雲路の果て | ナノ 70

小さな明かりを灯した居間。二人は向かい合って座る。

何故こんな夜半にこそこそと手紙を焼却していたのか。

義勇が包み隠さず経緯を話した後、名前は未だどこか疑念の色を浮かべながらも頷く。

「そう、だったんだ…」
「…悪い。不安を与えるつもりはなかった」

素直に頭を下げたのは、言い逃れしようのない現場において尚、誤魔化そうとする思考を感知した名前の
「私に、言えないこと…?」
震える声に、後悔が押し寄せたためだ。
今にも泣きそうになっている。そう気が付いた時には全て、洗いざらいを白状していた。
とっさの判断は間違っていなかったのだろう。
お陰で説明を終えるまで驚きはしていたが、その瞳から涙が零れるのは免れた。

「…ううん。私も、ごめんね?昨日気が付いたときに、訊けたらよかった…」

目の前に置かれた束へと落とす視線は、徐々に嬉々を宿していく。

「これ、全部私に書いてくれたの?」
「…そうだ」
肯定を返すのは一抹の気恥ずかしさを感じたため短い肯定で返したが、
「見てもいい?」
その質問には言葉を詰まらせそうになった。
「……正直、俺自身も何を書いているか覚えてない」
思いついたままを言葉にしたが拒否ではないというのは、それを名前の方へ寄せる行動で示す。
過去の自分が名前を傷付けるような内容を一切書いていないであろうことは、昨日確かめた内容で知覚している。
心配があるとしたら、血迷った感情の吐露があるかどうかだが、不安を抱いている今、逆に安心材料となり得るだろうと開示する方を選んだ。

一瞬迷った右手が、一枚の文を持ち上げる。
蛇腹になった白紙を開いていく指も迷いを告げていたが、認められた文章に止めた目はすぐに夢中になっていた。

そこから暫くは無音の空間の中、ただただ手紙を読み耽る名前を、義勇は見守るに徹する。
時折眉を下げ、そして小さく微笑む表情は、何に対してなのかまでは伝わってこないが、悪いものではないというのは窺い知れた。
それでもそっと閉じた後で向けられた双眸には、若干の緊張を感じている。

「…何と、書いてあった?」

だからこそ、先にその質問を口にした。

「炭治郎くんと、禰󠄀豆子ちゃんに会ったときのこと、書いてあった」

哀しそうに伏せた瞳は、竈門一家についての詳細を知ったためだ。
元々、鬼を連れた隊士がいるという噂は、当然甲である名前の耳にも入っており、兄妹がどのような経緯で隊士と鬼になったのかは、柱合会議後、ひとりでに渡り歩く噂で既知していた。
しかし実際、凄惨な現場を見た義勇が書いた文章で初めて入ってくる情報は少なくない。
特に家族構成やその悲惨な末路などは、人づてに聞いたものでは知り得なかったであろう。

「…つらかった、んだね…」

両の手を握るのは胸を抉られそうな想いに耐えるためだが、震える声はどうにも抑えられずにいた。

義勇にとっては、何故名前がそこまで憂いているのか。そこに甚だ疑問を浮かべる。
一体自分は何を書いたというのか。湧き上がる焦燥から、声を掛けるより早くその手から文を浚うと目を通す刹那もしないうちに眉間を寄せた。

出すつもりがなかった前提があったからこそであろうその詳細。
誰にも話せないという葛藤が、そこには如実に滲み出ており、おおよそ書かなくてもいい竈門家の人間の最期の姿までが事細かに記されている。
今にして思えば、義勇自身が気持ちを整理するためと言えるその記録は、余りにも生々しく、それだけで後悔が押し寄せた。

「悪い。名前に見せるべきでなかった」

首を横に振るだけで零れてしまいそうな涙に、義勇の胸が痛んでいく。

やはりその瞳に触れさせる前に、跡形もなく処分してしまえば良かった。
思ったところで後の祭りではあるのはわかっていても、考えずにはいられない。

せめてこの先の手紙は、このまま屑籠に放棄してしまおう。
そう決意を固め、左手を動かした時だった。

「…かる…ないけど」

か細く出した声は、辛うじて語尾だけが聞き取れる。
「…うん?」
出来るだけ優しい声色でもう一度と促すのは、泣いてしまうという懸念からくるものだ。

「義勇の、気持ち、全部わかるわけじゃないけど…」

先ほどよりはっきりとした口回しとは真逆に、零れていく大粒の滴は名を呼んだ人物の心を揺さぶる。

「すごく、後悔してるのが、伝わってきて…っ」

詰まらせた喉とともに、沈痛な面持ちが更に歪んだ。

「義勇は……っ優しいから…」

懸命に紡いだ言葉は、そこから嗚咽へと変わる。
顔を両手で覆う動作は引き止められなかった。

「水の呼吸から違う型に変わった人とかは!」

真っ直ぐで澱みのない双眸が、一瞬にして脳裏に浮かぶ。
何故、その発問が過ぎったのか。

「あいつは優しいから、もし会った時にはお前と妹の力になってくれるだろう」

その答えは、奇しくも義勇自身が発した言葉で意味を知る。

今まさに、同じ事を思っていたのだ、と。

炭治郎と禰󠄀豆子の経てきた経緯を知れば、頸を斬ると言うどころか、義勇、鱗滝と同じように自分の命を懸けるとさえ言い出しかねない。
その懸念を感じていたのも、今になって心付いている。
もし万が一、禰󠄀豆子が人を喰ってしまったとしても、名前が竈門兄妹と出会っていれば、どうにか炭治郎だけでも生かす道を模索してくれるであろう。

そう、心のどこかで抱いていたのも否めない。

優しいから、他人の痛みを理解しようとしてくれる。

ともすれば、そんな錘にも似た期待を。

義勇が炭治郎の心境を悟ったように、今度は伝染するがごとく繋がった想いを名前が感知し、全てを消化してくれる。いや、して欲しい。

ずっと、そう願っていた。

会って間もない人間の身の上を知り、同情ではない涙を流してくれたように。

「…ひっ、く」

小さくしゃくり上げた泣き声に、義勇は我へと返った。

流れ続けている真新しい涙は手紙の内容に対する衝撃や動揺などではなく、そこに確かに存在した想いを、湧き上がる後悔を、今まさに掬い上げているのだと顔を覆う手に触れる。
そっと包んだ手から伝わる顫動は、露わになる濡れた瞳が群青色を捉えたことで若干鎮まった。

「泣かなくていい」
「…ごめっ…なさ…」
「謝らなくていい」
「…っひ、ぅ…っ」

ボロボロと落ち続ける雫を拭おうとするより先、義勇の胸元へしがみつく両手は余りにも小さく儚げなものだと感じるとともに、静かに重ねる口唇。
震えた肩を抱き寄せると、角度を変え深く接吻けた。
「…っん…」
止まない咽びは、徐々に甘いものへと変化していく。
高まっていく情欲を抑制しようと離しかけた口唇は、動作こそ恐々ながら背へ回っていく両手の力強さに呼応し、更にその先を求めた。


雲路の


腹部に放った白濁液を拭ってから、義勇は優しく訊ねる。

「湯浴みするか?」

ゆっくり身体を起こす名前の背を支えれば、小さく礼を言うのが聞こえた。

「ううん、大丈夫。義勇は?お風呂入る?」
「いや、俺もいい。大丈夫だ」
「そっか。じゃあ浴衣、直すね」

肌蹴たままの名前の胸元へ視線を動かしそうになったのを堪え、左手だけではあるが、その襟も手繰る。

「直して、くれてるの?」
「俺ばかりやってもらってるから」
「…そんな、いいのに」

自然と微笑み合った顔が、近付いて重なった。
触れるだけの口唇は、すぐに離れてはまた笑みを咲かせる。

「義勇、眠そうな顔してる」
「名前もだ。昨日、眠れなかったのか?」
その質問には、少しの沈黙が落ちてから答えが返ってきた。
「…うん。義勇、何してたんだろうって、考えて…」
突然弱くなる口調で、視線を向けた先は手紙の束。
「私に、言えないことなのかなって思ったら、怖くなっちゃった…」
「怖い?なんでだ?」
「…義勇が、離れていっちゃったら、どうしようって」
「離れていくはずがない。正式に夫婦になったんだ。そんな心配する必要ないだろう?」
「……。うん」
浴衣を掴む両手に入る力で、その心細さが伝わる。
駆り立てられるように、思いのままその小さい身体を抱き締めていた。

「ごめん」
「もう、また謝ってるよ?」
「…ごめん」
「大丈夫だってば、ね?」

極めて明るい声に、義勇の胸は痛んでいく一方だ。

離れていってしまったら。

まるで、あの時のように。

そんな不安を名前が持つのは、当たり前のことだ。

義勇でさえ、祝言を挙げたその直後には言いようのない不安に駆られた。

それは疑いたくなるほどの幸せからくる反動だと自覚もしていたが、名前の場合は尚のこと強く感じるだろう。

実際、悲しみのせいにして、置き去りにした過去があるのだから。

沸いた疑念に対し、義勇に訊ね解消することも、寝て忘れようなどといった気持ちの切り替えも、名前にできるはずもない。

だから不安にさせぬよう、傷付けぬよう、細心していたというのに、いつの間にか優しさに甘えている自分がいたことに気が付いた。

「手紙、貰ってくれないか?」

突然の提案に、驚きで顔を上げた名前から身体を離し見つめる。

「…いい、の?」
「いい。むしろ名前に持っていてほしい」

一部は灰にしてしまったが、せめて残りは求めていた場所に還したい。

それが過去の供養になるのだと、心付いている。

「読んでも、いいの?」
「構わない、が俺がいない時にしてくれないか?」
「どうして?」
「さすがに恥ずかしいものがある」
「ふふっ。じゃあ、こっそり読んじゃおう」

罰が悪そうに言う義勇を、名前は優しさを携えた瞳で笑った。

* * *

数日後、二人の姿は産屋敷御用達の鍛冶屋にあった。

作成を依頼していた結婚指輪が出来たという鴉からの伝達を受け、すぐに足を運んだ二度目のその場所は、何一つ変わりはないのに、どこか輝いているように見える。
それが憂慮から始まった絶望から、再起として変化した経緯によるものなのは、互いに何となく気が付いていた。

「ご足労いただき、ありがとうございます」

挨拶もそこそこに、主人が差し出した桐箱に収まるふたつの輪。名前が小さく声を上げる。
「…すごく、きれいっ!」
心の底から出された感想は、作成した人物の頬を弛ませていった。
「こちらが冨岡様、こちらが奥様の指輪となります。そしてどうしましょう?例の刻印はいかがいたしますか?」
それでも若干眉を下げたのは、気遣いなのだろう。
一度見合わせてから、二人は同時に笑顔になった。

「実は、入籍することが出来たんです。俺達」

驚きに満ちていく表情もすぐに同じように綻んでいく。

「それは…、なんと…なんとまぁ…!おめでとうございます、おめでとうございます」

何度も何度も頭を下げる主人に倣う名前に、このまま続くことを予想して義勇は続けた。

「それで、その日を刻印したいのですが可能でしょうか?」
「えぇえぇ。それはもう、勿論ですとも。すぐに彫らせていただきます」

また深く頭を下げたのには、同じ動作をする。

「よろしくお願いします」

上げたと同時に立ち上がると、
「それでは少々、お待ちください」
早々に奥の部屋へ向かう背中は、他人事ながら喜びに満ちているのが伝わってきた。

そうして沸き上がる感情を噛み締め、無意識にそちらを眺め続ける。

「どうしたの?義勇」

不思議そうに見つめる瞳に、つい癖で何でもないと返しそうになるのを呑み込んでから、違う言葉を吐きだした。

「ああいう、人の助けになるような職は羨ましい、と少し考えていた」

奪うだけで、何かを創造することはできなかった。

その言葉は喉で止めたものの、険しくなっていくその表情には伝わってしまっているのだろうと、どこか諦めにも似た笑みが零れた。

隻腕ではこれから先、そのような道も選べない。
可能性としてはなくもないが、それには名前の手を必ず必要とする。
そうまでして進みたい道があるわけではないため、これから先、細々と生きていければ、それで十分だ。

口にしたのは、ただ純粋な羨望。

それでも口を尖らせる名前は、少し怖い。そうも思った。

「義勇はっ」

声と襖を開く音が重なる。

「お待たせいたしました」

先程の位置に座り直すと、嬉々とした表情を浮かべる主人は箱を差し出しながら頭を下げた。
「誠心誠意、心を込め彫らせていただきました。どうぞご確認をお願いいたします」
目の前の銀色の輪へと一度会釈してから手に取る。
内側に刻まれた日付に、弛みそうになる頬へ力を入れた。
「確認しました。間違いありません。ありがとうございます」
ゆっくり深く頭を下げる義勇に、名前も丁寧に倣う。

「この度はご結婚、誠におめでとうございます。きっと耀哉様もあまね様も、冨岡様ご夫婦の幸せをお祈りしておられることでしょう。どうかどうか、胸を張ってくださいませ」

目を閉じなくとも浮かぶその姿に、暫く顔が上げられずにいたが、決意したかのように頭を動かしたのも、

「「はい」」

迷いなく出した返答も、同時だった。



Chew
だからこそ前を見る

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