに感じる時があった。 何故、ここにしがみつき続けるのか、何も築いていない錯覚さえ起こしそうになる。 此処に来たのは、きっと―― 足早に駆け抜けて、山を越える。 出来るだけ早く屋敷に戻りたい、そう思った。 名前が鱗滝の元を訪れたのは、無意識なる『自己確認』 崩壊しそうだった自己の再確認をしたかった。 狭霧山には『本来の自分』がおり、何者にも絶対に壊せない、土台がある。 その片鱗に触れたのは、竈門炭治郎に会った時だった。 その時から、『本来の自分』を取り戻そうとしていたのを今なら良くわかる。 これが正しい判断かどうか、是非はどうでもいいが、自分の進む道を改めて確認した。 ……ザッ! 背後から聞こえた葉の擦れた音と気配に後ろを振り返れば鬼の姿。 「…美味そうだ!…美味そ」 『雲の呼吸 壱ノ型 層雲(そううん)』 低い体勢から大きく横に剣を振るえば、いとも簡単に頸が落ちる。 「……」 確実に斬殺した事と、他の鬼の気配がしないかを確認してから日輪刀をしまうと、また走り出した。 Reflexive 取り戻した、自分 [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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