雲路の果て | ナノ 猫と鮭

「よろしくお願いいたします」

聞き慣れた声が頭上に落ちて、瞳を向けようとした直前の事、伸びてくる違う匂いの腕から逃れるため畳へ四脚を着けた。
「あ、クロ!」
若干慌てる人物を一瞥してから、乱れた毛にざらついた舌を擦りつけ整える。
「大丈夫です。こちらにお任せください」
この匂いは前に一度嗅いだ事がある。そう知覚するなり足元へ擦り寄った。
「にゃー」
甘えるように鳴く声を聞き、現在の飼い主である苗字名前の表情が、安堵のものへ変わっていく。
黒猫はそれを気配だけで感じ取った。
それと同時に、どうやらいつもとは勝手が違う、というのも同時に悟る。
「人慣れしていますね」
「はい。そんなに困らせるような事は、しないと…あ、でも爪とぎだけは、どこでもしちゃうので、その時は叱ってください」
「わかりました」
もう一度、よろしくお願いいたします、と頭を下げた主は
「クロ、いい子にしててね」
小さな頭をひと撫ですると、見慣れぬ着物を纏った背を向ける。
「…にゃぁ」
明らかに異なる状況に、短く鳴くもその姿が振り向く事はない。
音もなく静かに閉まる戸の先を眺めた後で、こちらへ視線を合わそうとしてくる人物に、黒猫は大きな瞳を返した。
「会うのは二度目ですね。こんにちはクロさん。私は神崎アオイです。名前さんは此処から少し離れた所で任務があるため、貴方を暫く預かる事になりました。よろしくお願いします」
しっかりとした口調でそう言うと軽く下げる頭をただ見つめる。
顔を上げたアオイはその頭を撫でながら言葉を続けた。
「一応、言っておきますが、此処の当主、胡蝶しのぶ様は動物が得意ではありません。貴方はしのぶ様の視界に入らないように気を付けてください」
言い終わってから自嘲に似た笑みを零しつつ、手を止める。
「って猫に言っても、わかるわけないか」
返事が返ってくる訳でもあるまいし、と考えた後で流れた沈黙に、心細さからか自分の膝を抱えていた。
「名前さんが、無事に帰ってくるよう貴方も祈ってね」
まん丸い瞳と見つめ合いながら、アオイは先程見送ったばかりの背を思い出す。
「にゃぁ」
まるで返事をするように出された鳴き声に応えるため、もう一度頭を撫で
「無事に帰ってくるよね」
強くなっていく自分の願いを託した。


と鮭


蝶屋敷で黒猫に与えられたのは、八畳の和室だった。
普段使用されていないその部屋に、特に目ぼしい何かがある訳ではなく、猫にとっては広すぎるもの。
それでもその部屋が宛がわれたのは、単純に家長であるしのぶの行動範囲から最も遠いという理由からだ。

最初こそ、慣れぬ風景と匂いに、部屋の隅々まで確認して回ったが、それも半刻もしないうちに飽きが来てしまい、今はただ身体を丸めて眠るだけ。
時折廊下を誰かが通っていく音はするが、それ以外は無音に近いものだった。

その静寂を破ったのは
「…この部屋よね?」
「そう聞いたけど…」
「勝手に覗いて平気かしら?」
廊下からする囁き声。
伏せている顔はそのままで、耳だけをぴくっと反応させる。
遠慮がちに開く襖には、薄目だけを向けた。
隙間から覗いてくる三人分の双眸に気が付きはしたが、害はないものとして判断して早々に目を閉じる。
「わぁ、可愛いっ」
「だめよ大声出したら」
「ビックリしてない?」
「大丈夫みたい」
同時にホッと息を吐くのを聞きながら、黒猫が欠伸をひとつすれば、またその空気が嬉々としていく。
彼女達の名前は高田なほ、寺内きよ、中原すみ。この蝶屋敷で働いているが、黒猫が初めて此処に忍び込んだ時は、その姿を見るのは叶わなかった。
「可愛いわねぇ」
「本当、すごくふわふわしてるわ」
「こんなに近くで見るのなんて私初めて」
眠り続ける黒猫を遠巻きに眺めているその背後から、静かに近付いてくる足音に、三角の耳がまた動く。
この匂いも嗅いだ事があると、若干顔を上げたと同時だった。

「何してるんですか?」

穏やかな声が響く。

この声も聞いた事があると視線を向けるも、僅かな隙間からではその人物を確認する事は出来ない。
「…しのぶ様!?」
「あ、あの!私達…猫が居ると…」
「き、気になってしまって…!」
狼狽していくなほ、きよ、すみとは対照的に
「…猫?あぁ、名前さんから預かった黒猫ですね」
全く揺らがない口調と笑顔は、その姿を視界に入れていないという余裕からくるものだ。
「お元気そうですか?」
「あ、はい」
「とても気持ち良さそうに寝ていらっしゃいます」
「そうですか。それは良かったです。覗くのは結構ですが、この部屋から出さないようお願いしますね」
「はい!」
「気を付けます!」
それでも早々に立ち去る足音は、平常心とは言い難い。
しのぶの姿を見送ってから、三人は名残惜しくも静かに襖を閉める。
「私達のせいで逃げ出しちゃったら大変だものね」
「そうね。もし居なくなっちゃったら、名前さん泣いてしまうかも…」
遠ざかっていく会話に、意識していた耳の力を抜いてもう一度欠伸をすると、本当の眠りに就くため一度体勢を変えてから目を瞑った。


それから何回か開かれる襖で、黒猫は飼い主の代わりにアオイという人間が自分の身の回りを世話しているのだという事を学習する。
茹でた魚や鶏肉が入った皿や、真水を片手にやってきては、二、三短く声を掛け去っていく。
最初は一文字に結ばれていた口も、何度か相対していくうちに笑顔が零れるようになったが、この点においての自覚は、本人に露ほどもない。

アオイがやってくる以外、ここ二刻程は静かなもので、若干の警戒を持っていた黒猫も今はだらりと手足を伸ばし、弛緩した表情で寝入っていた。
それでも、近付いてくる誰かの足音に、本能的に自然と目を覚まし耳を傾ける。
この足音はアオイではないと確信したと同時に開かれる襖に身体を起こすものの、音もなく畳に置かれた皿に目を丸くした。
それだけで閉まった襖へ視線は外さず、その場で匂いを確かめる。
魚の匂いに紛れ、甘い、花のような香りが漂ってくるのを感じた。
この匂いを嗅ぐのは三度目だ、と前脚を動かすと、今しがた置かれた皿に鼻を近付ける。
鰹節の香ばしい匂いに摂食中枢が刺激され、すぐにそれを貪った。

* * *

飼い主の屋敷で何度も嗅いだ匂いが、黒猫の既知しない匂いを連れて来たのは朝方の事だ。
二人分の足音より早く聞こえた声で、丸まっていた身体は微睡みの中から覚醒していく。

「此処だ此処っ」
「俺も入って良いのか?」
「何言ってんだよ炭治郎。今更だろ?」
「だって善逸は名前さんに頼まれて餌をあげてたかも知れないが、俺はその猫とは初対面な訳だし、怯えさせてしまったら…」
「大丈夫だって!あの子大人しくて人懐っこくて可愛いんだよぉ。まるで名前さんみたいにさぁ」
開かれた先、ぼんやりとした視界でも鮮明に映える黄色に、起き上がろうとした時にはその両腕が身体を掬っていた。
「クロちゃあああん!会いたかったよぉぉぉぉ!今此処で預かってもらってるんだねぇぇぇ!ご飯ちゃんと食べてるかいぃぃい!?」
摺り寄せてくる頬とその腕から何とか脱すると、もう一人の人物の背に隠れる。
この匂いは初めてだが、僅かに懐かしいような、飼い主に近しいものを感ずると瞬時に悟ったためだ。
此処は恐らく、自分にとっての安全圏だろう。
小さく息を吐き、毛繕いを始める黒猫と裏腹に、二人は動きを止める。
「……好かれてたんじゃないのか…?」
遠慮がちに出した問いに、善逸の顔が愕然としたものに変化した。
「クロちゃぁぁん俺の事忘れちゃったのぉぉぉ!?あんなに美味しそうにご飯食べてたじゃんんん!!俺に甘えて鳴いてくれたじゃぁぁん!!」
「…にゃーお」
「え?そうなのか?」
「何!?何て言ってんの!?クロちゃん!っていうか炭治郎、猫の言葉までわかるの凄くない!?凄すぎるんだけどぉぉぉ!!」
「ご飯をくれた事には感謝しているそうだ。ありがとう、と言ってる。だけど猫だから何もわからないと思って願望を垂れ流しにされるのが聞くに堪えなかった、だそうだ」
既に抱えていたその黄色の髪が床に付いて、悶絶していく。
「嘘だろぉぉぉぉ!?あれ全部クロちゃん聞いて…!ぎゃあぁぁぁ!!」
「にゃー」
「あと単純に声が煩い、とも言っている」
その一言で止めを刺された善逸が動かなくなった所で、漸く静かになったと動かしていた舌を止めた。
同時に目が合った事で、言葉が通じた人物がにっこりと微笑む。
「善逸が迷惑を掛けてすまなかった。俺は竈門炭治郎。名前さんには泊めて貰ったり、この羽織りを仕立てて貰ったり、たくさん世話になってる」
「…にゃぁ」
「懐かしい匂い?あぁ、そう感じたのは、そのお陰かも知れないな」
もう一度、穏やかに微笑うその表情は嫌いではないと、黒猫はその手に擦り寄る。
「撫でて欲しいのか?ははっ。可愛いなぁ」
頭部を滑っていく指と平が、これまで触れられたどの人間よりも固く分厚いと感じ、僅かに目を細めた。
「善逸。クロは何を食べるんだ?」
「…へ?あぁ…」
名前を呼ばれた人物が不満な表情を浮かべながら起き上がるのを、黒猫は目端で捉える。
「名前さんは魚とか鶏肉とかあと柔らかいご飯に鰹節かけたりするのが好きだって言ってたけど…」
「そうかぁ、魚なら町まで行けば調達出来るかも知れないな」
「にゃあ」
手を離した事で、黒猫は鼻を動かすと炭治郎の背後、背負っている箱へ移動していく。
「…気になるのか?この中には妹が入ってるんだ。今は陽が射してるから出て来られないけど、禰豆子にもクロを会わせてあげたいなぁ」
その言葉に反応するように、内側からカリカリと響く音を聞き、自然と三角の耳が動いた。
「そういえばクロちゃんって、鬼に飼われてたって言ってたっけ」
「鬼に?鬼でも動物を飼ったりするんだな」
「そうなんだよ。俺もビックリしたんだけどさ、一緒に飼ってた白猫が死んじゃったから暴れたんじゃないかって名前さんは推測しててさぁ」
今度は善逸の声に反応し、そちらへ歩み寄ると
「にゃあにゃぁ」
喋り掛けるように鳴き声を上げる。
「ん?何?クロちゃん」
言葉はわからずともどうにかその意図を汲み取ろうと目線を合わせる善逸に、答えたのは炭治郎だった。
「その白猫はクロのお兄さんだったそうだ」
「…にゃあ。にゃー、にゃ」
続く黒猫の言葉に、炭治郎の表情が悲痛なものへと変わっていく。
「…何て、言ってるんだ?」
不穏な音を耳に入れ、善逸は息を呑んだ。

「人間に毒を盛られた、と」

歯を食いしばる炭治郎がそれ以上の言葉を繋ぐ事は出来なかったが、その意味を理解するや否や、漆黒に身体を勢い良く抱き締めると、泣き出す黄色い頭が至近距離で視界に入る。
「辛かったんだねぇぇええ!!クロちゃぁぁんん!!名前さんに貰われて良かったよぉぉおお!!」
声量の大きさに目を細めるも、嗚咽を漏らしながら流れる涙は本物であると認識し、軽く頭を擦り付けた。
そうした事で更に流れていく涙に、炭治郎は鼻を動かすと小さく息を吐く。
「ほら、善逸。いつまでも泣いてないで行くぞ」
黒猫から引き剥がすためにその襟首を掴んだは良いが、更に締まる身体に
「に゛ゃあっ!」
悲鳴にも似た鳴き声が上がった。
「あ、ごめっ」
善逸の腕が弛まったと共に、勢いをつけて脱け出す。
「何すんだよ炭治郎ぉぉ!クロちゃん逃げちゃっただろぉ!?」
「あぁ!ごめんなクロ!」
「…にゃ」
距離を保ちながらも小さく鳴く瞳は警戒に満ちていて、何を言ってもそれ以上近付いてはこなくなってしまった姿に、二人は眉を下げると
「何かお詫びを探してこよう!行くぞ善逸!」
「わかった!」
狼狽した様子で部屋から出ていくのをただ見送る。
しかし小走りで遠ざかっていく足音と共に
「でも何で無理矢理引き剥がそうとしたんだよぉ…?炭治郎らしくない」
「クロに名前さんを重ねて見ていただろう?あれはクロにも名前さんにも失礼だ」
「か重ねてないしっ!違うからね!?禰豆子ちゃんっ!俺は禰豆子ちゃん一筋だからっ!!」
必死に叫ぶ声を聞きながら、その場で丸くなると、毛繕いを始めた。

炭治郎達が言っていた、お詫びの品という名の鯛が届けられたのは、その日半刻もしないうちの事だ。
高級とされるそれを、黒猫は初めて食したため、すぐにそれを完食し、遠巻きに見ていた二人に礼と称してその頭を撫でさせた。


人と触れ合うのは楽しいが、それをただ待つだけはつまらない。
襖の向こうから漂う、今まで嗅いだ事がない匂いに好奇心をそそられるのは無理もない話だ。

しかし重い襖を開ける事は、物理的に不可能である。
それなら誰かが訪れた際、その隙間から脱走を試みるのも良いが、そうなると世話係のアオイに起こる何かしらの不利益を考慮すると、黒猫はただその部屋で退屈を凌ぐしかない。

主が迎えに来るのを待つ。
明日には戻ってくるかも知れない。
そう考えながら、梟の鳴き声を聞きつつ真っ暗な部屋で目を閉じた。

夜更けに抱いた淡い期待は叶わずとも、その代わり与えられた部屋から外出を許されたのは、翌日、当主である胡蝶しのぶが三刻ほど屋敷を離れた時だった。
朝餉を手にやってきたアオイが
「これを食べたらお昼まで散歩しても大丈夫です。でも屋敷の塀から先は行かないでくださいね」
そう言ったのを、軟飯にありつきながら聞いた。

黒猫にとっては、思ってもみない感興。

さて、何処に行こう。

皿を綺麗に舐め終えてから、そんな事を考える。
開け放たれた襖の向こうをひょこりと顔を出しても、何の変哲もない廊下が続いているだけ。
鼻を動かして、ひとまず匂いが多い場所に向かってみる事にした。

たくさんのベッドが並ぶ部屋、僅かに開いた先、覗き込んでみたつもりがその中の1人と目がばっちり合う。
「…黒猫だ…」
頭部から右目に掛けて、包帯を巻かれた姿に
「にゃあ」
短く返事をしてみた。
「…これは縁起が良い。おいで」
差し出された手に警戒はしたものの、匂いを確かめながら近付いていく。
「ほんとだ。猫…。此処で飼ってるのか?」
「さぁ?」
注がれる視線に顔を上げれば、皆何処かしらに怪我を負っているのに気が付いた。
「何処からか紛れ込んで来たのかもな。名前は?」
「にゃー、にゃっ」
「何か、喋ってるみたいだけど、全然わかんないな」
それでもはは、と小さく笑声を上げたその空気は、徐々に柔らかいものへと変わっていく。
一番最初に目が合った人間のベッドへと飛び乗った瞬間、全員から驚きの声が出た。
しかし黒猫は意に介しもせず、毛繕いを始める。
「誰か何か持ってない?」
「何かって?」
「おやつみたいなものか?」
「猫って何食べるんだろう…?」
疑問を口にしていく中、1人の隊員が引き出しを開けた。
「干し肉なら!」
そう言って見せた所で、黒猫の鼻が反応を示す。
「お、鼻がピクピクしてるっ」
「美味そうだってわかるのかも!」
「あげてみようぜ」
目の前にそっと置かれた燻製肉を、黒猫が見るのは初めてだった。
香ばしい匂いがするため食べ物だという認識は出来たが舌で感触を確かめた所でふいと顔を逸らした。
早々にベッドから降りた事で、周りからは嘆声が上がる。
「駄目かぁ」
「硬いから食えないのかもな」
「昼飯に何か食えるものとかありそうじゃないか?」
「お、それだっ」
盛り上がる会話を聞きながら廊下を進んでいく。
次はどちらに行こうかと分岐点に迷ったと同時の事だ。
猪頭が突然、視界に現れ
「お?猫…」
珍しいな、と口にした瞬間に、黒猫は走り出していた。
「テメッ!何で逃げんだぁあ!?」

ドカドカッ!

音を鳴らしながら追い掛けてくる姿に、開いていた窓から中庭へと飛び出すと縁の下屋の隙間に隠れた。その場から猪頭の足音と気配が去るのを待つ。
「何処行ったあの猫ッ!まさか俺様の強さに恐れをなしたか!ハハハッ!!」
遠ざかっていく笑い声に、ふっと息を吐きながら、あの声は黄色い人間の叫びと同じ位耳に響くと黒猫は考える。
とにかく捕まらなかった事に安堵はして、隙間からそっと抜け出すと先程来た方向へ戻った。


「病室に行ったんですか?」

下屋に入り込んだ事で、汚れた黒い身体を拭きながら、アオイはそう問いかけた。
「…にゃあ」
「皆さん喜んでました。また来て欲しいと。しのぶ様も病室の出入りなら特別に許可してくださるそうです」
「にゃ」
首を傾げたような動きに、口角を上げると丁寧に泥汚れを払拭していく。
「あの人達、数日前に運ばれてきたんですが、凄惨な現場を見てしまって、すっかり消沈してしまっていたんです。でもクロさんに触れて、少し元気が出たと。だから、しのぶ様も…」
きょとんとした大きな瞳に見つめられ、表情が苦笑へと変化した。
「言ったって、わかるわけないか…」
「にゃあ」
それでも返事をするように鳴くその頭を優しく撫でる。
翌日から、黒猫は昼日中まで病室へ訪れ、隊員達がわざと残した朝餉を与えられるのが日課となった。


主の家で嗅ぎ慣れた、黄色い人間とはまた違う匂いが近付いてきたと気が付いたのは、蝶屋敷に来て五日目の事だ。
この匂いをしたという事は、迎えが来たのではないかと黒猫の中で期待が募る。
食べ終わった皿を片付けているアオイの傍らで丸めていた身体を起こすと、逸る気を落ち着かせるため畳へと爪を立てた。
しかし途端に悲鳴が上げると
「そんな所で爪研がないで!!しのぶ様に怒られる!!」
抱えられた事で身動きがとれなくなり、その間に閉ざされた襖に目を細める。
「…にゃぁ…」
「どうしたんですか?突然。今までそんな事しなかったのに…」
漸く降ろされた畳へ足を着けるも、遠ざかっていく匂いと足音に、またその場で丸くなると目を瞑った。

もしかしたら、迎えはもう来ないのではないか。
黒猫がそう考え始めるようになったのは、次の朝を迎えた頃。

アオイが規則正しく用意する軟飯を食べ、病室へ繰り出し、隊員達から朝餉のお零れを貰い、不規則に開いた襖から差し出される鰹節と、三人娘が置いていく鶏のささ身、炭治郎と善逸が献上していく鯛を食す。

この生活が続くのは、悪くはない。
食べるものはどれも美味い。その一言に尽きる。

だけど、何かが足りない。

それが何であるのか知覚したのは

「クロっ!ただいまっ!」

襖を開けるなり、満面の笑みを見せる飼い主の姿を視界に入れてからだった。

「にゃあっ」
飛び付いたその先、嗅ぎ慣れた匂いと包まれた暖かさに安堵しつつ外へ出た所で隣を歩く人物に見留め、更に黒猫の心が踊っていく。

「しのぶさんのお屋敷でたくさん可愛がってもらったの〜?お腹ぽんぽこになってるよ?」

抱き上げられた事で見下ろす笑顔に
「にゃー」
嬉々とした声を出す。

軟飯、鰹節、残飯、鳥肉、鯛。
確かにそれらはどれも美味ではあったが、それでもこの主が用意する、いつもの白い魚には勝てないと、黒猫は改めて思った。


今日もまた食べたい

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