何処からともなく鶏の鳴き声が響く早朝。冨岡義勇は、玄関の戸を叩いた。 暫くしても応答がないことで、先程と同じように合図を入れる。 その次には、内側から物音が聞こえたため、そのまま扉が開けられるのを待ったものの、一向に開く気配はない。 取り付けのない訪問者に警戒をしているのか。その可能性に気付き、再度扉を叩いてから口を開いた。 「不死川、俺だ。飯の誘いに来た」 間髪入れず、勢い良く開けられた戸の先には元々険しめな顔を更に歪めた実弥の姿。 「テメェッ…!今何時だと思ってやがんだァ…?」 静かに怒りを含んだドスの利いた声は今しがた起きたためか、若干の掠れがあった。 「家を出た時は、卯三刻(六時)だったと記憶しているが、時計を常備していないため今正確な刻はわからない」 「そういう事を訊いてんじゃねェんだよォッ!何処の世界にこんな朝っぱらから人ん家訪ねてくる馬鹿が居んだって話だァ!」 額に浮き出る青筋は、スッと差し出された左手の風呂敷と、 「名前が不死川におはぎを作ったため出来立てを届けたかった。飯の誘いについては今からではなく後ほどの話だ」 真剣な表情で言う義勇に、若干であるが薄くなる。 「あァ、そうかよォ…」 粗雑にそれを受け取ってから、弛みそうになる眉根には敢えて力を入れた。 「そんなら午二刻(十二時)にまた来いやァ。昼飯なら付き合ってやらなくもねェ」 「…わかった」 すぐに納得して踵を返し去っていく背中を、実弥は訝しげに見送ってから欠伸をひとつする。 もう一度寝直そうと玄関を閉めたが、予想外すぎる悠々自適な訪問者に眠気が吹き飛んだのを知覚し、大きめな溜め息を吐いた。 雲路の果て 「…ハァ」 吐き出した息が本日何度目か。実弥は数えるのを早々に放棄する。 実際、無意識の内に出されるそれを数値化するのは難儀な上に、数えることで沸々と湧く苛立ちを加速させると気が付いたためだ。 何が楽しくて、この仏頂面と雁首並べ重箱を突かなくてはならないのか。 香ばしい蒲焼きの匂いも旨味も味わえたものじゃない。 この空間に何か少しでも会話というものがあれば空気も変わるだろうに、此処に来るまで、そしてこうして食べ始めてからも無言が占めている。 唯一交わした会話は、実弥の 「お前ェ何食いてェんだァ?」 その質問に 「不死川と同じものでいい」 飄々と返された一言だけだ。 こんなにも話す事がないのに、良くもまぁ食事になど誘ってきたものだ。 そう思いながら横目で見た瞬間、群青色の瞳とかち合う。 何となく互いに目を窄めたのは、単純に慣れない相手だという違和感からくるものだろう。 すぐに目の前の鰻重に視線を落としたため、また会話という会話はないまま食は進んでいった。 箸先で蒲焼と白米を一口大に分けてから、掬い上げる。 目端で捉えた義勇は、偶然にも実弥と同じ動きをしていて、意識せずとも上腕から下部がない右手へと目がいった。 今でこそ何の閊えもなく自由自在に動かせる左手も、そこに辿り着くまで長く苦しい修練を必要としたのは、実弥自身が良く知っている。 「…随分サマになったじゃねェかァ」 だからこそ、労いのつもりで発した一言も、 「そうか?隊服以外の不死川を俺はまだ慣れない」 眉一つ動かす事なく返される見当違いに、また溜め息を吐かざるを得ない。 しかし同時に心付くものもある。 今までいけ好かない野郎だと感じていたその冷淡さに対して、捉え方が違っていたのだと。 何を考えているかまで、正確に知り得はしないが、少なくとも今まで実弥が抱いていた心証と大きく異なるのは事実だ。 だから苛立ちも溜め息だけで抑えられている節はある。 「荷造りは終えたのか?」 聞き逃してしまいそうな程に小さな声量に、動かしていた箸を止めそうになったが、続けながら答えた。 「まァ、粗方なァ」 「行く場所は決まってるのか?」 実弥とは反対に、完全に箸を止めた後、群青色がこちらを向いたのをはっきりと知覚はしたが、それにも敢えて視線は重箱から動かさない。 「知らねェ。適当に探すわァ」 「行く宛があるわけじゃないなら出て行く必要はないと俺は思うが。此処には不死川を知る者がたくさん居る」 群青色の瞳が何を考えているのか掴めない。そう思っていたのは、もう過去の事。 今この場で発せられる言葉の意図を、読めない程に実弥も愚かでもない。 暗に、身を案じている。そう伝えたいのだろう。 あまりわかりやすいものとは言えないが、とにかくだ。 だから動かす手を止めないし、視線も合わそうとはしなかった。 「…たくさん、居過ぎんからだァ」 ただ無意識に出た寂寥は、その耳に届く前に鰻重を掻き込む事で誤魔化す。 「ごっそーさん」 「速いな」 「テメェがちんたら食ってからだァ。俺ァもう帰っからなァ」 箸を置いてから、一息吐く間も置かず金を取り出した。 「まだ報告していない」 「あァ?何だよ」 話す時間ならこれまでいくらでもあったろうに。無意識に寄った眉間も 「昨日、名前と籍を入れて来た」 その言葉には、若干力が弛まる。 「そうかよォ」 素っ気なく返してから、立ち上がった。 「旅立つ時は教えてくれないか?名前と一緒に見送りたい」 「ハッ!俺ァ見送られんのは大嫌ェなんだよォ。余計なことすんじゃねェ」 「…そうか」 そのまま店を出ようとした足は、背後から伝わってくる陰鬱に止まる。 「冨岡ァ」 感じる視線を受け、左手を軽く上げた。 「幸せになれよォ」 意識したより柔らかくなった声色を掻き消すように扉を開け、閉める。 どんな表情をしていたか気にはなっても、とてもじゃないが振り向くという行動は出来ない。 きっと鳩が豆鉄砲を食ったような、それはもう間の抜けた顔をしているのだろうと想像した瞬間、口角は上がっていた。 * * * 左手に持っていた荷物を一度抱え直し、義勇は玄関の戸を引く。 歩き慣れた道故か、様々な思考に耽っていた気がしたが、名前を思い出したと同時に、そういえばおはぎの感想を訊いてくるのを失念していたと気が付いた。 しかしそれも、居間に横たわる姿に心臓を高鳴ったことで意識の外へと追いやられる。 粗雑に脱ぎ捨てた草履を気にすることなくそちらに駆け寄った。 こんな所で倒れているなんて、まさか体調が優れないのか。 湧き上がる焦燥も、聞こえる規則正しい呼吸と穏やかな寝顔に杞憂であるのを知る。 加えて、その傍らに寄り添う黒猫の存在も手伝い、柔らかい空気を放っていて、名前を呼びそうになった口を上げるとそっと髪を撫でた。 「…ん」 睫毛が動いた後、静かに開く目蓋が義勇を捉えた瞬間に驚きへと変わる。 「…あれ?義勇…、おかえり、なさい…?」 そうは言いながらも、状況を把握出来ていない様子で起き上がった。 「こんな所で寝ていたのか?」 「…ん。仕立ての練習してたんだけど、気持ちよさそうに寝てるクロ見てたら、私も眠くなっちゃって…」 寝け眼を擦った後で、途中で放置されたままの布を拾う。 「疲れてるんだろう。布団を敷いてくる」 「ううん、大丈夫!もう大丈夫だよ。それより、不死川様とのお食事どうだった?」 立ち上がろうとする袖を掴む名前に、義勇は迷いながらもそこに腰を下ろした。 「鰻重を食べてきた。あまり話せなかったが…、名前と夫婦になったのは報告出来た」 一番に伝えたいことは伝えられた。 しかしそれで実弥がどのような反応を見せるのか、義勇自身も想定が出来なかったため、躊躇いや戸惑いがあったのは事実だ。 「幸せになれやァ」 だからこそ、店を出て行く直前に掛けられた言葉には、暫くその場から動けずに居た。 まさか忌憚なく祝われるとは露ほど想像もしていなかったため、喜びが込み上げたのは随分時間が経ってからだったのを思い出す。 「そうなんだ」 屈託のない笑顔で返す名前が、その後の実弥の反応を訊ねようとしないのも、恐らく義勇と同じ心証を抱いているからであろう。 「不死川様、いつお屋敷を出ていかれるのかは訊けた?」 すぐに流動していく話題へと義勇の思考が働いていく。 「…訊いたが、見送りは不要だと言われた」 「…そっか」 寂しそうに目を伏せたのは一瞬のこと。 上げられた視線が左手に抱えたままの風呂敷に目を留めると、小さく首を傾げた。 「どうしたの?それ」 名前の質問で、僅かの間ではあるが、その存在を失念していたのに気付く。 「着物だ。名前に買ってきた」 言い終わらぬ内に荷を解こうとする義勇の瞳には、吃驚していく表情が映りはしないが、気配だけは感じた。 「…わ、私の…!?そんな、いいのにっ!」 「帰りに見かけて名前に似合うと思った時には購入していた」 照れ笑いに近い微笑みで結び目に指を掛けるも、上手くほどけないそれに、名前の両手がそっと触れる。 「私が開けるね」 「頼む」 微笑み合ってから、布音を立てて解かれた中には綺麗に畳まれた着物地。 「…わぁ…、きれい…」 目を輝かせながら手に取っていく動作は、義勇の期待以上の反応で意識せずとも口角が更に上がっていく。 「…義勇の眼みたい…」 呟かれた一言には若干の気恥ずかしさが込み上げたが、名前ならそう思ってくれるであろうと、心のどこかで期待していたのも確かだ。 扇のように重なった群青色の半円が波を表している青海波という紋様だというのを聞いたのは代金を支払った後だったが、そこに関しても何かしらの縁を感じている。 しかし、それは口に出さず続けた。 「その帯留めにも合うと思わないか?」 義勇の視線を追うようにその瞳が自分の腹部へと向けられる。 途端に綻んでいく表情と共に 「うんっ!」 大きく頷く名前からは、素直に"嬉しさ"が溢れていた。 着物地を撫でる右手は、愛しさも伝えている。 「ありがとう、義勇。大事にするね」 「ん」 ひとまず箪笥にしまおうと両手で抱えた反物の下、桃色の華やかな桜紋様に留まった目が丸くなった。 「これは?」 当たり前に出された質問に、義勇は簡潔に答える。 「これは禰豆子にだ」 「あ、禰豆子ちゃん!」 「変じゃないか?歳相応の装いといったらこれだと勧められたんだが…」 言われた通り、勢いのままで購入をしたのは良いが、今になって一抹の不安を覚えるのは、名前のためにと買った着物地と比べると余りにも華やかで、派手ではないかという感情を抱いたためだ。 しかしそれも、 「ううん、変じゃないよ?禰豆子ちゃんに絶対、似合うと思う」 一切曇りのない笑顔で、義勇を安堵へと導いていく。 「そうか。…良かった」 問題はこれをいつ本人に届けるかということだ。と考えかけて、止めた思考。 口元を押さえる名前が噛み殺した欠伸に、若干眉根が寄った。 「まだ眠いなら無理せず寝てていい」 しかしその提案も、穏やかなに振られた首と 「…ううん。大丈夫」 強がりではない台詞に、それ以上の事は強く言えなくなる。 本当に大丈夫かと出しかけた言葉は喉で止めた。 「…そうか」 「うん。義勇こそ、眠くない?」 「俺は…、大丈夫だ」 一瞬言葉を詰まらせたのは、何故その質問をするのかという疑問から、すぐに過ぎった昨日の行動を知覚されていたのではないかという動揺からくるもの。 何となく目を合わせづらく、黒猫に落とした視線は、 「…そっか」 寂しそうに伏せられた表情に気付くことはなかった。 * * * 暗闇の中、しんと静まった和室から、義勇は音も立てずに抜け出す。 途中で短く鳴いた黒猫に心臓が跳ねはしたが、隣に眠る名前は全く反応を示さず胸を撫で下ろした。 しかしこうして夜中に目を盗むのは、疚しさなど何もなくとも多少の後ろめたさを感じている。 少しずつ燃やしていくべきかと立てていた算段は、思い直すべきだと気を急きながら竈に火をくべた。 いつまでもこの秘め事を、名前が感知しない筈はない。 臭いや痕跡も確実に隠せるわけではないため、中身を改めず本日中に全てを焼却してしまおうと、文を二、三通、手に取った時だった。 「…義勇?」 背後から聞こえた呼び声に、ギクッと肩が動く。 幻聴だ。そう思おうとしても、 「どうしたの…?」 明らかに不安を宿した声色に、振り向くという選択しか出来ないことを知った。 Doudt 初めてに近い猜疑 [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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