雲路の果て | ナノ 雲と水

すっかり陽も落ちた狭霧山の麓、鱗滝左近次が住まいとしている木造小屋の一室には、ただ食器の音が響いていた。
そこに着座するのは義勇、そして名前。
今しがた用意した二人分の御膳を前に、目も合わせる事なく、黙々と食事を続けている。
時折ポリポリと鱗滝特製の糠漬けを咀嚼する音が響きはするが、会話という会話はなかった。
沈黙に耐え切れなくなった訳ではないが、名前は喉を動かした後、ゆっくりと箸を置いてから、一枚の襖を見つめる。

「大丈夫かな?錆兎くん」

ぽつりと呟いた後に伏せられる表情は寂寥としている。
「…大丈夫。錆兎の事だ。明日にはいつも通り元気になってる」
まだ此処に来たばかりの名前に心労を掛けてはいけないと、義勇は子供ながらに気遣い、いつもより明るめの声を出した。
しかし返ってきたのは頷きだけで、一切箸を動かさなくなってしまった姿に、掛けられる気の利いた言葉はこれ以上は続かない。
完全に途切れてしまった会話に居た堪れず、箸を動かしたと同じく
「…ゲホゴホッ!ゲ、ハッ!」
襖の向こうから止めどない咳払いが聞こえ、手を止めた。
「…苦しそう、だね」
更に表情が沈んでいく名前に返せる言葉といったら同意しか思い付かず、ただ視線を落とす。
「…ご飯、食べられてるかな…?」
「…それは、鱗滝さんが運んだから、大丈夫だ」
漸く出てきた前向きな内容を若干前のめりになりがら伝える義勇に、また返ってきたのは無言の頷き。
正直な所、それ以上、話が続かない。
ただ座り続ける二人の拮抗を破るように襖が開く。
そこから姿を現した天狗の面へ二人分の双眸が向けられた。
「先生っ!錆兎は!?」
「熱が上がってきている。此処からが正念場だろう」
それだけ言うと、早々に持っていた盆を水場へ運ぶと洗い始める動作に、今度は名前が口を開く。
「鱗滝さん!今日私の当番です…!」
「錆兎が触れたものは儂が全て処理をする。お前達は一切触れてはならん」
背を向けているのに、強い口調からはこれ程にない圧が感じられて、言葉に詰まった。
「先程言った通り、錆兎にも近付くな。お前達は一晩、此処で眠りなさい。布団はあとで持ってくる」
「はい」
「…は、はい」
間髪入れない義勇の返事に、圧倒された名前が慌てて倣う。
それでも憂慮の表情に満ちた匂いに、鱗滝は一度手を止め振り返る。
「看た所、流行り病とは症状が異なるため問題はない。隔離するのは念のためだ」
事実だけを淡々と告げれば、僅かではあるが二人の間に安堵の匂いが立ち込めた。


雲と


鳥の鳴き声しか聞こえてこない、夜の静寂(しじま)、義勇は淡い微睡みから目を覚ますと、錆兎を隔てる襖を視界に入れる。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。
まだ残る眠気のせいで、閉じてしまいそうな目を擦りながら考えた。
激しい咳嗽が響いていた時までは、目が冴えていたのは覚えている。
今現在、それが聞こえてこないという事は、錆兎も漸く眠りに就いたのかも知れない。
明日にはその姿を目にする事は叶うだろうか。

そこまで考えた事で、昼餉を終えすぐに体調不良を訴えた錆兎を、自然と思い出す。
最初こそ冗談や笑顔を見せる余裕もあったが、暫くしてその場にしゃがみ込み、突然、吐瀉をした。
義勇、そして名前が名を呼びながら近寄ろうとしたのを、鱗滝は珍しく張り上げた声で制止し、錆兎を奥の部屋に運んでから、一度も会えていない上に、会話も出来ていない。
夜の闇も手伝って義勇の心を、不安という二文字が占めていく。

「…名前?」

視線を動かした先、空になった布団に漸く気が付く。名を呼んでみても、返答がある筈もない。
突然一人になったという事実に、再度湧き上がってくる恐怖にも似た何かを断ち切るように、布団から抜け出した。
襖の向こうへ向かったとすれば、既に鱗滝に叱られている筈で、それを義勇が気が付かないという事はないだろうと判断し、玄関の草履を突っかける。
そうして引き戸を開いた左側、小屋の壁に寄り掛かると小さくなっている姿を見つけた。
「…どうした!?」
まさか名前まで体調を崩したのか。
鱗滝は違うと言ったが、やはりここ最近、耳にする流行り病ではないか。
そんな後ろ向きな事が、次々と頭に浮かんだ。
しかし義勇の声にビクッと震えてから、ゆっくりと上げられた顔は涙で濡れていて、それが体調に左右されているものではないというのを、すぐに窺い知る。
「…また、夢を見たのか…?」
こくりと動く、大きくはない頭が、今の義勇の目には更に小さく映った。
いつもならば鱗滝が真っ先に気付き、あやしている所だが、今のこの状況ではそれも叶わない。
せめて義勇を起こさぬよう、そっと外へ出て孤独に耐えていたのだろう。
掛ける言葉も見つからず、ただ隣にしゃがみ込んだ。
再度、鳥の声しか聞こえなくなった空間に、錆兎が居ないと、こんなにも会話の内容を探すのに必死になるものなのかと、義勇自身、驚きを感じている。
「…ぐす…っ」
鼻を啜るのを左耳で聞く。
どう声を掛けるのかもわからぬまま見上げた空。
「星が、良く出てる」
口を突いた言葉に、名前が同じように視線を上げたのを目端で捉えた。
「…見て、た…」
「ん?」
「…星を、見てたの…」
「綺麗だもんな」
狭霧山は空気も澄み、空も近い。晴れた日の星空は、まるで地上に降り注ぐような美しさを放っていた。
それでも此処に来てからは、星をゆっくり眺める時間もなかったという事に気付く。
休む事なく修行に明け暮れているため、その疲労から、星が出る時間には深い眠りに落ちている。
そうでないと、翌日更に厳しくなる課題に、身体がついていかないからだ。
錆兎が体調を崩したのは、それが少しながら起因しているのかも知れない。ふとそんな事を思った。

自然と星を見上げていた視線を地面に落とす義勇に、名前は潤んだままの瞳で見つめる。
そうして沸いた疑問を口にした。

「…義勇くんは、どうしてここに来たの?」

遠慮がちに紡がれる言葉の意味が、すぐには理解出来ずにいた所
「…あ、ごめんね。話したく、ないよね…」
そうして自己完結させる横顔に若干狼狽しながら口を開く。
「違うんだ。話したくない訳じゃない」
早くなった口調を意識して、いつものように戻した。
「名前と一緒だ。姉が…」
紡ごうとした言葉は、どうしてか出てこようとせず、そこで止まる。
それでも意味を悟ったように自分の膝を抱える名前の表情は悲痛に満ちていた。
「…そう、なんだ…」
返せるものは頷きしかなくて、また黙ってしまいそうになる口を、義勇は無理にでも動かす。

「夢だったら良かったのにって、思う事がないか?」

上げられた顔がこちらへと向いたが、敢えて星空を眺めているため、はっきりと視界には入ってこない。
「俺は良く思う。実際、そうだと言われたからかも知れない」
だからこそ続く言葉を出せたのだろうと、何処か冷静に見ている自分が居る。

「両親はもう前に病死してるから、親戚に引き取られた。そこで訊かれた。姉の身に何があったんだと」

だから、義勇は素直に答えた。
自分がこの両目で見たもの全てを包み隠さず、本当に全てを訊かれるがままに話した。

「突然鬼が家に入り込んできて、姉さんは俺を護るために…命を落とした。何度も訊くから、何度も同じ事を答えて、それで言われた」

本当に今日は、星が良く輝いて見えるな、と思う。

「夢を見ていたんだろう、と」

皆がそう口を揃え、忘れなさいと諭した。
しかしあの光景を、惨劇を、忘れるなど出来る筈もない。

「それでも鬼の存在を口にし続ける俺は、疎ましかったんだと思う。病院に隔離されそうになっていると、向かう途中で知って…気が付いたら逃げ出していた」

がむしゃらになって走った。こんなに身体が動くのかと思う程に。
もしもあの時、これだけ走る事が自分に出来ていれば、姉が命尽きる前に、助けを呼べたのではないか、そう考えると、何度も涙が溢れた。
どうしてあの時、何も出来なかったのだろう。そんな後悔しか頭の中になかった。
此処に来て、錆兎に頬を思い切り叩かれるまでは。

「そこで…鱗滝さんに会ったの?」

名前が出した質問に、義勇は自分が何を話していたのか把握するのに若干手間取った。
「…結果的には、そうだ。覚えてないんだが、行き倒れてた所を、先生の知り合いがたまたま見つけてくれたらしい。鬼の存在を知っている俺を先生の所へ連れていってくれた」

最初こそ天狗の面にどきりとしたものの、その凛とした佇まいと、優しい声色に張りつめていた緊張が、一気に緩んだのを覚えている。

「先生に会って、漸く思った。やっぱり夢じゃなかったんだと」

"悪い夢を見た"
もしくは
"妄想が膨らんだ"
皆がそう諭し、気をしっかり持てと励ました。
その内、義勇の中で、本当にそうなのではないかという疑念が沸いてくる。
可笑しいのは自分で、周りが言う"鬼が居ない"世界が正常なのではないかと。
これは完全な記憶の刷り込みであり、洗脳に近いものであったが、幼子が冷静に置かれた状況を把握出来る筈もない。
そうして義勇自身、無意識の内に、そうであれば良いと望んでしまった。
鬼という得体の知れない生き物に、姉の命が奪われたなどと、思いたくない。その願望は意識下で燻り続けた。
本来であれば、身に起きた事実を受け止めるだけでも大きな心労を伴う。
それを他人、ましてやこれまで縁もゆかりもなかった大人達に囲まれ、淡々と事実を伝え続けるなど、義勇でなければ、とうに心が壊れていたと言える。
疑念願望が生まれた事によって段々と変わっていく証言は、奇しくも心の病に侵されているという大きな判断材料となった。

「蔦子姉さんは、鬼に喰われた」

今度はそう、はっきりと言葉にする。
夢などと、夢であれば良いと、思ってしまわぬように。

「いつも俺が着ている臙脂の羽織りがあるだろう?あれは、姉さんの形見なんだ」

笑顔を作って視線を動かした先
「…っぅ、ひっ、く!」
堰を切ったような嗚咽の中、ポロポロと大粒の涙を溢しているのが月明かりで照らされ、目を見開いた。
「…どうした!?何か辛い事でも思い「違うのっ!」」
大きく首を振ると、抱えていた膝へ埋めた顔が完全に見えなくなる。
「…違うの!私がつらいっ…んじゃなくて義勇くんが…っ!」
懸命に言葉を紡ごうとする名前に頬が弛んだ刹那だった。

「義勇くんがつらいのっ!私じゃないっ…!」

そう叫ぶと小さく震える姿を、瞬きのひとつすら出来ないまま見つめる。

自分は今、つらいのだろうか?

そう、冷静に考えていた。

今、という事において言えば

「辛く、ない」
辛うじて返したは良いが、未だ膝を抱え泣き続ける姿を見受け、それ以上の言葉は出てこなかった。
昔、自分がそうして貰ったように撫でようとした手は動かす前に止まる。
結局掛ける言葉も思い付かず、星空を見上げた。

そうする事で初めて気付く。
今も鮮明に覚えているはずの光景が少しずつ薄れ、過去になってきている事に。

「本当に、今は辛くない。辛いのは、名前だろう?」

今も毎日のように、悪夢に魘され小さな身体を更に小さくして耐えるしかないその絶望に、狭霧山へ来た者なら誰もが一度は押し潰されそうになった。
どうしようもない、真新しい哀しみを抱えながらも懸命に、他人の心に寄り添おうと涙を流し続けている姿に、義勇の中で言いようのない感情が芽生えていく。

しかし余計に泣き出してしまった名前に、ただその涙が止まるまでそっとしておこうと、暫く星空を見つめ続けた。


「…ごめん、ね」

顔を上げると両手で目を拭う姿に、多少の安堵を覚えながら、義勇は首を横に振る。
「謝らなくて良い。俺の方こそごめん。自分の話ばかりして…」
「私が訊いたんだよ…?義勇くんは悪くないもん」
申し訳なさそうに眉を下げる表情とは対照的に、義勇の頬に笑みが咲いていく。
それでも何処か照れ臭さを感じ、空を眺めるふりをした。
そこで先程の言葉を思い出す。
「そういえばさっき、星を見ていたと言ってたけど、どうしてだ?」
「あ、うん」
涙に濡れた瞳を遠くに向ける名前に倣い、同じようにまた満天の星を仰いだ。
「前に聞いたことがあるの。星は亡くなった人達だから、空を見上げれば寂しくないって。だから…」
「…そうか」
一言で返してしまった事でまた終わってしまいそうになる会話を続けるため、再度口を開く。
「鱗滝先生は良い人だから、名前が元気になるまで一緒にいてくれると思う。錆兎も、不器用だから口ではキツイ事も言うけど、それは相手を想ってこその事というか、良い奴なんだ…すごく。それに俺も、最終選別までは此処にいるから、わざわざひとりで星なんか見上げなくても良いんじゃないか?」
気が急いたせいで捲し立ててしまった口調に後悔するも、名前は全く違う事が気になったようで
「さいしゅうせんべつ?」
言葉を繰り返すと、首を傾げた。

疑問を受け、義勇は何故、錆兎と共に此処で修行をしているのか、その背景と目的を若干詰まりながら、そして言葉足らずながらも伝える。
黙って耳を傾けていたその瞳は、内容が進むにつれ徐々に輝いていき、話が終わる頃には期待に満ちたものになっていた。

「じゃあ、鬼殺隊になったら人を助けられるの!?」

これまでにない程、真剣かつ明るい表情に圧倒されながらも、義勇はぎこちなく肯定の意味で首を動かす。
「結果的にはそうなる」
「…すごいね!義勇くんも錆兎くんも頑張ってるんだ…」
そうして一度視線を下げた後、星空に目を細めた。
「…私も、頑張らなきゃなぁ」
呟いた言葉は自分に言い聞かせているようで、胸の痛みを感じる。
まだ無理をするべきではないといった趣旨を伝えようとした口は
「星なんか、見上げてる場合じゃないよね」
何処か寂しそうな微笑みで、息が詰まった。
これはまた、大きな誤解を生み出してしまった。瞬時にそう後悔をする。
「そういうつもりで言ったんじゃない!ただ此処にいる時はひとりじゃないと…!そういうっ」
焦りからしどろもどろになる義勇に、名前は小さく噴き出すと抑えめに笑い出した。
安堵のような羞恥のような、複雑な感情を抱きながら瞬きしか返せずにいた所、その義勇の不動さを、怒りに近しいものだと勘違いをし全力で両手を振る。
「大丈夫、違うのっ!ちゃんと伝わってるよ!?あのね!すごく優しいから!う、嬉しくって…!」
つい数秒前の自分を見ているようだと、いや、それ以上に狼狽えている姿に自然と頬が弛んでいくのに気付き、力を入れるも

「ありがとう。義勇くん」

心の底から溢れさせるその微笑みを直視し続ける事が出来なくって、すぐに星を見上げた。
そのまま会話が途切れ、暫く落ちた沈黙の後、義勇はふと思い立った願望を口にする。
「義勇で構わない。俺も名前の事を呼び捨てにしているし」
「いいの?」
「良いも何も、名前にはそう呼ばれたい」
僅かに空いた間。様子を窺おうと恐る恐る動かす視線は
「うんっ!じゃあ、義勇っ」
晴れやかに頷く表情で、それ以上左へと向かなくなった。
「…そろそろ入ろう。錆兎や先生が起きたら心配する」
此処で二人の名を出したのは無意識から来る口実であったが、義勇本人が気付く事はなく、また名前に伝わる事もない。
「そうだね」
おもむろに立ち上がると玄関へ向かう間際だった。
「あ、だから、鱗滝さんのこと先生って呼んでるんだ」
一人納得している名前に返事を返すより早く
「錆兎くんは、鱗滝さんって呼んでるけど…」
続く完全な独り言は、義勇の耳にも確実に届く。
「…錆兎くん、大丈夫かな?」
存在を思い出した事で、憂いを含んでいく声も同様に。
「ご飯、食べてなかったし…」
先程鱗滝が片付けた盆、名前が視界に入れたのは数秒ではあったが、その木匙が全く汚れていなかった事に気付いた。
「…そうなのか?」
「うん」
振り返った義勇の表情が驚きに満ちているのは当然だろう。
鱗滝の動線では、その目に触れる事は叶わない。
「…せ、鱗滝さんが大丈夫だと言っていたから、大丈夫だ」
我ながら陳腐な台詞であると自覚しながらも、今言える唯一の励ましだった。
「…うん」
それでも何処か、安堵が混じる表情に口にして良かった、と義勇は思う。
草履を脱ごうとした所で
「…あ、そうだっ。義勇」
キュッと服の端を掴む両手に、心臓が動いた。
「あのね、お願いがあるんだけど…」
振り向くより先に出された言葉に首を傾げるしかない。
「お願い?」
「うん」
辺りを見回す動作に何の意味があるのだろうと考えた時には、その口元が右耳に近付いていた。

「明日、錆兎くんが元気になったら、お礼のおにぎり作って驚かせたいんだ。義勇、一緒に作ってくれない?」

ふわりと漂う名前の香りと、これ程になく近い距離に、時が止まった。そんな感覚を覚える。
次第に熱を帯びていく顔を逸らした事で、名前の表情が曇った。
「…ダメ…?」
「駄目じゃない」
すぐに答えなくてはいけないとその一言を出したが、どうにも素っ気なくなった気がして続ける。
「だけど、俺より鱗滝さんの方が「そうだ、鱗滝さんにも作りたい。ここに連れてきてくれたお礼に」」
ニコニコしている表情は、全く義勇の意図を読めていない。
「そしたら義勇にも作らなくちゃ」
「俺に?」
「うん」
「…俺は、何もしてない」
口にした事で、微かに痛む胸の痛みの正体を考えるより早く、名前はまた柔らかい笑顔を見せた。

「傍にいてくれたよ?」

今度は高鳴る心臓に無意識のうちに手を添える。
「…どうしたの?」
「いや…、何でも、ない」
錆兎と同じ症状なのだろうか。瞬時にその思考が巡る。
もしかしたら自分も今後、身体に変調を来たすかも知れない、と言い掛けた言葉を遮ったのは

「何やってんだ?」

寝惚けたような、呆れたような錆兎の声だった。
襖から姿を見せている表情はこれまた完全に覚醒はしていないものの、昼間見た時より生気が戻っている。
「錆兎!大丈夫なのか?」
粗雑に草履を脱ぐとそちらへ向かう義勇に名前も続いた。
「あぁ、すっかりな。喉が渇いたから水を取りに来た」
欠伸を噛み殺しながら答える姿に、二人が同時に顔を綻ばせる。
「お水っ!私が入れるね!」
嬉しそうに台所へ向かう背中を眺めながら錆兎は若干、義勇へと身を傾けた。
「で?夜中にコソコソ密談か?」
その台詞に先程より大きく心臓が脈打つ。
握り飯の件を知られてはいけない。瞬時にそう思った。
「星を見てたんだ」
「星?」
訝しむ錆兎の表情が、呆れたものになっていく。
「人が熱に魘されてるって時にのんびり夜空鑑賞会かぁ?」
口調はいつも通りながら、額に滲む真新しい汗と、小さく吐き出す息が若干上がっているのに義勇は気付いた。
「…錆兎、まだ」
言い掛けた言葉は、紫暗の瞳が動いた事で止まる。
「違うの。私が眠れないから星を見てたら義勇が心配して来てくれて…」
「あぁ、そういう事な」
眉を下げる名前が持つ湯呑みが、澱みなく錆兎の手に渡っていった。
敢えて軽い口調で返す事によって、沈んでいきそうな空気が制されている。
ゴクゴクと、軽快な音を立て一気に飲み干された湯呑みが、また違和感なく名前の手に戻っていくのを、義勇の目が追った。
「人は死んだら星になるっていう思想だろ?」
「錆兎くんも知ってるの!?」
「前に何かで読んだ事がある。っつか何で俺にはくん付けで義勇は呼び捨てなんだよ?」
「あ、それは…」
「まぁ良いけど。星なんか見るより俺達を起こせば良いだろ?それとも星が返事してくれんのか?」
「返事してくれない、けど…。でも錆兎、具合悪いから」
呼び方の変化に気が付いた瞬間、義勇の眉が若干上がっていた。
錆兎は気が付いたのだろうか?
そう思いながら視線を動かしてみても、その表情からは窺い知れない。
「悪かった、だろ?今はもう平気だ」
ただ、そう言って気丈に振る舞う錆兎は、名前に弱い所を見せたくないのだろう。
そう、義勇の中で結論付けた。
「それに俺じゃなくても義勇が居るだろ?こいつなら陽が昇るまで黙りこくったままでも隣に居てくれるぞ?」
「うん」
「否定しないのかよ」
「だってさっきも傍にいてくれたから」
嬉々を宿しながら言う名前に、その瞳が若干見開く。
「…ははっ」
耐え切れず、短く笑った。
その表情は錆兎自身が思うより、温かく柔らかいもの。
けれど同じように疑問に満ちていく二人の瞳は、理解をしていないのが窺えた。
「じゃ、明日から名前の子守りは義勇で決定な?」
「こもりって…!ヒドイ!」
「錆兎!その言い方は流石にないんじゃないか…!?」
また同時に狼狽え始める必死さにひとしきり笑った後、錆兎は再度上がり始めた熱を自覚する。
「じゃ、俺寝るわ。義勇、子守りよろしくな」
反応するより早く閉められた襖を見つめ、不満そうに口を尖らすのは名前。
「…悪い。悪気はないんだ」
どうにか無礼を補おうと出した一言で、瞬きが多くなった。
「どうして義勇が謝るの?」
「いや、でも…名前を傷付けたんじゃないかと…」
「…ふふっ」
今度は床に就いた錆兎の代わりに、名前が笑い出す番だった。
「義勇って、すっごく優しいんだね」
「……。錆兎には甘いと言われる」
「私は嬉しいよ?」
またニコリと微笑むと、持っていた湯呑みを持つ両手に力が籠もる。
「義勇のお陰で、星なんか見上げてる場合じゃないって思えたの」
何処か決意を秘めた瞳は、目の前の存在を見つめているようで、何処か遥か遠くを見ていた。
「私も頑張る」
それでも輝きに満ちたその双眸に、義勇は純粋に喜びを感じている。
こんな自分でも、絶望に沈む心を救えた。その事実はまた義勇にとっても、救いとなっていた。
だから少しだけ、いつもとは違う行動が取れたのだろう。
そっと名前の耳元へ顔を近付けると、
「明日、錆兎をビックリさせような」
襖の向こうに聞こえてしまわぬようそっと囁く。
途端に嬉しそうに顔を綻ばせると、大きく首を縦に動かす名前より早く、義勇の頬は知らぬ間に弛んでいた。



七等星の輝きもそこに在ると知って

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