雲路の果て | ナノ 68

「にゃあっ」

玄関を開けたと同時、キラキラと輝かせる黒猫の丸い眼は名前が抱える荷、その一点に集中していた。
「クロ、ただいま」
その場に屈み、頭を撫でようとした手はするりとかわされ、腕へと擦り寄った鼻が大きく動いた。
「にゃおん」
まるで何かを訴えかける鳴き声に、持っていた袋へと目を向ける。
「これ?」
「うみゃ」
「よくわかったね〜。クロの好きな鮭だよ」
「んにゃ〜!」
伸ばした前脚がそれに触れる前に制せば、まるで握手をしている形になった。
肉球の柔らかさに笑顔が零れるも、声色はほんの少し厳しさを宿す。
「まだ火を通してないからだめ。今から作るから待っててね」
「…にゃー」
低い鳴き声と共に渋くなっていく表情を見て、義勇は脱いだ草履を隅に寄せた後、左手を差し出した。
「クロ、おいで。飯が出来るまで俺といよう」
「にゃぁ」
大人しく擦り寄っていく姿を追う瞳が瞬きを多くしている事に気付き、疑問を口にする。
「どうした?」
「ううん、何でもない!すぐ作るから待ってて!」
くるっと背中を向けると、食材をしまっていく動作に、もう一度掛けようとした声は
「お祝いだもん!今日はうんと美味しい鮭大根作るね!」
振り向いた笑顔に、義勇の顔も綻んでいった。
「楽しみにしてる」
着物の袖をたくし上げ、気合いを入れる名前の邪魔になってはいけないだろうと黒猫と共に居間へと移動する。
腰を下ろすと同時に乗ってきたかと思えば、すぐに丸くなって眠りに就く背中を静かに撫でた。

"お祝い"

先程の言葉を思い出して、また勝手に弛んでいく頬は何となく俯いて隠す。

名前と夫婦になった。

今、漸くその実感が湧いている。

祝いの言葉を掛けられた時、面を食らったままだったが意味は理解できたので
「…ありがとう、ございました」
もう一度、今度はきちんと向き合うとしっかり頭を下げた。
名前もそれに続き、郡役所を後にしようとした際、主幹の男に
「戸籍を増やすのが私の趣味でして。今度お会いするのはお子さんが生まれた時ですかね。楽しみにしております」
何の悪意もなく言われた台詞には複雑な感情も抱いたが、とにかくだ。

夫婦になった。

夕餉をどうするか考えながら歩く帰路、名前は突然それを実感したようで、祝いをしようと提案した。
折角ならばと、普段食べないようなものはどうか。
そんな流れから、色んな料理名が浮かんでは消え、そうして行き着いた先が鮭大根。
どんな豪勢で値の張る物より、二人らしい。
互いに同じ事を思っていたのを知った時は、嬉しさと照れくささから、同時に笑声を上げたのも、まだ記憶に新しい。

こうして、些細な事に笑い合いながら共に生きていける。
それが幸せなのだと、今、義勇は強く噛み締めていた。


雲路の


御膳を前に向き合って、どちらからともなく両手を合わせる。
「「いただきます」」
その掛け声が同時に響いた。
箸を手に取ると、真っ先に味が染みた大根へと伸ばす。
口に入れた瞬間
「美味い」
そう言い切る義勇に、名前は苦笑いに似た笑みを溢した。
「…早く、ない?」
「食べる前にわかった」
「…ふふっ」
今度は鮭を運ぶ口元が、楽しげな笑声につられ弛んでいく。

いつもと何ら変わらない食事風景も、下りる静寂すらも、心地良いものとして感じている。
食器の音だけを耳にしながら、半分程食べ進んだところで、名前が顔を上げた。

「…あ、そういえばね」

思い出したようにそこで区切られた言葉を、義勇は視線を合わせる事で続きを促す。

「愈史郎さんから手紙が来てたの。言うの忘れちゃってた」

気が付いたのは、この家に帰ってきてからの事。
扉に挟んであった差出人不明の文。最初こそ誰からなのかを考えもしたが、それを開き一行目を読んだ瞬間に、愈史郎だという確信を得る。

『珠世様は、世界で一番お美しい』

何の脈絡もなく、そこから始まっていたためだ。

本当に日記のように認められていた長文に、愈史郎の何処にも行き場のない想いを感じ、胸が痛んだのも覚えている。

「何て書いてあった?」
「あ、うん。珠世様と愈史郎さんが初めて会った時のこと。あとで読む?」
「……いや、良い。それだけか?」

若干、義勇の表情が呆れに似たものに変化したが、次に続く

「義勇のこと、心配してた」

その言葉には疑心が満ちていく。

あの鬼が、人間の事を心配などするだろうか、と。

関わりが深い炭治郎ならともかく、義勇は意識がある状態で愈史郎と接した時間など皆無だ。
加療をしたのも、鬼舞辻󠄀無惨を倒すという目的のための手段に過ぎない。
だからこそ、その言葉を疑ってしまう。

しかし、名前の事だ。
恐らく愈史郎が取ってつけたような一文を、額面以上に受け取ったのであろうと推察出来る。

「…そうか」
だからこそ一言で終わらせた。
いや、正確には終わらせようと思った。
「…返事、書くのか?」
憂慮する必要はないとわかってはいても、どうにも気にはなってしまうその先の行動。
「うん」
無邪気に笑う瞳には、義勇が持つ奥底の感情など心付いていないのだろう。
じわ、と広がるようなそれは表に出すだけ無駄なので、また返事だけで返そうとした。

「義勇と結婚できたこと、愈史郎さんにも伝えたくて」

咲いていく笑顔は何の翳りもなく、義勇の口元まで弛ませていく。

「鱗滝さんには、一緒に手紙書こう?」
「あぁ」
「カナヲちゃん達には直接報告できるから、あとは炭治郎くん達と…」

楽しそうに名前を挙げていく声を耳にしながら、大根を口へと運んだ。
そうして、ふと思い出す。
まだ名前宛ての手紙を処分していなかった事を。
あのまま中身を検めていないので、内容は未だ、定かではない。
だが数年という時間が経過している事と、当時、実際に送付するつもりはなかったという断片的な記憶は蘇っているため、正直何を書いたか戦々恐々としている。
出来る事なら跡形もなく塵にしたいので、纏めて焼却したいとも考えるが、その光景を見た名前が疑念を抱かない筈がない。
それも含め、どうしたものかと考えあぐねた。

目を盗める時間といったら、寝静まった夜半しかない。
それも一度で片付けられる量ではないため、何日か分けて行うべきだろう。

「…ゆう?」

途中から聞こえた声が、名前を呼んでいるのだというのに気が付いた時には、その表情が訝んでいた。

「…どうしたの?」
「いや…。何だ?」
「……。不死川様のこと」
そこで下がった眉に、意味を理解する。

柱合会議を終えた後だ。
飲食を共にしよう。名前から伝え聞いていた誘いを話題に出せば、実弥は罰が悪そうに険しい表情を見せた。
「あん時ァ行ってやっても良いって思ってただけだァ」
暗に、今はその気がない。そういう意味合いだと受け取った義勇が返事だけを返し、歩き出そうとしたのを見て、更に頭を掻きながら続ける。

「荷物纏めるまでの間に、一回くらいなら行ってやらァ」

それがどういう意味を持つのかは、風柱邸を出て行くと本人から聞いて理解をした。
しかも義勇のように、産屋敷邸や蝶屋敷に近い場所に越すのではなく、完全に縁もゆかりもない土地へ拠点を動かすといったもの。

その選択が、払拭し切れぬ悲しみとの決別を指しているのは、察して余りあった。
そしてその選択は、生きている間に顔を合わせる可能性を限りなく零にするという事実もまた、明瞭としている。

その点に関して、名前にも全て話をしてあるので、その顔が寂としている意味も、容易に想像ができた。

「まだ具体的な日付は決まっていない」
「私のことは気にしないで、いつでも行ってきてね?」
「…あぁ」
落ちた沈黙は先程より少し重く、だからこそ続ける。
「明日、不死川の家に行ってみようと思う」
途端に笑顔になる名前は、心底安心したように
「うんっ」
と、大きく頷いた。

* * *

隙間なく並べられた二人分の布団の片方に入ると、手持ち無沙汰を解消するように枕の皺を撫でる。
僅かに開いた襖の向こうからは流水音が聞こえ、名前が湯呑みを洗っているのを知らせていた。

夫婦になってから、初めての夜。

意識せずとも込み上げてくる高揚に近い何かは、喉を動かして誤魔化した。
二人の関係を鑑みれば、初夜などと言うのは今更だが、そこに少し可能性というものも考えるのは必然。
もしも、いつ命を落とすかわからぬ立場でなければ、義勇はおいそれと名前に触れたりはしなかっただろう。
順序を隔て、それこそ今のように夫婦としての夜を迎えた時、初めて情事に発展していたのは確実だった。
しかしそれを前提に考えると、鬼、そして鬼殺隊という組織がなければ、義勇が名前と出会う術はなく、根底が崩れていく。
これで良かったとは到底思えはしないが、今この時が運命というならば、こうして無事に夫婦になれた事に関しての謝意を感じていた。

「お待たせ」

穏やかな微笑みは、それだけで義勇の心を癒していく。
しかし、既に微睡み始めている瞳は連日の寝不足が祟っているのか、どこか疲れても見えた。
特に昨日は、期待と不安に押し潰されそうだったのだろう。余り深い眠りには入っていないように見受けられた。
心の底で沸々と湧いていた欲情は意識の外へ追いやって、名前の足元を行ったり来たりする黒猫へと顔を向ける。

「寝よう。おいで、クロ」
「にゃあ」

名前が寝付いた後に、手紙を処分するという目的もある。
今日はこのまま就寝しようと決め、広げた左腕へと擦り寄ってくる身体を抱えた。
途端に尖っていく口唇から
「…いいな、クロ」
小さな羨望が零れる。
しかし、横になろうとしている義勇の耳には届かない。
「……。電気、消すね」
僅かな寂しさを打ち消すように、灯りに手を掛けた時だ。
「…どうした?」
疑問を向けてくる群青色から咄嗟に顔を逸らす。
「ううん」
急ぎ目で消した室内灯の後、すぐに布団へ鼻まで潜り込んだ。
「おやすみ」
出来るだけ平常心で口にした四文字も
「…怒ってるのか?」
様子の違いをすぐさま見抜いてしまう背後へ益々振り返れなくなる。
しかしその言葉とは異なる点については否定をした。
「ううん!怒ってないよ!」
流れた沈黙は、名前の言葉を待っていると告げている。
きゅっと握った布団が僅かに動いたのは、義勇にも伝わっているだろう。

「…いいなって。思って。おいでって、言ってもらえて…」

細々と出した内容が、子供じみているのは名前自身が感じている。
昼間といい、どうにも激しくなっている感情の振り幅を全く制御が出来ないのは、義勇が受け入れてくれるという甘えからだというのもわかっていた。
だからこそ再度流れた静寂に、不安も募っていく。

「ご、ごめんねおや「名前」」

ひどく優しい呼び声に、呼応して振り返る。

「おいで」

見えるのはぼんやりとした影ながら、そこに穏やかな表情をした義勇が居るのが想像できて、綻ぶ顔を隠さないまま腕の中に身を預けてから気が付いた。
「…あ、クロっ?」
「足元だ」
「あ、ごめんね!」
「んにゃお」
まるで気にするなと言っているような鳴き声に、更に弛まっていく口元から笑声が零れる。
「…ふふっ」
先程まで心を占めていたものが音もなく溶け、その代わりに温かい気持ちが溢れゆく。そんな感覚は、今まで生きてきて初めてだった。
「…不思議」
「何がだ?」
髪を梳いていく指も、ただ心地良い。
「義勇とこうしてると、幸せだって思うの。ずっとこうやって、くっついてたいな」
包み隠さず、そのままの気持ちを伝えれば、流れていく指がぴたりと止まる。
落ちた沈黙には焦燥感が沸いてこなかった。その暇もなく、頭上から穏やかな声が響いたからだ。
「…俺もだ」
返ってきたのは短いものでも、堪え切れずくつくつと鳴る喉が名前を一緒に揺らす。
小さく笑い合った後、おやすみと言葉を交わしてから、静かに目を閉じた。

* * *

浴衣をしかと掴んでいた指の力が抜けた頃、義勇の目蓋がそっと動く。
寝入っているのを確認してから身体を放せば、するりと抜けていく手が落ちてしまわぬようそっと支えた。
名残惜しい気持ちから、その指に接吻をひとつ落としてから布団をあとにする。
黒猫が頭を上げた気配はするも、起き上がってはこないことも確認して、木箱を手に台所へと向かった。

出来るだけ物音を立てないよう、竈へ火をくべていく。
薄明かりでは決して簡単とは言えない作業も、利器がほぼ何もない狭霧山で積んだ経験に比べれば、苦労とすら言えないものだ。
着火した炎が安定したものへとなるまでの間、取り出した手紙をおもむろに広げてみる。
一瞥しただけでも長い文章には、既に目を窄めたくなったが

"ずっと、すまかったと思っている"

その一文には、共感の二文字が浮かんだ。

もしもあの時、この手紙を届けていたら。
片方の選択肢を考えればキリがない。
どう考えても、あの時の自分がそちらを選ぶ事はなかったと言い切れる。

この謝罪も、名前に向けられたものではなく、ただ錆兎を見殺しにしてしまった無力さによる罪悪感から逃れたかっただけの、薄っぺらいものだからだ。

何の跡形もなく燃やしてしまいたいのは、そんな過去の自分なのだろうと、今ふと心付いている。

葬り去ってしまいたいのだ。

名前が切り落とした髪を、土に還したがったように。

ボッ…

鈍い音と共に、数年経っても変色することのなかった白紙が黒くなっていく。
ギリギリまで灰にしたそれを今度は水へと浸し、証拠が残らないよう念入りに屑籠へと処理した。

次に手取った文には、柱になった頃の当たり障りのない近況が書かれているが、それを書いた記憶は正直綺麗さっぱり消え去っている。
当時の自分は、余程話をしたかったのか、柱についての詳細が記されていて、消えていった命ひとつひとつが、自然と思い浮かんだ。

「今日から炎柱として世話になる!煉獄杏寿郎という者だ!よろしく頼む!」

その中でも、ひときわ快活な声音を思い出したのは、ゆらゆらと赤く滾る焔にその姿を重ねたからかも知れない。

合わせることは叶わない隻手の代わりに、心の底から願っていた。


Cremate
御霊よ、どうか安らかに

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