鬼というものは、これほどまでに恐ろしいものなのか。 水柱・冨岡義勇はそう考えながら、痺れる全身で何とか前へと進んでいく。 血鬼術をまともに食らった身体では、必死に手足を動かせど、思うように進めない。 最初こそ、一度屋敷に戻り、冷静な状況の把握、及び体制の整え直しをするべきだと考えもした。 しかしそこには義勇以外、居住者はおらず、根本的な解決にならないと判断し、意識を切り替える。 "誰か"に頼らなければ、現状の打破は至難だ。 酷く情けなく感じるが、曲げようのない事実だった。 かと言っても、義勇が拠り所に出来る人物など、片手で足りる程しかいない。 それも今の状況を考えれば、選択肢は一択だった。 すぐに浮かんだ無垢な笑顔。 水柱邸へ続く分岐点を通り過ぎ、未だ痺れが取れない手足を動かし続ける。 名前の屋敷まで辿り着きさえすれば、あとはどうにでもなる。 ひとまずそれだけ言い聞かせ、進む先を真っ直ぐ見据えた。 薄暗く滲む視界が更に歪み、意識の混濁が始まっているのを知覚する。 (…こんな所で、倒れてたまるか) 段々と視野が狭くなる中、僅かに見えた玄関の扉。 そこへ手を伸ばした瞬間、プツ、と糸が途切れたように意識を失くした。 義勇が次に目を覚ました時、そこは硬く冷たい地面ではなく、柔らかく温かい布団の中だった。 (…此処は) 朧ろげな記憶を手繰り寄せるより早く、 「大丈夫…?」 目の前に現れた顔に、ドキッと心臓が音を立てる。 名を呼ぼうとした口から自分の意図とは違う高音が出て、それを噤んだ。 意識を失う前の記憶は、夢ではなかった。 既知していた事を再確認して、言い知れぬ不安が過ぎる。 「玄関の前で倒れてたんだよ?見たところ、怪我はしてないみたいだけど…」 少しだけ上がった眉が安堵を告げていて、そのまま伸びてきた掌が義勇の頭へ触れた。 「お腹空いてるのかなぁ?」 優しく撫で摩ってから、指が顎の下を掻い撫でていく。 勝手に鳴っていく喉に戸惑いを隠せず飛び起きた。 「…あ、ごめんね。触られたくなかった?」 十分に距離を取り、見上げた先では名前が寂寂としている。 "違う" そう口に出して否定をしたいのに、今はそれが叶わない。 喉から音としては出るのに、それを名前は理解出来る状況でないからだ。 もどかしさだけが募る中、 「…何て言ってるかわかる?」 向けられた顔の先には、見慣れた黒猫。 「にゃあ」 ひと鳴きしたその意味が "わかるよ" その一言だと理解してしまった瞬間、義勇の中で絶望と希望が同時に込み上げていく。 今の今まで半信半疑だったが、ここまで来たらもう疑いようがない。 「野良猫さんかな?」 「にゃー」 "ちがうよ" 黒猫の言葉に、その頭を撫でながら 「この子がよければ一緒に住もうか?」 ニコニコと暢気に返してる名前に、何故か脱力感が沸いて項垂れるしかなかった。 水と猫 自分の両手を見つめては、ふにふにとした肉球に、何度目かの溜め息を吐く。 頭を上げた先には、これまた同じ毛むくじゃらと長く伸びた尻尾。 頭に手をやれば明らかに人外である尖った耳がふたつあり、おまけに伸びた髭が何かに当たる度に、言いようのない不快感に襲われる。 血鬼術によって、猫にされてしまった。そう、認めざるを得ない。 単純な姿形だけでなく、視界や感覚までも猫のそれになっているお陰で、人間の時には気にも止めなかった音や匂いが鮮明になっているが、視界だけはどうも霞がかっていて、その倒錯感が更に義勇の中で気持ち悪いものとして認識されていく。 その感情には半分以上、不甲斐ないというものがあった。 義勇自身は認めていないが、仮にも柱ほどの実力を持つ剣士が、鬼の頸を斬れず猫に変貌してしまう。正確には変貌させられてしまった。 それは、屈辱以外の何物でもない。 早々にこの状況を鬼殺隊本部に伝え、鬼の頸を斬る任務を託さなくてはならないのは百も承知だが、どうにもこの自分の失態と、今のこの姿を誰にも見られたくないという羞恥心が産屋敷家へ経緯を伝えようとする寛三郎の羽根を止めてしまった。 今は恐らく、屋根の上かどこかで待機をしているとは思うが、この状況を長引かせる訳にもいかない。 人が寄り付かない山奥を根城にしているといえど、鬼がそこに住まう以上、一刻も早く頸を斬らなくては、何のために刀を握る道を選んだのか。存在意義が揺らいでしまう。 それでも今此処から行動出来ずにいるのは、猫という小さな身体での長距離移動と、極度の空腹による困憊だった。 「はい。おまたせ」 目の前に置かれた皿には鰹節と軟飯を混ぜたもの。 普段なら余りそそられないそれも、猫としての感覚か、それとも腹の減りすぎか、口の中に唾液が溜まっていくのを知覚した。 猫ならば、すぐにでもがっついていただろう。猫ならば。 だが、姿だけはそのものであろうと、精神は人間のままであり、猫用の餌皿に顔を突っ込み食べるなどという行為は、どうしても出来なかった。 「…にゃー」 傍らで様子を窺う黒猫へ、枯れた鳴き声でその意思を伝える。 「…にゃ」 "わかった"と頷くと、その頭で名前の右手へ突進をした。 撫でようとする掌へ肉球を押し付けてから、餌皿を指す。 「…ん?なぁに?」 何かを伝えようとしているのは察知したのだろう。往復し続ける前脚を見つめている。 その後に、顔を横たわる義勇へと向けた黒猫に、沈黙が下りた。 「…あ、もしかして自分で食べられないの…!?」 主旨とは僅かにずれたものではあったが、ひとまずそうだという意味を込め、黒猫が鳴くのをぼんやりとした視界の中で眺める。 「じゃあ食べさ」 言葉を途中で切ったのは、持ち上げようとした皿をその黒い前脚が止めたためだ。 「にゃ〜」 まるで誘導するように台所まで移動すると、鍋が置かれた場所の直下をカリカリと軽く爪を砥ぐ。 「…えっと、違うのを、用意するの…?」 「にゃあっ」 人間では猫の言語はわからないながら、この鳴き声は例え誰が聞いても肯定と捉えるような勢いに、名前は困惑しながらも、いつも自分が使っている皿を取り出した。 * * * 「…おいしい?」 差し出された木匙に乗った軟飯を、少しずつ舐めとっていく。 細かく噛み砕こうとした牙が、その機能に適していないと気が付いたのは食べ始めてからすぐの事だった。 ほぼ丸呑みをするしかない口の構造上、ゆっくり胃へと送る。 時折、軟飯ではなく真水を間に挟む名前によって、喉に詰まらせる事なく食事を続けていられていた。 それでも慣れない身体というのは、すぐに疲労が蓄積されるもので、半分も食べ終えぬうちに、木匙から口を放す。 満腹になった訳ではないが、食べ疲れと言えば良いのか。 普段、人間では楽に出来る動作も今この姿では難しいと実感している。 どうにか噛み砕こうとしてしまう顎が動かなくなってきたのを、口元から勝手に零れ出る軟飯で気が付いた。 「…もう、いいの?」 「にゃあ」 "あぁ" そう言ったつもりだったが、どうにも間の抜けた鳴き声になってしまうのは、この際仕方ない。そう言い聞かせた。 拭おうとした口元は、義勇の手が触れるより早く名前の手が滑っていく。 「…どうしてこんなに弱っちゃったんだろう…?」 覗き込んでくる顔に、視界が不明瞭で良かったと真剣に考えた。 ともすれば接吻が出来そうな程の距離は、普段の視力では直視出来ないであろう。 拍動の制御はどうにも難しいが、態度には現れないで済んでいる。 喉元を摩る右手で勝手に鳴っていく喉も、今は猫の習性だ。仕方がないと気に止めない事にした。 でなければ、正直どうかなってしまいそうだった。 こうして、柔らかい膝の上に横たわっているなどという状況に。 起き上がろうにも、先程全力で距離を取った動きのせいか、それとも血鬼術の作用が強く働いているためか、どうにも動けずにいる。 温かく良い匂いのするその場所と摩り続ける右手は、どうにかピンと張ろうとする気を悉く弛ませていった。 心地良い微睡みに勝てる筈もなく、段々と降りてきた目蓋を完全に閉じる。 「…おやすみ」 優しいその声は、随分と遠くで聞いた。 次に目を覚ました時、全て夢で在って欲しいという願いは、起きて数秒で叶わなかったのを知る。 「おはよう」 頭上から落ちる声がやけに響いたのを彩色がない視界の中で聞き、この悪夢が続いている事に嫌でも気が付いた。 それでも微睡みに勝てないのは、それも猫の特性なのか。そうも考えている。 漸く開ききった目蓋で見た毛だらけの両手は、忙しなく隊服を握っては開いていて、それによって得られる安心感が、逆に義勇へ危機感を覚えさせた。 もしかしたらこれは時間が経つにつれ、本格的に猫になっていく血鬼術ではないかという懸念。 それならば恥がどうこう言っている場合ではない。 一刻も早い鬼の討伐が望まれる。 そうは思うのに 「やめなくていいよ?痛くないから」 無垢な笑顔で、また勝手に喉が鳴っていく。 栄養を取り睡眠を重ねた事で、先程より身体は幾分と楽にはなった。 今なら此処から降りて、何処かで待機しているであろう寛三郎に名前及び産屋敷に言伝を頼む事が出来る。 それなのに頭を、顔を、喉を、そして背中を撫でていく優しい手に、抗う意思が砕かれていった。 「クロもね、気持ちが落ち着いた時こうやってふみふみするんだよ?かわいくて大好きなんだ、私」 そう言って何の躊躇もなく両手を包み込むと、上げては下げる。 「この服なら破れる心配もないから、いっぱいふみふみしてね」 屈託のない笑顔は、ぼんやりとしてしか映らないが心音は一気にうるさくなっていく。 その全ての言動が猫に対してのものだと理解はしていても、こんな特殊な環境下に置かれてしまえば冷静な判断は難しい。 義勇の場合、名前に対する思慕が強いため、それは必然な事だった。 出来る事なら、ずっとこのまま―… それを認めかけた瞬間には、その膝から飛び降りていた。 「…にゃ、にゃー」 通じないのはわかっていながらも、懸命に言葉を出す。 どうにか今目の前にいる猫が、冨岡義勇であると伝えようとはしてみたが、当然名前は困惑の表情を浮かべるだけ。 やはり外へ出て、寛三郎を通じて話をするしか道がない。そう考えた時だった。 「……。なんか、義勇みたい」 ゆっくりと、大きくなった瞬きに、目を見開いた。 「にゃあ!にゃー!」 その着意が確信に変わるよう強めに出した鳴き声も虚しく、少し寂とした笑顔は頭を優しく撫でる。 「毛色が似てるのかなぁ」 独り言のように呟くと、鼻を指背で摩った。 「眼の色もそっくり」 そうして顎の下へ移動していく手に、また喉がゴロゴロと鳴っていく。 気持ち良さから細まる眼を無理矢理抉じ開けるとその手から擦り抜けた。 玄関の戸へ手を掛けても、この姿では開ける事は叶わないため、先程黒猫がしていたように爪を立てる。 「外に行きたいの?」 僅かに開いた隙間を掻い潜ると、外へと飛び出した。 「にゃーっ!」 "寛三郎" その名前を呼べど返事はなく、姿すら視界に入らない。 屋敷周辺に居る筈だとその周りを回ってみても、天を仰いでみても青い空が広がるだけで、鴉が降りてくる気配は皆無だ。 近くの雑木林まで入ってはみたが、少なくとも義勇の声が届く範囲には居ない。そう判断せざるを得なかった。 それなら、名前の鎹鴉はどうだ。 思い付いた瞬間、屋敷へ戻ると丸くなる黒猫の元へ駆け寄った。 「にゃにゃ!」 "鎹鴉は!?" 返ってくるまでの時間ですら今は惜しい。そう考えるが、黒猫は暢気なものでゆっくり眼を開けるとあくびをひとつ。 「にゃぁ」 それが"知らないよ"という意味だと理解して眉間を寄せた。 「にゃー、にゃぁ、んにゃ」 "居ても話は通じないよ。あの鳥、猫嫌いだし" 続く言葉には、絶句している。 今この場を打破出来る鍵が何処にもない。 どうにかして寛三郎を探さなくては。 もう一度玄関を飛び出そうとした所で、柔らかい腕に包まれる。 「おかえり。遊んできたの?」 いつもなら落ち着く純真な笑顔も、今は義勇の焦燥を加速させていく。 「にゃあ!」 "放してくれ!" その意思を伝えてみるも、返事と受け取られたのか、更に深まっていく笑顔は黒猫と同じく暢気なものだ。 脇に手を入れると持ち上げる動作に、入れようとしている力は抜け、身体がだらしなく伸びる。 「…どこまで行ってきたの〜?土と草がいっぱいついてるよ?」 若干困ったような表情をしてから、肩へ乗せるように抱え直した事で、肉球が胸に触れた。 正確には、肉球だけではない。身体全体で、名前の体温と匂い、そして柔らかい感触に包まれている。 ドクドクと高鳴っていく心音は 「お風呂入る?」 その一言で、完全に義勇の平静を失わせていく。 あらぬ想像が勝手に過ぎっていく頭を振り、何とか隙間から抜け出した。 名前はこのまま猫である自分を飼うつもりなのだと、そう気が付いた瞬間、それも悪くない、などと思い掛けた甘い思考を外へ追いやる。 必死に爪を立てる玄関が再度空いた瞬間、そこから逃げ出した。 とにかく寛三郎を探さなければ。 それだけを考えて、鬼殺隊本部へと走った。 「…義勇?」 聞き慣れた柔らかい声に、目蓋を動かす。 次に見た世界は、はっきりとした色彩だった。 天井の染みさえも良く見える視界と、起き上がった視線の高さから、義勇は自分が元に戻っているのを実感する。 しかし、心配そうに見つめる名前の服装が隊服ではない事、そして自分の顔を確かめようとした右手の先がない事に、困惑が募っていく。 「大丈夫?うなされてたよ?」 窓から浴びる朝日で、眠っていたという事実を噛み締める。 (…夢、だったか) そう知覚したと同時、重い溜め息が出た。 未だ眉を下げる名前を心配させてはいけないと口を開く。 「大丈夫だ」 自然と反復する光景と感触は、妙に現実味があった。 それでも、夢は夢でしかない。 何故あんなものを見たのか。寝てる時の脳内など、考察しても仕方ないと動かそうとした頭を停止させた。 「変な夢を見た」 その一言をわざわざ口に出したのは、この何とも言えない感情を、名前と共に笑い飛ばしたい。その願望からくるものだろう。 「…へんな夢?」 首を傾げると瞬きを速めるその表情は、どんな風に笑ってくれるのか。そんな期待をしながら言葉を繋ぐ。 「猫になる夢だ」 出来た一瞬の間。 逆にゆっくりになっていく瞬きは、まだ理解をしていないように見受けられる。 「誰が?」 「俺が」 「義勇が?猫に?」 「あぁ」 もう覚めたというのに "にゃあ" 自分の喉から出される高い鳴き声が、今も鮮明に響いてくる。 「義勇が猫かぁ…。かわいいだろうなぁ」 笑うどころか左上へ向ける視線は、想像しているのであろうか。 何と返ってくるのか待つ間に、傍らに寄ってきた黒猫の頭を撫でた。 「そういえば…」 思い付いたように開かれた口に、向けた視線は 「前に義勇みたいな猫が来たことあったねぇ。クロ?」 「にゃあ」 そのまま息と一緒に止まる。 「紺色でね、眼の色もすごく義勇に似てて、かわいかったの。でもすごく弱ってて…、少し元気になったからお風呂入れようとしたら逃げちゃって、探したんだけど、そのまま…」 眉を下げた表情に、言葉を紡ぐ余裕もなく、ただ見つめるしか出来ない。 正直、全く情報の処理が追い付かないでいる。 あの情景は、脳内で作られたものではなく、追憶という事なのか。 ようやくその可能性を噛み砕いた瞬間、感じた温もりが、嗅いだ匂いが急速に蘇る。 「…元気だといいね」 「にゃあ」 優雅に鳴く黒猫の揺れる尻尾は、まるで義勇をからかっているようで、言い知れぬ羞恥やら何やらが次々と湧き出た。 項垂れる顔を不思議そうに覗き込んでくる瞳からも 「どうしたの?義勇」 その質問からも、逃れたくて堪らない。 「なんでもない…」 返せる言葉と言えば、それだけだった。 代わりと言えば良いのか、思い出すのは夢の続き。 鬼殺隊本部に着く前に、義勇の身体を抱き上げたのは、寛三郎を肩に乗せた悲鳴嶼行冥。 「話は聞いた」 そこから一切の記憶がないため確かな事は言えないが、行冥が鬼の頸を討ったのは間違いない。 そして今の今まで、記憶に蓋をし続けていたのだろうと考察している。 一度取り戻してしまった記憶は二度と消えはしない。 「義勇?」 「にゃあ?」 相変わらず暢気な一人と一匹の声は聞こえたが、暫く顔を上げる事が出来なかった。 忘れたままで良かったのに [mokuji] [しおりを挟む] [back] ×
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